海底都市アプスー捕物帖(非番の後輩)
見難い火傷の子428
海底都市アプスー捕物帖(非番の後輩)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
家の中は、思ったより静かだった。
炊きかけの鍋はまだ温かく、卓の上には切りかけの根菜が残っている。
寝台脇の小箱は倒れ、蓋が外れ、床には紐と布切れが散っていた。
窓際には泥のついた脚跡がひとつ、浅く残っている。
外れた格子は内側へ倒れ、こじ開けた痕の新しい白さが木枠に走っていた。
「血はない」
カナタが低く言った。
「争った形も薄い」
レイラが答える。
「入って、探して、抜けた」
戸口の外では、まだ近所のざわめきが続いていた。
家主の男の声も混じっている。
焦っているが、泣き喚くほどではない。
盗られた物がまだ分かっていないのだろう。
それもよくある。
荒らされた部屋を前にすると、人はまず散らかった形ばかり見て、中身の欠けを数え損ねる。
レイラは窓際へ寄り、泥の跡に指をかざした。
深くない。
重い荷を持って踏ん張った跡ではない。
入った時か、出る時か。
どちらにせよ、長居はしていない。
「裏へ抜けたな」
カナタが言う。
「たぶん」
レイラは短く返した。
「でも慌ててる。
探す場所を決めて入った手つきじゃない」
卓の引き出しは半端に開き、寝台の下の籠も引きずり出されている。
隠し場所を知っている者の荒らし方ではない。
目につくところから順にひっくり返しただけだ。
「行き当たりばったりの空き巣か」
カナタが言う。
「それにしては、通報の直後に窓から入るのは雑すぎる」
「雑なやつなんだろ」
「雑なやつは、たまに読みにくい」
その時だった。
戸口の外で、場違いなくらい明るい声がした。
「あれ、先輩たち。何してるんですか」
カナタが嫌な顔で振り向く。
レイラも戸口へ目をやった。
通りの向こうに、若い従者が立っていた。
腰には非番札。
片手に紙包み。
もう片方の手には、蓋つきの椀。
どちらからも、まだうっすら湯気が立っている。
宴の残りものを狙って出歩いていたのが、説明されるまでもなく分かる格好だった。
「お前、何してる」
カナタが言った。
「見ての通りです」
後輩は紙包みを少し持ち上げた。
「残ってるうちに行かないと、なくなるので」
「非番札をそんな誇らしげに下げるな」
「非番だからこそです」
言い返しながらも、後輩は戸口の空気でようやく異変に気づいたらしい。
人だかり。
半開きの扉。
強張った近所の顔。
家主の青い顔。
「あ」
とだけ言って、椀を抱え直す。
「……現場ですか」
「見れば分かるだろ」
カナタが言う。
「分かりましたけど、確認です」
「確認するな。帰れ」
「ええ」
後輩は素直に頷きかけ、そこで止まった。
通りの先を振り返る。
それから、少しだけ眉を寄せた。
「でも、さっき変なの見ました」
レイラの目が動く。
「どこで」
「二つ向こうの水路橋のところです」
後輩は椀を抱えたまま答えた。
「細い男が、包みを抱えて走ってました。
朝っぱらから慌ててるなと思って」
「いつ」
レイラが訊く。
「ついさっきです。
俺が煮込みもらって、殻焼きも包んでもらって、
どっち先に食べるか考えてた時」
「要らない情報を混ぜるな」
カナタが言う。
「でも本当です。
しかも、こっちの区画の人じゃない歩き方でした」
「歩き方?」
後輩は少し考えた。
食べ物の話をしている時より、言葉を選ぶ顔になる。
こういう時だけ妙に観察が細かい。
「この辺の人って、朝は桶とか網とか避ける歩き方するじゃないですか。
でもそいつ、壁際ばっかり見てて、足元を見てなかったんです。
一回、干し縄に肩ぶつけてました」
レイラが短く息を吐く。
土地勘が薄い。
急いでいる。
包みを抱えている。
十分にあり得る。
「どっちへ行った」
「水路橋を渡って、市場裏の方へ」
