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見難い火傷の子  作者: 清風
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439/470

モルヴァン襲来

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子439



モルヴァン襲来



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


シーラとは


白亜紀から生き延びた巨大シーラカンスを、匠一がテイムし、潜水艦化改造した生体潜航艦である。

見た目は巨大な古代魚だが、実態は単なる魚ではなく、

遊覧艇・護衛艦・近衛兵の機能を兼ね備えた特殊個体だ。

海底水族館に所属し、現在は古代湖遊覧任務のため出向中。

平時は観光客を乗せる遊覧艇として働き、

有事にはレーザーと電磁加速砲を用いて航路と乗客を防衛する。

本体は静かな古代魚として振る舞う一方、各種判断・報告・任務応答は搭載されたAI副脳が担当する。


古代魚にして潜水艦。

遊覧艇にして近衛兵。

それがシーラである。


………………………………………………………………………………………………………………


古代湖は、その巨大さを静かに湛えた水だった。


湖面はどこまでも青く、風が渡るたび、大舟ほどもあるさざ波がゆるやかに岸を撫でる。

岸辺に根を張る水草は人の背丈を軽く越え、湖畔に並ぶ葦は林のように揺れていた。

水辺に降りた小鳥でさえ、こちらの世界なら羊ほどの大きさがある。

羽ばたきひとつで空気が鳴り、影が差すたび、観光客たちは感嘆の声を漏らした。


古代湖遊覧は、人気の高い見世物だった。

巨大な生き物たちを安全な距離から眺め、景観を巡る。

他では味わえない、ここだけの静かな贅沢である。


もっとも、その安全は自然に与えられているものではない。


「見えるかな、今日は」

「見えたら運がいい、だったっけ」

「影だけでも見られたら当たりらしいよ」


桟橋の近くで、乗船待ちの客たちが湖面を覗き込んでいる。

子どもが身を乗り出し、親が慌てて肩を引いた。

その向こうで、案内役の娘が慣れた調子で笑う。


「ご安心ください。古代湖遊覧は、本日もシーラ便で運航しております」

「シーラ便って、あのシーラカンスの?」

「はい。海底水族館から出向中の遊覧艇兼近衛兵です」


その言葉に、初めて来た客たちの顔がわずかに強張る。

遊覧艇。そう聞けば安心する者もいる。

近衛兵。そう聞いて、そんなものが必要な場所なのかと逆に身構える者もいる。


だが、古代湖を知る者は皆、その存在を当然のものとして受け入れていた。


やがて湖面の沖合に、青い巨影が浮かび上がる。

魚のように滑らかで、船のように重い。

古代魚めいた頭部、分厚い装甲、側面に並ぶ機構、背に沈んだ砲塔めいた突起。

巨大なシーラカンスの姿をしていながら、それは明らかにただの生き物ではなかった。


シーラ。

海底水族館所属、現在は古代湖遊覧任務のため出向中の生体潜航艦兼近衛兵である。


青い艦体は静かに桟橋へ寄り、側面の乗降口を開いた。

内部には観覧席と通路が整えられ、観光客を迎え入れる準備がすでに整っている。

見た目は巨大魚でも、乗り込んでしまえばそれは立派な遊覧艇だった。


『乗船案内を開始します。足元にご注意ください。艦内では案内員の指示に従ってご移動ください』


落ち着いた声が響く。

シーラに搭載されたAI副脳の音声だった。


「しゃべった……」

「いや、魚がしゃべってるわけじゃないんだろうけど」

「でもやっぱりすごいな……」


ざわめきながらも、客たちは順番にシーラへ乗り込んでいく。

子どもは目を輝かせ、大人は半ば緊張しながら艦内へ足を踏み入れた。

古代湖遊覧とは、船に乗ることではない。

シーラに乗り込むことなのだ。


湖畔の売店脇では、そんな穏やかな空気とは別の熱が立っていた。


「それ、匠一様に持っていくつもり?」

「悪い?」

「悪くはないけど、深淵珈琲に焼き菓子を合わせるなら、もう少し考えたほうがいいと思う」

「言ってくれるじゃない」

「事実だから」


笑顔のまま火花を散らす声に、近くの客がちらりと視線を向ける。

ひとりは包みを抱え、ひとりは湯気の立つカップを手にし、

もうひとりは腕を組んで、いかにも自分が一番分かっているという顔をしていた。


「そもそも今日は来るの?」

「来るわよ」

「なんで分かるの」

「来る時は、だいたいこういう日に来るの」

「何その雑な確信」

「雑じゃないの。経験則」


匠一の名が出るだけで、空気が少し変わる。

