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見難い火傷の子  作者: 清風
532/648

ホーネット幕府編 裏組織 第十二話 糸を持つ手

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子532


ホーネット幕府編 裏組織 第十二話 糸を持つ手


匠一は最後の段で身を止めた。


梁の隙間から覗く上階は、下の倉とは別の場所のようだった。

湿った木と縄の匂いに満ちた下とは違う。

香が焚かれている。

灯りは小さいが芯が安定していて、机の上だけを静かに照らしていた。

紙束は端まで揃えられ、筆も硯も乱れがない。

人を流し、消し、数に変える場所の上にしては、あまりに整いすぎている。


その机の前に、一人の男が座っていた。


背は高くない。

痩せてもいない。

着流しは地味で、色も形も目立たない。

だが、肩の力の抜き方だけが違った。

逃げる気配がない。

追い詰められた者の硬さもない。

ここまで来る者がいることを、どこかで織り込んでいたような静けさだった。


男は振り返らないまま言った。


「思ったより早かったな」


声は低いが、年寄りじみてはいない。

まだ壮年だ。

だが若さで押す声でもない。

人を使う側の、余計な力を抜いた声だった。


匠一は梯子を上がり切り、床板へ足を乗せた。

後ろではダンが半歩遅れて続き、下ではニールが帳面をまとめる気配がする。


「待っていたのか」

「待つしかない時もある」


男はそこでようやく、机の上の紙を一枚裏返した。

その手つきが妙に静かだった。

急がない。

乱れない。

だが止まってもいない。

必要なものだけを動かす手だ。


匠一の目が、その指先に止まる。


細い。

だが弱くはない。

筆を持つ手であり、印を押す手であり、合図を出す手だ。

人を殴る手ではない。

自分では汚れず、汚れる場所へ命じる手。


糸を持つ手だ。


「下は見たか」


男が言う。


「見た」

「なら分かるだろう。あれは必要な流れだ」

「人を流すのがか」

「人だけじゃない。金も、荷も、名も、罪もだ」


男はそこで初めて振り返った。


顔立ちは平凡だった。

だからこそ覚えにくい。

町の帳場にも、役所の隅にも、商家の奥にもいそうな顔だ。

だが目だけが違う。

濁ってはいない。

むしろ澄みすぎている。

人を数として見る目だ。


「お前が束ねてるのか」

「束ねる、か。そう見えるなら、それでもいい」


曖昧に笑う。

肯定も否定もしない。

だがその曖昧さ自体が答えだった。

こいつは名乗る必要がない。

名ではなく、手順と合図で人を動かしてきた側だ。


ダンが一歩前へ出る。


「回りくどいな。要するにお前が親玉か」

「親玉、という言い方は好きじゃない」

「じゃあ何だ」

「手だよ」


男はあっさり言った。


「流れを整える手。絡んだ糸をほどき、要らない端を切り、必要なものだけを残す」

「人を端扱いか」

「そうしなければ回らない」


匠一は黙って男を見た。

机の上には紙束が三つ。

封の切られた文箱が一つ。

印章は見えない。

だが右手の脇に、小さな鈴が置かれている。

合図用だろう。

鳴らせば下か外へ伝わる仕組みかもしれない。


男の視線が、その鈴へ一瞬だけ落ちる。

癖だ。

使い慣れた手の動きは、隠しても消えない。


「鳴らすなよ」


匠一が言うと、男は少しだけ口元を歪めた。


「鳴らしたらどうする」

「その手を折る」

「怖いな」

「怖がる顔じゃない」

「怖がる必要がないからな」


その言葉に、ダンの気配が一段低くなる。

飛びかかる寸前の獣の静けさだ。

匠一が止めなければ、次の瞬間には喉元へ行く。


だが匠一はまだ動かなかった。

この男は本体の中枢にいる。

だが、こいつ自身が本体のすべてではない。

言葉の端、机の整え方、鈴の位置、紙束の分け方。

全部が示している。

こいつは動かす側だが、同時に報告する側でもある。


つまり、糸を持つ手ではある。

だが、その手首の先がまだある。


「上がいるな」


匠一が言うと、男の目がわずかに細くなった。


「どうしてそう思う」

「お前は切る手順を知ってる。

流れの整え方も知ってる。

だが、流す理由を自分の言葉で言わない」

「……」

「必要だ、回らない、そうしなければならない。全部、借り物の理屈だ」

