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見難い火傷の子  作者: 清風
506/644

マンティス公国編 廃鉱区事件を制圧した後、地方行政官の屋敷へ乗り込み、黒幕を引きずり出す終結回

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子506


マンティス公国編 廃鉱区事件を制圧した後、地方行政官の屋敷へ乗り込み、黒幕を引きずり出す終結回


夜明け前の空気は、刃のように冷えていた。


廃鉱区の外縁小屋はすでに制圧済みだった。

小屋裏に押し込められていた二人は救い出し、中央坑口の奥からも生存者を引き上げた。

記録係は縛り上げ、薬箱の女も取り押さえた。

頭巾の上役は坑道の途中で逃げ道を失い、ガレスに叩き伏せられている。


そして押収した帳面と板書きの束が、すべてを繋いだ。


失踪者の名。

搬入日。

薬の反応。

札の分類。

送り先。

そして、監査延期の印。


その印の脇に、同じ署名が何度もあった。


地方行政官――エドヴァル・サンテス。


村の失踪届を受け取り、山の危険を語り、怪物の噂に眉をひそめ、巡回強化を約した男。

その同じ手が、廃鉱区の闇に蓋をしていた。


夜が白み始める頃、一行は山を下りた。


村へは戻らない。

被害者たちはセレネとユノ、それにガレスが安全な場所へ移す。

ハナは押収した帳面を抱え、匠ーとマリー、ダンとともに街道沿いの行政官屋敷へ向かった。


屋敷は村外れの高台にあった。

石塀に囲まれ、門柱には公国の紋を模した意匠が彫られている。

辺境の役宅にしては、明らかに贅沢だった。


「趣味が悪いわね」

マリーが吐き捨てる。

「分かりやすくて助かるっす」

ダンが言った。

「こういうのは大体黒っす」

「静かに」

匠ーが言う。

「はいっす」


門番が二人いた。

だが夜明け前の気の緩みか、こちらに気づくのが遅れた。


「何者だ」

一人が槍を構える。

「行政官殿に急ぎの用だ」

ハナが言う。

「面会は日が昇ってから――」

「廃鉱区の件よ」

マリーが遮った。

「それでも通さないなら、ここで叫ぶけど」


門番の顔色が変わる。

互いに目を見交わした、その一瞬で十分だった。


ガン、と鈍い音がして、匠ーの柄打ちが一人の喉元を打つ。

もう一人はマリーが足を払って地面に転がし、ダンが素早く縄を投げた。

もつれた腕を後ろへ回し、抵抗の隙を与えず縛り上げる。


「通す気、なかったっすね」

「見れば分かるわ」

「開ける」

匠ーが言った。


門を抜け、石畳を進む。

屋敷の中はまだ半分眠っていた。

使用人らしき女が悲鳴を上げかけたが、ハナが短く告げる。


「騒がないで。あなたたちに用はない」

「主だけだ」

匠ーが続ける。


女は青ざめたまま、奥の執務室を指した。


厚い扉の前で、匠ーは一度だけ帳面を見た。

署名。

監査延期。

巡回中止。

失踪処理。

全部、同じ手だ。


匠ーは扉を開けた。


執務室は、辺境の役宅とは思えないほど豪奢だった。

厚い絨毯。

磨かれた机。

壁には狩猟画。

棚には高価そうな酒瓶が並び、窓辺の卓には切子のような細工のグラスが置かれている。


そしてその主は、すでに起きていた。


地方行政官エドヴァル・サンテスは、上等な寝間着の上に外套を羽織り、椅子に腰掛けていた。

片手には琥珀色の酒を満たしたグラス。

夜明け前だというのに、顔に眠気はない。


むしろ、来ることを予期していたような目だった。


「……なるほど」

男は静かに言った。

「砦の件で胸騒ぎはしていたが、まさかここまで来るとはな」


マリーが鼻で笑う。


「余裕ぶってる場合?」

「余裕?」

エドヴァルは薄く笑った。

「君たちのような流れ者が、役所の門を越えた程度でか」


グラスを軽く揺らす。

琥珀色の液面に、窓から差し始めた朝の光が揺れた。


「冒険者風情が……行政の帳面にまで口を出すとは」


ダンが小さく息を吐く。

「ほんとに言うんすね」

だがそれきりだった。


ハナが帳面を机の上へ放る。

乾いた音がした。


「口を出したんじゃない」

「読んだのよ」

マリーが言う。

「あなたが何を握りつぶして、何人売ったかまでね」

「言葉は選びたまえ」

エドヴァルは眉一つ動かさない。

