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見難い火傷の子  作者: 清風
PR
441/468

秘書

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子441



秘書



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


「……組織も大きくなったことだし、そろそろ秘書が要るよなぁ」


それは、匠一が何気なく漏らした一言だった。

だが森の家、爆炎ハウス、《ソラ》と拠点が増え、人も案件も膨らんだ今、

その言葉は決して冗談では済まなかった。


バビロニアへ帰還した匠一は、休む間もなく秘書集めに奔走し始める。

こうして、後に爆炎パーティの運営を支えることになる秘書チームの編成が始まった。


バビロニア本社の一角。

まだ朝だというのに、匠一の執務机の上はすでにひどい有様だった。


積み上がった報告書。

補給申請書。

《ソラ》の整備記録。

爆炎ハウスの消耗品台帳。

研究棟から回ってきた試験素材の搬入申請。

深淵ダンジョン側との調整メモ。

さらに、その上に無造作に置かれた遠征予定表が、今にも雪崩を起こしそうになっている。


「……うん。要るな」


匠一は真顔で言った。


「何がです?」


机の端で書類を仕分けていたノクスが、顔色ひとつ変えずに問い返す。


「秘書」

「今さらですか」

「今さらだな」

「今までいなかったのが異常だったのでは」

「それはそう」


あっさり肯定され、匠一は少しだけ遠い目をした。


実際、ここ最近の爆炎パーティは、もはや一介の冒険者集団で済む規模ではなくなっていた。

森の家は生活拠点として機能し、爆炎ハウスは本部兼基地として日々稼働し、

《ソラ》は遠征・輸送・研究設備まで抱えた移動母艦になっている。

加えて、回収物資、研究素材、対外折衝、補給、訓練、出動記録――

どれもこれも、誰かが整理しなければ回らない。


これまでは深淵ダンジョンの受付嬢たちが、外部窓口としてかなりの部分を助けてくれていた。

だが、彼女たちはあくまで外部勢力だ。

爆炎ハウスに常駐させるには立場が微妙で、《ソラ》に長く乗せるのも違う。

何より、あの快適空間に一度慣れてしまえば、帰したくなくなるし帰らなくなる危険がある。


その点、最初から内部要員として抱える秘書なら話は別だった。

むしろ爆炎ハウスにも《ソラ》にも、いてくれた方が助かる。


「で、どうするんです?」

「集める」

「雑ですね」

「雑じゃない。ちゃんと考えてる」

「どのあたりまでです?」

「最低でも、書類を見て逃げないやつ」

「条件が低いのか高いのか判断に困りますね」


ノクスの声はいつも通り平坦だったが、言っていることはわりと辛辣だった。


匠一は椅子の背にもたれ、机の上の書類の山を見上げた。

見上げた、という表現が誇張でない程度には積まれている。


「まず筆頭が要るな」

「筆頭秘書ですか」

「俺に直接つくやつ。ついでに秘書チームのまとめ役もやれるやつ」

「つまりCEO秘書兼筆頭秘書」

「そうなる」

「人選難度が急に跳ね上がりましたね」

「知ってる」


知っているが、妥協する気もなかった。

匠一が欲しいのは、ただ机に向かって綺麗に書類を揃えるだけの人材ではない。

爆炎ハウスに出入りしても空気に呑まれず、

《ソラ》に乗っても酔わず、研究班と実働班の間に立って話を通し、

必要なら現場にもついて来られる人間。

少なくとも、普通の事務員では務まらない。


「秘書課から引っ張りますか」

「それも見る。けど、秘書課だけじゃ足りない気がするんだよな」

「渉外、輸送管理、記録係、現場補佐経験者あたりも候補ですか」

「そのへん。あと冒険者大学の出も悪くない」

「要求水準が高いですね」

「俺の周りに置くんだから、低いと困る」


さらりと言い切ってから、匠一は一枚の紙を引き寄せた。

白紙だった。

そこに迷いなく、必要条件を書き連ねていく。


一、書類処理能力。

二、守秘能力。

三、対人調整能力。

四、長期遠征への適応力。

五、爆炎ハウス常駐に耐える生活適性。

六、《ソラ》乗艦時の運営補佐能力。

七、必要時の現場同行を拒否しないこと。


ノクスが横から覗き込み、無言で一項目を指した。


「五番が妙に生々しいですね」

「大事だぞ。あそこ、快適すぎるから」

「採用条件に書くことではない気がしますが」

「でも重要だろ」

「否定はしません」


さらに匠一は少し考え込み、最後に一文を書き足した。


八、爆炎パーティを見ても引かないこと。


「……それ、最重要では?」

「だろ?」


ノクスは一拍置いてから、静かに頷いた。


「募集はどうします」

「社内選抜を先にかける。秘書課、渉外、輸送管理、記録部門あたりに声を回す」

「外部採用は」

「必要なら後で考える。まずは内部からだ」

「妥当ですね」


匠一は紙を置き、今度は別の紙を引き寄せた。

今度は募集要項ではない。

選抜試験の草案だった。


筆記。

面接。

実務試験。

同行適性確認。


そこまで書いたところで、扉が勢いよく開いた。


「匠一! 聞いたぞ、秘書を雇うんだってな!」

「どこから漏れた」

「廊下でノクスが三人分の机を追加発注してた」

「早いな」


ずかずかと入ってきたダンの後ろから、キールとマリーも顔を覗かせる。

どうやらもう、爆炎パーティの中では話が回り始めているらしい。


「秘書って、あれか? 俺たちの世話係か?」

「違う」

「書類係?」

「だけでもない」

「じゃあ何する人?」

「俺とお前らと《ソラ》と爆炎ハウスを、全部まとめて回す人」

「……それ一人でやるのか?」

「最初の一人はな」

「重くない?」

「重いから選ぶんだよ」


マリーが机上の条件書をひょいと拾い上げ、目を走らせた。

そして、露骨に眉を上げる。


「ねえ匠一、これ秘書っていうより、だいぶ運営幹部寄りじゃない?」

「そうだが?」

「そうだが、じゃないのよ」

「でも実際そういうのが要るだろ」

「要るのは分かるけど、応募してくる人かわいそう」

「だから選抜にする」


匠一は平然としていた。

平然としているが、要求しているものはだいぶ重い。

ただ、それでも必要だった。

爆炎パーティがこれ以上大きくなるなら、誰かが流れを整えなければならない。

暮らしと戦闘と研究と輸送、その全部の間に立って、滞りなく回す人間が。


その役目を、匠一はようやく自分以外に求める気になったのだ。


「……まあ、いいんじゃない?」


最後にそう言ったのは、いつの間にか扉にもたれていたハナだった。

柔らかな声だったが、視線は机上の書類の山に向いている。


「正直、もう限界だったでしょ。匠一ひとりで抱える量じゃないもの」

「まあな」

「だったら、ちゃんと選んだ方がいいよ。長く一緒に動く人になるんだから」

「分かってる」


匠一は短く答え、募集要項の草案を手に取った。

その目は、珍しく最初から最後まで本気だった。


こうしてバビロニア本社では、

後に爆炎パーティの運営を支えることになる秘書選抜が、静かに、しかし確実に動き始めた。


その時点ではまだ誰も知らない。

この選抜に集まる人材の中に、後の筆頭秘書にしてCEO秘書となる人物がいることを。

そしてその存在が、爆炎ハウスにも《ソラ》にも、

これまでとは違う秩序を持ち込むことになるのを。


その日のうちに、匠一が殴り書きした募集要項は、

ノクスの手によって恐ろしい速度で清書・整形され、バビロニア本社の各部署へと回された。


秘書課。

渉外部。

輸送管理局。

記録保全部門。

一部の研究補助職。

さらに、過去に現場同行経験のある補佐職員にまで、限定通達として通知が飛ぶ。


件名は簡潔だった。


【匠一直属秘書選抜について】


その一文だけで、社内は十分にざわついた。


「……直属?」

「直属って、あの匠一様の?」

「いや待って、秘書って普通の秘書?」

「募集要項見た?」

「見た」

「秘書の皮をかぶった何かじゃない?」

「《ソラ》乗艦ありって書いてあるんだけど」

「現場同行あり、って何?」

「しかも“爆炎パーティを見ても引かないこと”って条件に入ってる」

「そこを明文化するんだ……」


秘書課の一角では、回覧板を囲んだ職員たちがひそひそと声を潜めていた。

だが潜めているわりに、内容はだいぶ筒抜けだった。


「これ、実質ただの秘書じゃないよね」

「運営補佐官では?」

「いや、現場適性まで求めてるから補佐官より広い」

「というか、匠一様の周辺って、あの爆炎パーティの本拠地に出入りするんでしょう?」

「爆炎ハウス常駐の可能性あり、って書いてある」

「……帰ってこられる?」

「何の心配?」


一人が真顔で言うと、周囲が少しだけ黙った。


爆炎ハウスの噂は、社内でもそれなりに広まっている。

快適すぎる。

飯がうまい。

風呂が広い。

設備が妙に良い。

なのに次の瞬間には作戦会議と武器整備が始まる。

家なのか基地なのか分からない。

そして《ソラ》はもっとひどい。

見た目は帆船、中身は移動式の別荘兼研究艦兼補給基地だ。


「……あれ、むしろ落ちたくないやつでは?」

「でも受かったら仕事量すごそう」

「匠一様直属だよ?」

「それは名誉だけど、胃も死ぬ」

「たぶん胃だけじゃ済まない」


そんな会話が、あちこちで交わされていた。


一方、渉外部では反応が少し違った。


「匠一様直属秘書、ねえ」

「渉外経験者にも声がかかってる時点で、対外折衝をかなり重く見てるな」

「研究班と実働班の調整、輸送管理との接続、外部窓口……」

「普通の秘書じゃない。司令部補佐だ」

「しかも現場同行あり」

「現場を知らないと話にならないんだろう」


年嵩の職員が腕を組み、募集要項を見下ろす。


「筆頭秘書がそのままCEO秘書を兼ねる、か」

「相当信頼される人間を置くつもりですね」

「逆だ。信頼できる人間しか置けない」


その言葉には重みがあった。

匠一の周囲は、今や単なる社長室ではない。

研究、輸送、戦力、拠点運用、対外関係――その全部が交差する場所だ。

そこに立つ秘書は、ただ予定表を整えるだけでは足りない。


記録保全部門でも、回覧は静かな波紋を呼んでいた。


「……記録整理、物資台帳、遠征報告、回収品目録」

「うちの仕事に近いですね」

「近いどころか、かなり刺さってる」

「でも《ソラ》乗艦あり」

「そこだけ急に世界が違う」

「あと“必要時の現場同行を拒否しないこと”」

「記録係に求める条件ではないですね」

「匠一様のところだからでしょう」


紙を見つめていた若い職員の一人が、小さく息を吐いた。


「……でも、ちょっと面白そうです」

「やめておきなさい。面白そうで応募する案件じゃありません」

「そうでしょうか」

「そうです」

「でも、たぶんあそこ、今いちばん“動いてる場所”ですよね」


その言葉に、年長の職員は返事をしなかった。

否定できなかったからだ。


そして、その回覧は秘書課の奥、窓際の机にも届いていた。


昼前の光が差し込む静かな一角。

他の机より少しだけ整いすぎたその場所で、一人の女性が紙を読んでいた。


年の頃は二十代前半。

姿勢がよく、視線は静かで、指先の動きに無駄がない。

机上には未処理書類の山がない。

あるのは、分類済みの束と、次に処理すべき案件だけだった。


彼女は回覧の一行目から最後までを読み終えると、紙を机に置き、もう一度最初から読み返した。


匠一直属秘書選抜。

筆頭秘書はCEO秘書を兼ねる。

爆炎ハウス常駐の可能性あり。

《ソラ》乗艦あり。

必要時の現場同行あり。


そのどれにも、眉ひとつ動かさない。


「……どう思う?」


隣席の同僚が、半ば面白がるように声をかけた。


「どう、とは」

「応募する人、いると思う?」

「いるでしょう」

「即答だね」

「条件が厳しい分、得るものも大きいですから」

「他人事みたいに言うじゃない」

「他人事ですので」


そう言いながら、彼女は回覧を丁寧に揃えた。

だが同僚は見逃さなかった。

その視線が、ほんのわずかに紙の上に残っていたことを。


「……で?」

「何がです」

「あなた、出すの?」

「まだ決めていません」

「“まだ”って言った」


彼女はそこで初めて、少しだけ目を細めた。


「直属秘書、というのは重い役目です」

「うん」

「しかも今回は、普通の社長室勤務ではない。

拠点運用、遠征補佐、対外調整、記録管理、現場同行まで含まれる」

「うん」

「求められているのは、秘書というより運営の中枢です」

「うん。それで?」

「……興味はあります」


同僚は吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。


「あるんだ」

「あります」

「珍しいね、あなたがそういう顔するの」

「していません」

「してるよ」


彼女は否定しなかった。

代わりに、もう一度募集要項へ目を落とす。


匠一。

その名を知らない者は、もう社内にはほとんどいない。

若き異才。

拠点を増やし、研究を回し、戦力を束ね、常識外れの速度で組織を拡張していく中心人物。

そのすぐ隣に立つということは、単なる栄誉ではない。

膨大な責任と、判断と、消耗を引き受けるということだ。


だが同時に、それはたぶん、今いちばん組織の流れが集まる場所でもある。


「……受けるなら、筆頭狙い?」

「受けると決めたわけではありません」

「でも狙うなら?」

「受ける以上は、上を目指します」


静かな声だった。

だが、その言葉には迷いがなかった。


同僚は少しだけ目を丸くしてから、にやりと笑う。


「じゃあ出しなよ」

「軽いですね」

「だって、向いてるもの」

「そういうものですか」

「そういうもの。少なくとも、書類見て逃げないし」

「最低条件ですね」

「あと爆炎パーティ見ても引かなそう」

「会ったことはありませんが」

「噂を聞いても顔色変わってない」

「噂は噂です」

「《ソラ》乗艦あり、でも眉ひとつ動かなかった」

「移動拠点なのでしょう」

「そこを“なのでしょう”で済ませる人、あんまりいないんだよ」


彼女は少しだけ黙り、それから静かに立ち上がった。


「どこ行くの?」

「応募書類を取りに」

「早いね」

「締切直前は混みますから」


その返答は、あまりにも彼女らしかった。


同じ頃。

匠一の執務室では、ノクスが淡々と応募窓口の準備を進めていた。


「反応は上々です」

「もう出たのか?」

「ええ。秘書課、渉外部、記録保全部門あたりが特に」

「ふむ」

「ただし、半数は“秘書の募集要項ではない”という感想を抱いています」

「正しいな」

「訂正は?」

「しない」


匠一は即答した。


どうせ必要なのは、普通の秘書ではない。

自分の隣に立ち、爆炎ハウスと《ソラ》と爆炎パーティを含めた全体運用を支えられる人材だ。

条件を軽く見せる意味はなかった。


「応募者、来ると思うか?」

「来ます」

「断言するな」

「すでに数名、書類を取りに動いています」

「早いな」

「優秀な人材ほど、動きが早いものです」


ノクスはそう言って、一枚のメモを差し出した。

そこには、すでに問い合わせを入れた部署名と人数が簡潔に記されている。


匠一はそれを見て、ふっと息を吐いた。


「……さて」

「どうしました」

「思ったより、本当に始まったな」

「始めたのはあなたです」

「そうだった」


だが、もう後戻りはしない。

匠一が必要だと認め、募集をかけた時点で、この選抜はただの人集めではなくなっている。

これから選ばれる誰かは、爆炎パーティの運営そのものに食い込む。

爆炎ハウスにも、《ソラ》にも、匠一のすぐ隣にも。


そしてその候補の一人が今、静かな足取りで応募書類の窓口へ向かっていた。


まだ名前は知られていない。

だが後に、彼女は筆頭秘書にしてCEO秘書となり、

