寒いところから始めよう
見難い火傷の子458
寒いところから始めよう
深淵ダンジョン第十五エリア/第四紀更新世層
氷河の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
転移を抜けた瞬間、レイラが息を呑んだ。
「寒っ……!」
声に出した途端、吐いた息が白く散った。
白い、などという生易しいものではない。
肺に入った空気が冷たいを通り越して痛い。
頬に触れる風は細い針のようで、露出している部分から容赦なく体温を奪っていく。
オートメガネウラには防寒装備がある。
防風膜、簡易保温結界、操縦席周辺の局所加温。
匠一が用意した装備は、こういう環境を想定していないわけではない。
実際、それがなければ転移直後に二人そろって悲鳴を上げていたはずだ。
だが、装備があることと、寒くないことは別だった。
「これは……」
カナタが短く息を吐く。
その息もすぐ白く砕けた。
「想定以上です」
「想定が甘かったんじゃない?」
レイラは肩をすくめようとして、すぐにやめた。
肩をすくめる余裕すら寒さに持っていかれる。
「寒いっていうか、痛いんだけど」
「同感です」
認めるのが早かった。
カナタがここまで即座に認めるなら、本当に厳しいのだろう。
二人はオートメガネウラの上で周囲を見回した。
白。
まず白かった。
地面は雪と氷に覆われ、遠くには灰色がかった氷壁が連なっている。
風が吹くたび、乾いた雪が地を這うように流れた。
空気は澄んでいるのに、景色はどこか閉ざされて見える。
生き物の気配が薄いわけではない。
むしろ、いる。
いるのだが、この寒さの中で動いているものすべてが、
自分たちとは別の理屈で生きているように思えた。
遠くで、何か巨大なものが動いた。
レイラが目を細める。
「……あれ、マンモスですか」
「たぶん」
カナタも視線を向ける。
「大きいですね」
「この距離で大きいって分かるの、嫌なんだけど」
嫌な感想だったが、正しかった。
雪原の向こうをゆっくり移動する影は、遠目にもはっきり巨大だった。
第十五エリア第四紀更新世層。
生物すべてが八倍。
教則本の補足欄にあったその一文を、二人は今さらのように思い出した。
「匠一さん、こういう大事なことはもっと大きく書いてほしいんですが」
レイラが言う。
「書いてはありました」
カナタが淡々と返す。
「小さかった」
「それはそうです」
風が吹いた。
今度はさっきより強かった。
オートメガネウラの防風膜が薄く震え、レイラが思わず身を縮める。
「これ、本当に防寒装備ついてるんだよね?」
「ついています」
「ついててこれ?」
「ついていなければ、もっとひどいです」
それはたぶん事実だった。
事実だったが、慰めにはならない。
カナタは教則本を取り出し、風に飛ばされないよう押さえながらページをめくった。
余白に、匠一の字で短く書き込みがある。
『寒さを甘く見るな』
レイラがそれを見て、半目になった。
「今さら実感したくなかった注意書きですね……」
「実感は大事です」
「今いらない実感もあるよ」
さらにページをめくる。
第十五エリア通過時の注意。
そこには簡潔に、必要なことだけが書かれていた。
停止時間を短くしろ
風を甘く見るな
地表に長く立つな
凍結した足場で転ぶな
寒さで判断を鈍らせるな
「全部、今の私たちに言ってる気がする」
レイラが言った。
「実際そうでしょう」
「優しくないなあ……」
「匠一さんの資料ですから」
それで説明がついてしまうのが困るところだった。
レイラは手袋越しに指を動かした。
まだ感覚はある。
だが、じっとしていればすぐ鈍りそうだった。
「とりあえず、止まってるとまずいね」
「はい。移動しながら受付地点を探しましょう」
オートメガネウラの魔力駆動は安定している。
防寒装備も、機体の巡航中の方がまだ効きがいい。
止まって風に晒されるより、飛んでいた方がましだ。
それはつまり、この世界では「寒いから少し休もう」が通じにくいということでもあった。
レイラが小さく息を吐く。
白い。
何もかも白い。
「第十五エリアって、通過点の顔してるけど普通に難所じゃない?」
「普通に難所です」
カナタは即答した。
「第十六エリアの感覚で来ていい場所ではありません」
「ですよねえ……」
その時だった。
雪原の向こうで、また別の影が動いた。
今度はさっきのマンモスより低い。
だが動きが速い。
カナタの目が細くなる。
「……あれは」
「何?」
「たぶん、走る側です」
「情報が雑」
「止まって確認したくありません」
それも正しかった。
この寒さの中で悠長に観察していたくはない。
しかも第十五エリアの生物は、だいたい大きくて、だいたい強い。
そのうえ速い可能性まである。
ろくでもなかった。
レイラは襟元を押さえながら、前を見た。
白い雪原の先に、洞窟の黒い口のような影が見える。
あれがたぶん、ハビリス洞窟の入口だ。
「見えた」
「見えましたね」
「早く行こう。寒い」
「同意します」
オートメガネウラが雪原の上を滑るように進む。
防風膜の向こうで風が鳴り、機体の縁に細かな霜が張っていく。
防寒装備は確かに優秀だった。
優秀だったが、この第四紀更新世層の寒さは、
そんなことでどうにかなる程度のものではなかった。
深淵ダンジョン第十五エリア。
第四紀更新世層。
氷河の時代。
長旅の途中で立ち寄るには、あまりにも冷たすぎる世界だった。