「理屈に借り物も何もあるか」

「ある。自分で決めてるやつは、もっと汚く言う」


ダンがそこで小さく笑った。


「違えねえ」


男は初めて、ほんの少しだけ表情を失った。

図星だった。


匠一は一歩進む。

男の右手が、机の端へ寄る。

鈴ではない。

紙束の下だ。


「ダン」

「おう」


呼ぶより早く、ダンが動いた。

床板が鳴るより先に間合いを詰め、男の手首を机へ叩きつける。

鈍い音。

紙束が散る。

男は声を上げなかったが、指先から小さな刃が滑り落ちた。

自害用か、紙を裂くためか。

どちらでも同じだ。


「やっぱり切る気だったか」

「備えだよ」

「口をか」

「線を、だ」


男は痛みに顔を歪めながらも、まだ笑おうとした。

だがもう余裕の形にはならない。


匠一は散った紙を一枚拾う。

人数、日付、印。

だが下の帳面と違い、ここには名前がある。

役職名、宿場名、荷場名、そして短い指示。

さらに端には、細い線で結ばれた印がいくつも描かれていた。


糸だ。


人と場所と役目を、線で繋いでいる。

帳面ではない。

配置図だ。

誰をどこへ置き、どこで切り、どこで流すか。

流れそのものではなく、流れを操るための図。


「ニール、上がれ」


匠一が声をかけると、すぐに下から返事が来る。


「はい」


数拍後、ニールが梯子を上がってくる。

灯りを差し向けた瞬間、その紙を見て息を止めた。


「これは……」

「読めるか」

「ええ。

西の荷場だけじゃありません。

南の宿場、東の渡し、役所の裏口……全部、線で繋いであります」

「役所もか」

「少なくとも出入り口の一つは噛んでいます」


ダンが男の手首を押さえたまま、低く唸る。


「やっぱり腐ってやがる」

「腐るほど表に出てないだけだ」


匠一は紙束をめくった。

一枚ごとに、別の線。

別の宿場。

別の荷場。

別の処理場。

西の荷場も、この倉も、その一部でしかない。

だがその一部を束ねていたのが、この男だ。


本体の中にいる、糸を持つ手。


「名前は」

「名乗るほどのものじゃない」

「じゃあ役目でいい」

「……継ぎ役だ」

「継ぎ役」

「流れと流れを結ぶ。切れたら繋ぎ、絡んだらほどく。それだけだ」


それだけ、と言うには重すぎる。

人を消し、証拠を沈め、役所の口まで繋ぐ手だ。

だが同時に、その言い方は本音でもある。

こいつは王ではない。

王を名乗る気もない。

ただ、糸を持つ手として働いてきた。


「上は誰だ」


匠一が問うと、男は黙った。

ダンの指に力が入る。

骨が軋む音がした。


「言え」

「……言っても、届かん」

「届かせる」

「無理だ。お前たちはまだ、糸しか見ていない」


匠一はその言葉を頭の中で転がした。

糸しか見ていない。

つまり、こいつの上はもっと見えない場所にいる。

名で動くのではなく、仕組みで動く側だ。


だが今はそれでいい。

まず必要なのは、この手を止めることだ。

糸を持つ手を押さえれば、少なくともこの一帯の流れは乱れる。


「ニール、その図を全部まとめろ。順番を崩すな」

「はい」

「ダン、そいつは生かす。両手を使えなくしろ」

「折るぞ」

「指だけでいい」

「優しいな」

「書かせるからだ」


男の目が、そこで初めて大きく揺れた。

死ぬ覚悟はあっても、使われる覚悟まではなかったらしい。


匠一は机の前に立ち、男を見下ろした。


「お前は糸を持つ手だ」

「……」

「なら今度は、その手で上へ繋がるものを書け」

「書かなければ」

「切る」

「何を」

「お前が守ってる順番をだ」


男はしばらく黙っていた。

下の倉では、助け出した二人の荒い息がかすかに聞こえる。

川の音も、まだ板壁の向こうで続いている。

流れは止まっていない。

だが、向きは変わり始めていた。


やがて男は、押さえつけられたまま低く笑った。


「……なるほど。逆流、か」

「そうだ」

「厄介な火だな、お前は」

「燃やす相手を選ぶだけだ」


匠一はそう言って、机の上の白紙を男の前へ滑らせた。


本体に触れた。

そして今、その本体を動かしていた手を掴んでいる。

まだ手首の先は見えない。

だが糸はここにある。


なら、次はそれを手繰るだけだ。

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