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見難い火傷の子  作者: 清風
496/618

マンティス公国編 病人が目を覚まし、刃鎌の砦について語る

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子496


マンティス公国編 病人が目を覚まし、刃鎌の砦について語る


朝の光が詰め所の板壁を白く染め始めても、部屋の中の空気はまだ夜の延長にあった。


火鉢の熱。

煎じた薬草の匂い。

濡らした布の冷たさ。

寝台代わりの藁床に横たわる男の荒い息。

外では村人たちの気配が増えつつあるが、

この部屋だけは別の時間に取り残されたように静かだった。


セレネは男の額の布を替え、喉を湿らせるために少量の水を含ませていた。

ハナは薬草を刻みながら、火加減を見ている。

マリーは戸口の脇に立ち、外のざわめきに耳を配っていた。

ダンは壁際で腕を組み、落ち着かない様子で足先を動かしている。


「こういう“起きそうで起きない”時間が一番そわそわするっす」

「分かるけど静かに」 マリーが言う。

「静かにそわそわしてるっす」

「器用ね」

「褒められた気がしないっす」


匠ーは藁床の傍らにしゃがみ、男の顔を見ていた。

熱はまだ高い。

だが先ほどより呼吸は少し整っている。

意識の底から浮かび上がってくる気配があった。


ドゥガンも部屋の隅で腕を組んでいる。

エダとトオルは別室に下がらせてあった。

今はまず、この男の口から何が出るかを聞くべきだった。


やがて、男の瞼がゆっくりと震えた。


セレネがすぐに身を乗り出す。


「聞こえますか」 男の目が、薄く開く。

焦点は定まらない。

天井を見ているのか、誰かの顔を見ているのかも分からない。

だが、完全に意識がない時とは違う。


「ここは安全です」 セレネが静かに言う。

「村の詰め所です。あなたは保護されました」

「……むら……」 男の唇がかすかに動く。

「そうです」

「……まだ……」

「何がです」

「まだ……来る……」


ダンが小さく身を引いた。


「嫌な目覚め方っすね……」

「黙って」 ハナが低く言う。


男の目がようやく少しだけ焦点を結び、匠ーの方へ向いた。

その瞬間、びくりと肩が跳ねる。


「ひっ……!」

「落ち着け」 匠ーが短く言う。

「敵じゃない」

「……鎌……」

「持っていない」

「違う……違う……」


男は息を荒くし、起き上がろうとして失敗した。

セレネが肩を押さえる。


「無理に動かないでください」

「水」 男が掠れた声で言う。

「少しだけ」 セレネは慎重に水を含ませた。

男はむせながらも飲み込み、ようやく少しだけ人心地ついたように目を閉じた。


匠ーが問う。


「名前は」 男はしばらく黙っていたが、やがて答えた。


「……レジン」

「姓は」

「ない」

「どこから来た」

「南の……街道沿いの……」

「旅人か」

「違う」

「では何だ」

「運び屋だ」


ドゥガンが眉をひそめる。


「何を運ぶ」

「頼まれたものを」

「曖昧だな」

「曖昧にしておかないと、生き残れない仕事もある」 レジンは乾いた笑いのような息を漏らした。

だがその直後、咳き込む。

「無理に喋らなくていい」 セレネが言う。

「いや……喋る……今のうちに……」


匠ーは先を促した。


「刃鎌の砦を知っているな」 レジンの顔色がさらに悪くなる。


「……知ってる」

「何だ、あそこは」

「昔の見張り砦だ」

「それは見れば分かる」 ハナが言う。

「今、何に使われている」

「……分からない」

「嘘だ」 匠ーが即座に言う。

「“砦”と寝言で言う程度には、頭にこびりついている」

「寝言まで聞かれたのかよ……」

「答えろ」 レジンは目を閉じた。

喉が上下する。

言うべきか迷っているのが見て取れた。


「……荷を運んだ」

「どこへ」

「砦の近くまで」

「中ではないのか」

「中までは入ってない」

「誰の依頼だ」

「知らない」

「またそれか」 ドゥガンが苛立つ。

「本当に知らないんだよ」 レジンが苦しげに言う。

「仲介を通した。金はよかった。口も出すな、詮索もするなって条件だった」

「何を運んだ」

「木箱」

「中身は」

「知らない」

「重さは」

「一人じゃきついくらい」

「数は」

「二つ」

「いつ」

「四日前」


部屋の空気が少しずつ固まっていく。


匠ーがさらに問う。


「誰と行った」

「俺と、もう一人」

「名前は」

「ボルド」

「今どこだ」

「……死んだかもしれない」 ダンが顔をしかめる。


「かもしれない、って何すか」

「逃げる時にはぐれた」 レジンは唇を震わせた。

「砦の近くで、受け渡しの相手が来た。

顔は見えなかった。

外套を被ってた。

声も低くしてた」

「一人?」

「最初は二人」

「最初は?」

「途中で増えた」

「どこから」

「分からない。霧の中から出てきたみたいに見えた」

「何人」

「三……いや、四かもしれない」

「武器は」

「鎌みたいな刃が見えた」 ドゥガンが低く息を呑む。


「刃鎌、か」

「名前の由来通りってわけっすか」 ダンが言う。

「偶然かもしれない」 マリーが返す。

「でも、印象には残るわね」


レジンは続けた。


「箱を渡した後、帰ろうとした」

「それで終わりではなかったのか」

「終わるはずだった」 レジンの声が掠れる。

「でも、ボルドが余計なことを言った」

「何を」

「“中身は何だ”って」

