マンティス公国編 沢を越え、刃鎌の砦へ接近する
見難い火傷の子498
マンティス公国編 沢を越え、刃鎌の砦へ接近する
村を出てしばらくは、まだ人の使う山道だった。
踏み固められた土の筋が北へ伸び、薪拾いや薬草採りの足が残した気配がある。
だが進むにつれ道幅は細り、やがて獣道と見分けのつかない頼りなさになった。
先頭のガレスは足を止めない。枝を払う音も小さく、曲がり角ごとに一度だけ視線を走らせる。
その後ろをトマが追い、匠ー、ハナ、セレネ、マリー、ダン、ユノが続いた。
爆炎パーティにとって、この程度の山道は障害ではない。
面倒なのは、飛べない者と、飛べても合わせるべき者が混じっていることだった。
速さを出すのは簡単だ。
全員を無事に連れていく方が、よほど手間がかかる。
「こういうの、敵より同行者の方が怖い時あるっすよね」
ダンが小声で言った。
「聞こえるわよ」
前を向いたままマリーが返す。
「聞こえるように言ってるっす。転ばれる前に心の準備を」
「準備する前に支えなさい」
「はいはい、補助要員っす」
軽口を叩きながら、ダンはいつの間にかトマの斜め後ろへ位置をずらしていた。
足を滑らせた時にすぐ拾える距離だ。
ユノも最後尾から少し詰め、荷の揺れを見ている。
誰に言われるでもなく、遅い者に合わせた並びへ変わっていた。
やがて前方に沢が現れた。
山肌を裂くように細い水が走り、濡れた石が朝の光を鈍く返している。
幅は大したことがない。
爆炎パーティだけなら、越えること自体は問題にならない。
問題になるのは、ここで誰かが滑ることだ。
ガレスが一度だけ流れを見て、対岸へ渡った。
ほとんど迷いがない。
続いて匠ーが石の並びを見て、短く言う。
「ガレス、向こう。マリー、荷。ダン、トマにつけ。ユノ、最後尾回収」
「了解」
返事は重ならない。だが全員がすぐ動いた。
トマが沢を見下ろき、わずかに息を詰める。
匠ーはそれを見て言った。
「足元だけ見ろ。向こうは見るな」
「……うん」
「滑っても落とさない」
それだけで十分だった。
トマはうなずき、ガレスの示した石を順に踏んでいく。
対岸ではマリーが荷を受ける位置に立ち、ダンは半歩後ろから間合いを保った。
「大丈夫っす。落ちても拾うんで」
「それ、大丈夫って言うのか?」
「言うっす。落ちないのが一番ですけど」
トマが最後の一歩を渡り切る。
間を置かず、セレネ、ハナが続いた。
二人とも沢そのものには頓着せず、むしろ周囲の斜面や木立へ注意を向けている。
ダンの番になっても、緊張している様子はない。
ただ石の上で一度だけ立ち止まり、肩をすくめた。
「こういうの、自分はいいんすよ。静かに事故る人がいると面倒で」
「喋ってないで渡れ」
マリーが言う。
「はいっす」
言いながら渡り切る。
最後にユノが来る頃には、対岸の受け位置も、荷の置き場も、次に進む並びももう決まっていた。
匠ーが最後に沢を越え、全員を一目で見た。
「よし」
確認完了の声だった。
ダンが息を吐く。
「沢が怖いんじゃなくて、二次遭難候補を増やさないのが怖いんすよね」
「分かってるなら黙って拾え」
ハナが言う。
「拾う前提なんすね」
「前提で動くから落とさない」
そのまま一行は進んだ。
沢を越えると道はさらに痩せ、斜面には古い石積みの跡が現れ始める。
かつては兵が通ったのだろう。
今は崩れ、苔むしみ、山に呑まれかけている。
「砦への道、って感じだな」
トマが小さく言う。
「昔はもっと整ってたはずっす」
ダンが周囲を見た。
「今は“通れはする”ってだけっすね」
「それで十分だったんでしょう」
セレネが答える。
「隠れるには都合がいい」
その時、ガレスがしゃがみ込んだ。
「止まれ」
全員の足がすぐ止まる。
トマも一拍遅れず止まれたのは、前後の気配が同時に消えたからだ。
