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見難い火傷の子  作者: 清風
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429/468

海底都市アプスー捕物帖(ネオスヒュドラ)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子429



海底都市アプスー捕物帖ネオスヒュドラ



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


詰所へ戻る頃には、朝の湿気は少しだけ薄れていた。


市場裏から引いてきたサディムは、もう暴れなかった。

足取りは重いが、抵抗する気力までは残っていないらしい。

カナタが襟の後ろを掴む手も、引きずるというより支えている形に近い。

その横を、レイラは折り札を開いたまま歩いていた。


「昨夜の封鎖区画。回収済みのはずの物が、ひとつ足りない」


伝令が持ってきた文面は、それだけだった。

短い。

短いが、嫌な短さだった。

何が足りないのかも、どこで足りなくなったのかも書いていない。

書けないのか、急ぎすぎたのか、その両方か。


「雑だな」

カナタが言う。


「急ぎなんだろう」

レイラは札から目を上げない。

「急ぎで、しかも書きたくない類」


「もっと嫌だな」


詰所の前には、すでに朝の出入りが増えていた。

夜勤明けの従者、帳面を抱えた事務方、機動用個体の脚留め具を点検している整備係。

その間を縫って、非番札を腰の後ろに隠した後輩が、ちょうど戻ってくるところだった。

手ぶらである。

煮込みも殻焼きも、もう手元にはない。


「あ」

後輩が足を止める。

「戻りました」


「見れば分かる」

カナタが言った。

「家主の方は」


「回収品、渡しました。

形見箱も貝貨袋も確認済みです。

交通係にも伝えてあります。逃走案件は空き巣対応へ切り替わったって」


「それで」

レイラが訊く。


後輩は少しだけ顔をしかめた。

「家主、泣いてました」


短い報告だった。

だが、それで十分だった。

形見が戻ったのだ。泣くだろう。

貝貨の方ではなく、箱の方で泣いたのだろうと、何となく分かる。


「そうか」

レイラはそれだけ言った。


後輩はそこで、ようやくサディムの姿に気づいたらしい。

目を丸くする。

「うわ、本当に連れてきたんですね」


「捕まえたんだから連れてくるだろ」

カナタが言う。


「いや、そうなんですけど、確認です」


「お前は何でも確認するな」


詰所の中へ入ると、空気がひとつ変わった。

外の湿り気とは別の、紙と墨と疲労の匂い。

朝の詰所はいつも忙しい。

だが今日は、その忙しさの底にもう一段、薄い苛立ちが沈んでいた。


帳場の奥で、事務方の女がこちらを見る。

昨夜、機動対応を回してきた女だった。

目の下に薄く隈がある。

寝ていない顔だ。


「戻った」

カナタが言う。


「見れば分かる」

女は即座に返した。

「そっちは空き巣?」


「市場裏で確保。盗品回収済み」

レイラが答える。

「引き渡しはこれから」


「じゃあ先にそっちを済ませて。

終わったら中央棟。すぐ」


「足りないのは何だ」

カナタが訊く。


女は一瞬だけ黙った。

それから、帳面を閉じる。


「記録札」


レイラの目が細くなる。

カナタは露骨に嫌そうな顔をした。


「物じゃなくて札か」


「札だから嫌なの」

女が言う。

「回収品そのものは揃ってる。少なくとも、見た目の上ではね。

でも札が一枚ない。

どれに付いてた札か分からなくなったら、揃ってるかどうかすら怪しくなる」


詰所の奥で、誰かが小さく舌打ちした。

聞こえよがしではない。

だが、聞こえる程度には苛立っていた。


「封鎖区画の回収札か」

レイラが言う。


「そう。昨夜の分。

回収箱へ入れる前にはあった。

中央棟へ上げた時には、ない」


「間で消えた」

