マンティス公国編 導入(人食い盗賊団の噂)
見難い火傷の子488
マンティス公国編 導入(人食い盗賊団の噂)
その噂は、最初から妙だった。
マンティス公国へ向かう街道筋。
峠下の宿場町で、匠ー一行は昼の休憩を取っていた。
荷馬車の車輪は泥を噛み、旅人たちは皆、山向こうの空模様を気にしている。
そんな中、酒場の隅でひそひそと交わされていた話が、ダンの耳に入った。
「……また出たらしいぞ」
「今度は南の外れの村だと」
「家畜だけじゃない、人も消えたって話だ」
「盗賊団だろ」
「いや、ただの盗賊じゃない。食うんだと」
「やめろ、昼間から縁起でもない」
ダンは持っていた串焼きを止めた。
「……今、なんて言ったっすか」
話していた荷運び人たちが、ぎくりとしてこちらを見る。
そのうちの一人、日に焼けた男が、声を潜めた。
「聞かない方がいい」
「いや、聞いた方が気になるっす」
「マンティス公国の山側でな……人食い盗賊団が出るって噂だ」
「人食い?」 マリーが眉をひそめる。
「そんな話、まともに信じてるの?」
「信じたいわけじゃねえよ」 男は苦い顔をした。
「だが、村が襲われたって話は何度も流れてくる。家が荒らされ、家畜が消え、人もいなくなる」
「それで“食われた”と?」 セレネが静かに問う。
「そう言う者がいる」
「見た者は?」
「……いない」
「生き残りは?」
「……はっきりしたのは、いない」
ハナが腕を組んだ。
「変ね。襲われた村人がいるなら証言があるはず。
食べられたなら本人は訴えられない。逃げた人がいるなら、もっと具体的な話になる」
「だから噂なんだよ」 別の旅人が口を挟む。
「誰も見てない。誰も確かめてない。けど、何度も同じ話だけが流れてくる」
「しかも内容が派手すぎるっすね」 ダンが言う。
「“盗賊”だけならまだしも、“人食い”までつくと、一気に話が出来すぎるっす」
匠ーは黙って茶を飲んでいた。
その横顔を見て、ダンが嫌な予感を覚える。
「……ご隠居」
「うむ、まだ隠居はしていない」
「今の顔、絶対行く顔っすよね」
「うむ」
「やっぱりっすか」
匠ーは湯呑みを置いた。
「噂は、放っておくと道を塞ぐ」
「道?」 マリーが聞き返す。
「人食い盗賊団なんて話が広まれば、誰も山道を通らなくなる。
荷は止まり、村は孤立し、街道は死ぬ」
「つまり、ただの怪談じゃ済まないってことね」
「そういうことだ」 セレネがうなずく。
「真実であれ虚偽であれ、流通を止める噂はそれ自体で被害です」
ダンは顔をしかめた。
「いや、そこはまず“人食いが本当なら危ない”を優先してほしいっす」
「もちろん危ない」 ハナが言う。
「でも、危ない話ほど、誰かが利用している可能性もある」
「利用?」
「村を脅して追い出したい者。街道を避けさせたい者。
山越えの流れを別の道へ誘導したい者。あるいは、本当に何かを隠したい者」
「……あー」 ダンは頭を抱えた。
「出たっす。面倒なやつっす」
匠ーは立ち上がった。
「マンティス公国へ向かう」
「即決っすか」
「噂の真相を確かめる」
「やっぱりっすか」
「ついでに街道の状態も見る」
「ついでがでかいっす」
マリーが小さく笑う。
「でも、ちょうどいいんじゃない?次に入る国としても自然だし」
「自然に人食い盗賊団の噂がある国へ入るの、だいぶ嫌なんすけど」
「山国なら流言も出やすい」 セレネが言う。
「峠、霧、閉鎖的な村、行方不明者、荷の消失。条件はそろっています」
「条件そろってほしくないっす」
その時、宿の女将がそっと近づいてきた。
年配の、小柄な女だった。
だが目は鋭い。
「あんたたち、山向こうへ行くのかい」
「ええ」 マリーが答える。
「マンティス公国へ」
「なら気をつけな」 女将は声を落とした。
