レディース参上
見難い火傷の子438
レディース参上
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
古代湖線の車輪は、朝の線路を規則正しく刻みつづけていた。
「湖の主だよ」
老人の低い声が、車内のざわめきの底に沈むように残ったあと、ミナたちはしばらく誰もすぐには口を開かなかった。
窓の外では、朝靄の薄く残る野がゆっくりと後ろへ流れていく。
ところどころに低い石垣が見え、その向こうには露を帯びた草地がひろがっていた。
やがてサフィが、ひそめた声のまま言った。
「……なんか、急にほんものっぽくなったね」
「最初からほんものの湖でしょう」 とリラが返す。
「そういう意味じゃなくて」 サフィは肩をすくめた。
「噂とか遊覧とか絵葉書とか、そういうのじゃなくて。
昔からいるもの、って感じ」
ネマは窓の外を見たまま、小さくうなずいた。
「土地の人間の言い方だった。観光向けの呼び名じゃない」
ミナは向かいの席で膝を抱え直し、
「でもさ、今年はずいぶん人前に出る、ってどういう意味だろ」 と言った。
「今まではあんまり見えなかったってこと?」
「そういうことじゃない?」 とリラ。
「見えたとしても、こんなに何度もじゃなかったとか」
「環境変化、餌の移動、繁殖行動、あるいは」 とネマが言いかけ、
「あるいは?」 とサフィが身を乗り出す。
「人に慣れた」
「やだ、それはそれでかわいい」 とミナが言った。
「かわいいで分類しないで」 リラが即座に返す。
「でも、もし本当に二頭いるなら」 ネマは指先で窓枠を軽く叩いた。
「単独個体の行動変化だけでは説明しにくい。縄張りの重なりか、親子か、あるいは」
「あるいはレッシー」 とサフィが言う。
「それはまだ保留」 ネマは真顔で答えた。
ミナが吹き出した。
「保留なんだ」
車内の空気は、老人の一言でいったん静まったぶんだけ、かえってそのあとの笑いがやわらかかった。
通路の向こうでは、釣り具を抱えた男たちが湖の深みの話をしており、
前の席では旅装の夫婦が巨石環までの道順を確かめ合っている。
誰もがそれぞれの目的でこの列車に乗っているのに、話題だけは不思議と湖へ戻っていく。
列車は小さな停留所をいくつか過ぎ、やがて窓の外に、水の気配が見えはじめた。
最初はただ光がひらめいただけだった。
それが木立の切れ間ごとに広がり、やがて空の色を映した大きな面となって現れる。
「見えた!」 ミナが立ち上がりかける。
「立たない」 リラが袖を引いた。
「まだ遠いって」 サフィも笑う。
だが、車内のあちこちで同じように身を乗り出す者がいて、誰かが「あれだ」と言い、
別の誰かが「今日は凪いでるな」と応じた。
古代湖は、朝の光の下で静かにひろがっていた。
海のように果てがないわけではない。
けれど、ただの湖と呼ぶには水面があまりに大きく、あまりに深く、岸辺の町や人の営みをどこか小さく見せた。
ネマが小さくつぶやく。 「……思ったより広い」
「思ったより、って何よ」 とリラが言う。
「地図で見るのと、実際に見るのは違う」 ネマは珍しく素直に答えた。
「もっと閉じた水域かと思ってた」
「ね、来てよかったでしょ」 ミナが得意げに言う。
「まだ何も見てない」 リラはそう言ったが、窓の外から目を離さなかった。
列車が古代湖駅へ近づくにつれ、車内のざわめきはまた少しずつ大きくなった。
荷物をまとめる音。
棚から籠を下ろす音。
子どもを呼ぶ声。
駅へ着いたらまず桟橋へ向かうのだろう、という会話。
遊覧の札がまだ残っているかどうかを気にする声。
そのどれもが、朝の期待を隠しきれていない。
やがて列車は、短い軋みとともに古代湖駅へ滑り込んだ。
ホームへ降りた途端、空気が違った。
水の匂いが近い。
風がひらけている。
駅舎は小さいが、その向こうに見える空と湖面の明るさのせいで、町全体がどこか広く感じられる。
「急ぐ?」 とミナが言う。
「走らない」 リラが先に釘を刺した。
「でも札が」 「だから走らない」
四人は人の流れに乗って改札を抜けた。
駅前にはすでに朝の客を当て込んだ屋台がいくつか出ていて、
焼いた川魚の匂いと甘い菓子の匂いが風に混じっている。
土産物屋の軒先には、巨石環の木札、湖の主をかたどった焼き菓子、遊覧の時刻を書いた板札が並んでいた。
道の先には、湖畔へ向かう人の列がゆるやかに続いている。
