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見難い火傷の子  作者: 清風
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445/459

古代湖線失踪事件編・第4話

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子445


古代湖線失踪事件編・第4話


深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


夕刻の光は、湖の上では妙に薄かった。


日が落ちきったわけではない。

空にはまだ明るさが残っている。

だが古代湖の水面だけが、その光を素直に返さない。

鈍く、重く、どこか一拍遅れて色を変える。


接続停泊地の待機室を出ると、定期便はすでに接岸していた。


失踪案件で名の出ていた便と同型。

中距離定期便。

観光と生活利用の中間にある、最も扱いにくい種類の便だった。


船体は横に長く、完全な遊覧船ほど開放的ではない。

だが実務船ほど無骨でもない。

窓は大きめに取られ、後方には半個室に近い観光席、

中央には向かい合わせの座席、前方には乗務員区画と簡易販売卓がある。

一見すれば、よくある湖上交通の一つにしか見えなかった。


「普通だな」

匠一が言う。

「はい」セレネが答える。

「だから厄介です」

「普通の顔してるやつほど面倒ってか」

「否定しません」


乗船前確認は、現場で見た通り目視主体だった。

札を確認し、人数を見て、席の流れを追う。

雑ではない。

だが厳密でもない。

人の流れが自然であることを前提にした運用だ。


ヘルムが低い声で言う。

「本便には、こちらで把握している範囲の一般客が十二名。

乗務員三名。

販売担当一名。

それに皆さんです」

「調査協力の話は?」

「乗務側責任者まで。一般客には伏せています」

「それでいい」

匠一は短く答えた。

「変に構えられる方が面倒だ」


三人は事前に決めた通り、少し距離を取って乗り込んだ。


匠一は後方観光席寄り。

接続通路の曲がりと、後方の死角を見やすい位置。

ノクスは中央通路側。

乗客全体の視線と動きが拾える席。

セレネは前寄り。

乗務員区画と販売卓、乗降処理の流れを見られる位置だった。


船内には、いかにも定期便らしい客が混ざっていた。


湖畔の町へ戻るらしい年配夫婦。

研究区画へ用があるのか、書類筒を抱えた男。

観光帰りらしい若い二人連れ。

荷物の多い行商風の女。

そして、窓際に座る親子連れ。


子どもは十歳前後だろう。

乗ってすぐ窓へ張りつき、母親に何度も外を指さしている。

母親は疲れた顔をしていたが、子の声を無理に止めはしなかった。


「見て、塔!」

「見えるわね」

「向こう、橋みたいなのもある」

「身を乗り出さないの」


そのやり取りは自然で、船内の空気を少しだけ和らげていた。


定刻。

低い鐘が鳴り、便は静かに離岸した。


最初の揺れは小さい。

船体は水を切るというより、重い面を押し分けて進むようだった。

接続停泊地の桟橋が離れ、研究区画の塔群が横へ流れていく。


セレネは前方から、乗務員の手順を見ていた。

札確認。

発着記録。

販売卓の準備。

どれも乱れはない。

販売担当の女も慣れている。

客の顔をざっと見て、必要以上に話しかけず、必要な時だけ声を出す。


ノクスは中央から、視線の流れを追っていた。

誰が誰を見ているか。

誰が窓を見ているか。

誰が席を立つか。

視線は自然に散っている。

今のところ、不自然な一点集中はない。


匠一は後方席で、船内全体を斜めに見ていた。

