マケドニア禍 第一話 侵攻路にバビロニアあり
見難い火傷の子473
マケドニア禍 第一話 侵攻路にバビロニアあり
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
最初に異変を持ち帰ったのは、国境警備隊でも、ギルドの伝令でもなかった。
爆炎ハウス上空をかすめるように降下してきた、一頭のワイバーンだった。
夕方の光がまだ前庭兼発着場の石畳を温めている。
風向き旗が一度大きくはためき、着陸目印の白線を横切って、黒い影が滑り込んだ。
着地は荒い。普段なら最後の一歩まで制御する個体が、石畳を爪で削るようにして止まった。
見張りに出ていたキールが眉をひそめる。
「早いな」
予定帰投時刻より、まだだいぶ前だ。
ワイバーンは返事の代わりに喉を鳴らし、その場で姿勢を崩した。
鱗の輪郭が揺らぎ、骨格が軋み、翼膜が縮む。
数秒のうちに巨体はほどけるように収束し、石畳の上には、
黒装束の少年めいた人影が片膝をついていた。
空忍ワイバーン群――通称、ワイバーン隊。
爆炎パーティとの反復戦闘、ニールの忍術訓練、ポンの幻術訓練を経て、
人化魔法を実戦運用できるまでに進化した《爆炎》の情報資産である。
人影は息を整える間も惜しんで顔を上げた。
「影、帰投」
短く名乗る。
個体名だ。
その声を聞きつけて、玄関からノクスが出てくる。
後ろにはセドリック、さらに少し遅れて匠一が現れた。
外見だけ見れば五歳児のはずのその顔は、すでに遊びの時間のものではなかった。
「報告」
匠一が言う。
影は即座に答えた。
「前哨線が消えています」
前庭の空気が変わった。
キールが一瞬だけ目を細める。
ノクスは無言のまま一歩前に出た。
セドリックはすでに記録板を開いている。
匠一だけが、表情を変えなかった。
「応答なし、ではありません」
影は続けた。
「消えています。監視塔二基、焼失確認。街道上に放棄車列多数。
退避民流入あり。宿場一つ、半壊。煙はまだ新しい」
「敵影は」
ノクスが問う。
「騎兵先遣。数は断定しきれません。ただし速い。想定より二日早い」
影は一度だけ息を継いだ。
「上空から焼失線を確認後、人化して地上確認に移行。
轍の深さ、蹄痕、踏み荒らしの幅から見て、先遣だけではありません。
後続も重いです」
セドリックの記録板に、乾いた音が続く。
「証言は」
「退避民三、商人一、宿場の下働き一。全員、口を揃えて“速すぎる”と」
影は低く言った。
「追い立てるように来る、と」
その時点で、まだ誰も“マケドニア”とは言っていなかった。
だが、匠一はすでに違うところを見ていた。
「地図」
その一言で、セドリックが記録板の横に簡易投影を展開する。
周辺街道、前哨線、宿場、河川、補給路。
ノクスが二本の補助線を引き、影が焼失地点を指で示した。
「ここ」
「ここも」
「退避民は南東へ流れていました」
「騎兵の砂煙はこの尾根線の向こうです」
情報が点で置かれていく。
匠一は黙って見ていた。
五歳の背丈では地図台の縁が高い。
だが誰も、その視線の低さを幼さとは受け取らない。
ノクスが静かに言う。
「進路予測、三本」
セドリックが補足する。
「西寄りは薄いです。焼失線が偏っています。中央突破か、南東寄り」
影がうなずいた。
「南東寄りです。宿場で拾った兵の会話でも、水場と平地を切らしていない」
匠一の指が、地図の上を滑った。
前哨線。
街道。
宿場。
河川。
補給可能域。
騎兵の速度。
退避民の流れ。
そして、その先。
指先が止まる。
「……バビロニア」
誰かが息を呑んだ。
キールだったか、セドリックだったか、自分でもわからないほど小さな音だった。
匠一は顔を上げないまま言った。
「侵攻路にバビロニアがある」
それは感想ではなかった。
判断だった。
ノクスが即座に問い返す。
「通過目標ですか。占領目標ですか」
「どっちでも同じだ」
匠一は言った。
「踏まれる」
短い言葉だった。
