マンティス公国編 夜の旧道の調査
見難い火傷の子491
マンティス公国編 夜の旧道の調査
夜の山は、昼とは別の場所だった。
村を出た時にはまだ見えていた道の輪郭も、森へ入るにつれて闇に呑まれていく。
灯りは絞っている。
前を行くトマの持つ覆い付きの提灯が、足元をかろうじて照らすだけだ。
その淡い光の外では、木々も岩も、ただ黒い塊として沈んでいた。
風は冷たく、湿っている。
葉擦れの音は絶えず、時おりどこかで枝が軋む。
獣の気配なのか、ただの風なのか、それすら判然としない。
ダンが小声で言った。
「昼間に来るべきだったと思うっす」
「昼間じゃ見えないものもある」 匠ーが前を向いたまま答える。
「その理屈、毎回怖いっす」
「でも正しいわ」 ハナが周囲を見回しながら言った。
「夜に火を焚くなら、夜に来ないと分からない」
「分かりたくないものまで分かりそうっす」
「それも調査よ」 マリーが言う。
「調査の定義が広すぎるっす」
セレネは足元の土を見ていた。
「道そのものは、まだ使えなくはないですね」
「昔はこっちが本道だったんだ」 先頭のトマが振り返らずに言う。
「新道ができるまでは、荷も人もみんなここを通ってた」
「今は?」
「ほとんど誰も通らない。近道だけど、崩れやすいし、霧も出る。噂が立ってからはなおさらだ」
「だからこそ、隠れるには都合がいい」 匠ーが言った。
「……そうだな」 トマの声は硬かった。
旧道は、村の北端から森へ入り、山腹を巻くように続いていた。
道幅は狭く、ところどころ石垣が崩れ、片側はすぐ斜面になっている。
踏み固められていたはずの土も、今は落ち葉と湿気に覆われ、
長く人が通っていないことを物語っていた。
しばらく進んだところで、匠ーが足を止めた。
「待て」 一行が立ち止まる。
「何かあった?」 マリーが声を潜める。
「匂いだ」
「匂い?」 ダンが鼻をひくつかせる。
「……土と湿気と、あと何か焦げたような」
「焚き火の残りかもしれない」 ハナが言う。
「近い」 匠ーは短く言った。
トマが提灯の覆いをさらに絞る。
一行は足音を殺し、道の脇の木立へ寄るように進んだ。
やがて、旧道が少し開けた場所へ出る。
そこは斜面の途中にある小さな平場で、昔は荷の休憩所にでも使われていたのか、
崩れた石積みの跡が残っていた。
その中央に、黒く焼けた円がある。
「火の跡だ」 ハナがしゃがみ込む。
「新しい?」 セレネが問う。
「数日以内。雨を受けてるけど、灰がまだ流れきってない」
「本当にあったんすね……」 ダンが嫌そうに言う。
匠ーは周囲を見回した。
「他は」
「こっち」 ハナが地面を指した。
「踏み跡がある。二人……いや、三人以上。重さもばらばら」
「村人?」
「断定はできない。でも、山仕事の歩き方じゃないわね」
「どう違うんすか」
「山仕事の人は、もっと迷いがない。ここを使い慣れてる足運びになる」
「これは?」
「様子を見ながら歩いてる。止まったり、向きを変えたりしてる」
トマが息を呑んだ。
「やっぱり誰かいたんだ……」
「いたのは確かだ」 匠ーが言う。
「問題は何者かだ」
セレネが火の跡のそばにしゃがみ、灰の中を細い枝で探った。
「骨はありませんね」
「骨?」 ダンがびくりとする。
「いや、確認は必要でしょう」
「必要なのは分かるっすけど、さらっと言わないでほしいっす」
「獣骨も人骨もない」 セレネは冷静に言った。
「少なくとも、ここで何かを焼いて食べた痕跡は薄いです」
「“人食い”の噂とは合わないわね」 マリーが言う。
「むしろ、普通の野営に近い」
「でも、普通の野営なら隠れるように旧道で火なんか焚かない」 ハナが立ち上がる。
「見つかりたくないのか、見つけさせたいのか、どっちか分からない」
その時だった。
風とは違う音がした。
かすかな、何かを引きずるような音。
ざり……ざり……と、湿った土を擦るような音が、平場の先、さらに森の奥から聞こえてくる。
一行の空気が一瞬で張り詰めた。
トマの顔が青ざめる。
「これ……」
「静かに」 匠ーが手で制した。
音は止まらない。
ゆっくり、一定の間隔で近づいてくる。
ざり……ざり……ざり……。
ダンが喉を鳴らした。
「帰っていいっすか」
「だめ」 マリーが即答する。
「こういう時だけ返事が早いっす」
匠ーは腰を落とし、音のする方へ目を凝らした。
闇の中、木々の隙間に、何か白いものがちらつく。
布か。