後方観光席は半個室に近いぶん、落ち着く。

同時に、少しだけ切り離される。

視線の端に人がいる。

だが、全部は見えない。

資料で見た時より、その“見えなさ”は実感として嫌だった。


販売担当が飲み物を回り始める。


「温かい茶、冷茶、果実水があります」

「茶を」

「こちらも」

「果実水ひとつ」


注文の声。

器の触れ合う音。

小さなやり取り。

どれも普通だ。


セレネは販売卓の記録札へ一度だけ目をやった。

簡易記録。

全件ではない。

混雑時はまとめ記載。

やはり、後から精密に追うには弱い。


便は湖上へ出る。

岸の気配が薄れ、窓の外は水と空の比率が増えていく。


そのあたりからだった。


匠一は、何かが少しずつずれていく感覚を覚えた。


派手な異変ではない。

音が消えたわけでもない。

視界が歪んだわけでもない。

ただ、船内の会話が、妙に耳へ残りにくい。


さっきまで聞こえていた親子の声が、今は遠い。

遠いのに、距離は変わっていない。

前方で誰かが笑った。

その笑い声は聞こえたはずなのに、誰が笑ったのかが一拍遅れる。


匠一は窓に映る船内の反射を見た。

人影はある。

席も埋まっている。

だが、視線を外して戻すと、一瞬だけ配置の印象が薄くなる。


中央でノクスが、わずかに指先を動かした。

合図だった。

異常を感じている。


セレネも前方で、帳面を見るふりをしながら一度だけ視線を上げる。

こちらも気づいたらしい。


便は定速のまま進む。

乗客たちはまだ、誰も騒いでいない。


親子連れの子どもが、ふいに振り返った。

そして、母親に小さく聞く。


「ねえ、さっきここに誰かいた?」

母親は一瞬だけ眉を寄せた。

「え?」

「ほら、あっち」

子どもは中央寄りの席を指した。

だが次の瞬間、自分でも迷ったように首を傾げる。

「……ちがうかも」

「座ってなさい」

母親はそれ以上広げなかった。

広げたくなかったのかもしれない。


ノクスはそのやり取りを聞いていた。

だがすぐには動かない。

観察を優先している。


やがて販売担当が中央列へ戻ってきた。

器を回収し、空席の有無をざっと見る。

その手が、一瞬だけ止まった。


「……あれ」


声は小さかった。

だが船内が静かなぶん、近くには届いた。


セレネが自然な動作で顔を上げる。

「どうしました?」

販売担当はすぐに首を振った。

「いえ、失礼しました」

「何かありましたか」

「……注文数を、少し」

そこで言葉が切れる。

「いえ、違います。気のせいです」


匠一は後方からその様子を見て、舌打ちしたくなるのをこらえた。

まさに報告書で見た崩れ方だった。


便は研究区画接続停泊地を離れ、湖の中央寄りへ入っていく。

窓の外では、遠くに研究区画の塔が細く見え、反対側には湖面しかない。


その時、船内の灯りが一度だけ揺れた。


消えたわけではない。

ほんの一瞬、明るさの芯がぶれた。

同時に、匠一は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


空気が、薄い。


そう思った。

実際に酸素が薄いわけではない。

だが“人の気配”だけが、少しずつ希薄になっていくような感覚がある。


ノクスが立ち上がりかけ、すぐに座り直した。

不用意に動けば、乗客の注意を引く。

それを避けたのだろう。


代わりに、低く言う。

「……来ています」

誰にともなく、だが匠一とセレネには届く声量だった。


セレネは前方の窓に映る反射を見た。

乗客。

乗務員。

販売担当。

数は合っているように見える。


見える、だけだ。


彼女は帳面の余白に、何気ない筆致で短く記した。


“現時点、視認上整合。印象不安定”


