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見難い火傷の子  作者: 清風
495/601

マンティス公国編 病人を村へ運び込む

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子495


マンティス公国編 病人を村へ運び込む


山道を担架で下るのは、思った以上に骨が折れた。


夜は明けきっていない。

空は白み始めているが、森の中はまだ薄暗く、足元の根や石は見えにくい。

しかも担いでいるのは、熱に浮かされた病人だ。

揺らしすぎれば容態が悪化するかもしれない。

急がねばならず、だが急ぎすぎてもいけない。


実に嫌な条件が揃っていた。


「こういうの、だいたい誰かが滑るんすよね……」

担架の後ろを持つダンが、歯を食いしばりながら言う。

「縁起でもないこと言わないで」 前を持つマリーが即座に返した。

「しかも今、あなたも担いでる側なんだから」

「だからこそっすよ。自分が滑る未来を予感してるんす」

「予感で済ませず足元を見なさい」

「正論が重いっす」


担架の左右には匠ーとハナがつき、セレネは病人の顔色を見ながら歩いていた。

トマが先導し、ドゥガンと見回り組が周囲を警戒する。

エダとトオルは後ろからついてきていた。

逃げる様子はない。

逃げる余力も、もう残っていないように見えた。


病人は時おり浅く呻き、熱に浮かされたまま何かを呟いていた。

だが言葉は途切れ途切れで、意味を成さない。


「水……いや、だめ……」

「火は……」

「違う……そっちじゃ……」


セレネが耳を寄せる。


「何か言ってる?」 マリーが問う。

「断片的です」 セレネは答えた。

「意識が混濁しています。内容も一定しません」

「名前とか場所とか、そういうのは?」

「今のところは」

「なし、か」 ハナが低く言う。


匠ーは前方の斜面を見た。


「段差」

「分かってるっす」 ダンが言う。

「三、二、一……よいしょっ」

「掛け声が軽い」

「重いよりましっす!」


担架がわずかに揺れる。

病人が苦しげに眉を寄せた。


「揺らしすぎ」 セレネが即座に言う。

「すみませんっす」

「謝る前に次を丁寧に」

「はいっす……」


そのやり取りを聞きながら、トオルがぽつりと呟いた。


「……ちゃんとしてる」

「何が?」 ダンが振り返りかけて、マリーに睨まれる。

「前見なさい」

「はいっす」 トオルは少しだけ言い直した。

「もっと乱暴に運ぶのかと思ってた」

「病人だからね」 マリーが答える。

「雑に扱う理由がない」

「でも、こっちは盗みもしてた」

「それとこれとは別よ」

「別なのか」

「別です」 セレネがはっきり言った。

「罪と応急処置を混同すると、余計に人が死にます」

「……そういうもんか」

「そういうものです」


エダは何も言わなかった。

ただ、担架の上の男を見つめる目には、まだ強い緊張が残っていた。

村へ戻ることへの恐れ。

見つかったことへの諦め。

そして、この男が助かるかもしれないという、わずかな希望。


旧道を抜け、村の北端が見えてくる頃には、空はかなり明るくなっていた。


朝靄が家々の間に薄く溜まり、屋根の上には夜露が白く光っている。

まだ本格的に人が動き出す前の時刻だ。

だが見回りの若者たちはすでに持ち場にいて、一行の姿を認めると緊張した顔で駆け寄ってきた。


「戻った!」

「どうだった」

「捕まえたのか」

「静かに」 ドゥガンが低く制する。

「騒ぐな。まず道を空けろ」 若者たちは担架を見る。

その上の病人を見る。

さらに後ろのエダ親子を見て、目を見開いた。


「……エダ?」

「なんで」

「生きてたのか」


ざわめきが広がりかける。


ドゥガンの声が一段低くなった。


「静かにしろと言った」 その一言で、空気がぴたりと止まった。


「話は後だ。今はこの男を寝かせる場所が先だ」

「どこへ」

「詰め所の奥を空けろ。火を起こせ。湯もだ」

「は、はい!」


若者たちは慌てて散っていく。

村長の声には、それだけで人を動かす重みがあった。


ダンが小さく言う。


「こういう時の村長、ちゃんと村長っすね」

「普段から村長よ」 ハナが返す。

「いや、そうなんすけど、なんかこう……」

「分かるわ」 マリーが言った。

「腹が据わると一気に締まるタイプね」

「匠ーとちょっと似てるっす」

「褒めてるのか?」 ドゥガンが振り向く。

「たぶん褒めてるっす」

「たぶんか」

「断言すると怒られそうで」

「正しい判断だ」

「やっぱり怒る側なんすね」


詰め所の奥は、もともと見回り組の仮眠や怪我人の手当てに使う部屋らしかった。

広くはないが、風は防げる。

藁床もあり、火鉢も持ち込める。

病人を寝かせるには、山中の小屋よりずっとましだった。


担架が下ろされると、セレネはすぐに診察に取りかかった。

脈。

呼吸。

瞳孔。

喉の乾き。

腹部の張り。

打撲の位置。

熱の上がり方。


ハナも薬草束を広げ、使えるものと使えないものを分けていく。


「どう?」 マリーが問う。

「熱が高い」 セレネが短く答える。