「私は地方の秩序を維持していたにすぎない」

「秩序?」

匠ーが初めて口を開いた。

「人を攫わせて、薬で選んで、坑道に押し込むのがか」

「辺境ではな」

エドヴァルはあっさり言った。

「理想だけでは人も金も回らん。

旧鉱区は死んだ資産だった。

使えるものは使う。

それだけの話だ」


マリーの目が冷える。


「使えるもの?」

「人のことを言ってるのよね」

「違うのか?」

エドヴァルは肩をすくめた。

「失踪者、流民、身寄りの薄い者。

帳簿の上で整理しやすい。

山の事故、夜逃げ、獣害。

辺境では珍しくもない」


「……最低っすね」

ダンが低く言う。


「最低?」

エドヴァルは今度こそ少し笑った。

「君たち冒険者も似たようなものだろう。

危険な仕事に命を賭け、使い潰され、代わりはいくらでもいる」

「一緒にするな」

匠ーが言った。


その一言だけで、室内の空気が変わった。


エドヴァルは初めて、匠ーを正面から見た。

火傷痕のある顔。

感情を削いだような目。

その静けさに、ほんのわずかだけ男の指が止まる。


だがすぐに、また余裕を取り戻したようにグラスを傾けた。


「証拠があるとでも?」

「ある」

ハナが即答する。

「帳面、板書き、薬箱、札、現場責任者の証言」

「証言は金で揺れる」

「じゃあ被害者の数で押す?」

マリーが言う。

「坑内から引き上げた人たち、全員の顔を広場に並べてもいいけど」

「それは困るだろうな」

エドヴァルはようやくグラスを置いた。

「彼らも、君たちも」


その言い方に、ダンの目が細くなる。

だがもう何も言わない。


「脅しっすか」

ではなく、

もうその先を聞く顔だった。


「忠告だ」

エドヴァルは立ち上がった。

「この件を大きくすれば、困るのは私だけではない。

村は“人攫いの巣の近くにあった村”として見られる。

被害者は“選別された者”として噂される。

家族は二度傷つく」


ハナの目が細くなる。

図星だった。

だからこそ、腹が立つ。


「だから黙れと?」

「賢く処理しろと言っている」

エドヴァルは机に手をついた。

「現場のならず者どもを討った。

廃鉱区の不法占拠を潰した。

そう報告すればいい。

私は監督不行届で職を辞す。

帳面の一部は焼く。

被害者は戻る。

村も静まる」

「自分だけ軽く済ませる気?」

マリーが吐き捨てる。

「軽い?」

エドヴァルの口元が歪む。

「辺境の行政官の首一つで、どれだけの帳尻が合うと思う?」


匠ーは黙っていた。

男の言葉を、最後まで聞いていた。


それから一歩、前へ出る。


「お前は」

匠ーが言う。

「人を数で見た」

「行政とはそういうものだ」

「違う」

匠ーは答えた。

「お前がそうしただけだ」


エドヴァルの目が、初めて明確に険しくなった。


「……冒険者風情が」

低く、吐き捨てるように言う。

「帳面も制度も知らん流れ者が、何を分かった顔で」

「分かるさ」

匠ーは言った。

「助けを求めても届かなかった顔なら、見た」

「薬を嗅がされて、札を付けられた人も見た」

「檻も、鎖も、坑道の奥も見た」

「十分だ」


その二文字が落ちた瞬間、室内の空気が切り替わった。


ダンの口数が、そこで途切れた。


エドヴァルが机の引き出しへ手を伸ばす。


短銃――ではない。

この世界では魔導具に近い、小型の発火器だった。

だが抜くより早く、匠ーの体が動く。


椅子が弾け飛ぶ。

机が軋む。

エドヴァルの手首を打ち据えた柄が、発火器を床へ叩き落とした。

次の瞬間には、男の喉元へ刃の峰が突きつけられている。


マリーが窓際へ回る。

ハナが机上の書類を押さえる。

そしてダンは何も言わず、倒れたエドヴァルの腕を後ろへねじ上げた。

迷いのない手つきで縄を回し、肘と手首を一息に固める。

さっきまでの軽口は、もうどこにもなかった。


床に膝をついたエドヴァルは、なおも睨み上げてくる。


「貴様……私を誰だと」

「知ってる」

匠ーが言う。

「だから来た」


その静かな返答に、男の顔から初めて色が消えた。


外で足音がした。

セレネたちが追いついたのだろう。

あるいは、騒ぎを聞いた使用人たちか。


もう遅い。


ハナが机の引き出しから封書の束を見つける。

監査記録。

巡回命令の差し止め。

失踪届の処理控え。

そして、利益配分の覚え書き。


