オケアヌス・ブリタニクスゲート建設前夜
見難い火傷の子431
オケアヌス・ブリタニクスゲート建設前夜
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
オケアヌス・ブリタニクスゲート建設前夜――海峡の風は冷たく、だがその先にある明日は熱を孕んでいた。
ブリタニア王国南岸、白亜の断崖を望む仮設会議棟には、夜だというのに灯りが絶えなかった。
海峡を越える門、オケアヌス・ブリタニクスゲート。
それは鉄道国にとっては産業革命の象徴であり、物流の未来そのものだった。
だがブリタニア王国にとっては、それだけではない。
交易路であり、兵站線であり、場合によっては国境そのものの意味を変えてしまう門でもあった。
長机の上には海峡地図、潮流図、地盤図、資材搬入計画、保守動線、
緊急停止術式の配置図まで並んでいる。
匠一はその中央で、いつものように淡々と資料をめくっていた。
その横では爆炎の面々が、護衛なのか見学なのか判然としない顔で座っている。
いや、少なくとも彼らにとっては、巨大獣の群れを処理ラインに流すよりは退屈な仕事だった。
やがて扉が開き、室内の空気が一段引き締まった。
ブリタニア国王の入室である。
随員たちが一斉に頭を垂れる。
重臣たちも立ち上がった。
だが匠一は、資料から顔を上げて一度会釈しただけだった。
無礼というほどではない。
だが王を前にした態度としては、あまりにも平坦だった。
ブリタニア国王はその様子を見て、内心で小さく息を吐いた。
この男は、やはり王侯貴族の理で動く人間ではない。
だからこそ厄介だ、と。
「夜分にすまない」
国王は席に着きながら言った。
「国家の行く末に関わる工事だ。最終確認には、余も自ら出るべきと判断した」
「合理的だと思います」
匠一は即答した。
「現場条件、運用条件、保安条件、外交条件が全部絡みます。最終責任者が直接確認した方が早いです」
ブリタニア側の重臣が一瞬だけ眉を動かした。
王に向かって“早いです”で返す者など、そうはいない。
だが国王は咎めなかった。
「では確認しよう」
国王は机上の図面へ視線を落とした。
「この門が完成した場合、我が国にもたらされる利益は大きい。
物流、交易、雇用、沿岸開発、いずれも魅力的だ。そこに異論はない」
「はい」
「だが同時に、危険もまた大きい」
匠一は頷いた。
「事故、過積載、潮流干渉、術式暴走、保守不全、密輸、無許可通行、設備破壊工作。
そのあたりは対策済みです」
「……そういう意味ではない」
国王の声がわずかに低くなる。
会議室の空気が静まった。
「この門は、我が国の富を増やすだろう。
だが同時に、我が国の内側へ別の秩序を通すことにもなる。
人、物、規格、時間、制度……それらが海峡を越えて流れ込む。
違うか?」
匠一は少しだけ考え、あっさり答えた。
「流れ込みますね」
重臣たちの顔色が変わる。
あまりにも躊躇がない。
「それを問題だとは思わないのか」
国王は問うた。
「程度によります」
匠一は地図の一点を指した。
「孤立した地域は飢えやすいし、物価も乱高下しやすいです。
規格が統一されれば事故率は下がるし、輸送効率も上がる。
沿線の生産性も上がる。
人の移動が増えれば技術も回る。
全体としてはプラスです」
「全体としては、か」
「はい」
国王は匠一を見た。
この男は本気でそう考えている。
脅しでも、詭弁でもない。
善意と合理で、国の形を変えることを当然だと思っている。
「鉄道国は、我が国土を占領する気か?」
その言葉は、気づけば口をついて出ていた。
室内が凍る。
重臣たちが息を呑む。
爆炎の面々は、誰も口を挟まない。
ただ匠一だけが、心底わからないという顔で首を傾げた。
「ん?」
その一音に、国王は逆に確信した。
この男は占領するつもりなどない。
ただ線路を敷き、駅を建て、物流を通し、結果として国の在り方を変えてしまうだけなのだ。
「……いえ、何でも無いです」
国王はそう言って視線を落とした。
だがその一瞬の沈黙は、どんな長広舌よりも重かった。
匠一は気にした様子もなく、次の資料を開いた。
「では次です。建設開始後の運用原則について確認します。
まず第一に、オケアヌス・ブリタニクスゲートは民生物流を主目的とする施設です。
軍事輸送への恒常転用は認めません」
ブリタニア側の武官が口を開く。
「恒常転用、ということは例外はあるのか」
「あります」
匠一は即答した。
「災害救助、避難民輸送、疫病封鎖、飢饉対応。そういう緊急案件は別です」
「治安維持は?」
「内容次第です」
「国境警備は?」
「恒常運用なら不可です」
「反乱鎮圧は?」
「不可です」
武官の目が細くなる。
「では、ヘルヴェティア方面で大規模な騒乱が起き、我が国民の保護が必要になった場合は?」
「個別審査です」
「余地があるように聞こえるな」
「余地はあります」
匠一は淡々と言った。
「でも抜け道にはしません。名目をどう飾っても、中身が軍事輸送なら止めます」
その言葉に、今度はブリタニア側だけでなく、同席していたガリア王国の観察使節まで視線を上げた。
