ホーネット幕府編 モンシロ村の不穏
見難い火傷の子508
ホーネット幕府編 モンシロ村の不穏
モンシロ村が見えた時、最初にニールが「静かだね」と言った。
昼を少し回ったばかりだというのに、村は妙に音が少なかった。
畑に人影はある。だが鍬を動かす手は鈍く、こちらへ気づいても誰も声をかけてこない。
子どもの姿も見えなかった。
夏の盛りなら、道端を走り回るか、水場ではしゃぐかしていてもおかしくない時間だ。
「静かっていうか……息を潜めてる感じっすね」
ダンが肩に担いだ荷を少し直しながら言う。
その視線の先、村の入口近くには粗末な陣幕が張られていた。
槍が立てかけられ、馬が二頭、木陰に繋がれている。
見張りらしい兵が三人、こちらを見ていた。
ホーネット幕府の兵だ。
黄色と黒を基調にした陣羽織は遠目にも目立つ。
だが、その派手さとは裏腹に、村の空気は沈んでいた。
兵がいるなら、治安維持の名目でもう少し張りつめた活気があってもいい。
少なくとも、ここまで露骨な沈黙にはならない。
「野営、か」
キールが短く言った。
村の外れに軍が陣を張ること自体は珍しくない。
街道沿いならなおさらだ。
水場があり、開けた土地があり、補給のあてがある。
だが、村の中にまで兵が深く入り込んでいるのは少し違う。
井戸端に一人、納屋の前に二人、広場の脇に四人。
休んでいるというより、見張っている配置だった。
匠ーは何も言わず、村を見渡した。
入口の柵は開いたままだったが、片方の蝶番が歪んでいる。
荷車の車輪跡が何本も重なり、地面は深く抉れていた。
最近、重い荷を何度も出し入れした跡だ。
村にしては不自然に多い。
「補給でも受けたのかしら」
マリーが小さく呟く。
「受けた、というより取られた、の方かもしれません」
ハナの声は静かだった。
彼女が見ていたのは、道沿いに干されたままの洗濯物だった。
大人の男物と年寄りの着物ばかりで、若い娘のものらしい小さな色柄が見当たらない。
ニールもそれに気づいたのか、首を傾げる。
「女の人、少なくない?」
その一言に、近くの家の戸がぴしゃりと閉まった。
誰も返事をしなかった。
ただ、畑にいた老婆が一瞬だけ顔を上げ、それから慌てたように目を伏せた。
ダンが眉をひそめる。
「歓迎されてないって感じじゃないっすね。……見られたくない、か」
「あるいは、見られると困る」
キールが言う。
その言葉にだけ、匠ーがわずかに視線を動かした。
村の中央へ進むにつれ、違和感は少しずつ形を持ち始めた。
納屋の扉が半ば壊されている。
干し草の山は崩れ、鶏小屋は空だった。
軒先に吊るされているはずの干し肉も少ない。
保存食を置く家にしては、妙に壁際がすっきりしすぎている。
「倉、見ますか」
キールが言うより早く、村長らしい老人が家の陰から現れた。
痩せた男だった。
年のせいだけではない頬のこけ方をしている。
着物はきちんと整えているのに、帯だけが妙に乱れていた。
急いで締め直したような跡だ。
「これはこれは、旅のお方で」
笑おうとして、うまく笑えていない顔だった。
「何か御用で」
「少し休ませてもらえればと思って寄っただけです」
匠ーが答える。
老人はその顔を見て、それから後ろの仲間たちを見た。
ダンの体格、キールの目つき、ハナの落ち着き、マリーの警戒、ニールの幼さ。
ひととおり見て、最後にもう一度、匠ーへ視線を戻す。
「そうですか。ですが今、少々立て込んでおりましてな」
「兵がいますね」
匠ーが言うと、老人の肩がぴくりと揺れた。
「ええ、まあ。野営でして。お上の軍勢ですから、村としても協力せねばなりません」
言葉は整っていた。
整いすぎていた。
何度も繰り返した言い訳のように。
「長いんですか、その野営」
マリーが尋ねる。
「いえ、いえ。もうすぐ発たれます。たぶん。きっと」
語尾が弱い。
自分でも信じていない言い方だった。
その時、ニールがふと老人の袖を見た。
爪で引っかいたような細い裂け目があり、その下の手首には古い痣が残っている。
「おじいさん、それ――」
「転んだだけです」
被せるように老人が言った。
早すぎる返答だった。
ハナが一歩だけ前へ出る。