「……出るわ出るわ」

マリーが呆れたように言う。

「ほんとに悪代官じゃない」

「笑えないっす」

ダンが短く答えた。


エドヴァルはなおも何か言おうとした。

だがその前に、匠ーが一言だけ落とした。


「終わりだ」


その言葉には、もう怒りすらなかった。

ただ、ここで終わらせるという決意だけがあった。


夜明けの光が、執務室の床を白く染めていく。

豪奢な絨毯も、酒瓶も、磨かれた机も、その光の中ではただの物に過ぎない。


人を帳面の行に押し込み、山の闇に沈めていた男は、そこでようやく一人の罪人になった。


その日のうちに、廃鉱区は封鎖された。

生存者は保護され、村には「人攫いの拠点を潰した」とだけ伝えられた。

薬と帳面の詳細は伏せられた。

被害者をこれ以上傷つけないために。

村を無用な恐怖と噂で壊さないために。


地方行政官エドヴァル・サンテスは、

公の場では監督責任と不法占拠者との癒着で失脚したことになる。

だが匠ーたちは知っている。

それだけでは済まないことを。

帳面の行間に沈んだ名前の重さを。

坑道の奥で聞いた咳と呻きの意味を。


それでも、まずはここで一つ終わらせた。


怪物の噂に隠されていた人の悪意を暴き、

山に呑まれたと思われていた者たちを取り戻し、

蓋をしていた手を引きずり出した。


全部ではない。

だが、確かに終わったのだ。


屋敷を出ると、夜明けの光が石畳の端を白く染め始めていた。


高台の風は冷たく、肺の奥まで澄んだ空気が刺さる。

背後では、地方行政官エドヴァル・サンテスの屋敷がようやく騒がしくなり始めていた。

使用人たちの怯えた声、門番の怒鳴り声、遅れて集まり始めた役人たちの足音。

だが匠ーたちはもう振り返らなかった。


ハナが抱えた帳面は重い。

紙の束の重さではない。

そこに書かれていた名前と日付と、

消されたはずの人間たちの痕跡が、

そのまま腕に食い込んでくるようだった。


「……胸糞悪いわ」

マリーが吐き捨てるように言った。

「最後まで自分だけ助かる気だった」

「悪党って大体そうっす」

ダンが肩をすくめる。

「でも、ほんとにいたんすね。ああいう、絵に描いたみたいなやつ」

「絵に描いたように見えるだけで、やってることは笑えない」

ハナが言う。

「分かってるっすよ」


短いやり取りのあと、誰も口を開かなかった。


事件は終わった。

少なくとも、目の前の一件は。

廃鉱区の拠点は潰した。

生存者は救い出した。

黒幕も引きずり出した。


それでも、胸の内に残るものは勝利の軽さではなかった。

遅すぎたかもしれないという感覚と、

まだ見えていないものがあるかもしれないという鈍い重さだけが、

足元にまとわりついていた。


「村へ戻る前に、ギルドへ寄る」

ハナが言った。

「証拠の写しも作る。原本は――」

「少々、お話を伺いたい」


声は、すぐ近くからした。


ダンが「ひっ」と情けない声を漏らして飛び退く。

マリーの手が反射的に腰の短剣へ伸び、匠ーは半歩だけ前へ出た。


振り向く。


路地裏の影に、一人の男が立っていた。


いつからそこにいたのか分からない。

まるで路地裏からふっと現れたように見えた。

気配が薄かった。


地味な旅装だった。

くすんだ外套に、泥の跳ねた長靴。

旅人にも、下級役人にも見える曖昧な身なり。

だが、その立ち方だけが妙に静かだった。

力んでいるわけでもないのに隙がなく、

こちらを威圧しているわけでもないのに、

目だけがよく研がれている。


年の頃は四十前後にも見えるし、もっと上にも見えた。

印象が薄い。

薄いのに、一度見れば忘れにくい目をしていた。


男は一行を順に見て、最後にハナの抱えた帳面へ視線を落とした。


「廃鉱区の件です」

低い声で言う。

「経緯をお聞かせ願えますか」


マリーが目を細めた。


「誰」

「通りすがりの親切な人間に見えるか?」

男はわずかに首を傾げた。

「見えないわね」

「でしょう」


ダンが匠ーの背後から小声で囁く。


「なんか怖いっす」

「黙って」

ハナが言った。


彼女は男の袖口を見ていた。

外套の内側、ほんの一瞬だけ覗いた裏地の縫い目。

そこに、糸色を変えて縫い込まれた小さな印がある。

普通なら飾りにも見えない程度のもの。

だが知っている者には分かる。


監察府の巡見掛。

表に名を出さない連中の符牒だった。


