表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見難い火傷の子  作者: 清風
PR
446/468

古代湖線失踪事件編・第5話

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子446


古代湖線失踪事件編・第5話


空席の先にあるもの


深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


便は進んでいた。

湖の中央を、静かに。


だが船内の空気は、もう出航時のものではなかった。


一席分の空白。

それだけなら、ただの空席で済んだかもしれない。

だが今この場にいる誰もが、それを“ただの空き”としては見られなくなっていた。


そこに誰かがいたのか。

最初からいなかったのか。

その判断だけが、奇妙に滑る。


匠一は空席の前に立ったまま、周囲を見回した。

乗客たちは声を潜め、互いの顔を見ている。

だが、その視線は長く続かない。

誰かを見て確認したはずなのに、次の瞬間にはその確認が薄れる。

そんな空気が、船内全体に広がっていた。


「全員、席を立つな」

匠一が低く言う。

「隣の顔を見ろ。

今、自分の近くに誰がいるか、頭に入れろ」


誰も反論しなかった。

反論できる空気ではない。


母親は子どもを抱き寄せたまま、隣席の年配夫婦を見た。

年配夫婦も、ぎこちなく頷き返す。

中央列の書類筒の男は、向かいの行商風の女を見て、それから自分の膝の上の荷物を握り直した。


ノクスが静かに言う。

「相互確認を維持してください。

名前が分かるなら名前で。

分からないなら服装でも構いません。

“誰がいるか”を言葉にした方がいい」


「赤い外套の人」

子どもが小さく言った。

母親がすぐに続ける。

「窓側のご夫婦」

「書類筒の男」

「荷籠の女」

ぎこちないが、声が続く。


セレネはそのやり取りを聞きながら、記録紙へ追記していた。

“相互確認開始。言語化により認識固定を試行”


乗務員はまだ席札と控えを見比べている。

だが、その手つきには迷いが残っていた。

紙の上の線は読める。

数字も見える。

それでも、そこから“誰が欠けたか”へ結びつかない。


「席番を読め」

匠一が言う。

「一つずつだ」

「は、はい」


乗務員が震える声で読み上げる。

前列。

中央列。

後方列。

席番はある。

埋まっている席もある。

空いている席もある。

だが問題の一席に来た時だけ、声が止まった。


「……ここは」

「何だ」

「補助席、だったかもしれません」

「またそれか」

匠一の声が低くなる。

「“かもしれない”で済むなら、誰も呼ばれてない」


乗務員は青ざめた。

だが反論はしない。

できないのだろう。

本人も、自分の言葉を信用できていない顔だった。


その時、販売担当の女が、急に顔を上げた。


「待って」

全員の視線が集まる。

彼女は自分の持つ回収盆を見ていた。

空の器が三つ。

まだ半分残った器が二つ。

未配布の器がいくつか。


「何だ」

セレネが問う。


「果実水が……」

「果実水?」

「ひとつ多いんです」

「注文記録は」

「まとめでしか付けてません。

でも、最初に出した数と、今ある数が……」

彼女はそこで言葉を失った。

「……合ってる気もする」

「どっちです」

「分からないんです」


匠一は空席を見た。

飲み物。

同行者証言。

二つ来ていたはずの注文。

前の資料と同じ崩れ方だった。


ノクスが空席の周囲へ視線を巡らせる。

「匠一様」

「何だ」

「この席だけではありません」

「何?」

「周辺二、三席分の認識も引かれています。

中心はそこですが、縁が広い」

「霧みたいなもんか」

「はい。

空席が穴なら、その周囲に薄い層がある」


セレネがすぐに書き留める。

“異常は一点固定ではなく周辺へ滲出”


