門を壊す者
見難い火傷の子432
門を壊す者
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
オケアヌス・ブリタニクスゲート建設開始を三日後に控えた夜、海峡の風は妙に乾いていた。
仮設整備棟の中では、最終点検用の図面と記録束が机の上に積み上がっている。
潮流観測、地盤応答、基礎固定、術式連結、保守動線、緊急停止系統。
どれも問題なし。
少なくとも、書類の上ではそうなっていた。
匠一は最後の記録束をめくり、そこで手を止めた。
「……」
隣でダンが首を傾げる。
「どうした?」
「いや」
匠一は一枚の記録票を抜き出し、次に別の束から同じ時刻帯の報告書を引き抜いた。
見比べる。
さらにもう一枚。
そして無言のまま、机の端に三枚並べた。
「これ、変ですか?」
キールが覗き込む。
だが数字の並びを見ても、何が変なのかまではわからない。
匠一は短く答えた。
「綺麗すぎる」
「は?」
「現場記録にしては、揃いすぎてる」
彼は記録票の端を指で叩いた。
「観測値そのものじゃない。揺れ方が不自然だ。
誤差の出方が均一すぎる。
別系統の記録なのに、癖まで揃ってる」
ダンが眉をひそめた。
「つまり?」
「誰かが整えた」
室内の空気が変わる。
だが匠一の声は低いままだった。
「騒ぐな」
「お、おう」
「まだ確定じゃない。
でも今騒ぐと逃げる」
爆炎の面々が顔を見合わせる。
匠一はすでに次の図面を開いていた。
「致命傷になるとこだけ先に潰す。
交換記録は別管理。
表の帳面はそのまま」
ダンが目を瞬かせる。
「そのままって、おい」
「泳がせる」
あまりにも平坦な声だった。
怒っているようには見えない。
だが、知っている者にはわかる。
匠一はこういう時が一番怖い。
「現場壊すやつは入れない」
それだけ言って、彼は立ち上がった。
その夜、整備棟の灯りは消えなかった。
表向きには通常の最終確認。
だが実際には、信頼できる者だけが呼び集められ、
記録に残らない再点検が始まっていた。
交換。
再封印。
監視の追加。
導線の変更。
そして、何も変わっていないように見せるための偽装。
匠一は一つ一つを確認し、最後にだけ言った。
「これでいい。死んだ形跡は消した。
向こうはまだ生きてると思う」
誰も軽口を叩かなかった。
翌日から、現場には目に見えない網が張られた。
警備は増えていない。
巡回も変わっていない。
帳面の上では、何一つ異常はない。
だが実際には、出入りする人間、触れた記録、持ち出された工具、
そのすべてに静かな目がついていた。
そして二日後の深夜。
海霧の濃い時間帯に、その男は動いた。
名目上は現地協力官。
港湾側との調整役であり、資材搬入の窓口でもある。
建設開始前から鉄道国に協力的で、地元との折衝も上手く、
ブリタニア側重臣からの受けも悪くない。
少なくとも表向きには、そういう男だった。
男は見張りの死角を知っていた。
いや、正確には、死角だと思っていた。
保守用仮設通路の脇で立ち止まり、周囲を確認する。
懐から封印札を取り出し、補助箱の留め具に手をかけた、その瞬間。
「何してる」
背後から声がした。
男の肩が跳ねる。
振り返った先にいたのは、匠一だった。
灯りも持たず、ただそこに立っている。
「……最終確認だ」
男はすぐに表情を整えた。
「明日から本格搬入だ。念のため、私も見て回っていてな」
「そうか」
匠一は補助箱を見た。
次に男の手元を見る。
そして静かに言った。
「その封印札、現場支給じゃない」
男の沈黙は短かった。
次の瞬間には、踵を返して走っていた。
だが通路の先には、すでに爆炎パーティの面々がいた。
横手には港湾警備。
背後には、いつの間にかブリタニア王国側の近衛まで立っている。
完全に囲まれていた。
男は歯噛みした。