ハナの視線に気づいたのか、男は袖を直した。

隠したというより、確認させた後で閉じたような動きだった。


「……公国監察府?」

ハナが低く問う。


男はすぐには答えなかった。

代わりに、懐から小さな割符を取り出して見せる。

銀でも金でもない、鈍い色の金属片。

刻まれた紋は簡素だが、偽造しにくい細工が施されている。


「巡見掛です」

男は言った。

「表向きは」


ダンが顔をしかめる。


「表向きじゃない方があるんすか」

「聞かない方が長生きできる」

マリーがぼそりと言った。

「やめてほしいっす、そういうの」


匠ーは男から目を逸らさなかった。


「何を知ってる」

「失踪者が増えていたこと」

男は即答した。

「廃鉱区の監査延期が不自然に続いていたこと。

砦周辺に流れ者が出入りしていたこと。

地方行政官が届出の処理を急ぎすぎていたこと」

「じゃあ、前から追ってたのね」

ハナが言う。

「薄く、です」

男は答えた。

「だが薄い疑いだけで地方行政官を押さえれば、こちらが先に潰される。

証拠が要った」

「それで、私たちが蓋をこじ開けたから出てきた」

マリーの声には棘があった。

「都合がいいわね」

「否定はしません」

男は平然と言った。

「ですが、あなた方がいなければ、まだ時間がかかった」


その言い方に、妙な誠実さがあった。

取り繕う気がない。

手柄を奪う気も、へりくだる気もない。

ただ事実だけを置いてくる。


匠ーが口を開く。


「経緯を聞きたいなら、先にそっちが名乗れ」

「失礼しました」

男は一礼した。

「レヴァンとお呼びください」

「本名?」

「必要ですか」

「いや」

匠ーは短く答えた。

「十分だ」


レヴァンはそれ以上何も言わず、ただ待った。

急かしもしない。

だが、こちらが話すまで動かないという静かな圧がある。


ハナが一度だけ匠ーを見る。

匠ーは小さく頷いた。


「全部は話さない」

ハナが言う。

「被害者の名も、状態も、ここでは伏せる」

「妥当です」

レヴァンはすぐに答えた。

「必要なのは、事件の骨組みと、証拠の所在です」

「なら話すわ」


ハナは帳面を抱え直し、簡潔に経緯を語り始めた。


村で続いていた失踪。

怪物の噂に紛れた人攫い。

山中の砦。

廃鉱区の外縁小屋。

薬箱と札。

坑道の奥にいた生存者。

記録係。

現場責任者。

そして押収した帳面に繰り返し現れる、地方行政官エドヴァル・サンテスの署名。


レヴァンは一度も口を挟まなかった。

ただ必要な箇所だけ、短く確認する。


「生存者は?」

「複数。正確な人数は今は伏せる」

「構いません。保護は?」

「仲間が移送中」

「薬の現物は」

「ある」

「札は」

「分類ごとに押収」

「行政官本人の発言は」


そこでハナは一瞬だけ黙った。


代わりにマリーが口を開く。


「“辺境では理想だけじゃ人も金も回らん”」

冷えた声だった。

「“失踪者、流民、身寄りの薄い者は帳簿の上で整理しやすい”」


レヴァンの目が、ほんのわずかだけ細くなる。


「他には」

「“私は地方の秩序を維持していたにすぎない”」

今度は匠ーが言った。

「そうか」

レヴァンはそれだけ言った。


短い沈黙が落ちる。


遠くで鐘が鳴った。

朝の刻を告げる音だった。

街が目を覚まし始める。

この路地の静けさだけが、そこから切り離されたように薄い。


「公にする範囲は絞るべきです」

レヴァンが言った。

「被害者保護のためにも、村の混乱を避けるためにも」

「同感ね」

ハナが答える。

「でも、あいつを監督不行届だけで済ませる気なら渡さない」

「済ませません」

レヴァンの声は変わらなかった。

「少なくとも、私はそのつもりで来ていない」

「“少なくとも”?」

マリーが拾う。

「上が全部きれいとは限らない、という意味です」

レヴァンはあっさり言った。

「だからこそ、証拠の流し先を選ぶ必要がある」


ダンが顔をしかめる。


「うわあ……ほんとにそういう世界なんすね」

「今さら?」

マリーが言う。

「今さらっすけど」


匠ーはレヴァンを見た。


「帳面を渡せば、どうなる」

「原本は監察府で押さえる」

レヴァンは答えた。

「写しを二部作る。一部は司法側、一部は監察側。

どちらかが消えても、もう一方が残るように」

「被害者は」