「ほんとに人多い」 サフィが目を丸くする。
「昨日の話、かなり広がってる」 ネマが周囲を見回した。
「駅の売り方も完全に乗ってる」
「いいじゃない、景気がいいのは」 ミナはそう言って、さっそく焼き菓子の屋台をのぞき込んだ。
「ねえ見て、シーラの形してる」
「先に行くわよ」 リラが言う。
そのときだった。
人の流れの向こうで、ざわめきの質が変わった。
観光客が増えたときの浮ついたざわめきではない。
誰かが珍しいものを見つけたときの、半歩引きながら振り向くようなざわめきだった。
道の先で、何人かが自然に端へ寄る。
荷車を引いていた男が手綱を引き、屋台の女が顔を上げる。
子どもが何か言いかけて、母親に袖を引かれた。
低く、細く、耳の奥を震わせるような駆動音が近づいてくる。
荷車の軋みではない。
馬の蹄でもない。
列車とも違う。
もっと軽く、もっと鋭く、けれど生き物の羽音を無理に機械へ押し込めたような、妙な連続音だった。
「……なに?」 とサフィが言った。
ネマは目を細めた。 「……あれ」
人垣の切れ目から現れたものを見て、四人はそろって足を止めた。
黒と鈍銀の外殻を持つ、小型のメガネウラ。
そう呼ぶのがいちばん近かった。
巨大な蜻蛉を思わせる胴体を細身の機体に仕立て、その背に人が跨がっている。
頭部は単眼灯めいた魔導灯と複眼状の前殻を兼ね、後端から伸びた把手が角のように左右へ張り出していた。
尾部は細く長く、その先から淡い魔導排気が漏れている。
四枚羽は地上走行用にたたまれていたが、それでもなお、ただの乗り物ではなく、
飛ぶための生き物を無理やり街道へ下ろしたような異様さがあった。
「……オートメガネウラだ」 と、近くの地元客が小さく言った。
その名を聞いても、ミナたちにはすぐには分類できなかった。
ただ、見たことのない種類のメガネウラが、自らの駆動音を響かせて湖畔道を来る――それだけは分かった。
操縦席には、細縁の魔導眼鏡をかけた女がいた。
黒髪をきっちりとまとめ、朝の光を受けても表情をほとんど崩さない。
その視線が一度だけ人垣を流れると、道の端にいた者たちはそれだけで半歩ぶん余計に下がった。
「……ウラ」 と、別の誰かが小さく言った。
オートメガネウラは人の流れの手前で滑るように減速し、ほとんど揺れもなく止まった。
駆動音が落ちる。
その静けさの中で、後ろから女たちが姿を見せる。
ひとりは背が高く、肩で風を切るような歩き方をした。
ひとりは腕を組んだまま周囲を見回し、ひとりは何も言わずに先に桟橋の方角を確かめる。
どの女も旅装ではあるが、町の娘とも学生とも違う。
道に立つ姿そのものに、独自の流儀があった。
「旗羽族だ」 と、屋台の男が小声で言った。
「男どもの安っぽい夜走りとは違うよ」 と、その隣の女が言い直す。
「あれは女旗羽族さ」
ミナが息をのむ。 「……あれが?」
サフィは目を輝かせた。 「かっこいい……」
「声が大きい」 とリラが小さく言ったが、自分も目を離せていなかった。
ネマだけが、オートメガネウラの外殻と翅の収まり方を見て、低くつぶやいた。
「小型単座……軽機動型……」
「何ぶつぶつ言ってるの」 とミナが言う。
「メガネウラの派生機」 ネマは目を離さずに答えた。
「たぶん海底都市系の設計が元にある。でも地上用に手が入ってる」
「分かるの?」
「少しだけ」
操縦席の女――ウラが、眼鏡の位置を指先で直した。
それだけの仕草が妙に冷たく、妙に洗練されて見える。
「朝からずいぶんな人だね」 とウラは言った。 声は高くない。
よく通るが、張り上げる必要を感じていない声だった。
屋台の女が苦笑する。
「そりゃあんたたちまで来ればねえ」
「私たち目当てじゃないよ」 ウラはさらりと言った。
「今日は湖の主さまのほう」
その言い方に、周囲の何人かが笑う。
だが、笑いはすぐにまた緊張へ戻った。
女たちの最後に、もうひとりが姿を現したからだ。
派手な飾りはない。
長身。
濃い色の外套を肩にかけ、髪は後ろでひとつに束ねている。
それだけだ。
それだけなのに、その女が地に足をつけた瞬間、場の空気が静かに変わった。
さっきまで好き勝手にしゃべっていた周囲の声が、目に見えない手で少しだけ押さえられたように低くなる。
先にいた女たちも、自然に半歩ぶん位置をずらした。
「総長」 と、背の高い女が呼んだ。
ウラは何も言わず、ほんのわずかに顎を引いた。