それぞれがそれぞれの距離で、彼を意識しているのが分かった。


ただし、その競争は単純な恋愛感情だけではない。

誰が一番近くにいられるか。

誰が一番理解しているか。

誰が一番自然に世話を焼けるか。

そういう細かな優位の取り合いが、彼女たちのあいだには常にあった。


古代湖の風が吹く。

葦がざわめき、湖面に長い筋が走った。


その時、ひとりがふと眉を寄せた。


「……今、何か」


「え?」


「水、変じゃなかった?」


他の二人もつられて湖を見る。

最初は何も見えなかった。

だが、見えないことそのものが妙だった。


さっきまで桟橋へ寄せていたはずのシーラが、わずかに艦首を沖へ向けている。


案内役の娘も気づいたらしい。

笑顔を崩さないまま、ほんのわずかに視線を走らせる。

桟橋、乗船口、湖面、沖合。

確認の順番が早い。


『周辺水域に異常反応を確認。

乗船中のお客様は速やかに着席してください。

未乗船のお客様は桟橋から離れてください』


AI副脳の声は落ち着いていた。

だが、その落ち着きが逆に周囲の緊張を呼んだ。


湖面が、盛り上がる。


ぼこり、と。

水そのものが下から押し上げられたみたいに、沖合の一角が不自然に膨らんだ。

次の瞬間、轟音とともに水柱が立つ。

シーラの艦体が大きく揺れ、桟橋の端で悲鳴が上がった。


「きゃあっ!?」

「何、何が起きた!?」


水の中から現れたそれは、魚でも獣でもなかった。

長くしなる胴。

節くれだった外殻。

青銅器めいた鈍い光を帯びた装甲。

裂けたように並ぶ感覚器官が、濡れたまま脈打っている。


モルヴァン。


その名を知る者は少なかったが、危険だと理解するのに名前はいらなかった。


巨体は完全に浮上せず、胴の大半をなお水中に沈めたまま、前半身だけをぬらりと持ち上げる。

まるで湖そのものが悪意の形を取って身をもたげたようだった。

感覚器官が桟橋とシーラをなぞる。

獲物を探すというより、距離を測っているような動きだった。


「離れて!桟橋から下がって!」


案内役の娘が叫ぶ。

その声でようやく客たちが動き出した。

悲鳴、足音、ぶつかる音。

さっきまでの穏やかな遊覧の空気が、一瞬で崩れる。


だが、遅い。


モルヴァンの胴がしなり、水飛沫とともに前へ弾けた。

狙いは、まだ桟橋上にいた逃げ遅れた親子連れだった。


その瞬間、シーラが動く。


青い艦体が水を裂き、桟橋とモルヴァンのあいだへ強引に割り込んだ。

鈍い衝突音が湖畔を打つ。

人を呑み込むはずだった一撃が、シーラの装甲側面に弾かれて横へ逸れる。

砕けた水と木片が雨みたいに降り注いだ。


『防衛行動へ移行します。

乗船中のお客様は衝撃に備えてください』


「伏せて!」

「こっちです、早く!」


さっきまで匠一を巡って張り合っていた女の子達が、今度は別々の方向へ走った。

ひとりは親子を抱えて桟橋の外へ引きずり、

ひとりは観光客へ避難方向を叫び、

ひとりは売店脇で腰を抜かした老人の肩を支える。


モルヴァンが低く鳴いた。

鳴き声というより、濡れた金属管を無理やり鳴らしたような、不快な振動だった。

感覚器官が一斉にシーラへ向く。


シーラは追わない。

ただ、桟橋と岸辺を背にする角度で艦体を据え、通さない位置を取る。


それだけで十分だった。


モルヴァンが再び跳ねる。

今度は真正面から。

シーラは正面衝突を受けず、艦体をわずかに傾けて流した。

モルヴァンの前半身が桟橋の手すりを砕き、空いた胴へシーラ側面の機構が淡く発光する。


次の瞬間、細い光条が走った。


レーザーだった。


外殻の継ぎ目を正確に焼き抜かれ、モルヴァンの巨体が大きくのけぞる。

重い音が響き、湖面が大きく揺れた。


「……強い」

「違う、あれ」


避難誘導をしていた娘が、息を呑む。


「守ってるんだ」


そう。

シーラは倒しに行っているのではない。

防衛圏に踏み込んだ敵だけを、正確に、容赦なく叩き返している。


モルヴァンは暴れているようでいて、無秩序ではなかった。

桟橋の崩れ方。

シーラの位置。

逃げる人間の流れ。

それらを見ている。選んでいる。試している。


「……何、あれ」

「ただの魔物じゃない」


女の子のひとりが、青ざめた顔で呟いた。


シーラの迎撃が二度、三度と入る。

防衛圏内に踏み込むたび、モルヴァンの巨体は叩き返される。

外殻が裂け、濁った体液が水際へ散った。

ついにモルヴァンは大きくのけぞり、そのまま湖面へ重たく浮かび上がった。

程なくギルドの回収班が到着し、手際よく処理具を打ち込んで曳航していく。

貴重なタンパク源を無駄にしない通達が、あらかじめ出されていたのである。


「やった……?」


誰かがそう漏らした。

