マンティス公国編 夜の廃鉱区監視で、現場と証拠が揃う
見難い火傷の子505
マンティス公国編 夜の廃鉱区監視で、現場と証拠が揃う
日が落ちると、廃鉱区は別の顔を見せた。
昼のあいだ灰色に見えていた斜面は、夜になると黒の濃淡へ沈む。
崩れた櫓は骨のように立ち、坑口は闇そのものの穴になった。
風が石肌を撫でるたび、どこかで乾いた音が返る。
木々のざわめきではない。
空洞を抱えた山が、自分の内側で鳴っているような音だった。
一行は外縁を見下ろす岩陰に身を潜めたまま、交代で監視を続けていた。
中央の坑口。
補修された小屋。
その間を結ぶ踏み跡。
見張りは二人に増え、一定の間隔で位置を入れ替えている。
「砦よりちゃんとしてるわね」
マリーが小声で言う。
「ええ」
ハナが答える。
「雑な山賊の拠点じゃない」
「手順で回してるっすね」
ダンが囁く。
「静かに」
匠ーが言う。
「はいっす」
夜半に入る少し前、最初の変化があった。
斜面の下、兵道の続きにあたる暗がりから、かすかな灯りが揺れた。
一つではない。
二つ、三つ。
低く抑えた提灯の光だ。
ガレスが目を細める。
「来た」
全員の視線が下へ集まる。
灯りはゆっくり近づいてくる。
やがて人影が浮かび上がった。
前に二人。
後ろに二人。
その間に、低い荷車のようなものがある。
車輪は布で巻かれているのか、音がほとんどしない。
「荷の搬入」
ハナが低く言う。
「ええ」
匠ーが答える。
荷車は外縁の小屋の前で止まった。
見張りの一人が近づき、短く何かを確認する。
合図か、符牒か。
言葉はここまでは聞こえない。
だが次の瞬間、それだけで十分だった。
荷車の上に積まれていたのは、木箱ではなかった。
人だ。
布を掛けられ、縄で固定されている。
少なくとも二人。
いや、三人かもしれない。
一人がかすかに身じろぎした。
ユノが息を呑む。
「……人っす」
ダンが低く言う。
「見れば分かる」
マリーが言う。
だがその声にも、いつもの棘より先に冷たさがあった。
小屋から別の男が出てきた。
砦の連中より身なりが整っている。
革の前掛け。
腰には短剣ではなく、細身の剣。
手には板と炭筆。
「記録係」
ハナが言う。
「たぶん」
匠ーが答える。
男は荷車の脇にしゃがみ込み、布を一人ずつめくった。
顔を確認する。
口元を開かせる。
瞼を持ち上げる。
乱暴だが、手順がある。
セレネの声がかすかに震えた。
「診てる……」
「診察じゃない」
ハナが言う。
「選別ね」
「ええ」
記録係の男が何かを言う。
すると小屋の中から、もう一人出てきた。
今度は女だった。
年齢は分かりにくい。
外套の上からでも細い体つきが見える。
だが動きに迷いがない。
手には小さな箱。
薬箱に見えた。
「……来たわね」
マリーが低く言う。
「薬の管理役か」
「可能性が高い」
セレネが答える。
女は荷車のそばへ来ると、箱を開けた。
中から小瓶を取り出し、布に染み込ませる。
最初の一人の口元へ押し当てた。
荷車の上の人影が弱く身をよじる。
抵抗しようとしている。
だが手足は縛られ、声も布で塞がれている。
ユノの拳が震えた。
「今すぐ行けないのか」
「まだだ」
匠ーが言う。
「でも」
「まだ読む」
短い言葉。
だがその声は、いつもより低かった。
女は二人目にも同じことをした。
三人目には別の瓶を使った。
記録係が板に何かを書きつける。
「薬が違う」
セレネが言う。
「ええ」
ハナが答える。
「反応を見てる」
「帳面通りっすね」
ダンが呟く。
「熱、眠、暴、弱」
「その先がある」
匠ーが言った。
しばらくして、一人目が大きく咳き込んだ。
二人目はぐったりしたまま動かない。
三人目は体を強張らせ、喉の奥で苦しそうな音を立てる。
女がその反応を見て、記録係に短く告げた。
記録係がうなずき、木札を三枚取り出す。
札には、遠目にも分かるほどはっきりした違いがあった。
一枚は何もなし。
一枚には黒い線。
そしてもう一枚には、丸に似た印が描かれている。
