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見難い火傷の子  作者: 清風
494/597

マンティス公国編 エダ親子の事情聴取

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子494


マンティス公国編 エダ親子の事情聴取


夜明けは、思っていたより静かに来た。


小屋の外では、木々の梢が淡く白み始めている。

鳥の声はまだない。

山の朝は遅く、冷たく、湿っていた。

その冷気の中で、小屋の中だけが妙に息苦しい。


セレネは横たわる男の脈を取り、瞼を開き、喉の乾き具合を確かめていた。

ハナは鍋の中の薬草を嗅ぎ、布の湿りを見ている。

マリーは入口近くで周囲を警戒し、ダンは何とも言えない顔で小屋の中を見回していた。


「……なんか、思ってたのと全然違うっす」

「こっちもよ」 マリーが小声で返す。

「でも、違ったから終わりじゃない」

「むしろここからっすよね」

「そういうこと」


匠ーと村長ドゥガンは、女――エダと、その息子らしい少年を見ていた。


刃物はすでに取り上げてある。

だが、縄で縛るようなことはしていない。

逃げる気配がないのもあるし、今はそれより話を聞く方が先だった。


ドゥガンが低く言う。


「座れ」 エダはしばらく立ったままだったが、やがて力が抜けたように土床へ腰を下ろした。

少年もその隣にしゃがみ込む。

顔色は悪い。

夜通し気を張っていたのだろう。


「……トオル」 エダが小さく言う。

「何だ」 ドゥガンが眉をひそめる。

「この子の名前だよ」 エダは息子の肩に手を置いた。

「トオル」

「聞いてない」

「言っておきたかっただけさ」


トオルは唇を引き結んだまま、こちらを睨むでもなく、ただ警戒していた。

まだ幼さの残る顔だが、その目には山で生きる者の早熟な硬さがある。


匠ーが口を開く。


「順に聞く」

「……何を」 エダの声はかすれていた。

「なぜ山に隠れていた」

「なぜ盗みをした」

「なぜ病人を運んだ」 セレネが続ける。

「そして、その男が誰なのか」

「全部だ」 ドゥガンが言った。

「誤魔化すな。今さら隠しても意味はない」


エダはしばらく黙っていた。


小屋の中には、煎じた薬草の青臭い匂いと、湿った土の匂いが混じっている。

外では風が枝を揺らし、夜明けの気配だけが少しずつ濃くなっていく。


やがてエダは、諦めたように口を開いた。


「……山向こうの村で、夫が死んだ」 誰も口を挟まない。


「冬の終わりに崖から落ちた。荷運びの仕事だった」

「事故か」 匠ーが問う。

「そう聞かされた」 エダは短く答えた。

「でも、死んだ後が早すぎた。

借りてた小屋はすぐ明け渡せって言われる。

畑もない。親類も薄い。

残ったのは、この子と、少しの道具だけ」

「それで、この村へ戻ろうとした?」 マリーが聞く。

「最初はそのつもりだった」 エダはうなずく。

「でも、戻る前に噂を聞いた。

“人食い盗賊団が出る”“山道は危ない”“余所者は疑われる”ってね」

「それで戻れなかったのか」 ドゥガンが言う。

「戻っても、すぐ受け入れてもらえる気がしなかった」 エダは自嘲気味に笑った。

「五年も離れてた女が、子ども連れて急に帰ってきて、

しかも山向こうの村を追い出されたみたいな格好だ。

歓迎されるとは思えなかった」

「だから山に?」 ハナが眉をひそめる。

「馬鹿げてるわ」

「分かってるよ」 エダは即座に言い返した。

「分かってる。でも、村へ行って追い返されるのが怖かった。

だったら、少しの間だけでも山で凌ごうと思った」

「少しの間、のつもりが長引いた」 セレネが静かに言う。

「そうだ」 エダは目を伏せた。

「旧道の外れなら、人も来ない。

昔、炭焼き小屋があった場所も知ってた。

だから隠れた」


ドゥガンの顔は険しいままだった。


「盗みは」

「最初は持ってた分でしのいだ」 エダが答える。

「でも足りなくなった。

塩も油も尽きる。

トオルだけで村へ買いに行かせるわけにもいかない。

顔を見られたら終わりだと思った」

「だから盗んだ」

「……そうだ」

「干し肉と塩漬けと油」

「病人が出てからは、縄と布も」

「病人が出る前から盗んでたのね」 ハナが言う。

「少しだけだ」

「少しならいいって話じゃない」

「分かってる!」


エダの声が荒れた。

だが、その勢いもすぐにしぼむ。


「分かってるよ……。盗みだ。言い訳できない。見つかったら縛られても仕方ない」

「そこまで追い詰められていた、ということですね」 セレネが言った。

「追い詰められてたからって、村に黙って隠れていい理由にはならん」 ドゥガンは厳しく言う。

「だが、事情は事情として聞く必要がある」


匠ーが横たわる男へ視線を向けた。


「次だ」

「その男は誰だ」 エダとトオルが顔を見合わせる。


答えたのはトオルだった。


「知らない」

「知らない?」 ダンが思わず聞き返す。

「本当に?」