爆炎パーティの“流れ”を整える最初の人間になる。


応募窓口は、本社二階の人事補佐室に臨時で設けられていた。


普段は異動願いや短期補助申請を扱うだけの小部屋だが、その日ばかりは妙に空気が張っている。

机の上には応募用紙の束。

横には選抜要項。

さらにその隣には、ノクスが作成した簡潔すぎる注意書きが置かれていた。


提出後の辞退は可能。

だが、軽い気持ちで出すことは推奨しない。


誰が書いたのか一目で分かる文面だった。


窓口担当の職員は、朝から何人目かの応募者を見送り、そっと肩を回した。

想定より多い。

しかも、ただの興味本位ではない顔つきの者が多かった。


「次の方、どうぞ」


呼びかけに応じて、扉が静かに開く。


入ってきたのは、先ほど秘書課で募集要項を読んでいた女性だった。

歩幅は一定。

視線はまっすぐ。

手にした書類の角はきちんと揃っている。


「応募書類の提出に参りました」

「はい、お預かりします。所属とお名前を」

「秘書課所属、セレネ・アストラです」


窓口担当は一瞬だけ目を上げた。

聞き覚えのある名前だった。


秘書課の中でも、処理速度と正確性でよく名前が挙がる。

派手さはないが、抜けがない。

急な差し込み案件にも強く、上役の予定変更にも顔色を変えない。

何より、余計なことを言わない。


「セレネさん……なるほど」

「何か不備がありましたか」

「いえ、まだ確認前です」


差し出された書類を受け取り、担当者はその場でざっと目を通した。

志望動機。

職務経歴。

過去の補佐経験。

緊急対応歴。

現場同行可否。

長期遠征適性自己申告。


どれも簡潔で、無駄がない。

だが簡潔なだけではない。

必要な情報が、必要な順番で並んでいる。


「……きれいですね」

「ありがとうございます」

「いえ、字ではなく内容が」


セレネは軽く会釈しただけだった。


志望動機の欄には、飾り気のない文が記されていた。


組織規模の拡大に対し、現行の運営負荷が個人集中していると判断しました。

匠一様直属秘書は、単なる補佐職ではなく、

拠点・人員・案件を接続する運営中枢補助であると理解しています。

私の実務経験は、その一端を担うに足ると考え、応募いたしました。


窓口担当は、思わず二度見した。

熱意を叫ぶでもなく、忠誠を誓うでもなく、ただ冷静に必要性と自分の適性を書いている。

だが、その方がむしろ本気に見えた。


「現場同行経験、あり……」

「短期ですが」

「渉外補助も」

「補助までです」

「輸送記録の整理経験もあるんですね」

「臨時応援で数度」

「……幅広いですね」

「必要な範囲です」


必要な範囲。

その言い方が、いかにも彼女らしかった。


「承りました。一次選抜の日程は追って通知されます」

「はい」

「なお、今回は筆頭秘書候補を含む選抜ですので、通常の秘書選抜より実務寄りになります」

「承知しています」

「《ソラ》乗艦や爆炎ハウス常駐の可能性も」

「要項で確認済みです」

「……本当に大丈夫ですか?」

「何がでしょう」

「いえ、その、環境が特殊だと聞いていますので」

「特殊であることは、要件のうちでしょう」


窓口担当は、そこでようやく少し笑った。

この人はたぶん、向いている。

少なくとも、噂に振り回されて足を止めるタイプではない。


「受理しました。ご健闘を」

「ありがとうございます」


セレネは一礼し、静かに部屋を出ていった。


扉が閉まったあと、窓口担当は手元の応募書類をもう一度見下ろした。


「……強いなあ」


誰に聞かせるでもない独り言だった。


同じ頃、別の窓口では、もう少し騒がしいやり取りも起きていた。


「え、これ本当に秘書の募集なんですか?」

「募集要項上はそうです」

「“必要時の現場同行を拒否しないこと”って書いてありますけど」

「書いてありますね」

「あと“爆炎パーティを見ても引かないこと”」

「書いてあります」

「これ面接で何を聞かれるんです?」

「現時点では未公開です」

「怖いなあ!」


そんな声が廊下に漏れ、通りがかった職員たちが苦笑する。

応募者は多い。

だが、最後まで残る者はそう多くないだろう。

誰もがそれを感じていた。


午後。

匠一の執務室には、早くも一次応募者の一覧が届き始めていた。


「もう来たのか」

「ええ。初動としては十分です」


ノクスが差し出した一覧には、所属部署と氏名だけが簡潔に並んでいる。

秘書課。

渉外部。

記録保全部門。

輸送管理局。

数はまだ多くない。

だが、最初の半日でこれなら悪くない。


匠一は紙を受け取り、ざっと目を走らせた。


「……思ったより、ちゃんと来てるな」

「あなたの想定は」

「もっと様子見されるかと思ってた」

「逆です。条件が重いからこそ、早く動く人材がいます」

「そういうもんか」

「そういうものです」


匠一はふむ、と短く唸った。

自分で募集をかけておきながら、まだ少しだけ実感が薄い。

だが、こうして名前が並び始めると話は別だった。


この中から、誰かが来る。

自分のすぐ隣に立つ人間が。

爆炎ハウスに出入りし、

《ソラ》に乗り、ノクスと話し、爆炎パーティと渡り合い、

書類と現場の両方を回す人間が。


「一次はどう切る?」

「書類と筆記で基礎を見ます。加えて、経歴の整合性と実務経験の接続性を」

「接続性?」

「書類処理ができるだけでは足りません。

渉外だけでも足りない。

記録だけでも、現場だけでも足りない。

今回必要なのは、それらをつなげられる人材です」

「……お前、ちょっと楽しんでないか?」

「否定はしません」


ノクスは平然としていた。


「あと、筆頭候補については別枠で見ます」

「やっぱりそうなるか」

「当然です。CEO秘書を兼ねる以上、単なる高得点者では足りません」

「だよな」


匠一は椅子にもたれ、一覧の上を指で軽く叩いた。


「名前だけじゃ分からんな」

「書類が揃えば見えてきます」

「お前の当たりは?」

「まだ早いです」

「固いな」

「初動で決め打ちすると外します」

「それもそうか」


ノクスは次の束を机に置いた。

今度は、受理済み応募書類の写しだった。

まだ数は少ない。

だが、匠一はその一番上を手に取る。


秘書課所属。

セレネ・アストラ。


「……これ、読みやすいな」

「ええ」

「妙に整理されてる」

「必要な情報が、必要な順で並んでいます」

「お前、ちょっと評価高くない?」

「事実です」


匠一は志望動機の欄を読んだ。

短い。

だが、要点が明確だった。

自分の仕事を理解している人間の文章だ、と直感で分かる。


「熱血じゃないな」

「あなたは熱血型の秘書をお望みで?」

「いや、別に」

「なら問題ありません」

「でも、妙に落ち着いてる」

「落ち着いていないと、あなたの隣は務まりません」


それには、匠一も反論しなかった。


「現場同行経験あり、輸送記録整理経験あり、渉外補助経験あり……」

「幅はあります」

「全部“補助まで”って書いてるな」

「誇張しないタイプでしょう」

「盛らないのはいいな」

「ええ。少なくとも書類上は」


匠一は応募書類を机に戻した。

まだ一人目だ。

ここで決めるつもりはない。

だが、最初に目に入った名前としては悪くなかった。


「一次、いつやる?」

「三日後を予定しています」

「早いな」

「勢いがあるうちに進めるべきです」

「お前、完全に採用担当の顔してるな」

「実務ですので」


その時、また扉が開いた。


「匠一ー、秘書候補ってもう来てるのか?」

「来てる」

「見せろ」

「見せない」

「なんでだよ」

「個人情報だ」


ダンが不満そうに口を尖らせ、その後ろからマリーがひょいと顔を出す。


「でも気になるじゃない。どんな人が来るのか」

「気になるのは分かるが、まだ選抜前だ」

「爆炎ハウスに来るかもしれないんでしょ?」

「そうだな」

「じゃあ余計に気になる」

「お前らの面接じゃないんだぞ」

「でも最終的に一緒に動くのはこっちじゃない」

「それはそう」


匠一が少しだけ黙る。

たしかに、その通りだった。

秘書は自分に直接つく。

だが、実際には爆炎パーティ全体と関わることになる。

爆炎ハウスにも、《ソラ》にも、日常にも作戦にも食い込む。


「……最終段階では、お前らの意見も聞く」

「ほんとか?」

「ただし、ちゃんとした場でだ」

「雑な好き嫌いは却下?」

「当然だ」

「ちぇー」


ダンは露骨に肩を落としたが、マリーは逆に面白そうに目を細めた。


「じゃあ、最後の方で顔合わせあるのね」

「あるだろうな」

「ふうん……」


その声音に、匠一は少しだけ嫌な予感を覚えた。

たぶん彼女は、候補者を見る気満々だ。

しかもかなり細かく。


だが、それも悪くないかもしれない。

秘書は書類だけで決めるものではない。

爆炎パーティの空気に耐えられるか。

《ソラ》の異常な快適さと機能性に呑まれないか。

匠一の無茶と、ノクスの精密さと、現場組の勢いの間で立てるか。

それは実際に会ってみなければ分からない。


匠一は机上の応募書類を見下ろし、静かに息を吐いた。


選抜は、もう始まっている。

そしてその先には、まだ名前しか知らない誰かとの出会いが待っている。


その中でも、秘書課所属の一人――セレネ・アストラの書類は、すでに小さな印象を残していた。


まだそれだけだ。

だが、こういう最初の印象が、後で妙に残ることを匠一は知っている。


一次選抜当日。

会場に使われたのは、本社三階の中会議室だった。


普段は部署横断の調整会議や、外部向け説明会に使われる部屋だが、今日は机の配置が少し違う。

受験者同士の間隔は広め。

前方には試験官席。

壁際には封をされた資料束。

そして部屋の隅には、なぜか台車に積まれた木箱が三つ置かれていた。


「……あの箱、何?」

「さあ」

「秘書試験で使うものには見えないけど」

「見えないですね……」


開始前のざわめきは小さい。

応募者は皆、ある程度は覚悟して来ている。

普通の秘書選抜ではないことも、ここに集まった時点で理解していた。


セレネは中央より少し後ろの席に座り、机上の筆記具を整えていた。

視線は前方。

周囲を見回しすぎない。

だが、必要な情報はきちんと拾っている。


受験者は二十名弱。

秘書課、渉外部、記録保全部門、輸送管理局、研究補助職。

所属はばらけているが、共通しているのは、

皆どこかしら“普通の事務職”より一段重い仕事をしてきた顔つきだということだった。


やがて扉が開き、ノクスが入ってくる。

その瞬間、室内の空気が一段静まった。


執事型オートマタ。

《ソラ》の実質的運営責任者。

匠一の側近の一角。

社内でもその名は知られている。

そして今日の試験官の一人でもある。


ノクスは前に立つと、受験者たちを一瞥した。


「定刻ですので、開始します」


声は平坦で、よく通った。


「本選抜は、匠一様直属秘書、ならびに秘書チーム構成員の選抜を目的とします。

ただし、今回の一次選抜は一般的な秘書技能のみを測るものではありません。

書類処理能力、記録整理能力、対人調整能力、情報接続能力、優先順位判断、

ならびに特殊環境への適応力を確認します」


数名の受験者が、最後の一文でわずかに表情を動かした。


特殊環境。

ずいぶん柔らかい言い方だが、指しているものは明白だ。

爆炎ハウスと《ソラ》である。


「なお、試験内容についての事前質問は受け付けません。

また、試験中に“これは秘書の仕事ではないのでは”という感想を抱くことは自由ですが、

採点には影響しません」


一瞬、室内に妙な間が落ちた。

冗談なのか本気なのか分からない。

だがノクスの顔は真顔だった。


「では、第一試験を配布します」


補助職員が問題冊子を配っていく。

セレネは受け取ると同時に、紙質、枚数、綴じ順を一瞬で確認した。

全十二頁。

前半は筆記。

後半は事例判断。


開始の合図とともに、室内に紙をめくる音が広がる。


第一試験は、一見すると穏当だった。


文書要約。

予定調整。

複数案件の優先順位付け。

守秘義務に関する判断。

上役不在時の一次対応。

渉外文面の修正。

記録の不備発見。


だが、読み進めるほどに分かる。

これは単なる事務処理能力の確認ではない。


たとえば、ある設問ではこうだ。


同時刻に以下の案件が発生した場合、初動対応の優先順位を示し、その理由を簡潔に述べよ。


《ソラ》より、冷凍倉庫の一部区画に異常通知

爆炎ハウスより、訓練場使用予定の変更申請

研究棟より、試験素材搬入時刻の前倒し要請

深淵ダンジョン窓口より、外部来訪者の面会希望

匠一本人より、「あとで見る」とだけ書かれた走り書きのメモ

最後の一項目で、何人かの手が止まった。


何だそれは。

案件なのか。

罠なのか。

あるいは、もっと厄介な何かなのか。


セレネは一度だけ目を細め、それから淡々と書き始めた。


《ソラ》の冷凍倉庫異常通知を最優先。

理由は、保存物資・研究素材・安全性への影響が広範囲に及ぶ可能性があるため。

次点で研究棟搬入時刻前倒し。

冷凍倉庫異常との関連確認も必要。

訓練場変更申請は代替調整可能。

外部来訪者面会希望は一次保留と代理応対で時間を稼げる。

匠一の走り書きメモは内容確認前提だが、緊急性不明のため他案件の初動後に回す。

ただし本人の所在確認は並行して行う。


迷いはなかった。

重要なのは、誰が偉いかではない。

どこに連鎖的な損害が出るかだ。


別の設問では、より露骨だった。


以下の報告書には、意図的または非意図的な不備が含まれている。

不備箇所を指摘し、必要な確認先を挙げよ。


添付されたのは、遠征報告書、物資台帳、負傷者記録、回収品目録。

一見整っている。

だが、よく見ると数字が合わない。

時刻が前後している。

回収品目録の一部が、負傷者記録の処置内容と噛み合っていない。


セレネは順に線を引いていく。


回収品目録の数量不一致。

冷凍保管庫搬入時刻の欠落。

負傷者記録に処置担当者名なし。

遠征報告書の帰還時刻と《ソラ》着艦記録の不整合。

確認先は、現場責任者、船内記録、医務担当、物資管理担当。


書きながら、彼女は少しだけ思った。

この試験を作った人間は、現場を知っている。

書類だけを見ている人間の問題ではない。

実際に、拠点と人と物が動く現場を知っている人間の作り方だ。


前方では、何人かがすでに苦戦していた。

秘書課出身者は文面整理に強い。

記録部門出身者は不備発見が早い。

渉外部出身者は対人判断に迷いが少ない。

だが、この試験はそれだけでは足りない。

全部をつなげて考えなければ、点が伸びない。


一時間後。

第一試験が回収される。


短い休憩を挟み、第二試験の準備が始まった。

ここで、部屋の隅に置かれていた木箱が前に運ばれる。


ざわめきが起きた。


「……やっぱり使うんだ」

「何が入ってるんだろう」

「嫌な予感しかしない」


ノクスは気にした様子もなく、次の説明を始めた。


「第二試験は実務試験です。

各自、配布される案件束と、箱内の物資票・搬入票・連絡票を用いて、

三十分以内に“本日中に回る運用計画”を作成してください」


数人が目を瞬いた。

運用計画。


「条件は以下の通りです。

爆炎ハウスでは本日午後に訓練予定あり。

《ソラ》は夕刻出航予定。

研究棟では試験素材受け入れあり。

外部来客一件。

追加で、匠一様の予定は未確定要素を含みます」


最後の一文で、また空気が重くなる。


「なお、正解は一つではありません。

ただし、破綻した計画は不正解です」


それだけ言って、ノクスは一歩下がった。


補助職員が案件束を配る。

セレネは受け取ると同時に、まず全体枚数を確認した。

案件票九枚。

物資票六枚。

連絡票四枚。

搬入票三枚。

加えて、手書きの走り書きメモが一枚。


“昼までに決める”


