マンティス公国編 北の廃鉱区へ向かう前夜、村に残る者と行く者を決める
見難い火傷の子503
マンティス公国編 北の廃鉱区へ向かう前夜、村に残る者と行く者を決める
その夜、村は静かではなかった。
声を張り上げる者がいるわけではない。
泣き叫ぶ者がいるわけでもない。
だが、家々の灯りはいつもより遅くまで消えず、人の気配があちこちに残っていた。
当然だった。
山の砦にいたのは怪物ではなく、人攫いだった。
行方不明者の一人は生きて戻った。
だが、まだ終わっていない。
北へ送られた者がいる。
その先に、さらに大きな拠点があるかもしれない。
そんな話を聞かされて、普段通り眠れる村人の方が少ない。
詰め所では、遅くまで灯りが落ちなかった。
机の上には、砦から持ち帰った帳面、木札、薬瓶。
壁際には簡易地図。
その中央に、匠ーたちとドゥガン、ガレス、ユノ、トマが集まっていた。
マリーが腕を組んで言う。
「で、順当にいくなら」
「明日の朝には出る」
「そうだ」
匠ーが答える。
「遅らせる理由がない」
「でも、全員は行けない」
ハナが言う。
「村の守りも必要」
「ええ」
セレネもうなずく。
「救出した人たちの看護もあります」
「捕まえた盗賊もいるしね」
マリーが付け加える。
「倉庫に放り込んで終わりじゃない」
「村長の胃が痛くなるやつっす」
ダンが言う。
「もう痛い」
ドゥガンが即答した。
「でしょうねっす」
しばし沈黙が落ちる。
誰を連れて行き、誰を残すか。
それは戦力の話であると同時に、責任の話でもあった。
「俺とハナ、マリーは行く」
匠ーが先に言った。
「そこは前提ね」
マリーが返す。
「確認だ」
「確認しなくても分かるわよ」
「でも言う」
「そういうとこよ」
ハナが地図へ目を落としたまま続ける。
「坑道や廃施設なら、私も行く」
「構造を見る目が要る」
「同感だ」
匠ーがうなずく。
「セレネは?」
ドゥガンが問う。
セレネは少しだけ考えてから答えた。
「本来なら、村に残るべきです」
「救出者の看護、薬の確認、盗賊の状態管理。全部必要です」
「でも?」
マリーが聞く。
「でも、向こうでも薬が使われているなら、私がいた方がいい」
「現地で被害者が出た場合、応急処置も必要です」
「じゃあ行く?」
「行きます」
ドゥガンが眉間を押さえる。
「残る側が薄くなるな」
「だから村からも選ぶ」
匠ーが言う。
「ガレス」
「行ける」
猟師は短く答えた。
「北の道も多少は分かる」
「ユノは」
「行きます」
若者は間を置かずに言った。
「ロムを見つけた以上、他の人も放っておけません」
「気持ちは分かる」
ドゥガンが言う。
「だが感情だけで決めるな」
「感情だけじゃないです」
ユノはまっすぐ返した。
「見回りの道は俺も知ってる。足も遅くない」
「……そうだな」
「それに」
ユノは少しだけ声を落とした。
「ロムが戻ったのに、まだ戻ってない人がいるなら、俺は行きたい」
部屋が少し静かになる。
ドゥガンはしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「分かった」
「ただし無茶はするな」
「はい」
ダンが片手を挙げる。
「確認なんすけど」
「何だ」
匠ーが問う。
「俺も行く流れっすよね」
「当然だ」
「ですよね」
「何だ、不満か」
「不満というか、確認っす」
「確認した」
「はいっす……」
「でもお前、今回は割と役に立ってるわよ」
マリーが言う。
「割と、が引っかかるっす」
「実際割とでしょ」
「否定しきれないっす」
残る問題は、トマだった。
少年は壁際で黙っていたが、話がそこへ向くとすぐ顔を上げた。
「俺も行く」
即答だった。
ドゥガンが眉をひそめる。
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「言う前に分かる」
「道は俺が一番知ってる」
「この村の周りはな」
「北の尾根も少しは」
「少しだろう」
「でも役に立つ」
「役に立つかどうかと、行かせるかどうかは別だ」
トマは唇を噛む。
匠ーはそのやり取りを見てから、静かに言った。
「今回は残れ」
トマが振り向く。
「……なんで」
「村に残る役も必要だ」
「それ、子どもに言うやつじゃないだろ」
「子どもだから言うんじゃない」
匠ーが答える。
「地図を覚えている」
「道を説明できる」
「村の周りを知っている」
「残る側に必要だ」
「でも」
「ロムの証言、小屋の位置、沢筋、北道」
「全部を村に残して整理できる者がいる」
「お前だ」
トマはすぐには返せなかった。
行きたい。
だが、言われたことがただの慰めではないのも分かる。
実際、彼はこの数日で見聞きした道筋をかなり正確に頭へ入れていた。
それでも、悔しさまでは消えない。