皮か。
それとも――
次の瞬間、提灯の淡い光の端に、それは現れた。
人影だった。
背は高くない。
痩せている。
肩に何か大きなものを担ぎ、片足を引きずるように歩いている。
顔は布で覆われ、輪郭しか見えない。
だが、その姿は獣ではなく、明らかに人間のものだった。
トマが息を呑む。
「ひっ……」
人影が止まる。
こちらに気づいたのか、気づいていないのか。
闇の中で、ゆっくりと首だけが動いた。
匠ーが低く言う。
「灯りを伏せろ」
提灯の光がさらに落ちる。
平場はほとんど闇に沈んだ。
人影はしばらくその場に立ち尽くしていたが、
やがて肩の荷を少し持ち直し、森の奥へ向き直った。
ざり……ざり……という音が、再び遠ざかっていく。
「追う?」 ハナが囁く。
「追う」 匠ーは即答した。
「やっぱりっすか……」 ダンが顔を覆う。
トマが慌てて言う。
「ま、待ってくれ。あっちは旧道の外れだ。獣道しかない」
「案内できるか」
「……できる。でも」
「なら行く」
「でも!」
「今逃せば、次はない」 匠ーの声は低いが、迷いがなかった。
トマは唇を噛み、うなずいた。
「……分かった」
一行は火の跡を離れ、森の奥へ踏み込んだ。
そこから先は、もはや道ではなかった。
獣道とも呼べない細い踏み分け跡が、木々の間を縫って続いている。
枝が顔にかかり、湿った土が靴にまとわりつく。
斜面は急で、少し踏み外せば滑り落ちそうだった。
それでも、前方には確かに痕跡がある。
折れた枝。
擦れた苔。
重いものを引きずった跡。
「荷物、重そうだったわね」 マリーが囁く。
「人一人分くらいはありそうだった」 ハナが答える。
「やめてほしいっす、その言い方」 ダンが震え声で言う。
「まだ人とは限らない」 セレネが静かに言った。
「限らなくても嫌っす」
やがて、森が少しだけ開けた。
斜面の岩陰に、粗末な小屋があった。
いや、小屋というより、木と布と枝で急ごしらえした隠れ場だ。
外から見えにくいよう、周囲に切った枝葉が被せてある。
その前に、先ほどの人影が立っていた。
肩の荷を地面へ下ろす。
鈍い音がした。
一行は木陰に身を潜めたまま、息を殺す。
人影は布で覆った顔を外した。
月明かりがわずかに差し、その横顔を照らす。
「……子ども?」 マリーが目を見開く。
それは、まだ十代半ばほどの少年だった。
頬はこけ、髪は伸び放題で、服はぼろぼろ。
だが目だけは異様に鋭い。
肩で息をしながら、地面に下ろした“荷”を確かめている。
ダンが小さく言う。
「人食い盗賊団っていうか、盗賊団ですらなさそうっすけど……」
その“荷”が、かすかに動いた。
全員の背筋が凍る。
布の隙間から見えたのは、人の腕だった。
「生きてる」 ハナが囁く。
「攫ったの?」 マリーが言う。
「まだ断定は早い」 セレネが答える。
「でも、少なくとも人を運んでいる」
匠ーはじっと様子を見ていた。
少年は周囲を警戒しながら、小屋の中へその人物を引きずり込もうとしている。
動きは荒いが、乱暴一辺倒ではない。
どこか焦っているようにも見えた。
「どうするっすか」 ダンが囁く。
「今なら取り押さえられるっす」
「待て」 匠ーが言う。
「まだ見る」
「まだ見るんすか」
「一人とは限らん」
「それはそうっすけど」
その時、小屋の中から別の声がした。
「……遅い」
低い、かすれた女の声だった。
少年がびくりと肩を震わせる。
「見られてない」
「本当でしょうね」
「火は消した」
「荷は」
「持ってきた」
「生きてる?」
「たぶん」
一行は顔を見合わせた。
小屋の中には、まだ誰かいる。
しかも、今のやり取りは明らかにおかしい。
“荷”として人を運び、“生きてるか”を確認している。
まともな状況ではない。
ダンの顔が引きつる。
「だいぶ嫌な方向に具体化してきたっす……」
匠ーの目が細くなる。
噂は噂のままではなかった。
少なくとも、この山中に人を隠して運ぶ者たちがいる。
それが人食い盗賊団なのか、別の何かなのかはまだ分からない。
だが、村を蝕んでいる異常の一端であることだけは、もう疑いようがなかった。
夜の山は静かだった。
静かすぎるほどに。
その静けさの中で、小屋の奥から、もう一度、女の声がした。
「中へ入れなさい。朝までに間に合わせる」
その一言に、匠ーはわずかに眉を動かした。
朝までに。
何に、間に合わせるのか。
その答えは、まだ闇の中にあった。