匠一の字だった。

たぶん。


「……本当に入ってるんだ」


誰かが小さく呟いた。


セレネはまず、案件を分類した。

時間固定。

時間調整可能。

人員依存。

物資依存。

匠一確認必須。

代理判断可能。


次に、搬入票と物資票を照合する。

研究棟搬入予定の素材のうち一つが、冷凍保管前提。

だが《ソラ》側の冷凍倉庫区画は一部点検予定。

ならば一時的に爆炎ハウス側冷凍保管庫を使う必要がある。

ただし、その時間帯は訓練場使用と搬入導線がぶつかる。

なら訓練開始時刻をずらすか、搬入経路を裏手に回すか。


さらに外部来客。

面会希望先は匠一。

だが予定未確定。

なら一次応対を秘書側で受け、必要なら作戦会議室ではなく応接室へ誘導。

研究棟搬入と動線を分ける。


《ソラ》出航前には、積み込み確認と乗艦者名簿の確定が必要。

その前に匠一の“昼までに決める”案件を処理しなければ、全部が遅れる。


セレネはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。


――なるほど。


これは、書類を綺麗に並べる試験ではない。

混線した流れを、破綻しない一本に束ねる試験だ。


彼女は新しい紙を取り、最初に大きく三本の線を引いた。


拠点運用

人員運用

匠一確認事項


そこから逆算して、案件を配置していく。


試験終了の合図が鳴る頃には、会場の空気は開始前とまるで違っていた。


疲労。

集中。

そして、少しの諦め。


できた者と、できなかった者が、もう何となく分かる。

実務試験はそういう残酷さがある。


答案回収の際、ノクスは一人ひとりの机上を静かに見て回った。

表情は変わらない。

だが、視線は細かい。


セレネの席で、ほんの一瞬だけその手が止まる。


答案は整っていた。

見やすい。

だが、ただ整っているだけではない。

優先順位の理由が明記され、保留案件には保留理由があり、匠一確認事項が独立している。

さらに、代理判断可能範囲と、本人決裁必須範囲が分けられていた。


ノクスは何も言わず、そのまま回収した。


セレネもまた、何も言わなかった。


試験終了後。

受験者たちが順に退室していく中、廊下には抑えた声が漏れ始める。


「……あれ、一次だよね?」

「一次ですね」

「重くない?」

「重かったです」

「秘書試験で運用計画組ませる?」

「組ませるんでしょうね……」

「途中から、秘書って何だっけってなった」

「私は最初からなってました」


そんな声が遠ざかっていく。


セレネは最後まで騒がず、静かに会場を出た。

手応えがあるとも、ないとも思わない。

ただ一つ分かったのは、この選抜が本気だということだけだった。


そして、それは彼女にとって悪いことではなかった。


その頃、別室では回収された答案がすでに並べられていた。


匠一、ノクス、そして補助的に呼ばれた数名の確認担当。

机の上には答案の束。

部屋の空気は静かだが、軽くはない。


「どうだ」

「面白いです」

「お前がそう言う時、だいたい重いんだよな」

「否定はしません」


ノクスは最初の数枚をめくりながら、淡々と分類していく。


「文面は綺麗だが、優先順位判断が弱い者」

「不備発見は鋭いが、接続ができていない者」

「対人調整は強いが、物資運用の視点が薄い者」

「逆に、運用は組めるが守秘意識の記述が甘い者」


匠一は答案を一枚取り、眉を寄せた。


「これ、全部匠一確認にしてる」

「責任回避型ですね」

「俺が死ぬ」

「ええ」


別の一枚。


「こっちは逆に、ほぼ全部代理判断で進めてる」

「越権傾向です」

「それも困るな」

「困ります」


さらに数枚。

良いものもある。

だが、決め手に欠けるものも多い。


そんな中、ノクスが一枚を抜き出して机の中央に置いた。


「これは上位です」

「どれ」


匠一が手に取る。

氏名欄には、セレネ・アストラ。


「……ああ、あの読みやすいやつか」

「ええ」

「どう良かった?」

「まず、破綻していません」

「最低条件だな」

「今回、それができていない答案もあります」

「だろうな」


ノクスは続ける。


「加えて、優先順位の理由が“誰が偉いか”ではなく、

“どこに連鎖損害が出るか”で組まれている」

「うん」

「匠一確認事項を独立させ、本人決裁必須と代理判断可能を分けている」

「うん」

「そして、保留案件を放置ではなく“保留管理”している」

「……なるほど」


匠一は答案を見下ろした。

派手ではない。

だが、嫌な穴がない。

そして何より、自分が後から見ても流れを追いやすい。


「これ、実務で助かるやつだな」

「ええ。非常に」

「筆頭候補?」

「現時点では有力です」


匠一は少しだけ黙った。

まだ一次だ。

ここで決める気はない。

だが、ノクスがここまで明確に言うのは珍しい。


「……会ってみるか」

「二次で会えます」

「そうだったな」


匠一は答案を束の上に戻した。

その動作は軽かったが、視線は少しだけ残った。


セレネ・アストラ。

まだ書類と答案しか見ていない。

だが、少なくとも“流れを整える”ことに関しては、かなり筋がいい。


選抜は、ここから先が本番だ。

面接。

実地判断。

そして、おそらく最後には、爆炎パーティとの接触もある。


その全部を越えてなお残るなら――

その時は、本当に匠一の隣に立つことになる。


一次選抜の結果は、翌日の昼前に出た。


早い。

だが、匠一が「勢いがあるうちに進める」と言い、

ノクスがそれを本当に実行した以上、遅れる理由はなかった。


通達は簡潔だった。


【匠一直属秘書選抜 一次結果通知】


通過者は七名。

応募総数から見れば、かなり絞られている。


秘書課二名。

渉外部二名。

記録保全部門二名。

輸送管理局一名。


研究補助職からの通過者はいなかった。

能力不足というより、今回求められている軸と少しずれていたのだろう。


セレネ・アストラの名は、その一覧の上から二番目にあった。


彼女は通達を見ても、表情をほとんど変えなかった。

ただ、紙を一度読み終えたあと、もう一度最初から確認し、静かに息を吐く。


「通ったね」

「はい」

「驚かないんだ」

「一次ですので」

「そこはもう少し喜んでもよくない?」

「まだ先があります」

「……ほんとにそういうところだよ」


隣席の同僚は半ば呆れ、半ば感心したように笑った。


だが実際、セレネの中で一次通過は“当然”ではないにせよ、“終わり”でもなかった。

むしろここからだ。

書類と筆記と実務試験で残った七名は、少なくとも基礎能力では大きく外していない。

問題はその先――匠一の隣に立てるかどうかだ。


通達の下部には、二次選抜の概要が記されていた。


個別面接

状況判断試験

対人調整試験

必要に応じて追加確認あり

必要に応じて。

この一文が、いかにも匠一側らしい。


「追加確認って何だと思う?」

「分かりません」

「怖くない?」

「少しは」

「少しなんだ」

「未知ですので」

「その割に落ち着いてるよね」

「落ち着いていないと、面接で損をします」


そう言って、セレネはすでに次の準備に頭を切り替えていた。


一方、一次で落ちた側は、だいぶ率直だった。


「無理」

「無理でした」

「秘書試験じゃない」

「知ってたけど、知ってた以上だった」

「途中から“匠一確認事項”の扱いで頭が痛くなった」

「全部確認に回したら死ぬし、全部自分で決めても死ぬ」

「どうしろっていうの」

「たぶん、その間を見ろってことなんだろうね……」


廊下のあちこちで、そんな会話が交わされる。

悔しさはある。

だが、納得もあった。

あの試験を抜けるには、ただ優秀なだけでは足りない。

“あの周辺”に必要な優秀さが要る。


同じ頃、匠一の執務室では、二次候補者の簡易資料が机に並べられていた。


「七人か」

「妥当な数です」

「多すぎず、少なすぎず」

「ええ。面接で見切れる範囲です」


ノクスが並べた資料には、一次の得点だけでなく、答案の傾向も簡潔に記されている。


文面整理に優れるが、優先順位判断が保守的

対人調整に強いが、物資運用理解が浅い

記録精度が高く、接続判断も良好

現場想定に強いが、守秘意識の記述がやや粗い

匠一は一枚ずつ目を通し、時折短く唸った。


「この“保守的”ってのは?」

「判断を先送りしがちです」

「俺の周りだと詰むな」

「詰みます」

「こっちの“越権傾向”は?」

「決めてはいけないことまで決める」

「それも困る」

「ええ」


そして、セレネの資料。


セレネ・アストラ/秘書課


文面整理:優

優先順位判断:優

記録接続:優

守秘意識:良

傾向:過不足なく整理。保留管理が適切。本人決裁と代理判断の線引きが明確。誇張表現なし。

匠一はその最後の一文を見て、少しだけ笑った。


「誇張表現なし、って評価項目か?」

「重要です」

「まあ、そうか」

「盛る人材は、後で齟齬を起こします」

「それはそう」


ノクスは淡々と続ける。


「ただし、一次はあくまで紙の上です」

「分かってる」

「二次では、対人の圧と、想定外への反応を見ます」

「圧って言うな」

「事実です」

「誰の?」

「主に、あなたと周辺の」

「否定しづらいな……」


匠一は椅子にもたれ、天井を見た。


自分の隣に置く人間。

それは、能力だけで決められるものではない。

爆炎パーティの面々は、良くも悪くも濃い。

ノクスは精密すぎる。

《ソラ》は快適すぎるうえに機能が多すぎる。

爆炎ハウスは家と基地の境目が曖昧だ。

その全部の中で、流されず、折れず、しかし硬すぎもしない人間が要る。


「二次、俺も全部出る」

「当然です」

「当然か」

「CEO秘書候補の面接ですので」

「だよな」


二次選抜当日。


会場は一次より小さい応接会議室に変わっていた。

候補者は七名。

待機室も静かだ。

一次を抜けた者同士、無駄に牽制し合う空気はない。

その代わり、皆それぞれに集中している。


セレネは壁際の席に座り、膝の上で指を組んでいた。

緊張がないわけではない。

だが、表に出すほどではない。


待機室の扉が開き、補助職員が名を呼ぶ。


「セレネ・アストラ様。面接室へどうぞ」


「はい」


立ち上がり、裾を整え、歩く。

廊下は短い。

だが、その数歩の間に、彼女は頭の中を静かに整えた。


問われるのは、たぶん能力だけではない。

考え方。

線引き。

圧への耐性。

そして、匠一の隣に立つ覚悟があるかどうか。


扉の前で一度だけ呼吸を整え、ノックする。


「どうぞ」


中に入ると、面接官は三人だった。


中央に匠一。

右にノクス。

左に人事補佐の年長職員。


セレネは一礼し、着席を促されてから静かに座る。


匠一は、まず彼女を見た。

書類で見た印象と、大きくは違わない。

落ち着いている。

整っている。

だが、ただ静かなだけではない。

視線が死んでいない。


「セレネ・アストラさん」

「はい」

「一次、良かった」

「ありがとうございます」

「まず確認だけど、今回の募集要項、読んだ上で来てるよな」

「はい」

「《ソラ》乗艦あり、爆炎ハウス常駐の可能性あり、必要時現場同行あり」

「承知の上で応募しております」

「普通の秘書じゃないって分かってる?」

「はい。単独の上役補佐ではなく、拠点・人員・案件を接続する運営補佐職だと理解しています」


即答だった。

しかも、言葉がずれていない。


匠一は少しだけ目を細める。


「そう思った理由は?」

「一次試験の構成からです」

「試験から?」

「はい。文面整理や守秘だけでなく、運用計画、優先順位判断、保留管理、

決裁線引きが重視されていました。

したがって、求められているのは秘書技能単体ではなく、運営中枢補助だと判断しました」


ノクスが横で、ほんのわずかに視線を動かした。

匠一はそれに気づいたが、何も言わない。


「じゃあ聞くけど」 匠一は机上の紙を一枚めくった。

「俺が“あとで見る”ってメモだけ残して消えた時、どうする?」

「内容と前後文脈によります」

「分からなかったら?」

「所在確認を優先します」

「見つからなかったら?」

「他案件への影響範囲を確認し、本人決裁必須案件のみ保留管理に移します。

代理判断可能なものは進めます」

「全部待たない?」

「全部待つと、組織が止まります」

「全部進めない?」

「越権になります」


匠一は、そこで少しだけ笑った。


「そのへんの線引き、好きだな」

「必要ですので」

「俺が嫌がっても?」

「嫌がる内容によります」

「強いな」

「必要な範囲です」


その返しに、人事補佐がわずかに咳払いで笑いを隠した。


ノクスが次の質問を引き取る。


「爆炎ハウスと《ソラ》の違いを、運営上どう見ますか」

「爆炎ハウスは常設本部として、人員・物資・訓練・会議の基点です。

《ソラ》は移動拠点であり、輸送・遠征・研究・生活維持が同時進行するため、