彼らもまた、この門を誰がどう使うかに神経を尖らせている。
ガリア使節が静かに口を開く。
「つまり鉄道国は、この門の運用主権を握るということですかな」
「安全保障上必要な範囲で」
匠一は答えた。
「少なくとも、規格、保守、検査、通行認証、緊急停止権限は一元化しないと事故ります」
「事故、ですか」
「はい。人為的なものも含めて」
ガリア使節は薄く笑った。
「便利な言葉だ」
「便利ですよ」
匠一はうなずいた。
「悪意も無能も、だいたい事故の原因になるので」
マリーが小さく吹き出した。
ブリタニア側の重臣は笑えなかった。
国王は椅子に深く座り直し、海峡図を見つめた。
ブリタニア王国はヘルヴェティア王国を圧し潰したい。
ガリア王国はそれを許したくない。
ヘルヴェティア王国はこの門の完成を恐れている。
そして鉄道国は、そのすべてを横目に、ただ物流と規格と工期の話をしている。
だが、だからこそ恐ろしい。
軍旗を掲げて迫る侵略者なら、まだ対処のしようがある。
しかし鉄道国は違う。
彼らは善意と利便を掲げてやって来る。
飢えを減らし、物価を安定させ、交易を増やし、雇用を生み、
気づけばその土地を昨日とは別の理で動かしてしまう。
鉄道国の軌道敷設は、ある意味では領土侵略に等しかった。
国境線こそ動かない。
だが線路が通れば、物流が変わり、規格が入り、駅が建ち、人と物の流れが組み替えられる。
土地の名目上の主は変わらずとも、その土地を動かす理は少しずつ鉄道国のものになっていく。
ある者はそれを文明と呼ぶ。
ある者は侵略と呼ぶ。
そして今、その最前線がこの海峡だった。
「確認したい」
国王はゆっくりと言った。
「この門は、誰のものだ」
匠一は少しだけ考えた。
そして、いかにも彼らしい答えを返した。
「使う人のものです」
重臣たちがざわめく。
あまりにも危うい答えに聞こえた。
だが匠一は続けた。
「ただし、壊す人には使わせません。独占する人にも向いてません。流すための設備なので」
「流すため、か」
「はい。止めるための門じゃないです」
国王は目を閉じた。
その言葉が真実であることはわかる。
そして同時に、その真実がどれほど多くの国を不安にさせるかも理解していた。
止めるための門ではない。
だからこそ、一度流れ始めれば誰にも止められないのだ。
会議はさらに二時間続いた。
潮流変化への対応、基礎杭の打設順、資材搬入の時間帯制限、
現場周辺の立入規制、緊急停止術式の権限分配、監視塔の配置、
保守要員の宿営地、そして軍事転用を防ぐための検査工程。
議題は山ほどあった。
だが最後まで、国王の胸に残ったのは技術論ではなかった。
この門が完成した時、変わるのは海峡の物流だけではない。
国の形そのものだ。
会議が終わり、国王が立ち上がる。
窓の外には夜の海峡が広がっていた。
暗い海の向こうに、まだ見ぬ明日がある。
「明日から始まるのだな」
「はい」
匠一は答えた。
「いよいよです」
国王は海を見たまま、小さく呟いた。
「交易の門か。侵攻の門か。あるいは、もっと別の何かか……」
匠一はその言葉の半分も気に留めず、手元の工程表を確認していた。
「産業革命の第一歩です」
その返答に、国王は苦く笑った。
やはりこの男は、最後までそう言うのだろう。
だが、それでいいのかもしれない。
野心で門を造る者より、必要で門を造る者の方がまだましだ。
少なくとも今は。
扉の前で、国王は一度だけ振り返った。
「匠一殿」
「はい」
「我が国は、そなたらを歓迎する。……だが、警戒もする」
匠一は少しだけ考えてから頷いた。
「正常だと思います」
その答えに、国王は今度こそ笑った。
皮肉でも社交辞令でもない、短い本音の笑いだった。
「そうか。ならば良い」
国王が去る。
重臣たちも続く。
ガリアの使節は最後に一礼し、何を考えているのかわからない笑みを残して退出した。
静かになった会議室で、ダンがぽつりと言った。
「で、結局あの王様、何をそんなに警戒してたんだ?」
匠一は図面を丸めながら答える。
「さあ。でもまあ、工事前はだいたいみんな不安になりますよ」
爆炎の面々は、なるほどと頷いた。
たぶん何もわかっていない。
海峡の向こうで、夜明け前の風が吹く。
まだ線路はない。
まだ門もない。
だが列強はすでに、その完成後の世界を計算し始めていた。
オケアヌス・ブリタニクスゲート建設前夜。
明日から始まる工事は、ただの建設ではない。
世界の形を変える、最初の一打なのだ。
そしてそれは同時に、機関車トマスの大陸デビューでもあった。
海峡を越えるのは、兵でも王でもない。
まず最初に大陸へ顔を出すのは、一台の機関車である。
ブリタニア製のその機関車は、ただの輸送機械ではなかった。
鉄と蒸気と車輪で組み上げられたその姿は、
海峡の向こうから響き始めた産業革命の足音そのものだった。
ある者はそれを繁栄の前触れとして聞いた。
ある者は侵略の足音として聞いた。
そしてまたある者は、まだそれが何の音なのかさえ理解していなかった。
だが、理解しているかどうかに意味はない。
足音はもう、聞こえ始めていたのだから。