だが、その一言で、この件が“遠くの戦”ではなくなった。
バビロニアは地名であると同時に、接続点だ。
物流、補給、移送、退避、再展開。
そのどれを取っても、踏み荒らされていい場所ではない。
通されるだけで損害が出る。
占領されればなお悪い。
焼かれれば、後で取り返しても遅い。
匠一はようやく顔を上げた。
「オートメガネウラ隊を上げろ」
ノクスが一礼する。
「了解」
「広域監視。先遣の幅、本隊の厚み、補給線の伸び方を取る。
境界哨戒を倍化。伝令個体は分離運用」
匠一の声は平坦だった。
「ワイバーン隊は二系統。潜入継続と帰投報告を分ける。
人化維持は無理するな。落ちたら意味がない」
影が短くうなずく。
「了解」
「ノクス隊は情報整理。街道、河川、宿場、補給可能域を重ねろ。
最短じゃなく、通れる道を出せ」
「承知しました」
「キール」
「いる」
「見張りを増やせ。前庭を空ける。《ソラ》を上げる準備だ」
その言葉に、ようやく事の重さが形を持った。
《ソラ》を上げる。
それは《爆炎》が、日常の延長ではなく、組織として動くという意味だ。
キールが口笛も吹かずに駆け出す。
セドリックはすでに館内通信へ接続していた。
ノクスは踵を返し、発着場側の整備系統へ指示を飛ばす。
前庭の空気が一気に変わる。
さっきまで夕食前の静けさを残していた爆炎ハウスが、数秒で本部の顔になる。
玄関の奥から、ぱたぱたと軽い足音がした。
「何かあったの?」
みいが顔を出しかけ、すぐにマザーに抱き上げられる。
マザーは状況を一目で読み取り、何も聞かずに子どもを奥へ下がらせた。
その判断の速さに、匠一は一瞬だけ視線を向ける。
それだけで十分だった。
「ダンたちを集める」
匠一は言った。
「会議室。十分」
セドリックが確認する。
「全員招集ですか」
「爆炎パーティ全員。教師陣もだ」
匠一は地図から目を離さない。
「これは介入じゃない」
誰も口を挟まなかった。
次の言葉が何になるか、全員わかっていたからだ。
「生存戦略だ」
その瞬間、爆炎ハウスの空気が完全に切り替わった。
遠くで、甲高い羽音がいくつも重なる。
オートメガネウラ隊が上がったのだ。
窓の外、夕焼けの空へ、細い影が散っていく。
群れではなく、網として。
空の監視網が展開される。
影はまだ片膝をついたままだった。
長時間の人化で顔色が少し悪い。
匠一はそちらを見て、短く言う。
「よく持ち帰った」
それは労いであり、次の命令でもあった。
影は口元だけで笑った。
「まだ持ち帰れます」
「なら食って、落ちる前にもう一回飛べ」
「はい」
ワイバーン隊らしい返答だった。
ノクスが館内へ戻る直前、低く報告する。
「《ソラ》、発着準備に入ります。前庭クリアまで七分」
「研究棟は」
「封鎖解除確認中。試験区画は待機状態へ移行可能です」
匠一は一度だけ目を閉じた。
研究棟。
試験区画。
そこまで視野に入れる時点で、もうこれは小競り合いではない。
地図の上で、南東へ伸びる線がやけに細く見えた。
細いのに、切れない。
切れないまま、バビロニアへ届く。
「……速いな」
誰にともなく、匠一が言う。
影が答えた。
「はい。速いです」
その速さを、国もギルドもまだ正式には掴んでいない。
だが《爆炎》は掴んだ。
ワイバーン隊が見つけ、オートメガネウラ隊が広げ、ノクス隊が並べ、匠一がつないだ。
だから、まだ間に合う。
間に合ううちに、動く。
会議室へ向かう前に、匠一はもう一度だけ地図を見た。
前哨線の焼失。
退避民の流れ。
騎兵の速度。
補給線の伸び。
そして、その先にある名前。
バビロニア。
守るべきものが進路上にあるなら、答えは一つしかない。
爆炎ハウスの鐘が鳴った。
緊急招集の合図だった。
こうして《爆炎》は、まだ誰もその名で呼んでいない災厄に対して、最初の一手を打った。
後にマケドニア禍と呼ばれることになるその侵攻に対し、
防衛戦はこの時点で、すでに始まっていた。




