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見難い火傷の子  作者: 清風
493/596

マンティス公国編 夜明け前の小屋包囲と突入

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子493


マンティス公国編 夜明け前の小屋包囲と突入


再び山へ入る頃には、夜の底がわずかに薄まり始めていた。


まだ暗い。

だが、完全な闇ではない。

木々の輪郭がかすかに浮かび、尾根の向こうの空だけが、墨を水で薄めたように白み始めている。

夜明け前――人の目も心も、最も鈍りやすい刻限だった。


一行は二手に分かれて進んだ。


匠ーたち本隊は、トマの案内で旧道から小屋へ向かう。

猟師と若者二人は尾根側へ回り、逃げ道を押さえる。

村長ドゥガンと見回り組は後詰めとして旧道の分かれを固める。

声は使わない。

合図は石。

ひとつで停止、ふたつで注意、みっつで突入。


段取りは決まっていた。

あとは崩さずにやるだけだ。


ダンは足元の根を避けながら、小さくぼやく。


「こういう時に限って、段取りがしっかりしてるのが逆に怖いっす」

「しっかりしてる方が生き残る」 匠ーは前を向いたまま、それだけ言った。

「それは昨日も聞いたっす」

「大事なことなんでしょう」 セレネが静かに言った。

「現場用語はそういうものです」

「もう誰も止めないんすね……」


トマが手を上げ、一行を止めた。


前方、木々の隙間の先に、あの平場がある。

昨夜見つけた火の跡は、今は闇に沈んで見えない。

だが、焦げた匂いだけはまだ残っていた。


匠ーはしゃがみ込み、地面に触れる。

湿り気。

踏み跡。

新しい乱れはない。


何も言わず立ち上がり、小屋のある方角へ目を向ける。


灯りはない。

物音もない。

だが、それが無人を意味するとは限らない。


「尾根側は?」 ハナが低く言う。

「そろそろ着く頃ね」 マリーが周囲を見た。

「待つ?」 匠ーは短くうなずいた。

「珍しく慎重っす」

「そこ、今つつくと怒られるやつよ」

「もう怒られてる気がするっす」


しばらくして、遠く、斜面の上の方で小さく石の触れ合う音が二度した。


から、から。


注意。

配置完了の合図でもある。


匠ーは一度だけ視線を上げ、それから前へ出た。


一行は平場を抜け、昨夜と同じように木陰を伝って小屋へ近づいた。


粗末な隠れ家は、夜明け前の薄明かりの中で、昨夜よりもはっきり見えた。

枝葉を被せた屋根。

岩陰に寄せた壁。

外から見えにくいよう工夫されているが、急ごしらえなのは隠せない。

長く住むためのものではなく、何かを一時的に隠すための場所だ。


小屋の中から、かすかに声がした。


「……まだか」 女の声だ。

「もうすぐ明るくなる」 少年の声が返す。

「だから急ぐのよ」

「分かってる」

「本当に?」

「分かってるって!」


苛立ちの混じったやり取り。

昨夜より切迫している。


匠ーは地面の小石を拾い、指先で弾いた。


ひとつ。

停止。


全員が息を止める。


次いで、匠ーは小屋の裏手へ回るよう手で示した。

ハナとセレネが左へ。

マリーとダンが右へ。

匠ー自身は正面。

トマは一歩下がって待機する。


配置が整う。


小屋の中では、何かを引きずる音がしていた。

布の擦れる音。

低い呻き。

そして女の声。


「起きる前に済ませるの」

「でも、こいつ弱ってる」

「だからよ」

「死んだらどうする」

「死なせないためにやるの!」


その一言に、匠ーの目がわずかに細くなった。


死なせないために。

予想していた“食う”“殺す”とは、少し違う響きだった。


だが、だからといって見逃せる状況ではない。


匠ーは石を三つ、続けて鳴らした。


から、から、から。


突入。


次の瞬間、匠ーが戸代わりの板を蹴り開けた。


枝と布で塞いだ入口が内側へ弾け飛ぶ。

同時にハナとセレネが側面の隙間から踏み込み、マリーとダンが反対側を押さえた。


狭い。


中は想像以上に狭く、土床の上に藁と布が敷かれ、

隅に水桶と薬草束、干し肉の欠片、粗末な鍋がある。

そして中央には、布に包まれた男が横たわっていた。

顔色は悪いが、生きている。

その傍らに、昨夜の少年。

さらに奥に、痩せた女が立っていた。


女は三十代後半ほど。

頬はこけ、目の下に隈が濃い。

だがその目には、追い詰められた獣のような鋭さがあった。


その手に、短い刃が閃く。


次の瞬間には、もう遅かった。


匠ーが一歩で間合いを潰す。

女が刃を構えるより早く、手首が外へ払われた。

短刃が乾いた音を立てて土床へ落ちる。


返す手で肘を制され、女の身体が壁へ押し留められた。

喉元ではない。

肩と腕だけを封じる、逃がさぬための押さえ方だった。

荒々しくはない。

だが、びくともしない。


「母さん!」 少年が叫ぶ。


マリーがすぐに短刃を蹴って遠ざける。

同時にその指先に淡い火光が宿った。

小屋を焼かぬよう抑えた、ごく低い出力。

だが、次に誰かが不用意に動けば十分に止められると分かる光だった。


ダンは反射的に少年の前へ回り込んだが、どう動くべきか一瞬迷って目を白黒させた。


「待って!」 ハナが鋭く声を飛ばす。

「暴れないで。殺しに来たんじゃない」


