ローマとカルタゴ第1話:オケアヌス線に戦争の影が差す
見難い火傷の子470
ローマとカルタゴ第1話:オケアヌス線に戦争の影が差す
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
オケアヌス線の朝は、いつも通り定刻で始まるはずだった。
港湾駅には夜明け前から貨物が集まり、積替場では荷役員が声を飛ばし、
旅客ホームでは長距離便を待つ客が列を作る。
海を渡る便、内陸へ向かう便、海底駅を経由する便。
そのどれもが、時刻表の上では寸分の狂いなく並んでいた。
だがその朝、現場の空気は少しだけ違っていた。
予約外貨物の差し込み。
軍需品らしき封緘箱の増加。
港湾側からの優先積載要請。
そして、海域情勢不安につき一部便の警戒強化を求める通達。
まだ何も起きていない。
だが、何かが起きる前の匂いだけは、もう十分にあった。
「また優先ですか」
港湾駅助役は帳票を見ながら眉をひそめた。
今朝だけで三件目だった。
しかも今度はカルタゴ商館名義。
前の二件はローマ側の商会を通していた。
どちらも表向きは工業資材、農具、保存食。
だが封緘の仕方も、護衛の付き方も、どう見ても平時の商貨ではない。
「優先枠はもう埋まっています」
「そこを何とか」
「何とかすると定期便が遅れます」
「一刻を争う」
「こちらも毎日争っています。時刻表と」
相手は苦い顔をしたが、助役は譲らなかった。
ここで一件通せば、次も来る。
次を通せば、その次も来る。
そうして気づけば、定期便は後ろへ押しやられ、旅客も民需貨物もまとめて遅れる。
現場にとって一番困るのは、例外が例外でなくなることだった。
積替場の奥では、荷役主任が別の帳票を片手に怒鳴っていた。
「そっちの箱は三番線じゃない、五番線だ!」
「でも港湾側が優先で――」
「優先でも順番はある! 勝手に差し込むな!」
怒鳴り声の向こうに、妙に護衛の多い貨車列が見えた。
封緘箱が並び、見張りの兵が周囲をうろついている。
商貨の顔をしてはいるが、空気が違う。
荷役員たちも口には出さないものの、ちらちらとそちらを見ていた。
昼前になると、海底駅保守区画から追加報告が上がった。
周辺海域における所属不明船の活動増加。
潜航保守班の行動時間短縮要請。
外殻点検の一部延期。
海底回廊周辺の警戒強化。
報告書を読んだ保守主任は、露骨に嫌そうな顔をした。
「やめてくれよ……」
「何かあったんですか」若い保守員が尋ねる。
「何か起きる前だから嫌なんだ」
主任は紙束を机に置いた。
「海底駅ってのはな、止めていい設備じゃない。
止めるなら止めるで、止めるための段取りがいる。
外から勝手に海を騒がせるのが一番困る」
その言い方は、戦争を恐れているというより、
無計画な工事差し込みを嫌がる職人のそれに近かった。
実際、保守班にとってはその方が実感に近い。
海底駅は浪漫で動いているわけではない。
耐圧殻、回廊、隔壁、照明、排水、換気、観測窓、保守通路。
そのすべてが、定められた手順と時刻の上で維持されている。
外の海が騒がしくなるだけで、その手順は簡単に狂う。
午後、ダンは報告書の束を抱えて匠一の執務室へ入った。
「……というわけで、両方とも妙にせっついてきてます」
机の上に並べられたのは、港湾積替、臨時貨物、海域警戒、保守延期の報告書だった。
紙の種類は違っても、書いてあることはだいたい同じだった。
平時の顔をしたまま、戦争の準備だけが先に流れ込んできている。
匠一は一枚ずつ目を通した。
表情はほとんど変わらない。
だが、ページをめくる手が少しだけ早い。
「ローマ側の増発要請は」
「三件」
「カルタゴ側は」
「四件。うち二件は港湾優先枠を要求してます」
「海底駅周辺は」
「警備強化要請が来てます。保守班は嫌がってますね。そりゃそうですけど」
