またしてもカナタ&レイラ
見難い火傷の子457
またしてもカナタ&レイラ
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
バビロニアへ帰還した翌日、カナタとレイラは揃って呼び出された。
呼び出した相手は匠一である。
嫌な予感しかしなかった。
「失礼します」
「しまーす……」
返事の温度差はいつものことだった。
部屋に入ると、匠一は机に向かったまま、こちらを見もしない。
その机の上に、薄い冊子が二冊置かれていた。
カナタは一歩近づき、表紙を見た。
『メガネウラ飛行観察教則本』
嫌な予感が、少しだけ輪郭を持った。
「これを」
カナタが口を開く。
「読んで、いってこい」
匠一はそれだけ言った。
レイラが固まる。
「……どこへですか?」
「石炭紀」
即答だった。
迷いが一切なかった。
カナタとレイラは無言で顔を見合わせた。
見合わせたところで、答えが変わる気はしなかった。
カナタは教則本を開いた。
最初の数ページには、飛行観察時の注意事項、観察対象の見分け方、
追走時の禁止事項などが簡潔にまとめられている。
字は読みやすい。
内容も分かりやすい。
分かりやすいが、だからこそ嫌な予感が強くなる。
そして数ページめくったところで、カナタの手が止まった。
「……地図があります」
「あるな」
匠一は平然としていた。
そこには石炭紀エリアまでの簡易的な道順が、必要最低限の線と印だけで記されていた。
目印、分岐、危険域、休憩可能地点。
簡潔だが、実用性だけはやたら高い。
レイラも横から覗き込み、しばらく黙った。
それから、たいへん嫌そうな顔で言った。
「これ、自分たちだけで行ってこいって意味ですよね……?」
「そうだ」
やはり即答だった。
だが二人が黙ったのは、同行者がいないからだけではない。
地図に記されていた行き先が、あまりにも遠かったからだ。
深淵ダンジョン第十六エリア第四紀完新世層。
そこが、今の自分たちの生活圏だ。
そこから第十五エリア第四紀更新世層。
第十四エリア新第三紀エリア。
第十三エリア古第三紀エリア。
第十二エリア白亜紀エリア。
第十一エリアジュラ紀エリア。
第十エリア三畳紀エリア。
第九エリアペルム紀エリア。
そして第八エリア石炭紀エリア。
文字にして並べるだけで気が遠くなる。
深淵ダンジョン住人にとって、層を超えるというのは簡単な話ではない。
景色が変わるだけではない。
空気が変わり、生き物が変わり、危険が変わり、そこで通じる常識まで変わる。
一つ越えるだけでも大事だ。
それをいくつもまたぎ、時代相まで大きく異なる領域へ向かうとなれば、
もはや長旅どころか遠征だった。
「……訓練用の移動距離ではありません」
カナタが静かに言う。
「“いってこい”で済ませる距離じゃないんですよね……」
レイラも続けた。
「だから地図を付けた」
匠一は言った。
理屈としては通っていた。
通っているのが困る。
「護衛は」
と、カナタ。
「必要なら自分で判断しろ」
「同行者は」
「いない」
「現地案内は」
「地図がある」
「雑では?」
レイラが言う。
「必要なものは渡した」
ぐうの音も出ない返答だった。
実際、必要なものはたぶん渡されている。
渡されているのだが、だからといって納得できるかは別問題だった。
レイラが教則本をぱらぱらとめくる。
項目が並んでいた。
第一項 石炭紀エリアまでの道順
第二項 観察対象の見分け方
第三項 飛行観察時の注意
第四項 追走してはいけない状況
第五項 追走してもよい状況
第六項 無理だと思ったら諦めること
「最後だけ妙に現実的ですね……」
「大事だからな」
匠一は言った。
カナタは教則本を閉じた。
嫌な予感は、もう予感ではなかった。
完全に予定である。
「目的は、観察ですか」
「観察と訓練だ」
匠一はようやく二人を見た。
「オートメガネウラは悪くない。だが飛ばし方がまだ硬い」
レイラが眉をひそめる。
「硬い、ですか」
「生きたメガネウラを見れば分かる」
匠一の声は淡々としていた。
大げさに言っている感じがない。
だからこそ、余計に本気だと分かる。
「生きた先生に学んでこい」
部屋が少し静かになった。
カナタは無言で教則本を見下ろし、レイラは半目になって天井を見た。
数秒遅れて、レイラがぼそりと呟く。
「生きた先生に学んでこいと……」
「そういうことだ」
「先生、速すぎて見えなかったらどうするんですか」
「見えるまで見る」
「厳しくないですか」
「本物はもっと厳しい」
それを言われると、たしかにそうだった。
訓練とはだいたいそういうものである。
納得はしたくないが、理屈は通っている。
カナタは小さく息を吐いた。
「出発はいつですか」
「準備ができたらすぐでいい」
「今日ですか」
レイラが聞く。
「今日でもいい」
「明日でも?」
「明日でもいい」
「来週は」
「だめだ」
そこだけは早かった。
レイラが露骨に肩を落とす。
カナタはもう一度教則本を開き、地図を見た。
簡易的だが、十分読める。
読めるということは、行けるということだ。
行けるということは、行かされるということでもある。
「ちなみに」
カナタが確認する。
「オートメガネウラの燃料は問題ありませんか」
「問題ない」
匠一は短く答えた。
「燃料は魔力だ」
レイラが少しだけ顔を上げる。
「じゃあ補給は?」
「大丈夫。
君たちが住んでいるのは深淵ダンジョンだ。この世界は魔力に満ちてる。
巡航してる限り、燃料切れの心配はほぼない」
「ほぼ」
カナタが拾う。
「急加速、急旋回、高負荷機動を続ければ別だ」
「つまり」
レイラが真顔になる。
「墜ちる理由が燃料以外になるだけですね」
「そうだ」
安心は一瞬で消えた。
匠一はそこで話を切るように、机の端を軽く叩いた。
「行って、見て、覚えてこい」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
カナタは姿勢を正した。
「了解しました」
レイラはまだ少しだけ不満そうな顔をしていたが、やがて諦めたように教則本を抱え直す。
「……了解です」
二人が部屋を出ようとしたところで、匠一が思い出したように付け加えた。
「あと」
振り返る。
「虫に文句を言うな」
レイラが止まった。
カナタも止まった。
「それ、何かあったんですか」
と、カナタ。
「別に」
匠一は答えた。
答えになっていなかった。
廊下に出てから、レイラが小声で言う。
「絶対なんかあったよね」
「ありましたね」
カナタも頷く。
二人はしばらく無言で教則本を見下ろした。
表紙は簡素で、飾り気がない。
だが中身は実用一点張りで、地図まで入っている。
本気で行かせるつもりなのだ。
しかもその行き先は、第十六エリアの住人が気軽に口にしていい距離ではない。
爆炎にとっての道草は、普通の深淵ダンジョン住人にとっての遠征である。
その遠征を、自分たちだけでやれと言われている。
「……また私たちですね」
レイラが言う。
「また私たちですね」
カナタも認めた。
そうして二人は、石炭紀へ向かう準備を始めることになった。
生きた先生に学ぶために。
たいへん嫌な予感と一緒に。