時間と空間の制約がより強い。

したがって、《ソラ》では案件整理よりも先に、

導線と積載と決裁順の管理が重要になると考えます」

「なぜです?」

「一つの遅れが、そのまま出航遅延や搬入不整合に直結するためです」


ノクスは短く頷いた。


「では、爆炎パーティの構成員が予定外の回収物を大量に持ち帰った場合は」

「物品の危険性確認、保管先の確保、記録の仮登録、

研究棟または物資管理への一次連絡を優先します」

「叱責は?」

「必要なら後です」

「先ではなく?」

「先に叱ると、物が腐るか爆発するかもしれません」


一瞬、部屋が静かになった。

それから匠一が吹き出した。


「いいな、それ」

「事実かと」

「事実だな……」


人事補佐が、ここで少し柔らかい質問に切り替える。


「匠一様直属、という立場についてはどう考えていますか」

「名誉ではあります」

「ですが?」

「名誉である以上に、責任が重いと考えています」

「具体的には」

「匠一様個人の予定管理だけでなく、

その判断が拠点運用や対外調整に波及するため、秘書の処理一つが全体に影響します。

したがって、近い位置にいること自体が権限ではなく、誤差を減らす責任だと認識しています」


匠一は、今度は笑わなかった。

ただ、じっと彼女を見た。


誇張がない。

媚びもない。

だが、軽くもない。


「最後に一つ」 匠一が言う。

「俺の周り、たぶん思ってるより面倒だぞ」

「承知しています」

「爆炎パーティも濃い」

「はい」

「《ソラ》は快適すぎるし、ノクスは細かいし、俺は急に予定変える」

「はい」

「それでも来る?」

「必要と判断したので応募しました」

「後悔するかもしれないぞ」

「その時は、後悔込みで職務に含めます」


数秒、沈黙が落ちた。


それを破ったのは、匠一の短い息だった。


「……分かった。以上」

「ありがとうございました」


セレネは立ち上がり、一礼し、静かに退室した。


扉が閉まる。


しばらく誰も口を開かなかったが、最初に言ったのは人事補佐だった。


「強いですね」

「ええ」 とノクス。

「かなり」 と匠一。


彼は椅子にもたれ、扉の方を見たまま呟く。


「静かだけど、芯があるな」

「一次の印象通りです」

「いや、一次より分かった」

「何がです?」

「止めるとこは止めるし、流すとこは流す。あれ、実務で助かる」

「同感です」


ノクスは淡々としていたが、評価は高い。

匠一もそれを感じ取っていた。


まだ二次の途中だ。

他の候補者も見る必要がある。

だが少なくとも、セレネ・アストラは“有力候補”から一段上がった。


匠一の隣に立つ姿が、初めて少しだけ具体的に見えたのだった。


面接はその後も続いた。


一次を抜けてきただけあって、残る候補者たちは皆それぞれに強みを持っていた。

渉外部出身の一人は、対人調整と交渉の間合いがうまい。

輸送管理局の候補者は、物資と時間の組み方に無駄がない。

記録保全部門の候補者は、報告精度と不備検出が抜群だった。

秘書課のもう一人は、上役補佐としての完成度が高く、予定管理と文面処理にほとんど隙がない。


だが、全体を見終えた時、匠一とノクスの間には、すでにある程度の共通認識ができていた。


「……悪くない」 最後の候補者が退室したあと、匠一が言った。

「ええ。一次通過者としては十分に優秀です」

「でも」

「でも、があります」


ノクスは机上の評価票を整えた。


「渉外に強い者は、現場の混線にやや弱い」

「うん」

「運用に強い者は、対人の柔らかさが足りない」

「うん」

「秘書として完成度が高い者は、拠点横断の判断で慎重すぎる」

「うん」

「記録に強い者は、前に出る判断が遅い」

「……で、セレネは?」

「平均が高いのではなく、必要な軸が揃っています」


匠一は腕を組んだ。


「やっぱりそこか」

「ええ」

「突出型じゃない」

「ですが、今回必要なのは単独技能の突出ではありません」

「接続役、か」

「はい。しかも、あなたの隣で」


人事補佐も静かに頷いた。


「正直に申し上げると、通常の社長室秘書であれば別の評価軸もあり得ます。

ですが今回は、爆炎ハウス、《ソラ》、爆炎パーティ、研究棟、外部窓口、その全部が絡む」

「だから“全部を少しずつ”じゃなくて、“全部をつなげられる”人間が要る」

「その通りです」


匠一はしばらく黙っていた。

そして、机上の評価票の一枚を指先で軽く叩く。


「最終、どうする」

「顔合わせを入れるべきです」 ノクスが即答した。

「やっぱり?」

「当然です。書類と面接だけで決めるには、周辺環境が特殊すぎます」

「それはそう」

「爆炎パーティとの接触時にどう振る舞うか。

《ソラ》や爆炎ハウスの話を聞いても軸がぶれないか。

あなたの急な投げ方に耐えられるか。

そこを見ないと、筆頭秘書=CEO秘書は決められません」

「……俺の急な投げ方、試験項目なんだ」

「重要項目です」

「ひどいな」

「事実です」


匠一は反論を諦めた。


「じゃあ、最終候補は?」

「三名に絞るのが妥当です」

「セレネは入る」

「入ります」

「他二人は?」

「渉外部のレティシア・ヴァルン。対人調整と外部折衝に強い」

「うん」

「輸送管理局のガレス・フォード。運用計画と物資導線に強い」

「なるほど」


三人。

それぞれ色が違う。

そして、最終で見るべき点もはっきりしている。


「じゃあ、顔合わせだな」

「はい」

「場所は?」

「爆炎ハウスが最適です」

「いきなり本丸か」

「本丸だからです」


ノクスの言うことはもっともだった。

どうせ最終的に常駐や出入りが発生するなら、最初から本物の空気に触れさせた方が早い。

取り繕った会議室では分からないことが、爆炎ハウスには山ほどある。


「《ソラ》は?」

「今回はまだ不要です。まずは地上拠点で十分でしょう」

「まあ、いきなり乗せると情報量が多すぎるか」

「ええ。段階を踏むべきです」


匠一は立ち上がり、軽く肩を回した。


「……よし。じゃあ最終は、爆炎ハウスで顔合わせ兼実地確認」

「承知しました」

「爆炎パーティにも伝える」

「その際、“遊ばないように”と念押しを」

「無理だろ」

「でしょうね」

「でも言うだけ言う」


最終候補者への通知は、その日の夕方には送られた。


【匠一直属秘書選抜 最終選抜のご案内】


内容は簡潔だが、最後の一文だけが妙に重い。


最終選抜は、爆炎ハウスにて実施します。


セレネはその文を見て、ほんの少しだけ目を止めた。


爆炎ハウス。

噂だけなら、いくらでも聞いている。

快適すぎる生活拠点。

だが同時に、訓練場と武器庫と会議室を備えた本部。

家であり、基地であり、日常と作戦が同居する場所。


そこに行く。

しかも、選抜として。


「最終、来た?」 同僚が身を乗り出す。

「はい」

「どう?」

「爆炎ハウスです」

「うわ」

「……“うわ”ですか」

「だって本丸じゃない」

「そうですね」

「緊張しない?」

「します」

「見えないんだけど」

「見せる必要がありませんので」


同僚は苦笑した。


「でも、いよいよだね」

「はい」

「筆頭、狙う?」

「受ける以上は」

「やっぱり言うと思った」


セレネは通知を丁寧に畳み、机の引き出しにしまった。

その動作はいつも通りだったが、胸の内は少しだけ違う。

ここから先は、もう紙の上ではない。

実際の空気。

実際の人間。

実際の“あの周辺”。


そこに自分が立てるかどうかが問われる。


一方、爆炎ハウスでは、最終選抜の話がすでに広まっていた。


「最終候補、三人?」 ダンが食堂の椅子を後ろ向きにして座りながら言う。

「そうだ」 匠一は書類を見たまま答えた。

「で、ここに来るのか」

「来る」

「へえ」

「“へえ”じゃない。変なことするなよ」

「してないだろ」

「お前がそう言う時は信用できない」

「ひどい!」


その横で、マリーが面白そうに資料を覗き込もうとして、ノクスに無言で遮られていた。


「見せてくれてもいいじゃない」

「まだです」

「けち」

「守秘です」

「正論なのが腹立つわね」


ハナは苦笑しながら茶を淹れている。

キールは少し離れた場所で、静かに話を聞いていた。

クロとユキも、表には出さないが気にしているのが分かる。


「どんな試験にするの?」 ハナが尋ねる。

「顔合わせと、簡単な実地判断」 匠一が答える。

「簡単?」 マリーが即座に反応した。

「匠一の言う“簡単”は信用ならないのよ」

「今回は本当に簡単だ」

「たとえば?」

「爆炎ハウスの中で、予定変更と来客と物資搬入が重なった時にどう動くか、とか」

「全然簡単じゃない」

「日常だぞ」

「日常が重いのよ、ここは」


それには誰も反論しなかった。


ノクスが淡々と補足する。


「加えて、候補者には爆炎パーティの主要構成員と短時間接触してもらいます」

「やっぱりそれ入るのね」 マリーがにやりと笑う。

「当然です。あなた方と無関係ではいられませんので」

「面白そう」

「遊びではありません」

「分かってるわよ。でも、見る価値はあるでしょ」

「それは否定しません」


ダンが腕を組む。


「で、俺たちは何見ればいいんだ?」

「雑に好みで決めるな」 匠一が先に釘を刺した。

「分かってるって。そうじゃなくて」

「一緒にいて無理がないか、だな」 キールが静かに言った。

「……ああ」 匠一はそちらを見る。

「たぶん、強いとか賢いとかだけじゃなくて、ここで回るかどうかだろ」

「そういうことだ」

「なら、変に試すより普通に接した方が分かるかもね」 ハナが言う。

「普通、ねえ……」 マリーが少し笑う。

「この家の“普通”って、外から見たらだいぶ変だけど」

「だからこそです」 ノクスが言った。

「取り繕わない方が、適性は見えます」


匠一はその言葉に頷いた。


そうだ。

最終で見るべきなのは、完璧な受け答えではない。

爆炎ハウスという、家であり基地でもある場所の空気の中で、候補者がどう立つか。

濃い面々に囲まれ、予定が揺れ、物が動き、

人が勝手に増えるこの環境で、流されず、固まりすぎず、必要な判断ができるか。


それが見えれば十分だった。


最終選抜当日。

空はよく晴れていた。


爆炎ハウスの前庭兼発着場には、朝の光が広く落ちている。

建物は大きい。

だが威圧的というより、妙に生活感と機能性が同居している。

窓は多く、出入り口は広い。

一方で、側面には荷運び用の導線があり、裏手には訓練場へ続く気配もある。


セレネは門前で一度足を止め、その全体を見上げた。


――なるほど。


噂通りだ。

家に見える。

だが、ただの家ではない。

人が暮らし、同時に動き、備え、出るための場所だ。


「セレネ・アストラ様ですね」 出迎えた補助職員が一礼する。

「はい」

「こちらへどうぞ。最終候補者の方は応接室へご案内しています」


中へ入ると、空気が変わった。

木の匂い。

食堂の方から漂う温かな香り。

どこかで人が動く気配。

遠くで金属音。

そして、静かに整えられた廊下。


快適だ。

だが、気が抜ける種類の快適さではない。

むしろ、ここで働く者の動きを邪魔しないように整えられた快適さだ。


応接室には、すでに二人の候補者がいた。


レティシア・ヴァルン。

渉外部出身。

柔らかな笑みを浮かべる、整った雰囲気の女性。


ガレス・フォード。

輸送管理局出身。

体格のいい、落ち着いた男。

事務職というより現場寄りの空気を持っている。


「おはようございます」 セレネが一礼する。

「おはようございます」 レティシアが微笑む。

「おはよう」 ガレスも短く返した。


三人。

ここまで残った者同士、妙な敵意はない。

だが、互いに相手が強いことは分かっている。


やがて扉が開き、ノクスが入ってきた。


「お待たせしました。最終選抜を開始します」


その声に、三人の視線が自然と集まる。


「本日は、爆炎ハウス内での顔合わせ、環境確認、ならびに簡易実地判断を行います。

なお、予定は固定ではありません」 一拍置いて、ノクスは続けた。

「固定ではありませんので、途中で変更が入る可能性があります」 レティシアがわずかに笑う。

「試験らしいですね」

「日常です」 ノクスは真顔で答えた。


その瞬間、セレネは少しだけ理解した。

ああ、たしかにこれは試験である前に、日常なのだ。


そして、その日常の中心に立つ人間を、今から選ぶのだ。


応接室を出ると、ノクスは三人を先導して廊下を進んだ。


歩きながらも、候補者たちは自然と周囲を見ていた。

壁際に整然と置かれた備品。

生活拠点らしい温度のある内装。

その一方で、角を曲がるたびに見える案内板や導線表示は、

明らかに“人が多く動く場所”の作りだ。


ただ住むための家ではない。

だが、ただの基地でもない。

その中間を、かなり高い精度で成立させている。


「まずは、爆炎ハウスの主要区画を簡単にご案内します」 ノクスが言う。

「見学、というより確認です。