ハナの目が細くなる。
「……印付き」
その一言で、空気がさらに冷えた。
記録係は、丸印の札を付けた一人を指した。
すると見張り二人がその人影だけを荷車から下ろす。
他の二人とは扱いが違う。
「分けた」
マリーが言う。
「ええ」
セレネが答える。
「完全に分けています」
「帳面の“印付きへ回す”だ」
匠ーが低く言う。
丸印の札を付けられた人影は、中央の坑口へ運ばれた。
他の二人は小屋の裏手へ。
つまり、行き先が違う。
「……これで繋がったっすね」
ダンが言う。
「ええ」
ハナが答えた。
「かなりはっきりと」
だが、それで終わりではなかった。
中央の坑口の前で、さらにもう一人が現れた。
男。
長い外套。
頭巾を深く被っている。
背は高くない。
だが周囲の者が、明らかに一段態度を変えた。
見張りが姿勢を正す。
記録係が板を差し出す。
薬箱の女も一歩下がる。
「上役」
ガレスが低く言う。
「ああ」
匠ーが答える。
頭巾の男は、丸印の札を付けられた人影を一瞥した。
それから、記録係の板に目を落とす。
何かを確認し、短く言った。
今度は風向きが味方した。
「……少ないな」
低い声が、かすかに届く。
記録係が答える。
「南の砦が落ちた可能性があります」
「報せは」
「まだ」
「なら急げ」
頭巾の男は、丸印の札を付けられた人影を見下ろした。
「印付きは減らすな」
「他は後でいい」
「坑内へ回せ」
ユノの顔色が変わる。
セレネも息を止めた。
砦が落ちたことを前提に動いている。
しかも“印付き”を優先している。
つまり、ここは本当に砦の上流だ。
しかも、まだ続きがある。
さらに、坑口の奥から音がした。
鎖が擦れるような音。
誰かの咳。
そして、はっきりと人の呻き声。
マリーが目を見開く。
「……中にもいる」
「いるな」
匠ーが答えた。
「複数です」
セレネが言う。
「今の声、一人じゃありません」
「小屋裏にも二人」
ハナが整理する。
「中央坑口の奥にも複数」
「現行で押さえられるっすね」
ダンが低く言った。
「もう読み違えようがないっす」
頭巾の男はそれ以上長居せず、中央の坑口の奥へ消えた。
丸印の札を付けられた人影も、その後に運ばれていく。
小屋裏へ回された二人は、別の男たちに引きずられるようにして消えた。
見張りは元の位置へ戻る。
記録係は板を抱えて小屋へ。
薬箱の女も続く。
夜の廃鉱区は、何事もなかったかのように静まり返った。
だが今見たものが、静かで済むはずがない。
匠ーはしばらく動かなかった。
全員が、その横顔を見ていた。
砦の時とは違う。
今回は、ただ悪党を押さえるだけでは足りない。
小屋裏の保管。
中央坑口の奥。
上役。
記録。
薬。
そして“印付き”。
どこを押さえ、どこを逃がさず、どこから救うか。
全部を一息で決めなければならない。
やがて匠ーが、低く言った。
「もう十分だ」
その一言は、砦の時より重かった。
マリーが短く息を吐く。
「ええ」
「現場も、証言の裏も、全部揃ったわね」
ハナもうなずく。
「帳面の記述、木札の使い分け、薬の選別、搬入経路、上役の指示」
「ここまで見れば足りる」
セレネは中央坑口を見たまま言う。
「急がないと、また奥へ運ばれます」
「分かってる」
匠ーが答える。
ユノが拳を握る。
「助けるんだな」
「救う」
匠ーが言う。
「小屋裏も、坑内も」
「上役も逃がさない」
マリーが続ける。
「記録係も、薬の女も」
ハナが言う。
「全員押さえる」
ダンは短くうなずいた。
「了解っす」
それだけだった。
「配置を決める」
匠ーが言う。
「はいっす」
夜の山は冷えていた。
だが岩陰にいる七人の間には、別の熱が走っていた。
砦で剥がれた一枚の先にあったもの。
それは、もっと整った悪意であり、もっと現在進行形の犯罪であり、もっと奥へ続く仕組みだった。
もう、疑う段は終わった。
ここから先は、暴かれた悪を逃がさず、救うべき者を取り戻すための段に入る。