その顔から、協力者の仮面が剥がれ落ちる。
「最初から気づいていたのか」
「昨日の夜には」
「ならなぜ公表しなかった」
匠一は少しだけ首を傾げた。
「今出すと、おまえしか捕まらない」
男の顔が引きつる。
「他にもいるか、で終わる話じゃない。
誰に記録を渡したか。
誰が確認を飛ばしたか。
誰が現場の穴を知っていたか。
そこまで見ないと意味がない」
男は何かを言い返そうとして、できなかった。
匠一の声には怒気がない。
だがその無感情さが、かえって逃げ道を消していた。
「おまえ自体には興味ない」
匠一は言う。
「でも現場殺そうとしたなら別だ」
その時、少し離れた暗がりで、誰かが小さく呟いた。
「――よい」
それは独り言のように低く、だが妙にはっきりと夜気に落ちた。
海霧の向こう、崖際の暗がりから、一人の男が姿を現す。
厚い外套をまとってはいるが、その立ち方ひとつで、そこにいる者たちは誰もが悟った。
ブリタニア王だった。
港湾警備も、近衛も、爆炎の面々でさえ一瞬息を呑む。
だが王は誰にも構わず、拘束された男を見た。
次に匠一を見る。
その眼差しは静かで、冷えていた。
「やはり現れたか」
王は言った。
「門を恐れる者。流れを止めたがる者。
時代の足音に耐えられぬ者どもが」
海峡の風が白亜の崖を撫でる。
その向こうには、まだ門はない。
まだ線路もない。
だが、だからこそ今、炙り出される。
王はゆっくりと海の方へ目を向けた。
「誰がこの門を歓迎し、
誰が利用し、
誰が恐れ、
誰が壊そうとするのか。
それを見極めずして、門は開かせぬ」
その声は大きくない。
だが、夜の現場にいる全員の耳へ、重く落ちた。
「門は、ただ開けばよいのではない。
誰を通し、誰を弾くか。
それを決めるのが王だ」
拘束された男の顔から血の気が引く。
自分が見ていたのは現場だけではなかった。
王自らに見られていたのだと、今さら理解したのだ。
一方、匠一は王を見ても、わずかに視線を上げただけだった。
驚きはない。
少なくとも、表には出さない。
王はそんな匠一を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「騒がなかったそうだな」
「騒ぐと逃げる」
「冷たい」
「現場壊されたくないだけです」
短いやり取りだった。
だが王はそれで十分だと言わんばかりに頷いた。
「続けられるか」
「できる」
「敵がいるぞ」
「知ってます」
「それでも進めるか」
「止めたら相手の得だ」
数拍の沈黙。
海風だけが通り過ぎる。
やがて王は、はっきりと言った。
「よい。進めよ」
その一言で、現場の空気が変わった。
許可ではない。
確認でもない。
それは王がこの門をなお自らの事業として背負うという宣言だった。
一方、現場では男が拘束されたままだった。
だが匠一の視線は、すでにその先を見ている。
末端だ。
これで終わりではない。
男一人を押さえたところで、門を恐れる国々の思惑が消えるわけではない。
ブリタニアの内にも、海峡の向こうにも、まだいくつもの手が残っている。
ダンが低く問うた。
「で、どうする?」
匠一は答える。
「記録を洗う。
接触先も。
明日の工程は予定通り」
「予定通り?」
「止めたら相手の得だ」
その返答に、爆炎の面々は顔を見合わせ、やがて笑った。
いつもの匠一だ。
いや、いつも以上に容赦がない。
王はそのやり取りを黙って聞いていた。
そして海峡の向こう、まだ何もない闇を見つめる。
門はまだない。
だが、その前に立つ者たちの顔は、少しずつ見え始めていた。
オケアヌス・ブリタニクスゲート建設開始前夜。
門を壊そうとする手は、すでに動いている。
だが同時に、その手を見ている目もまた、静かに開いていた。
夜明け前の空が、わずかに白む。
そして時代は、そうしたすべてを置き去りにして進んでいく。