今後ここに出入りする可能性がある以上、空間の把握は必須ですので」


最初に通されたのは、大食堂兼談話室だった。


広い。

明るい。

長机がいくつも並び、食事にも会議にも使えそうな作りになっている。

奥には厨房が見え、すでに昼の仕込みらしき気配がある。

生活の中心であり、同時に人が集まるハブでもあることが一目で分かった。


「ここは日常の中心です」 ノクスが簡潔に説明する。

「食事、軽会議、待機、情報共有。

非公式な相談もここで発生しやすい」

「つまり、正式な会議室以外でも情報が動くんですね」 レティシアが言う。

「ええ」

「把握しました」


セレネは室内を見回し、椅子の配置と出入口の位置を頭に入れた。

人が集まる場所は、情報が集まる場所でもある。

同時に、予定外が発生しやすい場所でもある。


次に案内されたのは作戦会議室。

こちらは一転して機能的だった。

地図、記録板、可動式の机、壁際の収納。

長居するための部屋ではなく、決めるための部屋だ。


その次は書類室。

さらに二階へ上がり、秘書チーム詰所予定区画。

まだ完全には整っていないが、机の配置や棚の位置から、

今後の運用を見越していることが分かる。


「ここが、秘書チームの主な執務区画になります」 ノクスが言う。

「筆頭秘書席はこの位置を予定しています」 示された場所は、廊下と書類室、

そして階下への動線を見渡しやすい位置だった。


ガレスが低く唸る。

「……動きやすいな」

「ええ」 ノクスは頷く。

「閉じた個室ではなく、流れを見られる位置を優先しています」

「秘書っていうより、司令部補佐席だな」

「その認識で概ね正しいです」


セレネはその席を見て、ほんの少しだけ想像した。

ここに座る。

ここから人と物と予定の流れを見る。

必要なら階下へ降り、必要なら書類室へ入り、必要なら匠一のところへ行く。


たしかに、ただの秘書席ではない。


一通りの案内が終わる頃には、候補者たちの表情にも少し変化が出ていた。


レティシアは興味深そうに周囲を観察し続けている。

ガレスは導線と物資運用の視点で見ているのが分かる。

セレネは全体の接続を見ていた。


ノクスはそれを横目で確認しつつ、最後に食堂へ三人を通した。


「ここで、主要構成員との顔合わせを行います」


その言葉の直後、食堂の空気が少しだけ変わった。


すでに何人かがいた。

ダン。

キール。

マリー。

ハナ。

クロ。

ユキ。

そして少し離れた位置に、匠一。


全員が勢揃いというわけではない。

だが、十分に“濃い”。


候補者三人は自然と足を止めた。


「よう」 最初に声をかけたのはダンだった。

「最終候補ってあんたらか」

「ダン」 匠一が低く呼ぶ。

「分かってるって。普通にする」


普通。

たぶん、この場でいちばん信用ならない言葉だった。


ノクスが淡々と紹介を進める。


「こちらが最終候補者三名です。

秘書課よりセレネ・アストラ。

渉外部よりレティシア・ヴァルン。

輸送管理局よりガレス・フォード」


三人が順に一礼する。


「爆炎パーティ主要構成員との顔合わせです。

本日は短時間ですが、相互の印象確認も兼ねています」


マリーがにこやかに笑った。

「よろしくね。そんなに固くならなくていいわよ」

「お前が言うと逆に固くなる」 と匠一。

「失礼ね」

「事実だろ」


そのやり取りだけで、候補者たちは少し理解する。

この組織は上下がないわけではない。

だが、硬直した上下関係だけで回っているわけでもない。


ハナが柔らかく口を開いた。

「今日は試験っていうより、まず雰囲気を見てもらう感じかな。

こっちも、どんな人が来るのか知りたいし」

「はい」 レティシアが穏やかに応じる。

「こちらも、実際にお会いできて光栄です」

「うわ、ちゃんとしてる」 ダンが小声で言い、キールに肘で小突かれていた。


キールは候補者たちを静かに見てから、短く言う。

「ここ、見た通りちょっと特殊だから。

無理に合わせようとしない方がいい」 その言葉は、意外なほど率直だった。

「合わせようとして崩れるより、できることとできないことをちゃんと言える方が助かる」

「……ありがとうございます」 セレネが答える。

「参考になります」


クロは壁際に寄りかかったまま、じっと三人を見ていた。

ユキも無言だが、視線は鋭い。

観察されている。

それは三人とも感じていた。


匠一はその空気を見て、軽く息を吐く。


「まあ、そんなに構えるな。

今日は“ここでやっていけそうか”を見るだけだ」

「それが一番難しいのでは?」 レティシアが少し笑って言う。

「かもな」 匠一もあっさり認めた。


その時だった。


食堂の外から、足音が近づいてくる。

続いて、補助職員が少し慌てた様子で顔を出した。


「失礼します。研究棟から連絡です」

「何だ」 ノクスが振り向く。

「本日午後搬入予定だった試験素材が、予定より一時間早く到着するそうです」

「早いな」 匠一が眉を寄せる。

「加えて、冷凍保管前提の品目が含まれるとのことです」

「……今か」 ノクスが短く呟く。


さらに、別の職員が続けて入ってきた。


「すみません、外部来客が一件。

予定より早く到着されました」

「誰だ」

「深淵ダンジョン側の連絡員です」

「重なるなあ」 マリーが面白そうに言う。

「重なりますね」 ハナは苦笑した。


候補者三人の空気が、わずかに変わる。

これが“固定ではありません”の意味か。


ノクスは一瞬だけ匠一を見る。

匠一もまた、ほんの一瞬だけ考えた。

そして、口元を少しだけ上げる。


「……ちょうどいい」

「ええ」 ノクスが即座に応じる。


匠一は候補者たちへ向き直った。


「最終選抜、追加だ」 ダンがにやっとする。

「来たな」

「お前は黙ってろ」


匠一は三人を見渡した。


「状況は聞いた通り。

研究棟搬入前倒し。冷凍保管品あり。

外部来客も前倒し到着。

こっちは今、顔合わせ中。

この場で、お前らならどう動くか聞く」


レティシア、ガレス、セレネ。

三人の視線が自然と前を向く。


「条件を足す」 匠一が続ける。

「爆炎ハウスの訓練場は午後使用予定。

裏導線は使えるが、搬入と人の流れがぶつかる可能性がある。

俺はこのあと十分で別件確認が入る。

ノクスは《ソラ》側の出航前確認もある。

さて、どうする?」


食堂が静まり返る。


最初に口を開いたのはガレスだった。


「搬入物の品目確認を最優先で取ります。

冷凍前提品の数量とサイズ次第で、爆炎ハウス側冷凍保管庫を一時使用するか、

《ソラ》側点検区画外へ回すか判断が変わる」

「うん」 匠一が頷く。

「外部来客は?」

「一次応対で待機。

深淵ダンジョン側なら、完全な門前払いは避けるべきだ」

「悪くない」


次にレティシア。


「来客対応は私なら先に引き取ります。

面会目的と緊急度を確認し、匠一様本人対応が必要か、

秘書側一次受けで足りるかを切り分けます。

その間に搬入側は品目確認と導線確保を進める」

「訓練場との衝突は?」 ノクスが問う。

「訓練開始時刻をずらせるなら調整。

難しければ搬入導線を裏手固定にして、人の流れを切り分けます」

「なるほど」


そして、セレネ。


彼女は一拍だけ置いてから話し始めた。


「まず、二件を同列には扱いません」 匠一が少し目を細める。

「続けて」

「研究棟搬入は、冷凍保管品を含む以上、遅延や誤導線が物品損耗と安全性に直結します。

したがって、初動優先は搬入側です」

「来客は後回し?」

「完全な後回しではありません。

ただし、深淵ダンジョン側連絡員であれば、一次応対で数分の待機は成立する可能性が高い。

よって、秘書側または補助職員が即時に受け、面会目的のみ先に確認します」

「搬入は具体的に?」

「品目確認、冷凍要否確認、保管先仮確保、導線分離です。

訓練場使用予定があるなら、訓練開始前に搬入を通すか、裏導線固定で人流を切ります。

この時点で匠一様本人の決裁は不要です」

「不要?」

「はい。

保管先仮確保と導線整理は、運用判断の範囲です。

本人決裁が必要なのは、訓練予定の大幅変更や、来客対応を正式面会へ切り替える段階です」

「……俺の十分後の別件確認は?」

「その前に、本人確認事項を二つに絞って提示します。

一、訓練開始時刻変更の可否。

二、深淵ダンジョン側連絡員への本人面会要否。

それ以外は先に回します」


食堂が静かになる。


ダンが小さく「おお」と漏らし、マリーが面白そうに目を細めた。

キールは無言のまま、少しだけ視線を動かす。

ハナは柔らかく笑っている。

クロとユキは相変わらず静かだが、見方が少し変わったのが分かった。


匠一は腕を組んだまま、セレネを見ていた。


「何で二つに絞る?」

「十分後の確認時間で、判断負荷を増やさないためです」

「三つじゃなく?」

「増やすほど、即断精度が落ちる可能性があります」

「俺がそんなに雑に見える?」

「忙しい時の判断は、誰でも粗くなります」

「……言うなあ」

「必要な範囲です」


その返答に、今度はマリーが吹き出した。


「好きね、その言い方」

「便利だろ」 匠一がぼそっと言う。

「認めるのね」


ノクスが静かに口を開く。


「補足質問です。

もし搬入品の一部が危険物で、通常保管庫に入れられない場合は?」

「危険性確認が済むまで隔離仮置きです」 セレネは即答した。

「場所は?」

「人流から切り離せる区画。

可能なら研究棟側責任者立会い。

なければ、爆炎ハウス側で一時封鎖可能な保管区画を使用します」

「記録は?」

「仮登録を先に。

正式分類は後でも、所在不明にはしません」


ノクスは短く頷いた。


「十分です」


その場の空気が、少しだけ変わった。


試験としての緊張はまだある。

だがそれ以上に、候補者たちが“実際にここでどう動くか”が見え始めていた。


ガレスは運用に強い。

レティシアは対人の切り分けがうまい。

そしてセレネは、その両方をつなぎながら、匠一に投げる判断を絞れる。


匠一はそれを、かなりはっきり感じていた。


「よし」 彼は腕を解いた。

「追加確認はここまで。

このあと昼食を挟んで、最後に個別で少し話す」

「まだあるのね」 マリーが楽しそうに言う。

「ある」

「容赦ないわね」

「最終だからな」


候補者三人はそれぞれに息を整えた。

まだ終わっていない。

だが、今のやり取りで、少なくとも“ここが何を求めているか”はかなり明確になった。


爆炎ハウスで必要なのは、綺麗な受け答えだけではない。

人と物と予定がぶつかった時に、何を先に動かし、何を待たせ、何を本人に上げるか。

その線引きを、実際の空気の中でできること。


そして、その中心に立つ人間を、匠一は選ぼうとしている。


昼食は、大食堂兼談話室でそのまま取ることになった。


「試験の途中で昼食?」 レティシアが少し意外そうに言う。

「ここでは普通だ」 匠一が答えた。

「むしろ、飯の時の方が分かることもある」

「何がです?」 ガレスが問う。

「人となり」 マリーがにやりと笑う。

「あと、変に気を張り続けるタイプかどうか」

「お前が言うと試験っぽさが増す」 と匠一。

「だって試験でしょ?」

「まあそうだが」


候補者三人は、促されるまま席についた。

長机の一角。

爆炎パーティの面々も、あえて散らずに近い位置に座る。

囲むというほど露骨ではないが、自然に“見られている”配置だ。


やがて料理が運ばれてくる。


香りが立つ。

温かいスープ。

焼きたての肉料理。

野菜の付け合わせ。

焼きたてのパン。

さらに、見た目以上に整った栄養バランス。


レティシアが目を瞬かせた。

「……すごいですね」

「だろ?」 ダンが得意げに言う。

「お前が作ったわけじゃないだろ」 キールが即座に突っ込む。

「でもうまいぞ」

「それは見れば分かる」


セレネは皿を前にして、ほんの少しだけ理解した。

快適すぎる、という噂は誇張ではない。

だが、贅沢というより“ちゃんと回すための食事”だ。

量も質も、働く人間を前提にしている。


「どうぞ、冷めないうちに」 ハナが柔らかく勧める。

「ありがとうございます」 三人が揃って礼を言う。


食事が始まると、最初の数分は静かだった。

候補者たちは食べ方一つまで見られている気配を感じているし、

爆炎パーティ側もあえて急かさない。


その沈黙を最初に崩したのは、意外にもユキだった。


「……味、どう」


短い。

だが、ちゃんとした問いだった。


レティシアが少し驚きつつも笑う。

「とてもおいしいです」 ガレスも頷く。

「うまい」 セレネは一拍置いてから答えた。

「おいしいです。

それだけでなく、午後の活動を前提に組まれているように感じます」 ユキが少しだけ目を上げる。 「……分かるんだ」 「量と塩分と温度の配分が、そう見えました」 「へえ」 マリーが面白そうに言う。 「そこ見るんだ」 「食事も運用の一部ですので」 「また出たわね、その感じ」 「事実です」


