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見難い火傷の子  作者: 清風
499/622

マンティス公国編 砦の外周偵察と、不自然な痕跡の発見

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子499


マンティス公国編 砦の外周偵察と、不自然な痕跡の発見


霧は、近づくほどに質を変えた。


遠目にはただの朝靄に見えたそれが、砦の周囲では妙に重く、低く、地を這うように溜まっている。

風が吹いても流れきらず、崩れた石壁や草むらの陰にまとわりついていた。

視界を奪うほどではない。

だが、距離感と輪郭をじわじわ狂わせるには十分だった。


匠ー、ハナ、ガレスの三人は、砦の裏手へ回るため斜面沿いに進んでいた。

足元は崩れた石と湿った土で不安定だ。

少し踏み外せば音が立つし、転げ落ちればそれで終わる。


ガレスが手を上げ、しゃがみ込む。


匠ーとハナもすぐに身を低くした。


前方、崩れた外壁の根元に、草の色が不自然に変わっている場所がある。

踏み荒らされた跡だ。

しかも一度や二度ではない。

何度も人が通り、草が寝て、泥が露出している。


「裏にも出入りがある」 ハナが小声で言う。

「正面だけじゃない」

「逃げ道か、搬入口か」 ガレスが答える。

「両方かもしれん」

「あり得る」 匠ーが短く言った。


さらに近づくと、石壁の一部が意図的に崩されたように見えた。

古い崩落ではない。

比較的新しい破断面があり、通り抜けられる幅が確保されている。


「人が作った穴ね」 ハナが眉を寄せる。

「ああ」 匠ーがうなずく。

「荷も通せる」

「門を使わずに?」

「見られたくないものほど、正面は使わない」

「納得だ」


ガレスが地面を指した。


「ここ」 泥の上に、細い筋がいくつも残っている。

箱を引きずったようにも見える。

だがそれだけではない。

もっと細く、断続的で、何か液体が垂れた後に土が固まったような跡も混じっていた。


ハナが目を細める。


「……血?」

「古い」 匠ーが言う。

「新しくはない」

「でも、ただの泥じゃないわね」

「匂いは?」 ガレスが鼻を寄せる。

「薄い。もう飛んでる」

「量は多くない」 匠ーが言った。

「引きずったものから落ちた程度か」

「箱の角か、中身か」 ハナが低く言う。

「どっちにしても気分は悪いわね」


その時、正面側から小さく石が二つ打ち合わされる音がした。


カチ、カチ。


合図だ。

異常あり。

危急ではない。


匠ーはすぐに視線を上げた。


「正面も何か見つけた」

「戻る?」 ハナが問う。

「まだだ」 匠ーは崩れた壁の穴を見た。

「こっちを一つ確認する」

「短くね」

「当然だ」


三人はさらに慎重に穴へ近づいた。


中はすぐ通路になっているわけではなく、崩れた石材と土が積もった狭い空間だった。

だが、その奥に人の手で均された足場がある。

そして壁際には、粗末な木箱が二つ積まれていた。


片方は空。

もう片方は蓋が半ばずれている。


ハナが息を潜める。


「開ける?」

「音を立てるな」 匠ーが言う。


そっと蓋をずらす。


中に入っていたのは、布だった。

いや、布だけではない。

縄。

口を塞ぐためのような細長い裂き布。

そして、鉄の輪。


手首か足首に使う拘束具に見えた。


ハナの目つきが変わる。


「……印籠候補、来たわね」

「まだ候補だ」 匠ーは短く答えた。

「だが強い」

「強すぎるくらいよ」

「人を縛るためのものっすね」

ガレスが低く言う。

「獣用じゃない」

「ええ」 ハナがうなずく。

「獣相手ならもっと別の作りになる」


匠ーは箱の底を見た。


擦れ跡。

泥。

そして、布の繊維に混じる短い毛。

獣毛ではない。

人の髪に近い。


「……十分だ」 匠ーが言う。

「でも、まだ外周」 ハナが返す。

「中に被害者がいる可能性もある」

「だから急ぐ」

「正面と合流ね」

「そうだ」


三人が穴から離れようとした、その時だった。


砦の内側から、かすかに音がした。


金属が触れ合うような、乾いた音。

続いて、誰かの咳。

そして低い声。


「……次は今夜だ」 三人の動きが止まる。


声は一人ではない。

少なくとも二人。

距離は近い。

壁一枚向こうか、崩れた通路の先か。


「荷は?」 別の声が言う。

「夕方までに来る」

「数は」

「二つ」

「前の運び屋は」

「沢で死んだだろ」

「もう一人は?」

「知らん。山で獣にでも食われたんじゃないか」