カナタが言う。


「そういうことになる」


後輩が、おそるおそる口を挟んだ。

「札一枚で、そんなにまずいんですか」


事務方の女は、少しだけ疲れた顔でそちらを見る。

「まずいよ。

札は物の名前札じゃない。

どこで拾って、誰が見て、どう回したかの首だ。

それが一本なくなると、あとから何本でも生える」


後輩がぽかんとする。

「首」


「現場じゃ昔からそう言うの」

女は言った。

「一本押さえたと思ったら、別の場所で口を開く案件。

昔の呼び方だと、ヒュドラ」


カナタが鼻で笑う。

「怪物の方は爆煙パーティが退治しただろ」


「だから残ってるのは人間の方」

女は帳面を脇へ押しやった。

「しかも今回は、少し形が新しい。

保管前じゃなく、回収後に首が増えた」


後輩が小さく呟く。

「新型ってことですか」


「誰がそんな言い方した」

カナタが言う。


「でも、そういうことでしょう」

後輩は真顔だった。

「新しいヒュドラ」


事務方の女は一拍だけ黙り、それから嫌そうに頷いた。

「……ネオスヒュドラ、って呼んでる古参がいる」


「嫌な名前だな」

カナタが言う。


「嫌な案件だからね」


レイラは折り札を畳んだ。

「足りない札の担当は」


「回収班、搬送班、中央棟受け取り。

今、全員の帳面を突き合わせてる。

でも字面は揃ってる。揃いすぎてて、逆に気持ち悪い」


「誰かが後から合わせた」

レイラが言う。


「かもしれない。

あるいは最初から、合わせるつもりで動いたか」


詰所の空気が、少しだけ冷えた気がした。

帳面の不備ならまだいい。

だが、最初から抜くつもりで札を消したのなら、話は別だ。

それはただの紛失ではない。

回収の流れを知っている誰かがいるということになる。


「面倒だな」

カナタが言う。


「面倒で済めばいいけど」

女は答えた。

「で、そっちの空き巣。名前は」


サディムが、ようやく顔を上げた。

疲れ切った目だった。

逃げる時の獣じみた色は、もう薄い。


「……サディム」


「荷運びだっけ」

女が帳面を開く。


「そうだ」

カナタが答える。

「市場裏で確保。盗品は回収済み。

家主への返却確認も済んでる」


「動機は」


少しだけ間が空いた。

サディム自身が言うより先に、レイラが口を開く。


「娘の薬代」


事務方の女の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

だが止まったのはそこだけで、筆はすぐに動き出す。


「確認は後で取る」

女は淡々と言った。

「事情は事情。盗みは盗み」


「分かってる」

サディムが低く言う。


「分かってるなら静かにしてて」

女は顔も上げずに返した。

「今はこっちも忙しい」


後輩が小声で言う。

「ひどい職場ですね」


「今さらだ」

カナタとレイラがほぼ同時に言った。


少しだけ、空気が緩んだ。

だが一瞬だけだ。


帳場の奥から、別の事務方が紙束を抱えて走ってくる。

「出ました!」


女が顔を上げる。

「何が」


「中央棟受け取り帳と、回収班の控え。

札番号は合ってます。

でも、ひとつだけ筆跡が違う」


レイラが一歩前へ出た。

「どこ」


「受け取り時刻の欄です。

本来の書き手じゃない。

上から似せてるけど、払いが浅い」


女は舌打ちした。

「やっぱり合わせてる」


「誰の字だ」

カナタが訊く。


「まだそこまでは。

でも受け取り帳に触れる位置の人間です」


つまり内部だ。

少なくとも、中央棟の帳面へ手を入れられる位置にいる。

詰所の空気が、今度こそはっきりと変わった。

疲労と苛立ちだけではない。

面倒なものが、内側にいる時の空気だ。


事務方の女は帳面を閉じ、立ち上がる。

「レイラ、カナタ。中央棟へ来て。

空き巣の引き渡しはこっちで受ける。

後輩、お前も」


「え、俺もですか」

後輩が目を丸くする。


「見た、運んだ、聞いた。

それに今、手が空いてる」


「非番なんですけど」