便の外は静かだった。

静かすぎるほどに。

窓の向こうの湖面は、夕刻の色を失い始めている。

まだ夜ではない。

だが明るさの輪郭だけが、先に削れていくように見えた。


子どもがまた小さく言った。

「ねえ」

母親が肩を抱く。

「何」

「さっき、笑ってた人いたよね」

「……いたかもしれないわ」

「男の人?」

「分からない」

「女の人?」

「分からないの」


その会話に、年配夫婦の妻が顔をこわばらせた。

「私も……誰か笑ったのは覚えてるんです」

夫がすぐに言う。

「私もだ。

だが、誰だったかは」

そこで止まる。


匠一は舌打ちした。

「音だけ残るのか」

ノクスが答える。

「人の輪郭より、現象の方が残りやすいのかもしれません」

「最悪だな」

「ええ」


船体がまた、ごく小さく軋んだ。


今度は全員がはっきりと聞いた。

だが、音のした方向だけが曖昧だった。

前か。

後ろか。

外か。

内か。

判断が揃わない。


セレネが窓の外を見たまま言う。

「接続停泊地から、どれくらい離れましたか」

乗務員の一人が答える。

「通常なら、もう中間域です」

「通常なら?」

「……いえ」

「言ってください」

「このあたりから、距離感が少し狂うと言う者がいます」

「現場で?」

「はい」

「報告には?」

「上げにくい項目です」


匠一が吐き捨てる。

「また雑音か」

乗務員は黙った。


ノクスは目を閉じた。

数秒。

船内の誰も声を出さない。

やがて彼は目を開ける。


「前方ではありません」

「何が」

「異常の流れです。

少なくとも、今この便に触れている主な濃度は、船首側ではない」

「後ろか」

「後方、あるいは下方です」

「湖の下?」

「断定はできません。

ですが、船体の下を擦るように、何かの層が流れています」


その言葉で、母親が子どもをさらに抱き寄せた。

販売担当は完全に顔色を失っている。

乗務員の一人は、無意識に窓から足を離した。


匠一は空席から一歩だけ離れ、床を見た。

板張り。

濡れてはいない。

揺れも小さい。

それでも、足裏の感覚だけが落ち着かない。

船が水の上を進んでいるというより、何か薄い膜の上を滑っているような気がした。


「セレネ」

「はい」

「今の便の乗客、全員の特徴を短く書き出せ」

「すでに始めています」

「早いな」

「必要だと思いましたので」


彼女の紙には、すでに簡潔な記述が並んでいた。


親子連れ

年配夫婦

書類筒の男

荷籠の女

若い二人連れ

乗務員三

販売担当一

だが、その一覧の下に、一行だけ空白がある。

書くべき何かがある気がするのに、言葉にならない空白だった。


セレネ自身も、それに気づいていた。

だが埋められない。


「……嫌ですね」

珍しく、彼女が小さく言った。

「何が」

匠一が聞く。

「記録する側の手が、先に迷います」


その時だった。


後方窓の外を見ていた子どもが、息を呑んだ。


「いた」


船内が凍る。


「何が見えた」

匠一が即座に問う。

子どもは窓を指したまま、震える声で言う。


「下。

水の下に、なんか……」

「魚か?」

「ちがう」

「じゃあ何だ」

「分かんない。

でも、いた」


母親が窓から子どもを引き離そうとする。

だが子どもは目を逸らせない。

ノクスがすぐにその窓へ寄った。

匠一も続く。

セレネは位置を変えず、船内全体を見たまま記録を続ける。


窓の外。

湖面の下は暗い。

夕刻のせいだけではない。

深さの色が、近すぎる。


その暗がりの中を、何かが動いた気がした。


大きい。

細長い。

だが魚影のように明確ではない。

見えたと思った瞬間には、輪郭が水へ溶ける。

まるで“見えたこと”の方が先に薄れていくようだった。


匠一が低く言う。

「……見たか」

ノクスはすぐには答えなかった。

数秒遅れて、ようやく言う。

「見えた、と思います」

「お前がそれ言うのか」

「はい。

輪郭が固定しません」


子どもがぽつりと言った。

「さっきの人、あれ見てたのかも」


その一言で、船内の空気がさらに冷えた。