その直後だった。


後方観光席寄りで、椅子が小さく鳴った。


匠一が即座にそちらを見る。

誰かが立った音――のはずだった。

だが、そこに立っている者はいない。


代わりに、一席だけ、妙に目につく空きがあった。


最初から空いていたのか。

今、空いたのか。

その判断が、一瞬だけ遅れる。


匠一は立ち上がった。

「おい」


その声で、数人の乗客が振り向く。

母親が子どもを引き寄せる。

販売担当が器を取り落としかける。

乗務員の一人が前方から顔を出した。


「どうされました」

「今ここ、誰かいたか」

匠一は空席を指した。


誰もすぐには答えなかった。


観光帰りらしい若い男が、困った顔で言う。

「……いや」

隣の女が続ける。

「でも、さっき……」

そこで止まる。

言葉が続かない。


ノクスが静かに立ち上がり、中央から後方へ歩いてくる。

その目は空席ではなく、周囲の顔を見ていた。

誰が“分からない”顔をしているかを見ている。


セレネも前方から近づく。

「乗務記録を確認します。

今この席の利用者、把握していますか」

乗務員は即答できなかった。

「……確認します」

「今すぐ」

「はい」


販売担当が青い顔で言う。

「飲み物を、ひとつ……」

「何です」セレネが向く。

「ひとつ、多かった気がして」

「気がして?」

「でも、誰に出したのか……」

彼女は自分の手元を見た。

空の器。

回収前の器。

数はある。

だが意味づけが揺らいでいる。


子どもが、母親の袖を引いた。

「ねえ、やっぱりいたよ」

母親は青ざめた顔で、今度は否定しなかった。


匠一は空席の前に立ち、背もたれへ手を置いた。

まだ温かい――気がした。

だが、その感覚に自信が持てない。


「ノクス」

「はい」

「どう見える」

「数が固定しません」

「はっきり言え」

「視認上は整合しています。

ですが、認識上の対応が一席分だけ滑っています」

「最悪だな」

「ええ」


乗務員が急いで席札と乗船控えを持ってくる。

手が震えていた。


「この列は、二、二、二で……」

彼は札を見て、途中で止まった。

「……いや」

「何だ」

「一席、補助席扱いだったかもしれません」

「かもしれない、で済ませるな」

「ですが、記録が」

彼は紙を見ている。

見ているのに、読めていない顔だった。


セレネが紙を奪うように受け取る。

席番。

販売記号。

乗船処理。

どれもある。

だが一箇所だけ、線が薄い。

最初から薄かったのか、今薄く見えるのか、それすら判然としない。


その時、船体がごくわずかに軋んだ。


外では何も起きていない。

波も高くない。

だが船内の全員が、同時に息を止めた。


窓の外の湖面が、暗く見えた。

日が落ちたからではない。

水の色が一段深くなったように見えたのだ。


ノクスが低く言う。

「接続停泊地通過後から濃くなっています」

「場所か」

「便だけではありません」

「両方かもしれないな」

「はい」


匠一は空席から目を離さずに言った。

「次、人数を声に出して数えろ」

乗務員が息を呑む。

「今、ですか」

「今だ」

「は、はい」


乗務員は震える声で数え始めた。

乗客。

乗務員。

販売担当。

そして自分。


数は、合った。


合ったはずだった。


だが数え終えた瞬間、誰も安心しなかった。

むしろ逆だった。

“合っている”という結果の方が、今この場では信用できない。


セレネが静かに言う。

「記録します。

空席一。

発生時刻、接続停泊地通過後。

周囲証言、複数。

ただし対象個人の特定不能」

「最悪の書き方だな」

匠一が言う。

「ですが、事実です」

「分かってる」


子どもがまた小さく言った。

「ねえ、顔が思い出せない」

母親は何も答えられなかった。


その一言で、船内の空気が完全に変わった。


誰も大声は出さない。

誰も暴れない。

だが全員が、今ここで“何かが起きた”ことだけは理解した。


理解したのに、何が起きたのかは掴めない。


それが、何より悪かった。


匠一はゆっくりと息を吐いた。

現地に来て、乗って、見た。

そして分かった。


古代湖線では、本当に人が“消える”のだ。

ただし、消えるのは姿だけではない。

その人を人として結び止めていた認識の方が、先にほどける。


ノクスが窓の外へ目を向ける。

湖面は静かだった。

静かなまま、何も返さない。


「……まだ終わっていません」

「何が」

匠一が聞く。

「これは前兆かもしれません」

その言葉に、セレネが初めてはっきり顔を上げた。

「本件の、ですか」

「はい。

今回は“空席の違和感”で止まっています。

ですが、失踪事案ではその先まで進んでいる」

「つまり」

「今この便も、まだ安全圏とは言えません」


乗務員の顔色が変わる。

母親が子どもを抱き寄せる。

販売担当は壁に手をついていた。


匠一は短く言った。

「進路は変えるな」

「え」

乗務員が固まる。

「今ここで崩したら、余計に分からなくなる。

ただし全員、席を立つな。

乗務員は互いの顔を見失うな。

セレネ、記録。

ノクス、気配を追え」

「はい」

「了解しました」


便はそのまま進む。

湖の中央を、静かに。


一席分の空白を抱えたまま。


その空席は、ただの空きではなかった。

誰かがいなくなった痕跡ですらない。

もっと曖昧で、もっと悪いものだった。


そこに“いたはずの誰か”へ向かう認識だけが、

先に削られている。


古代湖線失踪事件。

その異常は、ようやく三人の目の前で形を取った。


だが、形を取ったからこそ分かる。

これはまだ入口にすぎない。


湖の奥には、

この程度では済まない何かが沈んでいる。


便は進む。

静かな湖の上を。

そして船内では、誰もその一席から目を逸らせなくなっていた。

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