「聞いたのか」

「聞くなって言ったのに……」

「それで?」

「相手が黙った」

「それだけか」

「その沈黙が、一番まずかった」


レジンの指先が、藁を掴むように震える。


「霧の向こうで、何か音がした。

引きずるみたいな音。

箱じゃない。もっと……湿った音だった」

「湿った音?」 ハナが眉を寄せる。

「それから、匂いがした」

「何の」

「鉄と、腐った肉みたいな……」 ダンの顔が引きつる。


「うわ、嫌なやつっす」

「続けて」 匠ーが言う。


「ボルドが松明を上げた」 レジンは目を閉じたまま言った。

「そしたら、見えた。地面に……何か散らばってた」

「何が」

「分からない」

「分からない?」

「見たくなかった」 レジンの声が震える。

「布切れか、肉か、獣の骨か、人の……いや、違う、分からない、分からないんだ」

「落ち着いて」 セレネが言う。

「無理に思い出さなくていい」

「でも、あれを見て、ボルドが叫んだ」

「何と」

「“人を食ってる”って」


部屋の中の誰も、すぐには口を開かなかった。


その一言は、あまりにも直接的だった。

だが同時に、それが事実そのものとは限らないことも、全員が分かっていた。


匠ーが静かに問う。


「本当にそう見えたのか」

「……分からない」 レジンは苦しげに首を振る。

「暗かった。霧もあった。松明も揺れてた。俺はちゃんと見てない。見たくなかった」

「だが、ボルドはそう叫んだ」

「そうだ」

「その後は」

「相手が動いた」

「襲ってきた?」

「たぶん」

「たぶん?」

「もう、よく覚えてない」 レジンは額を押さえた。

「殴られた。

何か飲まされた。

口を押さえられて、苦くて、熱くて……それから走った。

走って、転げて、沢まで落ちて……その先は覚えてない」


セレネが匠ーを見る。


「何かを飲まされた、という話と症状は一致します」

「眠り薬か、混乱を起こす類か」 ハナが言う。

「あるいは発熱を伴うもの」

「便利に嫌なものが多いっすね……」 ダンがぼやく。


ドゥガンが腕を組んだまま唸る。


「つまり、こうか」

「砦の近くで怪しい荷の受け渡しがあった」

「そこで何かを見た」

「相棒が“人を食ってる”と叫んだ」

「お前は逃げた」

「そうだ」 レジンが答える。

「でも、本当に人食いだったかは分からない」

「……分からない」

「ただ、そう見える何かはあった」

「そうだ」


マリーが低く言う。


「これで噂の発端の一つは見えたわね」

「ええ」 セレネがうなずく。

「“人を食っている”という直接的な言葉が、現場で発せられている」

「しかも運び屋が逃げたなら、街道筋に流れてもおかしくない」 ハナが言う。

「尾ひれもつく」

「噂としては十分っすね」 ダンが言った。

「十分すぎるっす」


だが匠ーはまだ男を見ていた。


「箱の中身は」

「知らない」

「受け渡し相手の特徴は」

「外套、手袋、顔を隠してた」

「声は」

「男か女かも分からないようにしてた」

「砦の中へ入ったのか」

「見てない」

「では、何が確かな」 レジンは荒い息の合間に答えた。


「……砦の近くで、何かが動いてた」

「何か、とは」

「人かもしれない。獣かもしれない。両方かもしれない」

「曖昧だな」

「曖昧なんだよ!」 レジンが思わず声を荒げ、すぐに咳き込んだ。

「俺だって、はっきりしてりゃこんなに怯えてねえ……!」


セレネが背を支える。


「十分です」

「いや、まだ……」

「今は休んでください」

「でも……ボルドが……」

「その話は後でまた聞きます」

「生きてるかもしれない」

「なら探す」 匠ーが言った。

「……本当に?」

「必要ならな」

「必要だ」 レジンは絞り出すように言った。

「俺一人だけ逃げたみたいで……」

「実際そうだろ」 ハナが容赦なく言う。

「うっ」

「でも、生き延びたから話せる」 マリーがすぐに続けた。

「それは無駄じゃない」

「……そうだといい」


レジンはそこで力尽きたように目を閉じた。

意識はまだあるが、これ以上は無理だろう。


部屋の中に、重い沈黙が落ちる。


人食いの噂。

その言葉が、ただの村人の想像ではなく、

現場で発せられた叫びから広がった可能性が出てきた。

だが同時に、それが確かな目撃証言ではないことも明らかだった。


暗闇。

霧。

揺れる松明。

恐怖。

そして、見たくないものを見た時の人間の叫び。


そこから生まれた噂は、真実を含みながらも、真実そのものではない。


ドゥガンが低く言う。


「厄介だな」

「ええ」 セレネが答える。

「否定しきれず、肯定もできない」

「一番広がるやつっす」 ダンが言う。

「しかも砦が絡んでる」

「行くしかないわね」 マリーが言った。


匠ーは立ち上がり、荷をまとめ始めた。


「よし」


また小さく声が漏れる。


ダンが半ば反射で言う。


「その“よし”が出る時、だいたい面倒な方へ進むんすよね……」

「確認が済んだということだ」

「済んでほしくなかった確認もあるっす」

「だが済んだ」

「はいっす……」


外では、朝が完全に村へ降りていた。

噂はまだ消えない。

だが今、その噂の輪郭だけは少し見えた。


人食いの噂は、空から降ってきたものではない。

誰かの叫びから始まり、恐怖に育てられ、村へ流れ着いたのだ。


ならば次に確かめるべきは一つ。


刃鎌の砦で、実際に何が起きているのか。

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