“さっきの人”。


誰のことかは分からない。

だが、その言葉だけが妙に自然に聞こえた。

まるで本当に、ここには“さっきまでいた誰か”がいたように。


セレネが顔を上げる。

「今の発言、記録します」

「やめてくれ」

年配夫婦の夫が、思わず言った。

「記録されると、本当にいたみたいだ」

「いた可能性があります」

セレネは淡々と返す。

「だから記録します」

「でも、思い出せないんだ」

「それでもです」


匠一は窓の外から目を離さずに言った。

「ノクス。

空席の先ってのは、あれか」

「断定はまだ」

「でも無関係じゃない」

「はい。

少なくとも、便内の認識異常と湖中の何かは、同じ層に触れています」


船体が、今度ははっきりと揺れた。


悲鳴が上がる。

大きくはない。

だが全員の喉から、短く息が漏れた。


乗務員が叫ぶ。

「座ってください!」

「何が当たった」

匠一が問う。

「分かりません!」

「見ろ!」

「はい!」


前方の乗務員が外を確認する。

だが、何も見えない。

波も大きくない。

衝突痕もない。

それなのに、確かに何かが船体の下を掠めた感触だけが残っていた。


ノクスが低く言う。

「接触ではありません」

「じゃあ何だ」

「擦過です」

「同じだろ」

「違います。

物体が当たったというより、境界が触れた感じです」

「分かりやすく言え」

「この便は今、異常域の縁を横切っています」


セレネの筆が止まる。

「縁?」

「はい。

失踪が起きるのは、おそらく一点ではありません。

湖上に薄く広がった異常域があり、その濃い部分に便が触れる」

「だから、毎回同じ場所でも同じ人数でもない?」

「その可能性があります」

「最悪だな」

「ええ」


販売担当が壁に手をついたまま、かすれた声で言った。

「じゃあ……消えた人は」

誰もすぐには答えなかった。


匠一が代わりに言う。

「まだ消えたと決めるな」

「でも」

「決めるな。

見えなくなったのか、ずれたのか、引かれたのか、まだ分からん」


その言葉は、乗客を安心させるためでもあった。

だが同時に、匠一自身の判断でもあった。

今ここで“消失”と断定するには、まだ情報が足りない。


子どもがまた窓を見た。

今度は何も言わない。

ただ、そこに何かがいると知ってしまった顔をしていた。


便はなおも進む。

湖の中央を抜け、やがて折り返し側の航路へ入るはずだった。

だが船内の誰も、もう通常運航の感覚ではいられない。


空席。

思い出せない誰か。

多すぎるかもしれない果実水。

水の下の輪郭の定まらない影。

そして、船体の下を掠める“境界”。


それらは別々の異常ではなかった。

一つのものの、違う現れ方だった。


セレネが静かに言う。

「見えてきましたね」

「何が」

匠一が聞く。

「この事件は、“人が消える”のが本体ではない」

「じゃあ何だ」

「人を、人として数えるための境目が削られている」


ノクスが頷く。

「はい。

空席は結果です。

その前に、認識の縁が削られる。

そして最後に、席だけが残る」


匠一は空席を振り返った。

そこには何もない。

何もないはずなのに、何もないこと自体が不自然だった。


「……空席の先にあるもの、か」

誰に言うでもなく、彼は呟いた。


その先にあるのは、単なる失踪ではない。

人と人との間にあるはずの“認識の継ぎ目”そのものが、湖のどこかで食われている。


もしそうなら。

この事件は、まだ半分も見えていない。


便の前方で、到着予告の鐘が鳴った。

低く、長い音。

だがその響きもまた、最後まで残らない。

途中で薄れ、どこかへ吸われる。


湖は静かだった。

静かなまま、何も語らない。


だが今、三人には一つだけ分かったことがあった。


古代湖線で起きている異常は、

座席を空けるためのものではない。


人がそこにいたという“つながり”そのものを、

どこかへ引き剥がしているのだ。


そして、その手はもう、

便の中にまで届いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