ミナたちは、思わず息を止めた。
その女――リンは、まず湖のほうを見た。
次に、駅前の人の流れをひとわたり見た。
最後に、オートメガネウラの外殻へ軽く手を置いてから、短く言った。
「今日は出るな」
ウラが眼鏡の奥で目を細める。
「ええ。風がいい」
それだけで通じるらしかった。
「……なにあれ」 とサフィが小声で言う。
「たぶん、頭」 ネマが答えた。
「ウラより上がいるの?」 ミナが驚く。
「いるみたいね」 とリラが言った。
そのとき、ミナたちのほうへ、ウラの視線がふっと向いた。
鋭い、というより、見落とさない目だった。
女学生四人をひと目で見て、徽章と靴と腰の小袋まで確かめたらしい。
「学院の子か」 とウラが言う。
ミナが一瞬だけ身構えた。
だが四人とも、ほとんど同時に半歩ずつ位置をずらしていた。
前へ出る者、横へ流れる者、荷を避ける者、全体を見る者。
人波の中で押し合いにならないための癖であり、対大型魔獣接近時の初歩陣形でもある。
ウラの眉が、ほんの少しだけ上がった。
「へえ」
リンは何も言わなかった。
だが、女子大生たちを見る目だけが、わずかに変わった。
リラが一礼する。 「冒険者大学です」
「見れば分かる」 とウラは言った。
「騒がしいわりに、立ち位置が悪くない」
「褒められてる?」 とサフィがひそひそ言う。
「たぶん」 ネマが答える。
ミナは負けじと顎を上げた。
「そっちこそ、すごいわね。それ」
そう言って、オートメガネウラを見る。
ウラは一瞬だけ機体へ目をやった。
「いい機体だよ」
「乗り心地は?」 とミナ。
「聞くところ、そこ?」 とリラが小声で言う。
ウラは少しだけ口元をゆるめた。
「悪くない。慣れればね」
背の高い女――バルダが吹き出した。
「気の強い子だねえ」
「学院の子はだいたいそうだ」 と腕組みの女――セハラが言う。
何も言わなかった女――ジェルマは、すでに桟橋のほうを見ていた。
その視線の先で、また別のざわめきが起きている。
最初は風かと思った。
次に、人の波が一方向へ傾くのが見えた。
そして、湖のほうから、低く長い歓声のようなものが流れてくる。
「出るぞ!」 と誰かが叫んだ。
「シーラ便だ!」
その一言で、駅前の空気が変わった。
観光客も、地元の者も、屋台の女も、女旗羽族も、女学生たちも、みな同じ方向を向く。
湖畔へ続く道の先、朝の光を受けた水面の向こうで、黒いものがゆっくりと動いていた。
古代魚めいた頭部。
重厚な装甲。
だが、その巨体は驚くほど静かに水を割り、湖そのものが意志を持って岸へ寄ってくるように見えた。
ミナが息をのむ。
サフィが言葉を失う。
リラは目を見開いたまま黙り、ネマは手帳を取り出しかけた手を止めた。
その横で、バルダがぽつりと言う。
「……だめだ」
「何が」 とセハラが聞く。
「好き」
サフィが思わず吹き出しかけ、ミナがそちらを見る。
だがウラは笑わなかった。
眼鏡の奥の目を細めたまま、低く言う。
「静かにしな。聞こえないだろ」
「ウラも同じ顔してるよ」 とバルダが言う。
「観察だよ」
「その顔で?」 とセハラ。
ジェルマは何も言わず、すでに遊覧の札場へ向かって歩き出していた。
リンだけは黙っていた。
だが、その目は湖面を進むシーラから一度も離れなかった。
やがて、ごく小さく、誰にも聞こえないほどの声で言う。
「……なるほど、ね」
リンの呟きは、押し寄せる観光客の歓声にかき消された。
だが、その視線の先でゆっくりと水面を割るシーラの巨体は、
確かに「昨日までの目撃談」とは異なる異様な気配を纏っている。
古代湖を滑るように進むシーラの巨体――そのすぐ背後の水面が、不自然に波打った。
V字型の白波がもう一つ、少し遅れて追随してくる。
「おい、本当に二頭いやがるぞ!」
「後ろの、やっぱりレッシー(外湖の主)か!?」
騒然となる桟橋の群衆を割るように、カン、カン、カン、カンと、今度は鋭い警報の鐘の音が響き渡った。
「全員、桟橋の先端から下がれ! 臨時の『測量試運転列車』が通る!」
駅の方角から声を張り上げて走ってきたのは、爆炎パーティのダンだった。
その直後、シュ、シュ、シュ、シュと、地響きのような排気音を伴って、あの青い小型機関車トマスが姿を現した。
前面に取り付けられた真鍮製の魔導測定器が、キチキチと激しい音を立てて火花を散らしている。
「CEO! 水霊の密度が通常の四倍に跳ね上がっています!