ダンがパンをちぎりながら、候補者たちを見比べる。


「なあ、聞いていいか?」 「内容によります」 とセレネ。 「即答だな」 「どうぞ」 「何でこの仕事受けたんだ?」


直球だった。

だが、悪意はない。

純粋な興味だ。


レティシアが先に答える。

「私は、人と人の間に立つ仕事が好きなんです。

渉外をやっていると、言葉一つで流れが変わることがある。

今回の募集は、その規模がもっと大きいと感じました」

「なるほど」 ダンが頷く。

「ガレスは?」

「俺は逆だな。

物と時間がきれいに回るのを見るのが好きだ。

輸送管理は性に合ってる。

で、今回の募集は、その上に人の判断が乗る。面白いと思った」

「へえ」

「セレネは?」 ダンの視線が向く。


セレネはスプーンを置き、少しだけ考えてから答えた。


「必要だと思ったからです」

「必要?」

「はい。

今の匠一様の周辺は、個人の処理能力に依存しすぎているように見えました。

それは短期的には回っても、規模が大きくなるほど歪みになります。

なら、そこを支える役が必要です」

「……それだけ?」 マリーが少し目を細める。

「それだけ、ではありません」

「じゃあ他は?」

「面白そうだとも思いました」 一瞬、食堂が静かになった。

「面白そう?」 匠一が聞き返す。

「はい。

組織の流れが最も集まる場所だと感じましたので」

「……へえ」 匠一はそれ以上言わなかったが、少しだけ口元が動いた。


キールが静かに口を開く。


「面白そう、で来て、きつくても平気か?」

「平気かどうかは、やってみなければ分かりません」 セレネは率直に答えた。

「ただ、必要で、かつ面白いと思える仕事の方が、

長く続ける価値はあると考えています」

キールは短く頷いた。

「それはそうだな」


ハナは候補者たちの皿の減り方や、会話の間の取り方を見ていた。

レティシアは場を柔らかくするのがうまい。

ガレスは無駄に喋らないが、必要な時には言葉が出る。

セレネは静かだが、黙って流されるタイプではない。


「ねえ」 マリーがふと思いついたように言う。

「もし匠一が、朝に“今日は静かに過ごす”って言った三十分後に、

急に“やっぱり出る”って言い出したらどうする?」

「お前、それ試験じゃなくて実例だろ」 匠一が呆れたように言う。

「実例なの?」 レティシアが笑う。

「たまにある」 ノクスが真顔で答えた。

「たまに、で済むの?」

「頻繁ではありません」

「頻繁じゃないだけであるのね……」


ガレスが先に答えた。

「出るなら出るで、必要物資と同行者を即時再編する」

「レティシアは?」

「先に“何が変わったのか”を確認します。

理由次第で、止めるべきか急ぐべきかが変わるので」

「セレネは?」

「両方です」

「両方?」

「変更理由の確認と、出る前提の再編を並行します。

理由確認だけしていると遅れますし、再編だけ先にすると無駄が出る可能性があります」

「止めることもある?」 匠一が聞く。

「あります」

「俺を?」

「必要なら」

「言うなあ」

「必要な範囲です」 またそれか、とダンが笑った。


食事の空気は、少しずつ和らいでいった。

候補者たちも、最初ほど肩に力が入っていない。

だが、その緩み方にも差がある。

レティシアは場に馴染むのが早い。

ガレスは変わらず落ち着いている。

セレネは馴染みすぎず、距離を保ちつつ必要な分だけ入る。


それを見ながら、匠一は内心でかなりはっきりしてきていた。


昼食後、候補者たちは順に個別確認へ呼ばれた。


最後の確認は、二階の仮設秘書区画――筆頭秘書席予定の近くで行われた。

場所そのものが、すでに問いになっている。


最初はレティシア。

次にガレス。

そして最後にセレネ。


「どうぞ」 ノクスの声に促され、セレネが入る。


部屋には匠一とノクスだけがいた。

人事補佐はいない。

つまり、これはもう形式的な面接ではない。


「座って」 匠一が言う。

「失礼します」


セレネが座ると、匠一は少しだけ間を置いた。

窓から入る光が、まだ整いきっていない机の上を照らしている。

ここが、将来の秘書チームの中心になる。

その空気を、あえて感じさせるための場所だ。


「率直に聞く」 匠一が言った。

「ここ、どう見えた?」 セレネは周囲を一度だけ見てから答える。

「未完成ですが、意図は明確です」

「どんな」

「閉じた社長室秘書ではなく、流れを見る席です。

書類室、階下、出入口、いずれにも動きやすい。

個人作業より、接続と即応を優先した配置だと感じました」

「合ってる」 匠一は頷く。

「じゃあもう一つ。

この席に座る人間に、一番要るものは何だと思う?」

「判断の速さ、ではありません」

「ほう」

「速さだけなら、誤る可能性があります。

必要なのは、何を自分で回し、何を上げ、何を止めるかの線引きです」

「自信ある?」

「過信はしません」

「でも?」

「担う覚悟はあります」


匠一はその答えを、しばらく黙って受け止めた。


「俺の隣、楽じゃないぞ」

「承知しています」

「ノクスは細かい」

「必要な精度だと理解しています」

「爆炎パーティは予定外を持ち込む」

「今日で少し想像がつきました」

「《ソラ》はもっと情報量が多い」

「段階的に把握します」

「……逃げないな」

「必要だと思って来ましたので」


ノクスがここで初めて、少しだけ柔らかい声を出した。


「一つだけ確認します。

筆頭秘書は、匠一様に従うだけの役ではありません。

必要なら、止める役でもあります。

それを理解していますか」

「はい」

「嫌われる可能性もあります」

「職務上必要なら、受け入れます」

「本人が不機嫌でも?」

「不機嫌と必要性は別です」 匠一が思わず笑う。

「お前、ほんとに言うな」

「必要な範囲です」

「便利だな、その言葉」

「便利です」


少しだけ、空気が和らいだ。


それから匠一は、机の上の紙を一枚裏返した。

そこには何も書かれていない。

ただの白紙だ。


「最後」 彼は言う。

「もし今日ここで決まったとして、最初に何をする?」 セレネは即答しなかった。

数秒だけ考え、それから答える。


「現状把握です」

「具体的には?」

「未処理案件、定期案件、決裁線、拠点ごとの流れ、関係者の役割、保管書式、連絡経路。

まずそれを見ます」

「いきなり改革しない?」

「現状を見ずに整えると、壊します」

「……だよな」

「ただし」

「ただし?」

「明らかな詰まりがあるなら、そこだけは先に抜きます」

「たとえば?」

「匠一様個人に集中しすぎている確認事項の整理です」

「俺か」

「はい」

「最初に俺を整えるの?」

「中心が詰まっていると、周囲も詰まりますので」

「……ひどい言われようだ」

「事実かと」

ノクスが静かに補足した。

「事実です」

「お前まで乗るなよ」


だが、そのやり取りの中で、匠一の中ではもうほとんど決まっていた。


派手さではない。

忠誠を叫ぶでもない。

だが、必要なことを必要な順で見て、言うべきことを言える。

そして、流れを整える視点が最初からある。


それは、今の自分の隣に最も欲しい人間だった。


「分かった」 匠一が言う。 「以上」

「ありがとうございました」


セレネが一礼して退室する。

扉が閉まると、部屋は静かになった。


数秒後、匠一が息を吐く。


「……決まりだな」

「ええ」 ノクスも即答した。 「異論はありません」

「レティシアも良かった。ガレスも強かった」

「はい」

「でも筆頭は、あれだ」

「セレネ・アストラが最適です」

「だよな」


匠一は窓の外を見た。

前庭。

発着場。

その向こうに広がる空。

ここから先、組織はもっと大きくなる。

爆炎ハウスも、《ソラ》も、研究も、遠征も、対外も。

その全部を、自分一人で抱え続けるのはもう無理だ。


だからこそ、必要だった。

自分の隣で、流れを整える人間が。


「じゃあ、呼ぶか」

「はい」


夕方。

候補者三人は再び応接室に集められた。


空気は静かだった。

ここまで来れば、誰もが何かを感じている。

手応え。

不安。

納得。

あるいは、その全部。


扉が開き、匠一とノクスが入る。


三人が立ち上がる。


「座ってくれ」 匠一が言う。

「最終選抜、お疲れさま。

先に言うけど、三人とも優秀だった。

これは本当だ」


レティシアもガレスも、静かにその言葉を受け止める。

セレネもまた、表情を変えずに聞いていた。


「その上で、今回――筆頭秘書、兼、俺の直属秘書として採用するのは」


一拍。


「セレネ・アストラ」

「……はい」


返事は短かった。

だが、その声は揺れていなかった。


「受けるか?」 匠一があえて確認する。

「お受けします」

「よし」


それだけで、決まった。


レティシアは小さく息を吐き、それから穏やかに笑った。

「納得です。おめでとうございます」

ガレスも短く頷く。 「妥当だ」

「ありがとうございます」 セレネは二人にも一礼した。


匠一は続ける。


「なお、レティシア、ガレス。

二人にも別途声をかけたい。

秘書チームは筆頭一人で終わらせるつもりはない」 レティシアが目を上げる。

「それは……」

「正式な話は後で詰める。

でも、今回ここまで残った時点で、欲しい人材なのは変わらない」 ガレスが少しだけ笑った。

「最初からそういうつもりだったか?」

「半分はな」

「正直だな」

「今さら隠しても仕方ない」


ノクスが静かに補足する。


「本日をもって、セレネ・アストラを筆頭秘書、ならびにCEO秘書候補として仮配置します。

正式発令は手続き完了後ですが、実務引き継ぎは即日開始予定です」

「即日?」 レティシアが思わず笑う。

「早いですね」

「勢いがあるうちに進めるべきですので」 ノクスは真顔だった。


匠一はセレネを見る。


「というわけで」

「はい」

「今日から頼む」

「承知しました」


その返答は静かだった。

だが、そこにはもう迷いがなかった。


こうして、爆炎パーティの運営を支える最初の秘書――

筆頭秘書にしてCEO秘書、セレネ・アストラが決まった。


それは単なる採用ではない。

匠一の隣に、初めて“流れを整える者”が立った瞬間だった。


翌朝。


爆炎ハウスの二階、仮設秘書区画には、まだ朝の光がやわらかく差し込んでいた。

正式発令の手続きは進行中だが、ノクスの言う通り、

実務引き継ぎは即日――正確には翌朝から始まることになった。


セレネ・アストラは、定刻より少し早く到着していた。


新しい席。

まだ完全には整っていない机。

空の棚。

仮置きの書類箱。

そして、ここから見える廊下と階下への動線。


彼女はまず、席に立ったまま周囲を見た。

静かだ。

だが、静かなだけではない。

家が起き始める前の、拠点が動き出す直前の気配がある。


「早いですね」


背後から声がして、振り向く。

ノクスだった。

いつも通り、寸分の乱れもない。


「初日ですので」 セレネが答える。

「遅れる理由がありません」

「結構です」 ノクスは短く頷いた。 「では、始めましょう」


そう言って差し出されたのは、薄い束ではなかった。

かなり厚い。

いや、かなりどころではない。

分類済みではあるが、それでも十分に重い。


「これは」

「現時点で、筆頭秘書席が把握すべき最低限です」

「最低限」

「はい」


セレネは束を受け取り、机に置いた。

上から順に見出しを確認する。


定期案件一覧

未処理案件一覧

爆炎ハウス常駐人員の基本動線

《ソラ》関連定期確認項目

研究棟との接続案件

深淵ダンジョン側窓口との連絡経路

匠一確認事項の現行分類

保留案件一覧

緊急時優先連絡先

「……たしかに最低限ですね」

「理解が早くて助かります」


ノクスは淡々としているが、初日から遠慮する気は一切ないらしい。


「まずは全体像を掴んでください。

その後、匠一様の現行処理状況を見ます」

「現行処理状況」

「ええ」 ノクスは一拍置いた。 「惨状です」

「率直ですね」

「事実です」


セレネは少しだけ目を伏せた。

昨日の時点で、ある程度は想像していた。

だが、ノクスがここまで明言するなら、想像よりひどい可能性が高い。


「先に申し上げておきます」 ノクスが続ける。 「匠一様は処理能力自体は高いです」

「はい」

「ですが、高いがゆえに抱え込みます」

「はい」

「さらに、途中で別件に飛びます」

「はい」

「加えて、“あとで見る”が多い」

「……はい」

「そして、本人の中では繋がっている案件が、外から見ると繋がっていない」

「なるほど」

「その“なるほど”で済ませられるのは、かなり有望です」

「ありがとうございます」


ノクスはそこで、ほんのわずかに口元を緩めた気がした。

気のせいかもしれないが。


「では、まずこちらを」 彼が次に差し出したのは、一枚の簡易図だった。

爆炎ハウス二階の区画図。

匠一の個室兼執務室、書類室、秘書区画、階段、会議室への導線が記されている。


「匠一様は、起床後しばらくは個室兼執務室にいます。

朝食前に一度、書類を見ます」

「朝食前に」

「ええ。見ます」

「処理は?」

「半分程度です」

「残りは」

「机に積まれます」

「……なるほど」

「その“なるほど”が本日二度目です」


セレネは図を頭に入れながら、静かに息を整えた。

初日に必要なのは、改革ではない。

観察。

把握。

そして、最初の詰まりを見つけること。


「では、現場を見ますか」 ノクスが言う。

「お願いします」


匠一の個室兼執務室は、二階の奥にあった。


扉の前に立った時点で、セレネは中の気配を感じた。

人がいる。

紙の擦れる音。

何かをめくる音。

そして、たぶん、机の上に物が多い音。


ノクスがノックする。


「入るぞ」

「どうぞー」


中に入った瞬間、セレネは一秒だけ視線を止めた。


――これは。


昨日、面接で見た匠一は、少なくとも机の前では普通に見えた。

だが今、目の前にあるのは“普通”ではない。


机の上に積まれた書類の山。

開いたままの台帳。

途中まで目を通したらしい報告書。

端に寄せられた補給申請。

《ソラ》関連の整備記録。

研究棟からの照会。

深淵ダンジョン側からの連絡票。

さらに、その上に無造作に置かれたメモが数枚。


そして匠一本人は、その中心で平然と座っていた。


「おはよう」

「おはようございます」 セレネは一礼する。

「初日だな」

「はい」

「で、見ての通りだ」

「見ての通りですね」

「引いた?」

「少しだけ」

「正直だな」

「必要な範囲です」

「便利だな、その言葉」


匠一は苦笑したが、どこか楽しそうでもあった。

たぶん、自分の机を見てここまで平然としている相手が珍しいのだろう。


ノクスが横から淡々と告げる。


「現状説明をします。

机上左側が未処理。

中央が処理途中。

右側が“あとで見る”です」

