マンティス公国編 刃鎌の砦へ向かう準備
見難い火傷の子497
マンティス公国編 刃鎌の砦へ向かう準備
レジンが再び眠りに落ちた後も、詰め所の空気はしばらく動かなかった。
誰もが、今聞いた話を頭の中で組み直していた。
砦の近くで行われていた怪しい荷の受け渡し。
霧の中にいた複数の人影。
相棒ボルドの叫び。
そして、“人を食ってる”という、あまりにも強い言葉。
だが、強い言葉ほど、そのまま信じるのは危うい。
匠ーは壁際に立てかけてあった槍を見やり、それから静かに言った。
「整理する」 その一言で、部屋の中の視線が集まる。
「確かなのは三つだ」 匠ーは指を折った。
「一つ、砦の近くで不審な受け渡しがあった」
「二つ、レジンはそこで何かを見て逃げた」
「三つ、その話が“人食い”の噂の一因になった可能性が高い」
「逆に、確かじゃないのは?」 マリーが問う。
「本当に人を食っていたか」 匠ーが答える。
「箱の中身が何か」
「相手が何者か」
「行方不明者と直結しているか」
「そのへん全部っすね」 ダンが言う。
「だいたい核心じゃないっすか」
「だから行く」
「やっぱりそうなるっすよね……」
ドゥガンが腕を組んだまま唸る。
「砦まで行くのはいい。だが、村を空ける人数は考えろ」
「全員では行かない」 匠ーが即答する。
「村にも人手は要る」
「なら、誰が行く」
「匠ー、私、ハナ、セレネ」 マリーが数えた。
「ダンは……」
「その間が気になるっす」
「連れて行くわよ」
「よかったっす。いやよくないっす」
「どっちなの」
「心情としては複雑っす」
「いつものことね」
ハナが地図代わりの板を引き寄せた。
「砦までの道は?」
「旧道をさらに北へ」 トマが答えた。
「途中で沢を渡る。そこから尾根沿いに上がれば、半日かからない」
「半日、か」 ドゥガンが眉をひそめる。
「近くはないな」
「近くないから、今まで放置されてたのよ」 ハナが言う。
「村の生活圏から少し外れてる」
「でも完全に無関係でもない」 セレネが続けた。
「旧道と繋がっている以上、人も物も通せます」
「しかも、噂が流れるには十分な距離っすね」 ダンが言う。
「遠すぎず、近すぎず」
「嫌な意味でちょうどいいわね」 マリーが返した。
匠ーは板の上の線を指でなぞった。
「日帰りは」
「厳しい」 ハナが即答する。
「調べる時間を考えたら、戻りは夜になる」
「夜の山は避けたいですね」 セレネが言う。
「特に、相手の正体が分からない以上」
「じゃあ野営?」 ダンが顔をしかめる。
「砦の近くで?」
「嫌なら村で留守番する?」 マリーが言う。
「行くっす」
「即答ね」
「留守番の方が気まずそうっす」
ドゥガンは少し考え込み、それから言った。
「村からは二人つける」
「多い」 匠ーが言う。
「少ないと道が不安だ」
「トマがいる」
「トマはまだ子どもだ」
「子ども扱いは慣れてる」 トマがむっとしたように言った。
「でも、砦の近くまでは行ったことない」
「正直でよろしいっす」 ダンが言う。
「今はそこ褒めるとこじゃないわよ」 マリーが返す。
ドゥガンは続けた。
「猟師のガレスは出せる。もう一人は見回り組から足の速いのを」
「戦える者を」 ハナが言う。
「足が速いだけでは困る」
「分かってる」
「村の守りは?」 匠ーが問う。
「残りで回す」 ドゥガンは答えた。
「噂が完全に消えたわけじゃない。むしろ今朝の話で、余計に落ち着かん者もいるだろう」
「エダ親子の扱いもあるしね」 マリーが言う。
「ええ」 セレネがうなずく。
「彼女たちをどうするか、明確にしておかないと村の不満が溜まります」
「閉じ込めるの?」 ダンが聞く。
「そこまでしない」 ドゥガンが言った。
「だが自由にもさせん。詰め所の裏手の空き部屋を使わせる。見張りもつける」
「妥当ね」 ハナが言う。
「盗みの件は?」
「戻ってから決める」
「先送りっすか」
「今は砦が先だ」
「それも妥当っすね」
匠ーは荷の算段を始めた。
「食料は一日半」
「水袋は多め」
「縄」
「灯り」
「火打ち」
「布」
「薬草」
「簡易担架の部材も」 セレネが付け加える。
「負傷者が出た場合に備えます」
「縁起でもないっす」 ダンが言う。
「備えは縁起ではありません」
「正論が鋭いっす」
ハナはさらに言った。
「武器は長物だけじゃなく、狭い場所用も持っていく」
「砦の中に入る前提?」 マリーが問う。
「入らずに済むならそれでいい」 ハナは答えた。
「でも、外から見て終わりになるとは思ってない」
「同感だ」 匠ーが言う。
「見張りがいる可能性もある」
「罠も」 セレネが続ける。
「古い砦なら崩落にも注意が必要です」
「敵も怖いけど建物も怖いっすね」 ダンがぼやく。
「古い施設探索って、だいたい床が信用できないんすよ」
「珍しく有益なこと言うわね」 マリーが言う。