「噂は噂だよ。けどね、噂だけで終わらないこともある」
「何か知っているのですか」 セレネが問う。
「知ってるってほどじゃないさ。ただ……このひと月で、山向こうから来る荷が減った。
来ても妙に急いでる。泊まりたがらない。夜道を避ける。
口の軽い連中ですら、あまり喋らない」
「それは確かに妙ね」 ハナが言う。
「だろう?」 女将はうなずいた。
「作り話なら、もっと面白おかしく喋るもんだ。
けど今のは違う。喋りたくないのに、噂だけが先に走ってる」
「……嫌な感じっす」 ダンがぼそりと言う。
「一番嫌な種類のやつっす」
匠ーは女将に一礼した。
「忠告、感謝する」
「礼なんていいよ」 女将は肩をすくめた。
「ただ、もし本当に何かあるなら、山向こうの村は助けてやっておくれ。
あそこは街道が命なんだ」
外へ出ると、空は薄く曇っていた。
北から吹く風が、山の匂いを運んでくる。
湿った土、針葉樹、遠い雨。
マンティス公国の山並みは、街道の先で鈍く青黒く連なっていた。
荷車の点検をしながら、ダンが言う。
「で、親方。今回の見立てはどうなんすか」
「まだ分からん」
「本当に人食い盗賊団がいると思うっすか」
「噂は大きすぎる」
「じゃあ嘘っすか」
「それもまだ分からん」
「どっちなんすか」
「分からんから行く」
ダンは深々とため息をついた。
「毎回それっす」
「だが、ひとつだけ言える」 匠ーは山の方を見た。
「食われた者は訴えない。だからこそ、誰かが代わりに真相を確かめねばならん」
「決め台詞みたいに言ってる場合じゃないっすよ」
「少なくとも」 セレネが続ける。
「この噂は、自然発生にしては整いすぎています。
“恐ろしい”“人食い”“村を襲う”――人を遠ざけるには、あまりに都合がいい」
「つまり誰かが盛ってる可能性が高い」 ハナが言う。
「でも、元になった事件自体はあるかもしれない」
「そこが嫌なんすよねえ……」 ダンは荷台に腰を下ろした。
「完全なデマならまだいいっす。でも、半分本当が一番怖いっす」
マリーが地図を広げる。
「マンティス公国へ入るなら、まずは南西の峠道ね。最初の大きな村は……」
「刃鎌の砦の手前にある宿場村だ」 匠ーが指で示す。
「そこを拠点に聞き込みをする」
「また聞き込みからっすか」
「基本だ」
「地味っす」
「地味な方が生き残る」
「それはそうっすけど」
ハナがふと地図の端を叩いた。
「見て。ここ、街道が細くなってる」
「山腹を回る旧道ですね」 セレネが言う。
「新道の整備が止まっている」
「止まってる理由が噂のせいなら、なおさら放置できないわね」 マリーが言う。
「また始まったっす」 ダンが空を仰ぐ。
「事件の真相を追うはずが、いつの間にか街道整備の話になってるっす」
「街道が死ねば村も死ぬ」 匠ーは当然のように言った。
「だから同じことだ」
「同じかなあ!?」
一行は荷をまとめ、馬を引き、山道へ向けて歩き出した。
背後では宿場町の喧騒がまだ聞こえていたが、前方の道は次第に静かになっていく。
石畳は土道へ変わり、道幅は狭まり、左右の木々は高くなる。
風が枝を鳴らし、遠くで鳥が一声だけ鳴いた。
人食い盗賊団。
あまりにも馬鹿げた噂。
だが、馬鹿げているからこそ、人は恐れる。
恐れれば道を避ける。
道を避ければ、山の向こうは閉ざされる。
その閉ざされた先に、何があるのか。
ただの流言か。
盗賊か。
もっと別の何かか。
ダンは荷車を押しながら、ぼそりとつぶやいた。
「頼むから、今回は本当に“噂だけ”であってほしいっす……」
だが山は何も答えなかった。
ただ深く、暗く、マンティス公国への道を飲み込むように続いている。
その先に待つものが、ただの流言か、盗賊か、それとももっと別の何かか。
それを確かめるために、一行は山へ入っていった。