「ただ、感染症というより、衰弱と脱水、それに何かを飲まされた可能性があります」

「飲まされた?」 ドゥガンが眉をひそめる。

「断定はできません」 セレネは慎重に言った。

「ですが、熱の出方と意識の混濁が少し不自然です。傷だけでは説明しきれない」

「毒?」 ダンが顔をしかめる。

「強い毒なら、もっと別の症状が出るはずです」

「じゃあ薬?」

「その可能性はあります」

「嫌な方向に話が広がってきたっすね……」


匠ーは病人の服を見ていた。


泥と擦れで汚れてはいるが、布地は確かに悪くない。

山仕事の者の服ではない。

かといって貴族や商人の旅装とも違う。

もっと実用的で、しかし質は落としていない。

腰帯には何かを下げていた跡があるが、今は空だ。


「持ち物は」 匠ーが問う。

「何もなかった」 トオルが答える。

「本当に、何も」

「落としたか、奪われたか」 ハナが言う。

「あるいは、最初から持っていなかった」 セレネが続ける。

「でもその服で?」

「不自然ですね」


その時、外からまたざわめきが聞こえた。


朝になり、村人たちが起き始めたのだ。

見回り組から話が漏れたのか、詰め所の前に人が集まりつつあるらしい。

戸の向こうから、抑えた声がいくつも重なる。


「見つかったって?」

「人食いは?」

「誰が運ばれてきたんだ」

「エダが戻ったって本当か」


ドゥガンが舌打ちした。


「早いな」

「止める?」 マリーが聞く。

「止めきれん」 ドゥガンは苦い顔をした。

「だが、放っておくと勝手な話が広がる」

「もう十分広がってるっすけどね」 ダンが言う。

「だからこそだ」 ドゥガンは戸口へ向かった。

「ここで一度、俺が話す」


エダがびくりと肩を震わせる。


「……外に?」

「お前はまだ出るな」 ドゥガンが振り返らずに言う。

「今出れば、余計に揉める」

「でも」

「俺が先に抑える」

「抑えられるの?」 ハナが問う。

「抑えるしかない」 ドゥガンは短く答えた。

「村長ってのは、そういう時のためにいる」


その言葉を残し、ドゥガンは戸を開けて外へ出た。


すぐに、ざわめきが少し大きくなる。

だが次の瞬間、村長のよく通る声が広場に響いた。


「静かに聞け!」


ぴたり、と外が静まる気配がした。


「山で人は見つかった。

だが、“人食い盗賊団”ではない。

勝手な憶測を口にするな。

今は病人の手当てが先だ」 外でどよめきが起こる。


「じゃあ噂は嘘だったのか」

「行方不明の三人はどうなる」

「エダは何をしてた」

「盗人だって話も――」


「静かにしろ!」 ドゥガンの声がもう一度響く。

「まだ全部は分かっていない。

分かっていないことを、分かったように喋るな。

今ここで必要なのは口ではなく手だ。

湯を沸かせ。

布を持て。

余計な詮索は後にしろ」


しばしの沈黙。


それから、ぽつぽつと人が動き出す気配がした。

完全に納得したわけではない。

だが、少なくとも村長の言葉で、今すぐの混乱は抑えられたらしい。


ダンが感心したように言う。


「強いっすね」

「強くないと村長なんてやれないわよ」 マリーが答える。

「それに、今のは正しい」 セレネが言った。

「不確かな噂に対抗するには、

まず“分からないことは分からない”と線を引く必要があります」

「噂って、空白に勝手に何か詰めるっすもんね」

「ええ」

「珍しくいいこと言うわね」 ハナが言う。

「珍しくは余計っす」


その時、藁床の上の病人が、急に大きく咳き込んだ。


全員の視線が集まる。


男の瞼が、わずかに震えた。


「起きる?」 マリーが身を乗り出す。

「まだです」 セレネが手を添える。

「でも、意識が浮いてきています」

「話せるか」 匠ーが問う。

「すぐには無理でしょう」

「でも、何か言うかもしれない」

「その可能性はあります」


男の唇がかすかに動く。


乾いた、掠れた声。

ほとんど息のような音だったが、今度は少しだけはっきりしていた。


「……砦……」 部屋の空気が止まる。


ダンが目を瞬かせる。


「今、砦って言ったっすか」

「言いましたね」 セレネが低く答える。

「刃鎌の砦?」 ハナが眉を寄せる。

「その可能性が高い」

「やっぱり繋がってるの?」 マリーが言う。


男はさらに何かを言おうとしたが、言葉にならず、また苦しげに息を吐いた。

だが、今の一言だけで十分だった。


この病人は、ただの行き倒れではない。

そしてこの村の噂も、ただの勘違いだけでは終わらない。


山で見つかった親子。

旧道に倒れていた謎の男。

行方不明者三人。

そして刃鎌の砦。


点と点が、ようやく線になり始めていた。


匠ーは男の顔を見下ろし、静かに言った。


「まだ終わっていないな」

「むしろ始まった感じっす」 ダンが答える。

「嫌な始まり方っすけど」


外では、朝の光がようやく村全体に差し始めていた。

だがその明るさは、事態を晴らすにはまだ足りない。


噂の霧は、少し薄れただけだ。

その向こうには、まだ別の影がある。

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