匠一は短く息を吐いた。
「……主にオケアヌス線が乱れるな」
ダンは一瞬だけ黙った。
たぶんそこから入るだろうとは思っていたが、やはりそこから入った。
「いや、まあ、はい。主にっていうか、かなり」
「まだ開戦前だ」
「ですね」
「それでこの状態なら、始まればもっと悪くなる」
匠一は報告書を置いた。
「港湾が詰まる。積替が遅れる。
軍需が優先を要求する。
そのあと難民輸送が入る」
「嫌な未来予想図だ……」
「海底駅周辺の警戒が増えれば、保守の手間も増える」
「はい」
「よくない」
短い一言だった。
だがダンは、その“よくない”がかなり深刻な部類に入ることを知っていた。
午後の遅い時間、匠一はオケアヌス線の港湾駅へ出た。
視察というほど大げさなものではない。
ただ現場を見に来ただけだ。
だが彼が来ると知った時点で、助役も荷役主任も背筋を伸ばした。
ホームの先には、積み込み待ちの貨車が並んでいる。
その一角だけ、妙に護衛の多い封緘貨物が固まっていた。
「これか」
「はい。表向きは保存食と金属材です」
「表向きは、か」
「ええ」
匠一は貨車の並びを見た。
その視線は荷そのものより、どこに差し込まれ、何を遅らせるかを見ているようだった。
「これを入れると、後ろが詰まるな」
「定期便を一つ遅らせれば入ります」
「遅らせるな」
「ですよね」
助役は即答した。
その一言だけで、現場の空気が少しだけ軽くなる。
誰かが上から「仕方ない」と言えば、現場はその仕方ないを飲み込まされる。
だが匠一は、少なくとも簡単にはそう言わない。
積替場の奥では、荷役員たちが忙しく動き回っていた。
旅客ホームには家族連れもいる。
商人も、研究者も、職人も、ただ移動するだけの客もいる。
その流れの中へ、戦争の準備だけが先に割り込もうとしていた。
続いて上がってきたのは、海底駅保守班からの追加意見書だった。
文面は丁寧だったが、内容はほとんど悲鳴に近い。
周辺海域の不安定化は、潜航点検の安全率を下げる。
警戒船の増加は保守動線を圧迫する。
万一、海峡封鎖や艦隊行動が始まれば、海底回廊の定時保守に支障が出る。
海底駅は代替の利きにくい基幹設備であり、平時運用の維持が最優先されるべきである――
匠一はそこだけ、少し長く読んだ。
「……海底駅の近海でやる気か」
「噂の段階ですけどね」
「噂で済めばいい」
「済まなかったら?」
「止める」
ダンは目を瞬いた。
匠一の声は低く、平坦だった。
だがその平坦さが、かえって本気に聞こえた。
海底駅は、ただの駅ではない。
海峡を貫く海底回廊の中核であり、オケアヌス線全体の流れを支える要だ。
建設にも維持にも莫大な手間がかかる。
保守班は命綱をつけて潜り、定められた時刻に定められた点検をこなしている。
その近海で艦隊を動かされれば、迷惑では済まない。
夕方になっても、オケアヌス線はまだ定刻で走っていた。
海底駅を抜ける便も、港湾を発つ貨物便も、帳面の上では何一つ乱れていない。
遅延もない。
発着記録はきれいなままだ。
だからこそ、現場の誰もが知っていた。
時刻表は、乱れてから直すものではない。
乱れる前に守るものだ。
執務室へ戻った匠一は、机の上に積まれた報告書を見下ろした。
ローマ。
カルタゴ。
どちらもまだ正式には何も始めていない。
だが現場には、もう十分すぎるほど影が差している。
「バビロンに通達を出す」
ダンが顔を上げた。
「両方にですか」
「両方だ」
「内容は」
匠一は少しだけ考え、いつもの調子で答えた。
「まずは確認だ。
オケアヌス線と海底駅周辺を巻き込むつもりがあるのか、ないのか」
「もし、あるって言ったら?」
「その前に止める」
窓の外では、最終便の汽笛が遠く鳴った。
その音はいつも通りで、だからこそ静かに響いた。
戦争はまだ始まっていない。
だが、止めるなら今だった。