ハナの目が細くなる。


レジンのことだ。

死んだと思われている。


最初の声が鼻で笑う。


「まあいい。噂が広がってるなら都合がいい」

「村の連中も近づかん」

「“人食い”ってのは便利だな」

「違いない」


匠ーの視線が、静かに冷えた。


ハナも同じ顔をしている。

ガレスは息を殺したまま、拳を握っていた。


今の会話だけで十分だった。


人食いの噂は、少なくともこいつらに利用されている。

しかも拘束具があり、荷の受け渡しがあり、運び屋を使い捨てにしている。

もう“怪しい”では済まない。


だが、まだ踏み込むには位置が悪い。

人数も見えない。

正面側の状況も知らない。


匠ーは指で二つ、地面を軽く叩いた。

撤収の合図。


三人は音を立てずに後退する。


斜面の陰まで下がってから、ハナが小さく息を吐いた。


「……印籠、ほぼ出たわね」

「ほぼじゃない」 匠ーが言う。

「出た」

「断言した」

「拘束具」

「噂の利用」

「荷の継続」

「十分だ」

「ええ」 ハナがうなずく。

「十分すぎる」


ガレスが低く言う。


「正面の連中にも知らせる」

「合流する」 匠ーが答える。

「その後、人数次第で踏み込む」

「村へ戻って増援は?」 ハナが問う。

「時間をやれば逃げる」

「同感」

「なら、ここで決めるしかないわね」


三人は正面側との合流地点へ急いだ。


その頃、正面側ではマリー、セレネ、ダン、ユノが、門の見える位置から砦を観察していた。


正面の門は半ば崩れているが、完全には塞がっていない。

人が一人ずつなら十分通れる。

門柱の脇には新しい擦れ跡があり、最近まで何か重いものを運び込んでいたのが分かる。


そして、門の内側には――


「檻……?」 ユノが息を呑んだ。


門の奥、広場の端に、木組みの囲いが見える。

家畜小屋にしては狭く、倉庫にしては粗い。

だが、人を閉じ込めるには十分な大きさだった。


ダンの顔が引きつる。


「いや、あれはもうだいぶ印籠っすよ……」

「静かに」 マリーが言う。

「中、見える?」 セレネが目を凝らす。

「……誰かいる」

「本当に?」

「動きました」

「生きてる?」

「たぶん」

「たぶんって」

「距離があるんです」 セレネが低く答える。

「でも、空ではありません」


その時、門の内側を男が一人横切った。


粗末な革鎧。

腰に短剣。

肩には見張り用らしい弓。

歩き方に油断がある。

訓練された兵ではない。

だが、ただの農夫でもない。


「盗賊っぽいの来たっす」 ダンが囁く。

「“っぽい”じゃなくて、かなりそれね」 マリーが言う。

「人数は?」

「今見えたのは一人」

「少なすぎる」 セレネが言う。

「中にもっといます」

「でしょうね」


そこへ、裏手から匠ーたちが戻ってきた。


マリーがすぐに振り返る。


「そっちは?」

「拘束具」 匠ーが短く言う。

「噂を利用している会話も聞いた」

「……出たわね」 マリーの声が低くなる。

「こっちは檻」

「中に誰かいる可能性が高いです」 セレネが続けた。

「生存者かもしれません」

「完全に出たっすね、印籠」 ダンが言う。

「もう候補じゃないっす」

「ええ」 ハナがうなずく。

「ここで引く理由がなくなった」


匠ーは砦を見た。


霧。

崩れた門。

見張り。

檻。

拘束具。

噂を利用する声。


確認は済んだ。


「よし」 今度の一言は、これまでより少しだけ重かった。


ダンがごくりと喉を鳴らす。


「……これは、あれっすね」

「何だ」 匠ーが問う。

「完全に“行く”やつっす」

「そうだ」

「ですよね……」


匠ーは全員を見回した。


「中に生存者がいる可能性がある」

「だから速い」

「だが雑にはやらない」

「正面から騒ぎを起こす」

「裏から入って檻を確保」

「逃げ道は西」

「ガレスとユノはそこを押さえろ」

「セレネは負傷者優先」

「ハナとマリーは制圧」

「ダン」

「はいっす!」

「叫ぶな」

「すみませんっす」

「お前は俺と入る」

「うわ、一番怖いとこ来たっす」

「嫌か」

「嫌っすけど行くっす」

「ならいい」

「よくないっすけど、はいっす……」


霧の向こうで、砦の中からまた金属音がした。


もう迷う段階ではない。


人食いの噂は、少なくともこいつらにとって都合のいい幕だった。

その幕の裏で、人を縛り、閉じ込め、運んでいる。


ならば、ここから先は調査ではない。


制圧だ。

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