「右が一番高いですね」

セレネが言う。

「ええ」

ノクスが即答する。

「問題です」

「問題だな」 匠一も認めた。


セレネは机に近づき、許可を待つように視線を向けた。

匠一が軽く顎を引く。


「見ていい」

「失礼します」


彼女はまず、山の高さではなく、紙の種類を見た。

報告書。

申請書。

照会票。

手書きメモ。

仮留めされた案件束。

そして、明らかに同じ案件なのに別の山に分かれているものがある。


「……繋がっていますね」

「何が?」 匠一が聞く。

「この研究棟照会と、この冷凍保管申請と、この《ソラ》側整備記録です。

別件ではなく、同一案件の前後では」 匠一が目を瞬かせる。

「……あ」

「やはり」

「俺の中では繋がってた」

「外からは繋がっていません」

「だよな」

「はい」


ノクスが静かに補足する。


「これが頻発します」

「理解しました」

「早いですね」

「見れば分かりますので」


セレネはさらに数枚をめくる。

今度は、深淵ダンジョン側からの連絡票と、来客予定メモと、匠一の走り書きが重なっていた。


「こちらも接続案件です」

「どれとどれ?」

「連絡票、来客予定、手書きメモです」

「……ああ」 匠一が額を押さえる。 「そうだ、これ昨日の続きだ」

「続きが右山に埋まっています」

「言い方」

「事実です」

ノクスがまた補足した。 「事実です」

「お前ら、今日ちょっと連携よくない?」


だが、その軽口の裏で、匠一自身もかなり助かっていた。

初日でここまで早く“詰まり方”を見抜かれるとは思っていなかった。


セレネは机上全体を見渡し、静かに言った。


「まず、山を崩します」

「いきなり?」

「はい」

「全部?」

「全部ではありません。

分類不能なものを無理に動かすと、逆に見失います」

「じゃあ何を」

「接続案件の再束ね。

未処理・処理途中・保留の再分類。

そして、“あとで見る”の中から、今日中に見ないと詰まるものの抽出です」

「……初日から容赦ないな」

「初日だからです」

「何で?」

「最初に流れを見誤ると、後で修正コストが増えます」

「正論だなあ」

「はい」


ノクスが一歩下がった。

その動きは、半ば“任せる”の意思表示だった。


「必要な補足は私が行います」

「お願いします」 セレネは短く答える。 「匠一様」

「ん?」

「本日午前中、ここを一時間いただけますか」

「俺を?」

「はい」

「何する気だ」

「机上の現状把握と、確認事項の絞り込みです」

「一時間で終わる?」

「終わらせます」

「強いな」

「必要な範囲です」

「またそれか」


匠一は椅子にもたれ、少しだけ天井を見た。

昨日採ったばかりの秘書。

だが、もうすでに“秘書がいる”感じがしている。

それは不思議な感覚だった。


「分かった。やれ」

「ありがとうございます」


そこからの一時間は、静かだが速かった。


セレネはまず、机上の書類を三つの仮区分に分けた。


接続案件

単独案件

保留案件候補

次に、接続案件をさらに束ね直す。

研究棟照会+冷凍保管申請+《ソラ》整備記録。

深淵ダンジョン連絡票+来客予定+手書きメモ。

補給申請+訓練予定変更+物資搬入票。


匠一は最初こそ眺めていたが、途中から本気で見入っていた。

自分の頭の中では繋がっていたものが、紙の上で一本の束になっていく。

それだけで、妙に呼吸がしやすくなる。


「これ」 匠一が言う。

「何でしょう」

「見やすいな」

「繋がっているものを繋げただけです」

「それができてなかったんだよな、俺」

「お一人で抱えていたのでしょう」

「……まあな」


セレネは次に、“あとで見る”の山へ手をつけた。

全部は見ない。

だが、日付、差出元、関連先だけを高速で確認し、

今日中に見ないと詰まるものだけを抜いていく。


「それ、何基準?」 匠一が聞く。

「連鎖損害です」

「またそれか」

「重要ですので」

「たしかに」


抜き出されたのは、わずか七件。

だが、その七件が今日の流れを左右することは、匠一にもすぐ分かった。


「……少ないな」

「十分です」

「他は?」

「今日見なくても死にません」

「言い方」

「必要な範囲です」

「便利すぎるだろ、その言葉」


ノクスが横で静かに言う。


「なお、これまで“今日見なくても死なない案件”に時間を使っていた結果、

“今日見ないと詰む案件”が埋もれていました」

「やめろ、刺さる」

「事実です」

「今日のお前、ほんと容赦ないな」


だが、匠一は笑っていた。

刺さる。

だが、助かる。

その両方だった。


一時間後。

机の上の景色は、完全ではないにせよ、明らかに変わっていた。


山は低くなった。

束は意味を持った。

確認事項は三枚にまとまり、保留案件は保留理由つきで分けられている。


セレネは最後に、一枚の紙を匠一の前へ置いた。


本日中に本人確認が必要な事項


一、研究棟搬入前倒し案件に伴う《ソラ》側冷凍区画使用可否

二、深淵ダンジョン側来客への本人面会要否

三、午後訓練予定変更の承認可否


「……三つか」 匠一が言う。 「はい」 「他は?」 「先に回します」 「俺が見なくていい?」 「現時点では」 「楽だな」 「そのためにおります」 その返答は静かだったが、妙に強かった。


匠一はその紙を見下ろし、それからセレネを見た。


「……採ってよかったな」

「ありがとうございます」

「まだ初日だぞ」

「初日ですので」

「お前、その返し好きだな」

「便利ですので」

「認めるのか」


ノクスがそこで、ほんのわずかに満足そうな気配を見せた。


「では、次に定期案件の引き継ぎへ移ります」

「まだあるのか」 匠一が言う。

「当然です」

「だよな……」


セレネは机上の新しい束を整えながら、静かに思った。


ここは忙しい。

複雑だ。

人も物も予定も、常に少しずつずれて動く。

だが、その分だけ、整えがいがある。


そして何より――

自分がここにいる意味が、もう初日からはっきりしていた。


こうして、筆頭秘書にしてCEO秘書、セレネ・アストラの最初の一日は、本格的に動き始めた。

爆炎ハウスにも、《ソラ》にも、そして匠一の周囲にも、少しずつ新しい秩序が入り始める。


その変化を、まだ誰も全部は知らない。

だが少なくともこの朝、匠一の机の惨状は、確かに一歩だけ改善されたのだった。


午前の引き継ぎが一段落した頃には、爆炎ハウスの空気に、

まだ小さいながらも確かな変化が出始めていた。


それは劇的なものではない。

誰かが大声で命令したわけでも、配置換えが起きたわけでもない。

ただ、流れの詰まりが一つ抜けると、周囲の動きまで少しずつ滑らかになる。

そういう種類の変化だった。


最初にそれを感じたのは、食堂側の補助職員だった。


「……あれ?」 昼前の仕込みをしながら、一人が首を傾げる。

「どうしたの?」

「今日の午後、研究棟搬入があるって聞いてたじゃないですか」

「うん」

「さっき、導線変更の連絡が先に来ました」

「先に?」

「はい。裏手搬入に切り替え、食堂側通路は通常運用のままでいいって」

「早いね」

「ですよね。いつもはもう少し直前で来るのに」


別の職員も頷く。


「しかも、搬入時間と訓練場使用時間の調整メモまでついてた」

「誰が回したの?」

「二階からです」

「二階……ああ」

「たぶん、新しい秘書さん」

「もう動いてるんだ」


その言葉には、驚きと、少しの安堵が混じっていた。


同じ頃、訓練場側でも似たようなことが起きていた。


ダンが午後の訓練準備をしながら、壁際に貼られた予定変更票を見上げる。


「……何これ」

「どうした」 キールが近づく。

「訓練開始、三十分後ろ倒し。

理由、研究棟搬入導線確保。

代替で前半は座学確認、後半を実技に変更」

「妥当だな」

「妥当だけど、早くない?」

「早いな」

「しかも、俺に確認来る前に“異議あれば十五分以内に申し出”

って書いてある」 キールは少しだけ口元を動かした。

「いいやり方だ」

「そうか?」

「全部を聞いて回るより、基本案を先に出して、問題があるなら差し戻させる方が早い」

「……ああ」 ダンは紙を見直した。 「たしかに」

「異議あるか?」

「いや、ない」

「ならそのままでいい」

「……秘書、もう仕事してるな」

「してるな」


ダンは腕を組み、少しだけ感心したように唸った。


「昨日決まったばっかだろ?」

「だからじゃないか」 キールが静かに言う。

「最初に流れを掴みに来てる」

「へえ」

「悪くない」


二階では、セレネがすでに次の束に取りかかっていた。


午前中の成果は三つ。

匠一確認事項の圧縮。

接続案件の再束ね。

そして、今日中に詰まりそうな導線の先回り調整。


だが、まだ終わりではない。

むしろ、ここからが本番だった。


「次は定期案件です」 ノクスが言う。

「日次、週次、遠征前、遠征後、研究棟接続、深淵ダンジョン窓口接続。

それぞれ、現行の処理者と確認線を把握してください」

「承知しました」


セレネは一覧を見ながら、頭の中で構造を組み立てていく。


日次案件。

食材、消耗品、訓練予定、来客予定、簡易報告。

週次案件。

物資棚卸し、研究棟との定例照会、《ソラ》整備進捗確認。

遠征前。

積載確認、同行者名簿、緊急連絡線、補給最終確認。

遠征後。

回収品仮登録、負傷者確認、報告書回収、保管先振り分け。


「……多いですね」

「ええ」 ノクスは即答した。 「ですが、構造は単純です」

「単純」

「繰り返しですので」

「なるほど」


セレネはそこで、一覧の端に小さく印をつけ始めた。


匠一確認必須。

ノクス確認で足りる。

秘書席で一次処理可能。

現場側へ直接返してよい。

研究棟へ即時接続。

深淵ダンジョン窓口へ保留返答可。


「何を?」

ノクスが問う。

「決裁線の仮視覚化です」

「早いですね」

「見えないと詰まりますので」

「結構です」


ノクスはそれ以上口を挟まなかった。

だが、視線は明らかに評価している。


昼過ぎ。

匠一が二階へ戻ってきた時、仮設秘書区画の机上には、すでに新しい紙が一枚置かれていた。


現行定期案件 一次整理表(仮)


「……何これ」

「現行定期案件の一次整理です」 セレネが立ち上がる。 「早くない?」

「午前中に最低限の構造は見えましたので」

「見えたのか」

「はい」

「俺には見えてなかったが」

「お一人で抱えていたので」

「それ便利だな、その言い方」

「事実です」


匠一は紙を手に取った。

日次、週次、遠征前後、研究棟接続、外部窓口。

それぞれに、誰が一次処理し、どこで止まり、どこで本人確認が必要かが簡潔に書かれている。


「……分かりやすい」

「ありがとうございます」

「これ、今までなかったのか?」

「断片はありました」 ノクスが答える。 「ただし、統合されていませんでした」

「だよなあ……」


匠一は紙を見ながら、ふと気づく。


「これ、俺確認の数、減ってないか?」

「減らしました」 セレネが即答する。

「勝手に?」

「仮です」

「仮か」

「異論があれば修正します」

「どれ」

「たとえば、日次消耗品補充のうち、定量内のものは秘書席一次承認で十分です」

「俺いらない?」

「不要です」

「言い切るな」

「必要なら上げます。

ですが、毎回上げると他が詰まります」

「……まあ、そうだな」


ノクスが静かに補足する。


「これまで、定量内消耗品まであなた確認に上がっていました」

「何でだっけ」

「誰も線を引かなかったからです」

「刺さるなあ」

「事実です」


匠一は紙を机に戻し、セレネを見た。


「じゃあ、これで回してみるか」

「承知しました」

「問題出たら?」

「修正します」

「即答だな」

「運用は固定ではありませんので」

「……いいな、それ」

「便利ですので」

「また認めるのか」


その頃、一階ではマリーが露骨に変化を楽しんでいた。


「ねえハナ、見た?」

「何を?」

「今日の流れ」 ハナは湯を注ぎながら微笑む。 「少し滑らかになった気はするね」

「でしょ?」

「まだ初日なのに」

「だから面白いのよ」


マリーは壁に貼られた予定票を指差した。


「ほら、これ。

訓練場変更、搬入導線、来客一次受け、全部先に整理されてる」

「うん」

「しかも、匠一がまだ二回しか“あれどこだっけ”って言ってない」

「それはかなり少ないね」

「でしょ?」

「普段は?」

「午前だけで五回は言う」

「言いすぎじゃない?」

「言うのよ、あの人」


そこへダンが入ってくる。


「聞いてくれ」

「何?」

「さっき、訓練用の消耗品取りに行ったら、補充申請がもう通ってた」

「早いわね」

「しかも“次回から定量内は一次承認で回す”って」

「いいじゃない」

「いい。すごくいい」 ダンは真顔で頷いた。

「秘書ってすげえな」

「今さら?」 マリーが笑う。

「いや、分かってたけど、実際に回ると違う」

「それはそう」


ハナは少し考えてから言った。


「でも、たぶん一番大きいのは、匠一が“全部自分で見なくていい”ってなり始めたことかも」

「……ああ」 ダンが頷く。 「それだ」

「今まで、抱えすぎてたものね」

「抱えすぎだろ」

「本人は回せてたつもりだったんじゃない?」

「回ってはいた」 マリーが肩をすくめる。

「でも、回ってたのと、きれいに回るのは違うのよね」


その言葉は、かなり本質を突いていた。


午後の後半。

セレネは初めて、爆炎ハウス全体から“二階へ上がってくる案件”を受け始めた。


最初は小さなものだった。


「失礼します」 補助職員が顔を出す。

「研究棟から、搬入後の仮登録票です」

「お預かりします」

「あと、冷凍保管区画の一時使用記録も」

「ありがとうございます。関連束へ接続します」


次は訓練場側。


「午後訓練、変更後の実施報告です」

「確認します。

消耗品使用量はこの欄で合っていますか」

「はい」

「では、次回補充基準に反映します」


さらに、深淵ダンジョン側窓口からの連絡票。


「来客対応の件、先方より“次回は事前連絡を徹底する”とのことです」

「承知しました。

本件は本日分として閉じます。

ただし、次回同様事案時の一次応対文面を作成しておきます」


一つひとつは小さい。

だが、その小さな案件が、今までは匠一やノクスのところへ直接飛び、

そこで混線していたのだろう。


セレネはそれを、受け、繋ぎ、閉じていく。


その様子を、少し離れた場所からクロが見ていた。

無言のまま。

だが、しばらくしてからぽつりと呟く。


「……ちゃんと、流れてる」 ユキが隣で小さく頷く。

「うん」

「止まってない」

「うん」

「いい」 それだけだった。

だが、十分な評価だった。


夕方前。

匠一が再び二階へ上がってくると、今度は机の上に別の紙が置かれていた。


本日発生案件 処理状況一覧(暫定)