女は息を荒げ、匠ーに押さえ込まれたまま睨み返した。


「離せ……!」

「その前に聞かせて」 ハナが言う。

「何をしていたの」


少年が横たわる男を庇うように前へ出る。


「来るな!」 声は震えていた。

敵意というより、怯えと焦りが勝っている。


その時、セレネの目が男の様子を捉えた。


「……待ってください」 彼女は即座に膝をつく。

「この人、熱があります」


小屋の空気が変わった。


セレネは男の額に手を当て、脈を取り、脇に置かれた濡れ布と鍋の中身へ視線を走らせる。


「高い……」 低く呟く。

「しかも下がり方が不自然です」


ハナもすぐ脇へ寄った。

掌に淡い治癒光が灯る。

男の胸元へかざすと、荒れていた呼吸がわずかに整った。


「熱が高い」 ハナが短く言う。

「まず呼吸を保つわ」


女の目が揺れた。


「近づくな……!」 かすれた声で言う。

「今、熱が下がりかけてるの。ここで動かしたら持たない」

「病人?」 マリーが眉をひそめる。

火光は消していない。

だが視線はもう女だけでなく、横たわる男にも向いていた。

「何の病です」 セレネが問う。

「分からない」 女は吐き捨てるように言った。

「高熱、痙攣、意識混濁。三日前から水もろくに飲めない」


ハナが男の姿を見た。


確かに、縛られてはいない。

布に包まれているのは拘束ではなく保温のために見える。

脇には濡らした布。

鍋には煎じた薬草。

血の匂いも、争った痕跡もない。


「それで山に隠してたの?」 ハナが低く問う。

「村へ連れて行けばよかったでしょう」

「連れて行けるならそうしてる!」 女の声が震えた。

「村じゃ“人食い盗賊団”の噂で、行き倒れも余所者も全部疑われる。

うちの子が見つけて運んできた時には、もう半分死にかけてたのよ!」


ダンがぽかんと口を開ける。


「……え?」

「攫ったんじゃないの?」 マリーが言う。

「違う!」 少年が叫ぶ。

「旧道の下で倒れてたんだ!放っておいたら死ぬと思って……!」


セレネが女を見上げる。


「刃物を持っていても、この人は助かりません」 静かな声だった。

「診せてください。今のままでは、朝までに間に合わない」


ハナの掌の光が、男の呼吸の乱れをわずかに抑えている。

だが、それだけで根本が解決する状態ではないことは、彼女の表情からも明らかだった。


「……分かるのか」 女が掠れた声で言う。

「ある程度は」 セレネが答える。

「助けられる?」

「診なければ断言できません」 ハナが男の容態を見たまま言った。

「でも、今よりはましにできる」


少年が女を見上げる。


「母さん……」


その一言で、状況がまた少し変わった。


ダンが小さく呟く。


「盗賊団じゃなくて、親子っすか……」

「まだ全部は分からないわ」 マリーが言う。

指先の火光を細く保ったまま、出口側を押さえている。

「でも、少なくとも想像とは違う」


女は目を閉じ、張り詰めていた力をわずかに失った。

それを感じ取って、匠ーが押さえを少しだけ緩める。

逃がすためではない。

抵抗の意思が薄れたと見て、必要以上の力を抜いただけだ。


「……逃げない」 女が掠れた声で言った。

「だから、その人を診て」


匠ーはそこで初めて手を離した。

だが半歩も退かない。

女が再び刃物へ伸びれば、次はもっと早く止める――そう分かる立ち位置だった。


セレネはすぐに男の容態の確認へ移り、ハナも治癒の光を保ったまま脇で支える。

マリーは火力を抑えたまま戸口と親子の両方を見張り、

ダンはようやく息をついてから水桶と布の位置を確かめた。


そこへ、外から短く石の触れ合う音が返ってきた。

後詰めが近い。


匠ーは無言で戸口へ向かい、外へ出る。

短く石を二つ鳴らした。


から、から。


注意。

確保済み、だが状況変化あり。


すぐに外から足音が近づく。

村長ドゥガンと、後詰めの者たちだ。


戸口に現れたドゥガンは、小屋の中を見て目を見開いた。


「……何だこれは」

「人食い盗賊団ではなさそうだ」 マリーが先に言った。

火光を消し、顎で親子と病人を示す。

「病人を隠している親子。盗みはしてる」

「は?」 ドゥガンの顔が固まる。

「どういうことだ」

「説明は後」 ハナが治癒の手を止めずに言う。

「まずこの人を落ち着かせる」


ドゥガンは女と少年を見た。

女もまた、村長を見返す。

その目には、諦めと怯えが入り混じっていた。


「……お前、エダか」 ドゥガンが低く言う。

「知ってるんすか?」 ダンが驚く。

「昔、この村にいた」 ドゥガンの声は重かった。

「五年前に、山向こうへ嫁いだ女だ」


小屋の中に、さらに深い沈黙が落ちた。


噂の正体は、まだ全部は見えていない。

だが少なくとも、“人食い盗賊団”という話は、ここで大きく形を変えた。


山にいたのは、怪物ではなかった。

追い詰められ、隠れ、盗み、そして誰かを助けようとしていた親子だった。


だが、それで全てが片付くわけでもない。


なぜ病人が旧道に倒れていたのか。

行方不明者三人との関係はあるのか。

そして、噂はどうしてここまで膨れ上がったのか。


夜明け前の小屋で、事件はようやく別の顔を見せ始めていた。

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