「本当だ」 トオルは強く言った。

「三日前、旧道の下の沢近くで倒れてた。

最初は死んでると思った。

でも、まだ息があった」

「一人だったの?」 マリーが問う。

「一人だった。荷も何もなかった」

「服装は?」 セレネが聞く。

「旅人っぽくはなかった」 トオルは記憶を辿るように言う。

「山仕事の人とも違う。

布はいいやつだったけど、泥だらけで、血も少しついてた」

「傷があるの?」 ハナが男を見る。

「大きな外傷はありません」 セレネが答えた。

「擦過傷と打撲はありますが、致命傷ではない」

「じゃあ熱の原因は別?」

「その可能性が高いです」


トオルは続けた。


「置いていこうと思った」

「正直だな」 ダンが言う。

「だって、知らない男だし」 トオルはむっとしたように言った。

「でも、母さんが“まだ生きてるなら運ぶ”って」

「お前は反対したのか」 匠ーが問う。

「した」

「でも運んだ」

「……放っておいて死んだら、夢に出そうだったから」

「優しいのか現実的なのか分からんっすね」 ダンがぼそりと言う。

「両方でしょう」 マリーが返した。


エダが男を見た。


「熱がひどくて、うわ言ばかりだった。

水を飲ませても吐く。

薬草を煎じても、効いてるのか分からない」

「“朝までに間に合わせる”とは何だ」 ドゥガンが問う。

「夜が明けたら、村へ下ろすつもりだった」 エダは答えた。

「これ以上は無理だと思った。

盗みも隠れ住みも、もう限界だったし……この人も、私らだけじゃ助けられない」

「じゃあ、なぜ昨夜の時点で下りてこなかった」 ハナが言う。

「怖かったからだよ」 エダは絞り出すように言った。

「見つかったら、全部終わると思った。

盗みも、隠れてたことも、余所者を抱え込んでたことも。

だから、せめて朝になってから、ちゃんと話そうと思ってた」

「その前にこっちが来た」

「そうだ」


小屋の中に、重い沈黙が落ちた。


ダンが頭を掻く。


「なんかこう……悪いことはしてるんすけど、想像してた悪党感が全然ないっす」

「悪党じゃないから困るのよ」 ハナが言う。

「追い詰められた人間は、悪党より扱いが難しい」

「しかも噂が絡んでる」 マリーが言った。

「村に戻れなかった理由の一部が、その噂なんだから」

「噂が人を山へ追いやったわけですね」 セレネが静かにまとめる。

「少なくとも、この親子については」


ドゥガンは深く息を吐いた。


「……行方不明者三人との関わりは」

「知らない」 エダが即答する。

「本当に?」

「本当だ。こっちは自分たちが生きるので精一杯だった」

「炭焼きの若いのも、薬草採りの婆さまも、荷運びの男も?」

「知らない」 トオルも首を振る。

「見てないし、会ってない」

「じゃあ、噂の“人食い”は」

「そんなもん、こっちが聞きたいよ」 エダは疲れ切った声で言った。

「山に隠れてる間、村の方から流れてくる話を聞いて、こっちだって怯えてたんだ」


その言葉に、匠ーの目がわずかに細くなる。


「つまり」 セレネが言う。

「エダ親子は噂の原因ではない。むしろ噂の被害者でもある」

「ただし、盗みはしている」 ハナが釘を刺す。

「そこは別勘定ね」

「当然だ」 ドゥガンがうなずいた。

「情状は見る。だが、なかったことにはせん」


その時、横たわっていた男が急に大きく息を吸い込み、苦しげに身をよじった。


セレネがすぐに支える。


「熱が上がっています」

「まずいのか」 匠ーが問う。

「まずいです」 セレネは短く答えた。

「ここで詳しく診るには限界があります。村へ運ぶべきです」

「運べる?」 マリーが聞く。

「急げば」

「なら決まりだ」 匠ーが言う。


ドゥガンはエダ親子を見た。


「お前たちも来い」 その声は厳しかったが、先ほどまでとは少し違っていた。

「逃がしはせん。盗みの話もある。だが、今はまずこの男だ」

「……村へ?」 エダの声が震える。

「そうだ」

「石を投げられるかもしれない」

「投げさせん」 ドゥガンは低く言った。

「少なくとも、俺が見ている前ではな」


エダはしばらく何も言えなかった。

やがて、かすかにうなずく。


トオルもまた、黙って母の袖を握った。


噂の正体は、まだ霧の中にある。

だが一つだけ、はっきりしたことがあった。


この山で見つかった親子は、怪物ではない。

噂に追われ、村を恐れ、盗みに手を染め、それでも見知らぬ病人を見捨てきれなかった人間だ。


そして、その病人こそが、次の鍵になる。


なぜ旧道の下で倒れていたのか。

どこから来たのか。

何を知っているのか。

あるいは、何に巻き込まれたのか。


夜明けの冷気の中、匠ーは担架の縄を確かめた。


「よし」


また小さく声が漏れる。


ダンが半ば呆れ、半ば安心したように言った。


「こういう時の“よし”は、ちょっと頼もしいのがずるいっすね……」


誰も否定しなかった。

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