後輩は言った。
「でも、まっすぐじゃなくて、途中で一回止まってました。
後ろ見てたんで、追われてるのかと思って」
「顔は見た?」
カナタが訊く。
「横だけ少し。
痩せてて、髪が濡れてました。
服の裾も。
水路の縁でも通ったのかも」
レイラは窓際の泥跡をもう一度見た。
裏へ抜け、水路側へ回ったなら辻褄は合う。
「家主」
レイラが戸口の外へ声をかけた。
「盗られた物、すぐ分かる範囲でいい。
包める大きさの物はある?」
家主の男は青い顔のまま家へ半歩入り、散らかった卓と寝台脇を見回した。
それから、はっとしたように奥へ走る。
すぐに戻ってきた。
「ない」
男が言った。
「貝貨の袋がない。
あと、母親の形見の飾り箱も」
「大きさは」
男は両手で示した。
箱は前腕ほど。
袋と一緒なら、抱えて走れる。
「市場裏へ抜ける理由はある」
レイラが言う。
「人が多い。紛れやすい」
「じゃあ追うか」
カナタが言う。
「追う」
レイラは頷いた。
「でも機体はここじゃ邪魔になる。
水路橋の先は朝市で詰まる」
「徒歩か」
「徒歩」
カナタは露骨に嫌そうな顔をした。
「さっきまで散々走ったんだが」
「非番の足が余ってる」
レイラが言った。
後輩が目を丸くする。
「え、俺ですか」
「他に誰がいる」
カナタが言う。
「見たなら案内しろ」
「非番なんですけど」
「札は見えてる」
「しかもこれ冷めます」
後輩は椀を見下ろした。
「置いていけ」
レイラが言う。
「ひどい」
「証拠を踏むよりましだ」
後輩はしばらく本気で迷う顔をした。
紙包みと椀を見て、現場を見て、先輩二人の顔を見る。
それから、ものすごく未練がましく近所の女へ向き直った。
「すみません、これ預かってもらえますか」
「預かるけど、戻る頃には冷めてるよ」
女が言う。
「分かってます……」
本当に分かっている顔だった。
後輩は肩を落とし、非番札を腰の後ろへ回す。
隠したところで非番である事実は消えないが、気分の問題らしい。
「名前」
レイラが家主へ言う。
「盗品の中身、あとで帳面に出して。
近所の人は戸締まり確認。
裏手は誰も触らない」
短く指示を飛ばし、レイラは通りへ出た。
カナタが続く。
後輩は一度だけ預けた椀を振り返ってから、小走りで追いついた。
「で、どこだ」
カナタが言う。
「こっちです」
後輩は先に立つ。
「水路橋を渡って、干し場の脇を抜ければ早いです」
「さっきの男、まだ近いと思うか」
レイラが訊く。
「市場裏に入ってたら、足は遅くなってるはずです」
後輩が答える。
「朝は荷運びが多いんで。
走るなら逆に目立ちます」
「使えることを言うな」
カナタが言った。
「食べ物が絡まない時は、たまに」
「自分で言うな」
三人は通りを折れ、水路橋へ向かった。
朝の湿った空気の中、橋の向こうからは市場のざわめきが流れてくる。
荷を運ぶ声。
殻を割る音。
魚醤の樽を転がす音。
宴の残り香に、朝市の生臭さが混じり始めていた。
空き巣はまだ遠くへは行っていない。
行っていないなら、混み合う前に押さえる。
非番の後輩は半歩先を走りながら、ふと小さく呟いた。
「……戻るまで残ってるといいな」
「何がだ」
カナタが訊く。
「煮込みです」
「知らん」
「殻焼きもあります」
「もっと知らん」
レイラは前を見たまま言った。
「捕まえたら考えろ」
後輩は一瞬だけ真顔になり、すぐに頷いた。
「じゃあ捕まえましょう」
水路橋の先、朝市へ続く細道の人波の向こうで、
濡れた裾の男がひとり、振り返るのが見えた。
濡れた裾の男は、こちらと目が合った瞬間に顔を引きつらせた。
抱えていた包みを脇へ押し込み、踵を返す。
朝市へ流れ込む荷運びの列へ、無理に肩をねじ込んだ。
「いた」
レイラが言う。
「分かりやすいな!」
カナタが声を上げる。
「分かりやすくて助かります!」
後輩もつられて言った。