ガレスは地面を指した。
「踏み跡。新しい」
匠ーとハナがすぐ横に並ぶ。
マリーは周囲へ視線を散らし、セレネは風向きを見た。
ダンは何も言わず、トマとユノの立ち位置だけを少し下げる。
「どれくらいだ」
匠ーが問う。
「昨日か一昨日。靴底を消してる」
「山慣れしてるな」
ハナが言う。
「消してる、ってわざと?」
トマが聞く。
「そう見える」
匠ーは土の乱れを一度見ただけで立ち上がった。
「隠す気がある」
「レジンたちだけじゃないかもね」
マリーが低く言う。
「ええ」
セレネがうなずく。
「少なくとも、見られたくない動きです」
相談はそこで終わった。
結論が出るまで長く止まらないのが爆炎パーティだった。
必要な情報だけ拾うと、もう次の速度に戻る。
さらに進むにつれ、尾根筋に霧が溜まり始めた。
沢筋ならまだ分かる。
だが日が上がっているのに、白い靄が高い位置に居座っているのは妙だった。
「……こんなに残るか?」
トマが言う。
「珍しいの?」
マリーが聞く。
「下ならある。でも、ここはあんまり」
「自然でも不自然でも、見通しが悪いことに変わりはありません」
セレネの言葉に、ダンが鼻を鳴らした。
「そういうのが一番嫌なんすよね。“ただの霧かもしれない”で済ませられないやつ」
その直後、ユノが前を指した。
「あれ」
木々の切れ間、霧の向こうに黒い影が浮かぶ。
近づくにつれ、それが岩ではなく人工物だと分かった。
崩れた石壁。
傾いた見張り台の基部。
蔦に覆われた門柱。
半ば山に呑まれながら、なお形を残す古い砦。
刃鎌の砦だった。
背後の斜面からは、名の由来になった鎌状の岩が突き出している。
その影が砦に落ち、まるで巨大な刃が覆いかぶさっているように見えた。
「……雰囲気最悪っすね」
ダンが小さく言う。
「静かに」
ハナの一言で、軽口はそこで切れた。
一行は木陰へ寄り、砦を観察する。
外壁は崩れている。
だが死んだ場所ではない。
門前の草は一部だけ踏み倒され、壁際には新しい擦れ跡がある。
風に乗って、かすかに煙の匂いも届いた。
セレネが眉を寄せる。
「火を使っています」
「人がいるな」
匠ーが言う。
ガレスはすでに別の跡を見ていた。
「ここにもある。少なくとも三人。重なってる」
「荷は?」
マリーが問う。
「運んでる。引きずった筋もある」
トマが息を呑む。ダンは砦から目を離さないまま、ぼそりと言った。
「箱ならいいんすけどね」
誰も軽くは受けなかった。
煙の匂いが届いた瞬間、空気が変わっていた。
誰も顔を見合わせない。
そんな確認は要らない。
視線だけが散る。
正面、側面、上、退路。
普段なら何か一言挟むダンまで、もう位置を取っている。
匠ーが短く言う。
「二手」
「裏、俺たちね」
ハナが即座に継いだ。
「正面は任せて」
マリーが受ける。
「石二、危急三」
「了解」
トマが顔を上げた。
「俺は?」
「ここで待機」
匠ーは即答した。
「退路を見ろ。目印を見失うな」
「……分かった」
不満はあっても、反論している間に話が進むと分かっている。
トマは唇を結んでうなずいた。
ダンが小さく肩を回す。
「正面、見張りがいるなら上っすね」
「見えるか?」
マリーが聞く。
「まだ。けど、いるならそこっす」
「十分だ」
匠ーは砦をもう一度見た。崩れた石、霧に滲む門、人の気配、火の匂い。
ここまで追ってきた噂の芯が、もう目の前にある。
「よし」
その声に、ダンが低く返した。
「その“よし”は安心のやつじゃないっすね」
「確認が済んだだけだ」
「済んだ中身が嫌なんすよ」
「それでも進む」
「知ってるっす」
そうして一行は散った。
速さを殺し、気配を殺し、それでも処理だけは落とさずに。
刃鎌の砦の周囲へ、いつものように。