「……また増えてる」

「見える化です」 セレネが答える。

「好きだな、その言葉」

「便利ですので」

「ほんと便利だな」


一覧には、今日発生した案件が簡潔に並んでいた。


研究棟搬入前倒し:処理済

冷凍保管区画一時使用:処理済

訓練場予定変更:処理済

深淵ダンジョン側来客一次応対:処理済

消耗品補充基準仮変更:運用開始

次回同様事案用一次応対文面:作成中

「……これ、助かるな」 匠一が素直に言う。

「ありがとうございます」

「俺、今日何が終わったか、たぶん半分も把握してなかった」

「そのための一覧です」

「だよな」

「はい」


ノクスが横で静かに言った。


「初日としては十分以上です」

「そうだな」 匠一も頷く。

「いや、十分どころじゃないか」


セレネはそこで初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

まだ初日だ。

やることは山ほどある。

だが少なくとも、役に立てている実感はある。


匠一は一覧を机に置き、彼女を見た。


「セレネ」

「はい」

「今日一日で、だいぶ楽になった」

「それは何よりです」

「でも、たぶんお前はまだ“整え始めた”だけなんだろ」

「はい」

「怖いな」

「必要な範囲で進めます」

「その言い方だと、まだまだやる気だな」

「はい」

「即答か」


匠一は苦笑し、それから少しだけ真面目な顔になった。


「……頼りにしてる」 短い言葉だった。

だが、軽くはない。


セレネは一礼した。


「お任せください」


その返答もまた、短かった。

けれど、十分だった。


こうして爆炎ハウスでは、秘書が一人入っただけとは思えないほど、

少しずつ流れが変わり始めていた。

まだ誰も、その変化の全体像は見ていない。

だが、匠一の机の上だけでなく、訓練場も、食堂も、研究棟との接続も、

外部窓口も、確かに一歩ずつ整い始めている。


そしてそれは、やがて《ソラ》へも広がっていくことになる。


数日後。

セレネ・アストラが爆炎ハウスに入ってから、まだ一週間も経っていなかった。

それでも、拠点の空気は目に見えて変わっていた。


匠一の机に“意味のない山”ができにくくなった。

訓練場の予定変更が直前の怒鳴り合いにならなくなった。

研究棟からの搬入連絡が、誰かの記憶頼みで流れなくなった。

深淵ダンジョン側の来客も、一次応対の時点でかなり整理されるようになった。


そして、その変化を最も冷静に見ていたノクスが、ある朝、淡々と告げた。


「そろそろです」

「何が?」 匠一が朝食後の茶を飲みながら聞き返す。

「《ソラ》同行です」

「……ああ」 匠一は少しだけ目を細めた。 「早いな」

「地上拠点での一次適性確認は済みました」 ノクスは平然としている。 「次は移動拠点です」

「まあ、そうなるか」

「当然です」


食堂の空気が少しだけ動く。

マリーがすぐに反応した。


「ついに?」

「はい」 ノクスが答える。 「セレネには、本日午後より《ソラ》へ同行してもらいます」

「いきなり?」 ダンが言う。

「初回は短時間です。

ただし、通常見学ではなく、実務同行です」

「容赦ないわねえ」 マリーが楽しそうに笑う。

「見学だけしても意味がありませんので」

「それはそう」


セレネ本人は、少し離れた位置で朝の確認票を見ていた。

呼ばれて視線を上げる。


「本日午後、ですか」

「はい」 ノクスが頷く。 「《ソラ》側で、積載確認、研究素材受け渡し、

乗艦者名簿更新、ならびに出航前確認が入ります」

「承知しました」

「酔いますか?」 匠一が何気なく聞く。

「現時点では不明です」

「正直だな」

「未経験ですので」

「まあ、そうか」


ハナが柔らかく口を開く。


「無理しないでね。

《ソラ》、快適だけど情報量は多いから」

「ありがとうございます」 セレネは一礼する。 「段階的に把握します」

「うん、その感じなら大丈夫そう」 ハナは微笑んだ。


ダンは腕を組んで唸る。


「でも《ソラ》って、地上と違って逃げ場ないよな」

「言い方」 マリーが笑う。 「でも分かるわ。

家でもあり、船でもあり、研究設備でもあり、補給基地でもあるし」

「だからです」 ノクスが言う。 「地上で回せても、《ソラ》で回せるとは限りません」

「逆もある?」 キールが静かに問う。

「あります」 ノクスは即答した。 「閉じた環境の方が得意な者もいます。

ただし、筆頭秘書は両方に適応できる必要があります」

「だよな」 匠一が短く頷く。


セレネはその会話を聞きながら、頭の中で準備を始めていた。

《ソラ》。

移動拠点。

地上より時間と空間の制約が強い。

導線は狭く、積載は有限。

一つの遅れが、そのまま出航や受け渡しに響く。

面接でも、試験でも、何度も前提として出てきた場所だ。


そして今日、初めて実際に入る。


午後。

爆炎ハウス裏手の発着場には、すでに《ソラ》が停泊していた。


何度見ても、普通の船ではない。

帆船のような外観を持ちながら、その存在感は明らかに異質だ。

大きい。

美しい。

だが、それ以上に“機能している”気配がある。


セレネは発着場で一度足を止め、その全体を見上げた。


――なるほど。


噂で聞くのと、実際に見るのでは違う。

これは単なる移動手段ではない。

一つの拠点そのものだ。


「こちらです」 ノクスが先導する。 「本日は、匠一様、私、セレネの三名を基本とします。

ただし、船内では他の乗員とも接触があります」

「承知しました」


乗り込む。

足元の感覚が、地上と少し違う。

揺れは大きくない。

だが、完全に固定された床ではないことが分かる。


船内へ入った瞬間、空気が変わった。


木と金属の匂い。

整えられた通路。

静かな機関の気配。

そして、思った以上に快適な温度と明るさ。


「……快適ですね」 セレネが率直に言う。

「だろ?」 匠一が少し笑う。

「噂通りです」

「噂以上かもしれないぞ」

「現時点でも十分以上です」


ノクスが淡々と説明を始める。


「《ソラ》は、生活区画、執務区画、保管区画、研究補助区画、積載区画に大別されます。

本日は全区画を回しません。

まずは、筆頭秘書席が関与する範囲を優先します」

「お願いします」


最初に通されたのは、船内執務区画だった。

地上の秘書席よりコンパクトだが、必要なものは揃っている。

固定具つきの机。

収納。

簡易記録板。

連絡管制用の端末。

そして、出入口と通路が見える位置。


「ここが、船内での一次執務位置です」 ノクスが言う。

「地上より狭いですね」

「ええ。

その分、持ち込む情報を絞る必要があります」

「全部は持ち込まない」

「持ち込めません」

「なるほど」


セレネはそこで、地上との違いをすぐに理解した。

爆炎ハウスでは、多少の保留や仮置きが許される。

だが《ソラ》では、空間そのものが限られている。

つまり、情報も物も、“何を持ち込み、何を切るか”の判断がより重要になる。


「本日の案件はこちらです」 ノクスが差し出したのは、地上より薄い束だった。

だが、薄いから軽いわけではない。


研究素材受け渡し確認

冷凍保管区画使用確認

積載品目最終照合

乗艦者名簿更新

出航前確認事項

地上側への返送案件二件

「……絞られていますね」

「必要なものだけです」

「地上より分かりやすい」

「その代わり、遅れの許容が狭いです」

「はい」


匠一が横から言う。


「《ソラ》だと、“あとで見る”が地上より危険なんだよな」

「危険です」 ノクスが即答する。 「埋もれる場所が少ない分、埋もれた時の影響が大きい」

「……分かりやすいですね」 セレネが言う。 「だから、ここでは“あとで見る”を減らす」

「ゼロにはできない?」 匠一が聞く。

「理想はゼロです」

「理想か」

「現実には、保留管理へ置き換えます」

「なるほど」

「“あとで見る”ではなく、“何待ちで保留か”を明記します」

「……いいな、それ」

「便利ですので」

「またそれか」


最初の実務は、研究素材の受け渡し確認だった。


研究棟から運ばれてきた素材が、地上側から《ソラ》へ一部移される。

数量、保管条件、受け渡し責任者、記録。

一つでもずれると、後で面倒になる。


セレネは受け渡し票と積載票を並べ、まず数量を確認した。

次に保管条件。

冷凍、遮光、固定要、危険性注意。

さらに、受け渡し責任者の署名欄。


「この二件、受け渡し票と積載票で表記が違います」

「どれ」 匠一が覗き込む。

「こちらは“試験素材B-7”、こちらは“B7補助片”です。

同一か別物か確認が必要です」 ノクスがすぐに票を見た。 「……同一案件の略記違いですね」

「統一しますか」

「ええ。

そのまま積むと、後で検索性が落ちます」

「承知しました」


セレネはその場で仮注記を入れ、正式表記へ統一する。

小さい。

だが、こういう小さいズレが後で効く。


次は冷凍保管区画。

船内の保管庫は地上より整理されているが、その分、空き区画の融通が利きにくい。


「この区画、残容量は」 セレネが問う。

「現時点で三割」 ノクスが答える。 「ただし、夕刻までに追加搬入の可能性があります」

「なら、今回分は奥ではなく手前固定ですね」

「理由は?」

「追加搬入時の再配置コストを減らすためです」

「ええ。妥当です」


匠一はそのやり取りを横で聞きながら、少しだけ感心していた。

地上で有能でも、船内では情報量に押される者はいる。

だがセレネは、押される前に“何を見ればいいか”を掴んでいる。


その時、船内通路の向こうから声がした。


「ノクス、積載票の更新きたぞ」 乗員の一人が書類を持ってくる。

「ありがとう」 ノクスが受け取る。

「追加です」 そう言って、セレネへ渡した。


積載票には、新たに二件の追加物資が記されていた。

しかも片方は、予定外の緊急補修材。


「……今ですか」 セレネが小さく言う。

「《ソラ》ですので」 ノクスは真顔だった。

「日常です」

「なるほど」


セレネは追加票を見て、すぐに既存の積載表へ重ねる。

補修材は重量がある。

だが緊急性も高い。

一方、もう一件は生活物資の追加。

こちらは優先度が落ちる。


「補修材を優先。

生活物資追加分は、地上側在庫で代替可能か確認します」

「理由は?」 匠一が聞く。

「重量と緊急性です。

補修材は船内機能に関わる可能性があります。

生活物資は、短期なら地上側で吸収できるかもしれません」

「地上側確認は誰に回す?」

「爆炎ハウス側補助職員へ一次照会。

必要なら食堂在庫と消耗品棚を確認してもらいます」

「俺確認は?」

「不要です」

「言い切るなあ」

「必要なら上げます」

「便利だな、その言い方」

「便利ですので」


ノクスが静かに頷く。


「問題ありません。

その方針で進めましょう」


船内での数時間は、地上より短く感じられた。

案件が少ないからではない。

一つひとつの密度が高いからだ。


乗艦者名簿更新。

出航前確認。

地上返送案件の整理。

船内保管区画の仮配置。

そして、途中で入る小さな変更。


セレネはそのたびに、まず“何が変わったか”を見た。

次に、“何に影響するか”を見た。

最後に、“誰に上げるべきか”を決めた。


その流れがぶれない。


夕方前、ひと通りの確認が終わった頃、匠一が船内執務区画の机に軽く腰を預けて言った。


「どうだ、《ソラ》」 セレネは少しだけ考えてから答えた。


「地上より厳密です」

「うん」

「ですが、構造は分かりやすいです」

「ほう」

「空間が限られている分、優先順位が露出しやすい。

何を持ち込み、何を保留し、何を返すかが明確になります」

「嫌じゃない?」

「むしろ、整理しやすいです」

「……強いな」

「必要な範囲です」

「またそれか」


ノクスがそこで、珍しく少しだけはっきりした評価を口にした。


「初回としては十分以上です」

「そうだな」 匠一も頷く。

「地上だけじゃなく、こっちでも回る」

「ありがとうございます」 セレネは一礼する。


だが、その返礼の裏で、彼女自身も少しだけ安堵していた。

《ソラ》は特殊だ。

快適だが、甘くはない。

だが少なくとも、自分はここでも仕事ができる。


それが分かっただけで、十分に大きかった。


帰り際。

発着場へ降りる前、セレネは一度だけ振り返って《ソラ》を見た。


爆炎ハウスとは違う。

だが、同じく“流れが集まる場所”だ。

そして、ここにも自分の役割がある。


匠一が隣で言う。


「どうだった、初乗艦」

「想像以上でした」

「悪い意味で?」

「いい意味で、です」

「ならよかった」

「はい」


少し間を置いてから、セレネは続けた。


「ただ」

「ただ?」

「《ソラ》用の案件整理様式は、地上と分けた方がよさそうです」 匠一が目を瞬かせる。

「もうそこまで考えてるのか」

「必要ですので」

「理由は?」

「保留の意味が違います。

地上では“後で回せる”保留がありますが、

《ソラ》では“何待ちか明記された短期保留”しか許容しにくい」

「……なるほど」

「同じ書式だと、判断が鈍る可能性があります」

「いいな、それ」 匠一は少し笑った。 「やっぱ採って正解だった」

「ありがとうございます」


その言葉は、もう初日のような試しではなかった。

実感のこもった、本音だった。


こうして、セレネの初めての《ソラ》同行は終わった。

そしてこの日を境に、彼女は地上拠点だけでなく、

移動拠点ソラにおいても“回せる人間”として認識されるようになる。


爆炎ハウスと《ソラ》。

二つの拠点をまたいで、匠一の隣に立つ筆頭秘書。

その輪郭が、ここでようやく本当の意味で固まり始めたのだった。

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