「お前は元気だな」
三人はそのまま人波へ突っ込んだ。
市場裏は、朝の一番忙しい時間に入っていた。
魚籠を担いだ者、殻籠を引く者、干し網を抱えた者、樽を転がす者。
通りは広くないのに、流れは二重三重に重なっている。
その隙間を、濡れ裾の男は細くすり抜けていった。
だが速くはない。
抱えた包みが邪魔をしている。
人を避けるたびに脇が甘くなり、足が止まる。
逃げ慣れた者の走りではない。
追われる前提で道を選んでいない。
「右へ寄る!」
レイラが言った。
「干し場の柵で詰まる!」
「任せろ!」
カナタが応じる。
カナタは荷運びの列の外へ膨らみ、樽の脇を抜けて一気に前へ出た。
肩で人を押しのけるのではなく、流れの切れ目だけを踏んで進む。
荒っぽく見えて、こういう時の足は速い。
後輩はその後ろを必死で追いながら、息を切らして言った。
「先輩、非番にこの速度を要求するの、だいぶひどいです!」
「今さら言うな!」
カナタが返す。
「言うだけは言います!」
前方で、濡れ裾の男が干し場の柵へぶつかりかけた。
避けようとして左へ切る。
だが左は魚醤樽の列で狭い。
足が止まる。
その一瞬で、レイラが距離を詰めた。
「止まれ」
低い声だった。
怒鳴りではない。
だが、通る声だった。
男は止まらない。
包みを抱えたまま、樽と樽の間へ身体をねじ込もうとする。
無理だ。
幅が足りない。
肩が引っかかる。
包みがずれる。
「うわ」
と後輩が言った時には、もう遅かった。
包みの口がほどけ、中から木箱が半ば滑り出た。
前腕ほどの飾り箱。
家主の言っていた形見の箱に違いない。
男は反射的にそれを抱え直そうとした。
その動きで、もう片方の脇に挟んでいた貝貨袋まで落ちる。
床石に当たって、鈍い重い音がした。
「終わりだな」
カナタが言った。
男はなおも箱だけ抱えて走ろうとした。
そこへカナタが横から入る。
肩をぶつけるのではなく、進路へ脚を差し込む。
男の足がもつれる。
前へ倒れかけたところを、レイラが腕を取ってひねった。
「痛っ、痛い、待って、待ってくれ!」
「待たない」
レイラが言う。
「箱を離せ」
カナタが言った。
男は歯を食いしばった。
離すまいと抱え込む。
だが腕を取られたままでは踏ん張れない。
数秒ももたず、指が緩む。
カナタが箱を抜き取った。
「回収」
レイラが短く言う。
「回収」
カナタも返す。
後輩は少し遅れて追いつき、落ちた貝貨袋を拾い上げた。
持ち上げた瞬間、ずしりと重かったらしい。
目を丸くする。
「うわ、本当に入ってる」
「空袋を盗んでどうする」
カナタが言う。
「いや、そうなんですけど、確認です」
「お前は何でも確認するな」
周囲の荷運びたちが足を止め、何事かとこちらを見ていた。
市場裏では珍しくない騒ぎだが、盗人が押さえられる瞬間はやはり人目を引く。
ざわめきが広がる前に、レイラは男の腕を背へ回させ、壁際へ寄せた。
「名前」
レイラが言う。
男は黙る。
息だけが荒い。
濡れた髪が額に張りついていた。
若くはない。
だが老けてもいない。
痩せて、頬がこけ、目だけが落ち着きなく動いている。
「名前」
レイラがもう一度言った。
「……サディム」
「住まい」
男は少し迷ってから、区画名を答えた。
この辺りではない。
水路を二つ越えた先の、古い住居群の名だった。
「仕事は」
カナタが訊く。
「荷運び」
「今朝は休みか」
男は答えない。
代わりに、箱を持つカナタの手元を見た。
未練というより、追い詰められた獣の目だった。
レイラはその視線を見逃さない。
「初めてじゃないな」
男の肩がわずかに強張る。
「窓のこじ開け方が早い。
でも探し方は雑だった。
狙いを決めて入ったんじゃない。
切羽詰まって、入れる家に入った」
男は唇を噛んだ。
「違うか」
しばらくして、男は低く言った。
「……違わない」
市場裏のざわめきが、少し遠く聞こえた。