「札は見えてる」


後輩は反射的に腰の後ろを押さえた。

隠していた非番札が、半分だけ覗いている。


「……本当にひどい」


「知ってる」

女は即答した。

「でもネオスヒュドラは、首が増える前に押さえないと面倒なの」


その言葉に、詰所の何人かが嫌そうな顔をした。

冗談ではない。

だが冗談めいた名前をつけないとやっていられない類の案件なのだろう。


レイラは短く息を吐いた。

「中央棟で、まず何を見る」


「回収箱。札の控え。受け取り帳。

それから昨夜、封鎖区画に出入りした全員の動線」


「多いな」

カナタが言う。


「ヒュドラだからね」


「言うほど上手くないぞ、その返し」


「上手さは要らない。数が要るの」


女はそう言って、先に歩き出した。

帳面を抱えたまま、寝ていない足取りで、それでも速い。

レイラが続き、カナタがサディムを引き渡してから追う。

後輩は一度だけ天井を仰いだあと、諦めた顔で小走りになった。


詰所を出ると、朝の光はもう白く高くなっていた。

中央棟の方角には、昨夜から残る封鎖札がまだ見える。

人の流れは戻りつつある。

だが、その内側で何かが一本、余計に口を開いた。


怪物のヒュドラは、首が見えた。

だから焼けた。

だが人間のヒュドラは違う。

帳面の中で増え、回収箱の脇で首をもたげ、気づいた時には別の顔でこちらを見ている。


中央棟の石段を上がりながら、カナタがぼそりと言った。


「怪物の方がまだ親切だったな」


レイラは前を見たまま答える。


「親切かどうかは知らない。

でも、あっちは止まった」


「こっちは?」


「止まったふりをする」


中央棟の扉が開いていた。

その向こうで、白布をかけられた回収箱が三つ、並んでいるのが見えた。

そのうちひとつの前にだけ、札がない。


そして箱の脇には、見覚えのない濡れた足跡が、ひとつだけ残っていた。


「……濡れてるな」

カナタが足跡を見下ろして呟いた。

「朝の湿気はもう晴れてる。外縁の高架ならともかく、中央棟の奥までこの濡れ方はおかしい」


「水路の近くを通ってきたか、あるいは――」

レイラは足跡の形状を注意深く観察する。

「これ、人間の足跡じゃない。多脚個体の脚留め具の、それも内側の泥よ」


「機動用個体の……?」

後輩が息を呑む。

「じゃあ、さっきまで俺たちが乗ってたみたいな、あのオートメガネウラの?」


「違うわ。機動用は手入れが行き届いているから、こんな古い深淵の泥はついていない。

これは、もっと泥深い層か、あるいは市場の裏手で使われるような荷運び用の個体」


事務方の女が紙束を抱えたまま、足跡の先を見つめた。

「荷運び用……さっき引き渡された空き巣のサディムも、荷運びだったわね。

でも、あいつは市場裏でカナタたちに捕まって、さっきまで詰所にいた。

ここへ来る時間はなかったはず」


「サディムの仲間か、あるいは同じ市場裏の『荷』に触れる立場の人間だな」

カナタが警棒の柄を軽く叩く。

「消えた記録札がどの回収品のものか分からねえが、犯人の目的は札そのものじゃない。

札を消すことで、回収品の中にある『特定の何か』を、最初から存在しなかったことにするか、

別のものとすり替えることだ」


レイラは並んだ三つの回収箱へと歩み寄った。

札のついていない、真ん中の箱。

白布をめくると、中には昨夜の封鎖区画から回収された、

青銅の時代の遺物や変異生物の甲殻が雑多に収められていた。


「帳面をもう一度見せて」

レイラが事務方の女に手を伸ばす。

「受け取り時刻の欄、本来の書き手じゃない『払いが浅い』字。

この筆跡、どこかで見たことがある」


女から手渡された帳面を、レイラはめくっていく。

昨夜の宴の備品管理、機動対応の割当、そして――。


「……これよ」

レイラが指を止めた。

「今朝、外縁東高架で『魚醤の樽を割った』と言って泣いていた、あの違反者の名前。

その時の処理報告を書いた、交通係の若い方の字」


「何だって?」

カナタが眉をひそめる。