ハナが助け舟を出すように言う。
「それに、私たちが戻らなかった時」
「次に動く人間が必要」
「縁起でもない」
マリーが言う。
「でも必要な話よ」
ハナは淡々と返した。
「村に残る者が、何を知っているかは重要」
「……戻る」
トマが低く言う。
「戻ってこいよ」
「そのつもりだ」
匠ーが答えた。
ダンが小さくぼやく。
「こういう時の匠ーの“そのつもりだ”は、信用していいのか微妙なんすよね……」
「前よりはましよ」
マリーが言う。
「前が低すぎるっす」
話し合いの末、北へ向かう者は七人に絞られた。
匠ー。
マリー。
ハナ。
セレネ。
ダン。
ガレス。
ユノ。
村に残るのは、ドゥガン、トマ、見回り組の残り、看護を手伝える女たち、
ロムの家族を含む協力者たち。
救出者の看護と、捕虜の監視、村の防備を担う。
人数としては心許ない。
だが、これ以上削るわけにもいかなかった。
ドゥガンが地図を見ながら言う。
「北道は三つあったな」
「ええ」
ガレスが答える。
「だが、まともに人を運ぶなら兵道の残りが本命だ」
「炭焼き道は?」
「細い。隠れるにはいいが、荷を継続して通すには不便」
「尾根筋は」
「急すぎる」
「なら兵道か」
「たぶん」
「“たぶん”が多いっすね」
ダンが言う。
「山道なんてそんなもんだ」
ガレスが返す。
「夢がないっす」
「現実だ」
セレネは薬瓶を布に包みながら言った。
「向こうで同じ薬が見つかれば、繋がりが強くなります」
「逆に違う薬なら?」
マリーが問う。
「選別の段階が分かれるかもしれません」
「嫌な言い方ね」
「嫌な話ですから」
ハナは帳面の写しを作っていた。
原本を持っていくか、村に残すかで少し揉めたが、結局、原本は匠ーたちが持ち、
写しを村に残すことになった。
「燃やされたら終わりだものね」
マリーが言う。
「ええ」
ハナが答える。
「でも、村にも情報は残す」
夜が更ける頃、準備はようやく一段落した。
食料、水、縄、灯り、火打ち、布、薬草。
坑道に入る可能性を考え、松明の材料と予備の短剣も増やした。
匠ーはいつものように荷を一つずつ確認していく。
「よし」
小さな声だった。
ダンがすぐに反応する。
「出たっす」
「何が」
匠ーが問う。
「出発前の“よし”っす」
「確認完了だ」
「分かるっす。分かるんすけど、今回は行き先が廃鉱区なんで、安心材料としては弱いっす」
「確認しないよりは強い」
「それはそうっす」
外へ出ると、夜気は冷えていた。
村の灯りはまだいくつか残っている。
遠くで犬が一度だけ吠え、すぐに静かになった。
トマが詰め所の柱にもたれて立っていた。
「寝ないの?」
マリーが聞く。
「寝られない」
「まあ、そうでしょうね」
「……北の兵道、途中で分かれ道がある」
トマは匠ーを見て言った。
「古い石碑が倒れてるところ」
「左は崩れやすい」
「右の方が遠回りだけど、まだまし」
「覚えた」
匠ーが答える。
「あと、沢の音が急に消えたら気をつけろ」
「なんで」
ダンが聞く。
「地面が割れてる場所がある」
「うわ、坑道の上っぽいっすね」
「たぶん」
「その“たぶん”は嫌なやつっす」
トマは少し黙ってから、ぶっきらぼうに言った。
「……戻ってこいよ」
「そのつもりだ」
匠ーがまた答える。
「だからその言い方」
マリーが呆れる。
「もう少し何かないの?」
「戻る」
「最初からそう言いなさいよ」
「意味は同じだ」
「伝わり方が違うのよ」
「難しいっすねえ」
ダンが言う。
「人間関係ってやつっす」
「お前が言うと腹立つわね」
「なんでっすか」
夜明け前。
空がまだ青黒いうちに、一行は静かに村を出た。
見送りは多くない。
大げさにすれば不安が広がる。
だからドゥガンとトマ、それに数人の見回り組だけが北端まで付き添った。
ドゥガンが最後に言う。
「砦の時とは違う」
「向こうはもっと奥だ」
「分かってる」
匠ーが答える。
「ならいい」
「村は頼む」
「言われなくてもだ」
ユノは一度だけ振り返った。
ロムの家の方角を見る。
それから前を向く。
ガレスは黙って先頭へ出た。
北道を知る者として、今日もまた道を切る役だ。
マリーは肩を回し、ハナは地図の写しをしまい、セレネは薬袋を確かめる。
ダンはすでに少しだけ顔が引きつっていた。
「……順当っすね」
「何が」
マリーが聞く。
「前夜に編成決めて、朝出る流れっす」
「そうね」
「でも順当なまま廃鉱区に行くの、全然安心しないっす」
「安心する旅じゃないでしょ」
「知ってるっす……」
北へ続く道は、まだ薄暗い。
山の向こうにある廃鉱区。
そこに何が待っているのかは、まだ分からない。
だが、砦で剥がれた一枚の先に、さらに層があることだけは確かだった。
一行は再び山へ入る。
次に暴くのは、怪物の噂ではなく、人が作った巣だ。