シーラだけじゃない、湖底の魔力層そのものが引きずり上げられてる!」
キャブの窓から身を乗り出したエリス・ウェインが、緊迫した声を上げた。
トマスのすぐ横、線路際の高台に立った匠一は、懐中時計を片手に湖面を睨み据えた。
「やはりな。オケアヌス線の開通による魔力潮流の偏在だ。
シーラは暴れているんじゃない。
急激な環境変化に驚いて、一番『魔力の安定している観光船のルート』へ避難してきているんだ」
「避難……?」
手帳を開いたネマが、その言葉にハッと顔を上げた。
「おい、そこの女旗羽族」
匠一は、オートメガネウラに跨がったままのウラ、そしてその後ろに立つリンへ視線を向けた。
「その機体は単座の軽機動型だな。湖上での低空静止は可能か?」
ウラは眼鏡の奥の目を細め、不躾な鉄道国のCEOを見返した。
「舐めないで。私のウラ(機体)なら、水面すれすれで煙草に火を点けることだってできるよ」
「なら仕事だ。トマスの感知器と連動して、湖上空の『魔力の歪み』を攪拌してくれ。
そのまま放置すると、シーラがパニックを起こして観光船に衝突する」
匠一はそう言うと、手元から一本の魔導発信札をウラへと放り投げた。
ウラはそれを片手で鮮やかに受け止めると、背後のリンを振り返った。
リンは言葉を返さず、ただ短く顎を引いた。――『行け』、と。
「バルダ、セハラ、乗客を桟橋から引き剥がしな。ジェルマは船長に回頭を指示!」
ウラが把手を握り締めると、たたまれていた四枚の羽がシャキインと鋭い音を立てて広がった。
キィィィィン――!
生き物の羽音を何倍にも増幅したような、高周波の駆動音が響き渡る。
オートメガネウラは地面を滑るように加速したかと思うと、朝靄の残る古代湖の水面へと、
文字通り「跳躍」するように飛び立った。
「わあ……っ!」
ミナとサフィが歓声を上げる。
水面すれすれを猛烈な速度で疾走するウラの機体。
その後方から、トマスの汽笛が呼応するように高く鳴り響いた。
「トマス、魔力圧を全開に! ウラの誘導に合わせて、レールの接地術式から逆位相の魔力を叩き込むよ!」
エリスが加減弁を引き絞ると、トマスの煙突から、青白い火花を孕んだ凄まじい蒸気が噴き出した。
湖上で円を描くように旋回するオートメガネウラと、陸路からそれと並走する青い機関車トマス。
二つの異なる「新時代のテクノロジー」が、古代湖の空気を激しく切り裂いていく。
数分後。
キチキチと鳴り響いていた測定器の針が、徐々に中央へと戻り始めた。
水面を覆っていた不自然な波浪が収まり、
シーラの巨体は、安堵したかのようにゆっくりと湖の深みへと沈んでいく。
「……沈んだね」
リラがぽつりと言った。
「ええ。でも、暴走は回避されたみたい」
ネマは手帳にその光景を素早く書き留めた。
桟橋へと帰還し、羽を休めたオートメガネウラから、ウラが静かに降り立つ。
匠一は手帳を閉じ、彼女たちへと歩み寄った。
「助かった。女旗羽族の機動力は、こちらの計算以上の数値を出した。
今回のデータは、今後の運行安全対策に反映させる」
「お堅い挨拶だね、CEO」
ウラは眼鏡を指先で直しながら、不敵に笑った。
「でも、あの青い機関車の馬力も悪くなかったよ。
今度は観光便じゃなくて、私たちのウラと速度勝負でもしてみる?」
「ダイヤの乱れる勝負には興味ない」
匠一は淡退と答え、それから背後のダンへ声をかけた。
「ダン、運行再開だ。一便の遅れを三分以内に回収しろ」
「へいへい、了解っすよ!」
古代湖線に、再びいつもの賑やかな発車鈴が鳴り響く。
新線の不具合を冷徹に潰していく鉄道国と、その危機を独自の流儀で楽しんでみせた女旗羽族。
そして、それらを特等席で目撃した冒険者大学の女学生たち。
古代湖シーラを巡る熱気は、ただの伝説の噂を超えて、
様々な「力」が交錯する新しい時代の舞台へと、確かにその姿を変え始めていた。