朝の喧騒の真ん中なのに、その一角だけ妙に静かになる。
こういう時、人は聞こえないふりをしながら、よく聞いている。
「金が要ったのか」
カナタが言う。
男はすぐには答えなかった。
代わりに、喉の奥で一度だけ息を詰まらせる。
「薬だ」
短い言葉だった。
後輩が貝貨袋を抱えたまま、少しだけ顔を上げる。
カナタも眉をひそめた。
レイラは表情を変えない。
「誰の」
レイラが訊く。
「娘」
男が言った。
「熱が下がらない。
昨日から、ずっと」
言い訳かもしれない。
本当かもしれない。
どちらにせよ、盗みに入った事実は消えない。
カナタが鼻で息を吐く。
「だからって空き巣に入るな」
「分かってる!」
男が急に声を荒げた。
「分かってるよ、そんなことは!」
市場裏の視線が一段増えた。
レイラは男の腕を少しだけ強く押さえる。
暴れさせないためでもあり、これ以上声を張らせないためでもある。
「分かっていてやったなら、なおさらだ」
レイラが言った。
「事情は帳面に載る。
でも先に戻る」
男は何か言い返しかけて、結局できなかった。
力が抜ける。
膝から崩れそうになるのを、カナタが襟の後ろを掴んで支えた。
「倒れるなら詰所で倒れろ」
「優しいのか雑なのか分かりませんね、それ」
後輩が小声で言う。
「どっちでもいい」
カナタが返す。
レイラは周囲を見回した。
見物人。
荷運び。
樽屋。
干し場の番。
誰もが忙しい顔をしているが、耳だけはこちらへ向いている。
「後輩」
レイラが言う。
「はい」
「家主の家へ先に戻れ。
回収品を渡して、現認した場所と時刻を伝える。
それから交通係にも一言入れておけ。
逃走案件は空き巣対応へ切り替わった、と」
後輩は目を瞬いた。
「え、俺がですか」
「見た。拾った。運べる」
「運べるはそうですけど」
後輩は貝貨袋と飾り箱を見比べた。
「これ、だいぶ大事な役目では」
「大事だ」
レイラが言う。
後輩は一瞬だけ姿勢を正した。
褒められた時だけ分かりやすい。
「……分かりました」
だが次の瞬間、真顔で付け足す。
「戻ったら煮込み、まだありますかね」
「知らん」
カナタが即答した。
「仕事が終わってから考えろ」
レイラが言う。
「はい」
返事だけは良かった。
後輩は回収品を抱え直し、来た道へ駆け出す。
非番札が腰の後ろで跳ねた。
隠したつもりでも、走ればよく見える。
カナタはそれを見送りながら言った。
「結局、非番のまま働かせたな」
「働ける位置にいた」
レイラが答える。
「ひどい職場だ」
「今さら」
二人はサディムを挟み、市場裏を離れた。
朝の喧騒は背後へ遠ざかる。
代わりに、水路沿いの湿った風が戻ってくる。
サディムはもう暴れなかった。
ただ足取りだけが重い。
詰所へ連れて行かれる重さだけではない。
家へ戻れない者の重さだった。
しばらく歩いてから、カナタがぼそりと言う。
「娘の熱、嘘じゃない顔だったな」
「かもしれない」
レイラが答えた。
「調べるか」
「調べる」
短いやり取りだった。
だが、それで十分だった。
事情を聞くことと、罪を見逃すことは同じではない。
同じにしないために、帳面があり、足があり、手間がある。
水路橋の手前で、詰所からの伝令がひとり、こちらへ走ってくるのが見えた。
若い従者で、息を切らし、手には折り札を握っている。
「機動対応!」
伝令が叫ぶ。
「中央棟から連絡!
封鎖札の件で追加です!」
カナタが露骨に嫌そうな顔をした。
「まだ増えるのか」
レイラは足を止めない。
「増える時は増える」
伝令は追いつくなり、折り札を差し出した。
レイラが受け取り、目を走らせる。
その横で、カナタがサディムを掴んだまま訊く。
「今度は何だ」
レイラは札から目を上げた。
「昨夜の封鎖区画。
回収済みのはずの物が、ひとつ足りない」
水路の風が、少しだけ冷たく感じられた。




