ブリタニアの機関車トマス
見難い火傷の子430
ブリタニアの機関車トマス
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
オケアヌス・ブリタニクスゲートが開通する少し前のブリタニア。
潮の匂いが、鉄の匂いに混じっていた。
西方終端の工廠は、海に近い工場らしく、どこもかしこも薄く湿っている。
梁の高い組立棟の天窓から、白っぽい光が斜めに差し込み、吊られた鎖や工具の影を床に長く落としていた。
外では風が鳴っている。
海峡側から吹き込む風だ、と案内役の工廠長は言った。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます、CEO」
匠一は軽く手を上げて応じた。
「視察だ。礼はいい。それより、例の新型を見せてくれ」
工廠長は、いかにも待っていましたという顔でうなずいた。
組立棟の奥、布のかかった一両の前まで歩く。
周囲には職工たちがいるが、皆どこか落ち着かない。
誇らしさと緊張が半分ずつ、といった顔つきだった。
「海峡線接続後の島内輸送を見越した、小型標準機です。
港湾支線、工廠引込線、都市近郊の短距離高頻度運用を想定しています。
塩気と霧に強く、整備性を優先しました」
「書類で読んだ」
匠一は布の輪郭を見た。
思ったより小さい。
だが、低く詰まった重心に、妙な頼もしさがある。
「実物は書類より早い」
そう言うと、工廠長が合図した。
職工が布を引く。
ざ、と厚布が滑り落ち、黒に近い深い青の機体が姿を現した。
匠一は一歩、黙って近づいた。
丸みのある前面。
短めの煙突。
過剰ではない補強。
側面の点検蓋は手が届きやすい高さに揃えられ、足回りは小柄な車体に対して意外なほどがっしりしている。
飾り気は薄い。だが雑ではない。
使う者の手を最初から織り込んだ設計だと分かる。
「……いい顔をしているな」
工廠長の肩が、わずかに上がった。
褒め言葉として受け取ったらしい。
「ありがとうございます。派手さより、現場で嫌われないことを優先しました」
「賢明だ」
匠一は前面に手を触れた。
塗装の下にある鉄の冷たさが、指先にまっすぐ返ってくる。
「島内向けか」
「はい。長大編成を引く怪力はありません。しかし、起動が軽く、停止と再発進が多い運用に向いています。
短い区間を何度も往復する仕事なら、従来機より効率が出ます」
「港から工廠、工廠から市街、支線から本線へ荷を渡す」
「その通りです」
匠一はうなずいた。
オケアヌス・ブリタニクスゲートが開けば、海峡を越える大動脈だけでは足りない。
最後に物を届ける足、細かく拾い上げる足、都市の中を血のように巡る足が要る。
大きな門が時代を変えるのではない。
門を抜けた先で、それを使い切る仕組みが時代を変えるのだ。
「名は」
工廠長が一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「正式には、ブリタニア第一工廠式小型標準機関車一号です」
「長いな」
「現場でも不評です」
匠一は少しだけ口元を緩めた。
「通称は?」
その問いに、今度は工廠長ではなく、後ろにいた若い職工が反応した。
しまった、という顔をしたが、もう遅い。
「……トマス、です」
工廠長が眉をひそめる。
「こら」
「い、いえ、その、まだ正式決定ではなく……ただ、最初の試運転の日に、あまりに働き者で、しかも見た目が妙に――」
若い職工はそこで言葉を飲み込んだ。
代わりに、年嵩の整備主任がぼそりと続ける。
「親しみやすいんです。こいつは」
工廠長が咳払いをした。
「現場の仮称です。お耳汚しを」
匠一は機関車を見上げた。
たしかに、威圧感で押す顔ではない。
小さい。丸い。だが、甘く見ればきっちり仕事を返してきそうな、妙な実直さがある。
「トマス、か」
口に出してみると、不思議と収まりがよかった。
「悪くない」
工廠長が目を瞬いた。
「よろしいので?」
「正式型式名は正式型式名で要る。だが、現場が先に名を付ける機械は強い。使われる姿が見えている証拠だ」
匠一は機体の脇へ回り、足回りを見た。
泥除けの角度、整備口の位置、連結器の高さ。
どれも机上の見栄えより、現場の手間を減らす方へ振ってある。
「誰が主設計だ」
奥から、ひとりの女技師が進み出た。
まだ若いが、目だけは妙に落ち着いている。
「私です」
「名前は」
「エリス・ウェイン」
「よくまとめたな、ウェイン技師」
エリスは一礼したが、顔には安堵より警戒が残っていた。
評価の次に来る言葉を待っている顔だ。
匠一はそういう顔を何度も見てきた。
「ただし」
やはり、と工廠長たちの空気が固くなる。
「この機は、ここで完成ではない。海峡が開けば、荷は増える。人も増える。運行密度も上がる。
故障一件の重みも変わる。島内の便利な小型機で終わるな。本線との受け渡し、部品規格、保守教育、全部つなげろ」
エリスはすぐにうなずいた。
「はい」
「できるか」
「やります」
即答だった。
匠一はそこで初めて、はっきり笑った。
「いい返事だ」