「名を伏せたまま保護先を確保する。必要なら教会とギルドを使う」

「地方の役所は」

「通さない」


その一言は、今までで一番はっきりしていた。


ハナが少しだけ息を吐く。

そこだけは信用に足ると思えた。


「……最初からそう言いなさいよ」

「最初から全部言う人間は、長く務まりません」

レヴァンは淡々と言った。


マリーが鼻で笑う。


「嫌な仕事ね」

「ええ」

レヴァンは否定しなかった。

「ですが、必要な仕事です」


匠ーはしばらく黙っていた。

男の目を見る。

嘘をついていない、とは言い切れない。

だが少なくとも、今ここで必要な線は外していない。


ハナが帳面を差し出す前に、匠ーが一つだけ問う。


「他にもあるのか」

「何がです」

「こういうのが」


レヴァンは少しだけ視線を落とした。

答えを選んでいるのではない。

答え方を選んでいる顔だった。


「あります」

やがて彼は言った。

「ですが、全部が同じ形ではない」

「……そう」

ハナが低く言う。

「だから一つずつ潰すしかない」

「そうです」


そのやり取りだけで十分だった。

綺麗な世界ではない。

だが、見ている者がまるでいないわけでもない。


ハナは帳面を差し出した。

レヴァンはすぐには受け取らず、代わりに薄い革袋を一つ取り出す。


「封緘用です。ここで入れてください。あなた方の前で封をする」

「慎重ね」

「消えると困るので」


ハナが帳面を袋へ入れる。

レヴァンは赤黒い蝋を垂らし、割符の片割れで封を打った。

簡素だが、破ればすぐ分かる封だった。


「受領しました」

レヴァンは袋を懐へ収める。

「後ほど、ギルドにも別口で話が行きます。

あなた方は通常の討伐・救出報告だけで構いません」

「行政官の件は?」

「“調査中”になります」


マリーが顔をしかめる。


「ぬるい」

「表では」

レヴァンが言う。

「裏では違います」


また、その言い方だった。

断言しすぎない。

だが引かない。


遠くの通りから、人の話し声が近づいてくる。

朝市へ向かう荷車の音も混じり始めた。

もう長く立ち話をする時間ではない。


「最後に一つ」

レヴァンが言う。

「地方行政官は、他の名を口にしましたか」

「いや」

匠ーが答える。

「そこまでは」

「そうですか」


レヴァンは頷いた。

残念そうでも、安堵したようでもない。

ただ一つの可能性を整理しただけの顔だった。


「では、私はこれで」

「待って」

ハナが呼び止める。

「あなたたちは、いつもこうやって遅れて来るの」


レヴァンは足を止めた。


少しだけ考えてから、振り返らずに答える。


「間に合うこともあります」

その声は静かだった。

「今回は、あなた方が先でした」


それだけ言って、男は路地の奥へ歩き出す。


足音はほとんどしなかった。

角を一つ曲がっただけのはずなのに、次の瞬間にはもう姿が見えない。

最初からそこにいなかったみたいに、気配だけが薄く消えていく。


ダンがしばらく固まったあと、ようやく息を吐いた。


「……なんなんすか、あの人」

「監察官でしょ」

マリーが言う。

「見れば分かる」

「いや、そういう意味じゃなくてっすね」

「分かってる」

ハナは短く言って、空になった腕を見た。

帳面の重さが消えたはずなのに、まだそこに残っている気がした。


匠ーは路地の奥を一度だけ見た。

もう誰の姿もない。


「行こう」

彼は言った。

「まだ終わってない」

「ええ」

ハナが頷く。

「でも、少しは進んだわ」

「朝飯、食っていいっすか」

ダンが恐る恐る言う。

「さっきから胃が変な音してるっす」

マリーが呆れたように笑う。

「そういうとこだけ通常運転ね」

「大事っすよ、通常運転は」

「……そうね」


夜明けの街は、何事もなかったように明るくなっていく。


だが匠ーたちは知っている。

山の闇に沈められていたものが、確かに一つ引きずり出されたことを。

そしてその先を追う目が、見えない場所にもあることを。


冷えた朝の空気の中、一行はギルドへ向けて歩き出した。


こうして一つの事件は幕を閉じた。

だがその頃には、既に次の事件がどこかで始まっている。

今日もまた、事件は誰も待ってくれない。

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