「交通係の片方が、さっきの受け取り帳にサインできる位置にいた。

彼は朝、高架路で違反者を取り締まっていたはずだけど、

その直前まで中央棟の搬送手伝いに入っていたわ。

帳面に触れる機会はいくらでもあった」


「おいおい、身内の交通係が犯人かよ」

後輩が頭を抱える。


「いや、まだ繋がらない」

カナタが言った。

「交通係が札を抜いて、市場裏の荷運びの足跡がここに残ってる。

ってことは、共犯だ。

交通係が内部から札を細工し、外から引き込み役が『中身』を回収しにきた。

足跡がまだ濡れてるってことは、ついさっきだぞ」


その時、中央棟の地下へ続く搬送用通路の奥から、微かな翅音が響いた。

オートメガネウラの、それも重い荷を引く時の、低く湿った音。


「地下の水路口だ!」

レイラが叫ぶと同時に地を蹴った。

「カナタ、後輩、追うわよ!」


「ちくしょう、非番なのに!」

後輩が泣き言を言いながらも、一番に走り出す。


薄暗い地下通路を駆け下りると、そこは外部の水路へと繋がる荷出し口だった。

朝の光が差し込む出口のすぐ手前で、一台の荷運び用オートメガネウラが、

まさに発進しようとしていた。

鞍に乗っているのは、見覚えのある交通係の制服を着た若い男。

そしてその横には、泥に汚れた麻袋を抱えた、市場の人間らしき男がもう一人。


「止まれ!」

カナタの怒号が地下通路に反響する。


交通係の男が恐怖に顔を歪め、手綱を引いた。

「来やがった! 早く出せ!」


荷運び個体が多脚を鳴らし、急加速する。

だが、ここは狭い地下通路だ。

レイラは並走する壁を蹴り、驚異的な跳躍で荷台の隙間へと飛び込んだ。

手にした警棒が、交通係の手綱を的確に叩き落とす。


「うわああ!」


制御を失った個体が壁に激突し、激しい翅音とともに横転した。

麻袋が破れ、中から転がり出たのは――昨夜の封鎖区画の深部で回収されたはずの、

高価な『青銅の結晶塊』だった。

そしてその結晶の表面には、紛失したはずの『記録札』が、

半分だけ引き剥がされた状態で張り付いていた。


カナタが市場の男の襟首を掴み上げ、床に組み伏せる。

「一本目の首、確保だ」


後輩がへたり込みながら、破れた麻袋と記録札を見つめた。

「本当に、回収後に首が増えてた(ネオスヒュドラ)わけですね……。

身内と市場がグルになって、価値のある回収品を、札ごと闇に葬ろうとしたんだ」


「ええ」

レイラは横転した個体から静かに降り立ち、乱れた髪を払った。

「札を一枚消せば、この結晶塊は『最初から回収されなかった不発物』として処理できる。

帳面の数字さえ合っていれば、誰も気づかないはずだった」


遅れて駆けつけてきた事務方の女が、息を切らせながら結晶塊と交通係の男を見下ろした。

その目は、寝不足も吹き飛ぶほどの冷徹さに満ちている。


「よくやってくれたわ。これで首は繋がった」


「いや、まだだろ」

カナタが捕まえた男を揺さぶる。

「こいつらに指示を出した『胴体』がどこかにいるはずだ。

中央棟の管理体制の裏をここまで知ってる奴がな」


女は一瞬だけ黙り、それから深く溜め息をついた。


「……それ以上は、私の帳面の仕事ね。

あんたたちは機動対応。

現場を押さえたら、あとは引き渡しなさい」


「そうしてもらえると助かる。これ以上は頭が痛くなる」

カナタはそう言って、ようやく警棒を腰に収めた。


地下の荷出し口から見える海底都市アプスーの水路は、

すっかり朝の光に満たされ、眩しく輝いていた。

だが、その光の届かない帳面の裏側で、怪物はまだ息を潜めているのだろう。


「戻るぞ。今度こそ、あの出汁の残りを食わせてもらわないと割に合わん」


「仕事の後は、スープが冷めてるかもしれないわよ」

レイラが少しだけ口元を緩めて歩き出す。


「雑に温め直させればいいさ」


その後ろを、後輩が「僕の非番はどうなるんですか」とぼやきながら付いていく。

アプスーの長い一日は、まだ始まったばかりだった。

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