外で汽笛が鳴った。海峡側の風が、組立棟の大扉をわずかに震わせる。
遠くで波の砕ける音がする。
この島は海に囲まれている。
だからこそ、内側を走る足が要る。
門が開いた後、世界を本当に変えるのは、こういう機関車なのだろう。
匠一はもう一度、青い小型機関車を見た。
「試運転はいつだ」
「三日後です」
「予定を空けろ」
工廠長が目を見開く。
「CEO自らご覧に?」
「自分の目で見る。書類は走らん」
若い職工が、今度は隠しきれずに顔を輝かせた。
整備主任は腕を組んだまま、少しだけ鼻を鳴らす。
エリスは緊張を解かないまま、それでも確かに目の色を変えた。
匠一は機関車の前で立ち止まり、低く言った。
「働けよ、トマス」
まだ火の入っていない小さな機関車は、黙ってそこにいた。
だが匠一には、その沈黙が、いずれ忙しく息をし始める前の静けさに思えた。
ブリタニアの機関車トマス
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三日後の朝は、ブリタニアらしい濃い霧に包まれていた。
西方終端の引き込み線は、白く煙る視界の先で海へと消えている。
レールの上には露が降り、バラストの砂利は湿気で黒ずんでいた。
視察用の天幕の下、匠一は懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「定刻だ」
工廠長が緊張した面持ちで、霧の向こうへ合図の旗を振る。
直後、霧を割って、低く鋭い排気音が響いた。
シュ、シュ、シュ、シュ、と小刻みで、しかし一切の迷いがない規則正しい規則音。
現れたのは、あの青い車体だった。
煙突から吐き出される薄灰色の煙が、朝の霧を巻き上げていく。
小さな車体には、すでに本線用の貨車が三両、ずっしりと重そうな鉄材を積んで連結されていた。
「起動時の空転がないな」
匠一が言った。
「ウェイン技師の調整です」
工廠長が誇らしげに答える。
「メソポタミアに繋がる線では、発車時の魔力の損失が最大の敵です。
彼女はシリンダーの圧力をあえて細かく刻み、多脚生物が地を這うような粘り強さを鉄輪に与えました」
機関車は、匠一たちの目の前でピタリと停まった。
ブレーキの鳴き声も短い。
キャブ(運転台)の窓から顔を出したエリス・ウェインは、煤で頬を汚しながらも、匠一を真っ向から見据えていた。
「ここまでは予定通りです」
「重荷を引いての加減速はどうだ。そこがこの機の命のはずだが」
「お見せします。おい、火を落とすなよ!」
エリスがキャブの奥の若い職工に鋭く指示を飛ばす。
再び、トマスが動き出す。
今度はバックだ。
短い引き込み線のスイッチバックを、まるで手慣れた職人が何度も往復するように、軽快に行き来する。
前進、停止、後退。
その一連の動作に、大型機特有の「よっこらしょ」という重たさがない。
まさに港湾や工廠の狭い隙間を、血液のように巡るために作られた足だった。
「……確かに、これはトマスだな」
匠一がぽつりと言った。
「と、申しますと?」
工廠長が尋ねる。
「偉ぶらない。だが、自分の領分では絶対にへこたれない。
現場の人間がこの小さな鉄の塊に男の名前を付けたくなる理由が、走りを見てよく分かった」
匠一は天幕を出て、再び停車したトマスのキャブへと近づいた。
熱を帯びたボイラーの匂いと、石炭の匂いが霧の中に混ざり合う。
「ウェイン技師。この機関車はブリタニアの、いや、いずれ開くオケアヌス・ブリタニクスゲートの『心臓』にはなれん」
エリスの表情が一瞬、硬くなった。
「だが」
匠一は続けた。
「大動脈から送られてきた物を、末端の細胞まで届ける『毛細血管』にはなれる。
心臓がどれだけ強くとも、血管が詰まれば体は死ぬ。
お前が作ったのは、この島を生き長らえさせるための、最も重要な足だ」
エリスは煤だらけの手で、そっとキャブの縁を握りしめた。
それから、小さく、しかし確かな声で言った。
「本線との規格統一の設計図、すでに書き始めています。
次の三号機からは、どこの工廠の部品でも現場で挿げ替えられるようにします」
「いい先読みだ」
匠一は満足そうに頷き、懐から一本のペンを取り出して、工廠長へ手渡した。
「量産を承認する。正式型式名の横に、括弧書きで『Thomas』と入れておけ。現場の愛称を、そのまま会社の公式にする」
工廠長と、後ろで控えていた整備主任が、顔を見合わせて破顔した。
キャブの奥からは、若い職工の小さな歓声が聞こえる。
「ありがとうございます」
工廠長が深く頭を下げる。
「礼はトマスに言え。こいつが裏切らなければ、ブリタニアの物流は次の段階へ進む」
匠一は最後に、もう一度だけ青い機体を見上げた。
霧は少しずつ晴れ、天窓ではなく本物の太陽の光が、鉄の肌を青く輝かせ始めている。
大いなる門が開く前の、静かな島。
そこで産声を上げた小さな機関車は、これから始まる激動の時代を、誰よりも忙しく、泥臭く駆け抜けることになるのだろう。
「しっかり走れよ、トマス」
応じるように、短い、しかし高らかな汽笛が、ブリタニアの海へと響き渡った。