「村の方に怪我人は?」
「おりません」
「倉を見せていただけますか」
「それは……」
老人が言い淀む。
その沈黙の間に、広場の向こうから笑い声が聞こえた。
兵たちだ。
酒でも入っているのか、やけに大きい。
村の空気にそぐわない、湿った笑いだった。
ダンの顔から、いつもの軽さが少し消える。
「昼間っから出来上がってるっすね」
「野営中の兵が、村の真ん中で酒盛りですか」
キールの声は平坦だったが、その平坦さがかえって冷たかった。
老人は何も言わない。
言えないのだと、もう誰の目にも分かった。
匠ーは広場の方へ視線を向けた。
兵は五、六人。樽を囲み、槍を手近に立てかけたまま笑っている。
その少し奥、倉の前には別の兵が二人立っていた。
見張りだ。補給物資の管理にしては、村人を遠ざけるような立ち方をしている。
「倉は、あちらですか」
老人の喉が上下した。
「……冬越しの分まで、持っていかれました」
絞り出すような声だった。
言ってしまった、と自分で気づいた顔をする。
「村長」
キールが確認するように呼ぶ。
老人は目を閉じた。
それから、諦めたように小さく息を吐く。
「逆らえんのです。
最初は三日だけだと言われました。
水と干し草だけ貸せと。
次は卵を、次は鶏を、次は塩を。
倉を開けろと言われて、断った若い者が殴られました。
……それでも、まだ“野営”だと」
最後の言葉は、笑いにもならなかった。
ニールが唇を引き結ぶ。
マリーは露骨に顔をしかめ、ダンは無言で兵のいる方を見た。
ハナの目だけが、村の家々を静かに追っている。
「娘さんたちは」
その問いを口にしたのが誰だったのか、一瞬分からなかった。
たぶんハナだった。あるいは匠ーだったかもしれない。
老人の顔色が変わる。
「親類の家へやりました」
「どこへ」
「……あちこちに」
「村の中には?」
返事がない。
その沈黙だけで十分だった。
ちょうどその時、家と家の間の細い路地から、小さな子どもがひょこりと顔を出した。
七つか八つほどの女の子だ。誰かを探すようにきょろきょろして、こちらを見る。
「おねえちゃん、まだ帰ってこないの」
空気が凍った。
次の瞬間、奥から女が飛び出してきて、子どもの口を塞ぐように抱き上げた。
「すみません、すみません、この子は何も――」
女はそれだけ言って、青ざめた顔のまま家の中へ引っ込んだ。
戸が閉まる音が、やけに大きく響く。
誰もすぐには口を開かなかった。
広場の兵たちの笑い声だけが、遠くから聞こえてくる。
さっきより近く感じるのは、村の方が静まり返ったからだろう。
ダンが低く言う。
「……もう十分、臭うっすね」
「ええ」
ハナが答える。
「ですが、まだ断片です」
「断片で足りる場合もある」
キールの視線は、倉の前の兵から外れない。
匠ーは村長を見た。
老人はもう取り繕うことをやめていた。
背中が小さく見える。
村を守る立場の者ではなく、ただ潰される順番を待っている老人の背中だった。
「帰ってこないのは、一人ですか」
その問いに、老人はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、かすれた声で言う。
「……今日は」
今日は。
その一言で、全員の顔つきが変わった。
一人ではない。
今日だけの話でもない。
そして、まだ終わっていない。
匠ーはゆっくりと広場の方へ向き直った。
兵たちの笑い声は、相変わらずだった。
村の空気がどうであれ、自分たちには関係ないとでも言うように。
「まず、倉を見ます」
匠ーが言う。
「それから、兵に話を聞きましょう」
村長が何か言いかける。止めようとしたのか、謝ろうとしたのかは分からない。
だが声にはならなかった。
キールが静かに頷く。
ダンは肩を鳴らし、マリーは短く息を吐いた。
ニールは不安そうな顔のまま、それでも匠ーの後ろにつく。
ハナだけが一度、閉ざされた家々の戸を見回した。
その視線の先で、ほんのわずかに、板戸の隙間が動いた。
誰かが見ている。
助けを求めることすらできず、ただ成り行きを見守っている目だった。
村の中央へ向かう一行の足音を、モンシロ村は息を潜めて聞いていた。