だが、シーラは追撃しない。


桟橋前の水域で止まる。

いや、正確には、遊覧航路の境界から一歩も外へ出ない。


静けさが戻るまで、誰もすぐには声を出せなかった。


荒れた桟橋。

揺れの残るシーラ。

泣き出した子ども。

へたり込む客たち。

そのすべての前で、シーラだけがなお青い艦体を水面に半ば浮かべたまま、持ち場を離れずにいる。


追撃はしない。

勝ち誇りもしない。

ただ、守るべき境界に留まり続ける。


女の子達は息を切らしながら、その青い巨体を見た。

さっきまで競争していたことが、ひどく遠いことみたいに思えた。


「……匠一様、来るかな」

「来るでしょ」

「今度は、来てほしい」


その言葉に、誰も軽口を返さなかった。


古代湖の風が、遅れてまた吹きはじめる。

けれどもう、午後の穏やかさは戻らなかった。


モルヴァンの巨体がギルドの回収班によって曳航されていくのを見届け、

AI副脳が『周辺水域の安全を確保。

防衛行動を終了します』と告げたその瞬間、

湖畔の林を抜けて、一台の四輪駆動魔導車が凄まじい制動音とともに滑り込んできた。


車から降り立ったのは、手帳を片手にした匠一、そして大剣を担いだダンだった。


「遅かったじゃねえか、匠一! もう片付いちまったぞ!」

桟橋の修復作業を始めていたギルドの職員が声をかける。


匠一はそれに答えず、まっすぐに桟橋の先端へ歩み寄り、水面に浮かぶシーラの艦体に視線を落とした。

「シーラ、状況報告。損傷箇所と防衛記録の同期を」


青い装甲がかすかに駆動音を立て、AI副脳の平坦な音声が周囲に響く。

『了解。装甲右舷にモルヴァンの外殻接触による微細な擦過傷クラッチ

レーザー照射三、有効打三。

防衛圏内への侵入個体は一。

乗客および一般民間人に生命の損害なし』


「ご苦労。外装の修復は後で行う」

匠一が手帳に素早く数値を書き込んでいると、

避難誘導を終えた女の子たちが、

それぞれの包みやカップを持ったまま、

おずおずと彼の方へ近づいてきた。


「あの……匠一様。シーラが、私たちを守ってくれて……」

「深淵珈琲、少し冷めちゃいましたけど……どうぞ」


張り合うことも忘れ、どこか不安げに自分を見つめる彼女たちを一瞥し、

匠一はいつもと変わらない事務的なトーンで言った。


「珈琲は後でいただく。……君たちがパニックを起こさずに民間人の初期誘導を行ったのは、

運用上、非常に高く評価できる。

防衛圏内での民間人の生存率が上がれば、

それだけシーラの迎撃アルゴリズムの選択肢が増えるからな」


「あ、ありがとうございます……?」

褒められているのか、単なる確率論の話をされているのか分からず、

女の子たちは顔を見合わせたが、

それでも彼がいつも通り「現場の合理」を口にしたことで、

張り詰めていた肩の力が抜けたようだった。


「で、匠一。このモルヴァンってやつ、ただの野良の魔物か?」

ダンが破壊された桟橋の手すりを蹴飛ばしながら尋ねる。


「いや、違う。このエリアの生態系にモルヴァンは本来存在しない。完全に外来種だ」

匠一は湖面の遥か沖合、霧の向こうを見つめた。

「オケアヌス線の開通で魔力の流れが変わった。

その変動の『隙間』を狙って、別の深い階層から這い上がってきた者がいる。

今回の襲来は、新路線の防衛網を値踏みするための威力偵察だ」


「へっ、面白えじゃねえか。

誰が仕掛けてきたか知らねえが、ウチの潜水艦シーラの火力にびびって、今頃泡吹いてるぜ」


「びびって撤退するならいい。だが、次は『観光客』という明確な弱点を突いてくる可能性が高い」

匠一は懐中時計を閉じ、シーラの艦首へ飛び移った。

「シーラ、遊覧任務を一時凍結。

これより潜航し、

モルヴァンの侵入経路となった湖底の魔力亀裂クラックを電磁加速砲で物理的に封鎖する。

案内員は客を陸路のオケアヌス線へ誘導しろ」


『了解。潜航シーケンスに移行します。全ハッチ閉鎖』


シーラの青い艦体が、ブウゥゥンと重低音を響かせながら、

ゆっくりと古代湖の深みへと沈み込んでいく。


「匠一様! お気をつけて!」

女の子たちが岸辺から手を振る。


匠一は振り返らず、ただ一度だけ小さく手を挙げると、そのまま艦内へと消えていった。

水面が激しく泡立ち、巨大な古代魚の影は、一瞬にして深いみどりの底へと吸い込まれていく。


敵が時代を止めようと、あるいはその利権を奪おうと、

次なる悪意を送り込んでくるならば、

鉄道国はそれを上回る「鉄の理」で叩き潰すだけだ。

波紋の広がる古代湖の上で、新時代の防衛線は、さらに深く、冷徹にその網を広げようとしていた。

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