「珍しくは余計っす」
その時、戸口が軽く叩かれた。
入ってきたのは、見回り組の若者だった。
まだ緊張した顔をしている。
「村長」
「何だ」
「広場の方、少し揉めてます」
「何で」
「エダを追い出せって声が出てる」 部屋の空気が少し冷えた。
ドゥガンが目を細める。
「誰だ」
「主に、干し肉を盗まれた家の人たちです」
「当然の反応ね」 ハナが言う。
「当然だが、今騒がれても困る」 ドゥガンは舌打ちした。
「俺が行く」
「私も行く」 マリーが言った。
「女相手の話なら、こっちがいた方が角が立ちにくい」
「助かる」
「匠ーは?」
「準備を続ける」
「了解」
ダンがそっと手を挙げる。
「俺はどっちっすか」
「荷造り」 匠ーが即答する。
「ですよね」
「不満か」
「いえ、むしろ安全側で助かるっす」
「荷造りも大事よ」 マリーが言う。
「分かってるっす。分かってるんすけど、言い方が完全に“前線に出すと不安”のやつなんすよ」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないっす」
マリーとドゥガンが外へ出ると、部屋の中は少しだけ静かになった。
匠ーは荷を一つずつ点検していく。
縄の結び。
水袋の口。
火打ち石の数。
布の枚数。
干し肉の包み。
短剣の鞘。
灯りの覆い。
「よし」
また小さく声が漏れる。
ダンが荷袋を抱えたまま言った。
「もうその“よし”がないと逆に不安になる体になってきたっす」
「慣れたな」 匠ーが言う。
「慣れたくなかったっす」
「でも慣れた」
「はいっす……」
「現場適応ですね」 セレネが淡々と言う。
「嬉しくない適応っす」
トマは板地図を見ながら、少し迷うように口を開いた。
「……砦って、昔は兵がいたんだよな」
「そう聞いてる」 ハナが答える。
「じゃあ、今も誰かが使っててもおかしくないのか」
「おかしくはない」
「でも、普通じゃない」 ダンが言う。
「普通の人は、わざわざ噂の立った古い砦で怪しい荷の受け渡ししないっす」
「その通り」 ハナがうなずく。
「だから調べる価値がある」
しばらくして、外から戻ってきたマリーの顔は少し疲れていた。
ドゥガンはさらに険しい。
「どうだった」 匠ーが問う。
「抑えた」 ドゥガンが短く答える。
「でも、完全には収まってない」 マリーが続けた。
「当然だけどね。
盗みの被害は本物だし、噂で怯えてたところに“山に隠れてた親子でした”じゃ、感情が追いつかない」
「石は飛んだ?」 ハナが聞く。
「まだ」
「まだ、ね」
「でも、目はきつい」 マリーは息を吐いた。
「エダも分かってる。だから余計に縮こまってる」
「戻ったら、そこも片付ける必要がある」 ドゥガンが言う。
「ええ」 セレネがうなずいた。
「砦だけ見て終わりにはできません」
匠ーは最後の荷を締めた。
「出る」
「今から?」 ダンが聞く。
「日が高くなる前に沢を越えたい」
「それはそうっすね」
「昼を過ぎると戻りに響く」 ハナが言う。
「今日は戻らない前提でも、動けるうちに進んだ方がいい」
「じゃあ本当に野営込みっすか」
「そのつもりでいなさい」
「はいっす……」
ガレスと、見回り組の若者が一人呼ばれてきた。
若者の名はユノ。
まだ二十に届くかどうかという年頃だが、目つきはしっかりしている。
緊張はしているが、逃げ腰ではない。
「道案内は俺が補う」 ガレスが言う。
「獣道なら任せろ」
「砦の近くは?」 匠ーが問う。
「近づいたことはない」
「正直でいい」
「知らんことを知ってるとは言わん」
「それでいいっす」 ダンが言う。
「今それやられると死ぬやつっす」
準備が整う。
匠ー。
マリー。
ハナ。
セレネ。
ダン。
トマ。
ガレス。
ユノ。
八人。
多すぎず、少なすぎず。
だが、何が待っているか分からない場所へ向かうには、決して余裕のある人数ではなかった。
詰め所を出る前、ドゥガンが一行を見回した。
「無理はするな」
「必要ならする」 匠ーが答える。
「またそれか」
「必要の線引きはする」
「少し進歩したっすね」 ダンが言う。
「進歩なのか?」 マリーが眉を上げる。
「前よりは」
「前が低すぎるのよ」
「否定できないっす」
ドゥガンは最後に、少しだけ声を落とした。
「砦で何を見ても、まずは生きて戻れ」
「承知した」 匠ーがうなずく。
「報告は生きてる者にしかできん」
「……それは、本当にそうっすね」 ダンが珍しく真面目に言った。
村の北端を抜ける頃には、朝日はすでに山の肩を越え始めていた。
光はある。
だが、刃鎌の砦があるという北の尾根筋には、まだ薄い霧が残っている。
人食いの噂。
その発端の一つは見えた。
だが、現況にはまだ届かない。
それを確かめるために、一行は再び山へ向かう。
今度は、噂の外縁ではない。
その芯に近づくために。




