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見難い火傷の子  作者: 清風
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427/466

海底都市アプスー捕物帖(機動対応のお仕事)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子427



海底都市アプスー捕物帖(機動対応のお仕事)



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


中央棟前の石畳から、ようやく大鍋が片づき始めていた。


三日三晩続けても尽きないと言われた肉と殻は、さすがに一晩では減りきらない。

だが火床の数は減り、長机の端では空になった椀が重ねられ、

白い封鎖札の前を行き来していた足も、昨夜ほどせわしなくはなくなっている。


湯気の匂いはまだ残っていた。

モササウルスの脂と、アノマロカリスの殻から出た甘い匂いと、

アンモナイトの肝を煮た濃い出汁の名残。

それらが朝の湿った空気に薄く混じり、中央棟前の白い壁を、

昨夜より少しだけ人のいる場所に戻していた。


だが、戻ったからといって仕事が減るわけではない。


「機動対応、二名」

呼び出し板の前で、事務方の女が言った。

「外縁東高架、速度違反の取り締まり補助。逃走案件が増えてる」


「増えてる、で済ませる顔じゃないな」

カナタが言った。


「済ませてないから回してるの」

女は帳面をめくりながら返した。

「昨日の夜だけで三件。今朝でもう一件」


「多いな」

レイラが短く言う。


「宴の匂いに浮かれて飛ばす馬鹿がいるのか、

封鎖の迂回で流れが偏ってるのか、

両方かは知らないけどね」


事務方の女はそこで顔を上げた。

「とにかく、止めて。

できれば転ばせずに」


「注文が多い」

カナタが言う。


「壊したら報告書が増える」

レイラが言った。


「それは嫌だな」


嫌なのは本心らしかった。

カナタは素直に顔をしかめ、壁際に立てかけてあった外套を引っつかむ。

昨夜の宴の名残で、詰所の隅にはまだ大鍋がひとつ残っていた。

蓋は閉じているが、近づけばまだ出汁の匂いがする。


「戻ったら残ってるかな」

カナタが言う。


「仕事が早ければ」

レイラが答えた。


「よし、早く終わらせる」


「雑に終わらせるな」


二人は並んで中央棟前を抜けた。

白い封鎖札はまだ扉に残っている。

回収車も、帳面を抱えた従者たちも、まだいる。

だが昨夜のような張りつめた空気ではない。

湯気の抜けたあとに残る、少しだけ柔らかい疲労の空気だった。


石段を下り、外縁東高架へ向かう。


海底都市アプスーの高架路は、地上の街路とは少し違う。

水圧を逃がすために緩く湾曲し、ところどころに排水溝が走り、朝の湿り気で石畳が薄く光る。

その上を、荷運び用の台車と、徒歩の通行人と、騎乗用の大型個体と、そしてオートメガネウラが行き交う。


オートメガネウラ。

細長い胴と、節ごとにしなる腹部、透けた翅、石畳を打つ多脚。

本来は人を乗せて走るための生き物ではない。

だがこの層では、八倍の大きさで存在する生き物を使役する技術もまた、八倍ぶんだけ発達していた。

鞍と手綱と脚留め具を組み合わせ、翅の開閉を補助し、脚の運びを制御する。

そうしてようやく、街路を走る“乗り物”になる。


便利ではある。

速い。

小回りも利く。

高架路の継ぎ目や、少し荒れた石畳でも脚を取られにくい。

だからこそ、飛ばす者が出る。


外縁東高架の見張り台には、すでに交通係の若いのが二人いた。

一人は計測板を抱え、もう一人は停止旗を持っている。

どちらも顔が少し強張っていた。


「来たか」

旗持ちが言う。

「助かります」


「何台くらい飛ばしてる」

レイラが訊く。


「朝から七台。

うち三台は注意で止まった。

二台は言い訳して止まった。

一台は泣いた。

もう一台は逃げた」


「泣いたのが気になるな」

カナタが言う。


「魚醤の樽を割ったらしいです」


「それは泣く」


レイラは計測板を受け取り、数値の癖を見る。

高架のこの区間は、緩い下りから橋脚の間を抜け、その先で右へ折れる。

飛ばす者はだいたい下りで乗せ、曲がり角の手前で慌てて落とす。

落としきれない者が、滑る。

滑った者が、転ぶ。

転んだ者が、報告書を増やす。


「嫌な形だな」

レイラが言った。


「だから二名追加なんです」

若いのが答える。


カナタは高架の先を見た。

朝の薄い靄の向こうで、荷台を引く個体が二台、ゆっくり進んでいる。

その脇を、通勤らしい小型の騎乗個体が抜けていく。

今のところ、流れは普通だ。


「で、逃げたのは?」

カナタが訊く。


「灰青の外殻。腹節に白線。

荷台なし。単騎。

乗り手は男、たぶん若い」


「見たことある顔?」


「たぶん常習です。

止めると毎回、ちょっとだけ減速してから逃げる」


「性格が悪いな」

カナタが言う。


「慣れてる」

レイラが短く言った。

「止められる位置と、抜けられる位置を覚えてる」


その時だった。


高架の下りの向こうから、翅音がひとつ、朝の湿った空気を裂いた。


普通の通行音ではない。

軽い。

速い。

脚音が細かく、石畳を打つ間隔が短い。

まだ姿は見えない。

だが音だけで分かる。

飛ばしている。


若い交通係が反射的に旗を握り直した。

レイラは計測板を構え、数値が跳ね上がるのを見た。


「来る」


次の瞬間、橋脚の影から一台が飛び出した。


灰青の外殻。

腹節に白線。

荷台なし。

単騎。


オートメガネウラは下りの勢いをそのまま乗せ、翅を半ば開いたまま高架へ躍り出る。

乗り手の男は体を低く伏せ、手綱を短く握り込んでいた。

止まる気のない姿勢だった。


「停止!」

旗持ちが叫ぶ。


停止旗が振られる。

レイラが計測値を読む。


「超過、大幅!」


カナタが一歩前へ出た。

「止まれ!」


男の顔が一瞬だけ上がる。

若い。

汗をかいている。

目が泳いでいた。


止まるか、と誰もが一瞬だけ思った。


オートメガネウラの脚運びが、ほんのわずかに緩む。

翅が閉じる。

腹節が沈む。


次の瞬間、男は逆に手綱を引き絞った。


個体が低く唸る。

多脚が石畳を強く打ち、翅が一度だけ大きく鳴った。

急加速。


「逃げた!」

カナタが叫ぶ。


「逃走案件に切り替え!」

レイラが即座に返す。


灰青の個体は停止旗の脇をすり抜け、橋脚の間へ突っ込んだ。

荷台がないぶん軽い。

脚の返しが速い。

高架の継ぎ目を跳ねるように越え、右折路へ体を倒し込む。


「行くぞ!」


カナタは待機させていた機動用個体へ飛び乗った。

黒褐色の外殻を持つ、脚の強い機動型だ。

鞍に足をかけ、手綱を引く。

個体が即座に反応し、腹を沈める。


レイラも隣の機体へ乗る。

こちらはやや細身で、旋回性能を重視した型だった。

翅の補助具が短く、橋脚の間を抜けるのに向いている。


「右へ抜ける!」

レイラが言う。

「次の分岐で水路沿いへ落ちる!」


「読めるのか」


「常習なら、読める」


二頭が同時に走り出した。


石畳を打つ脚音が一気に増える。

高架の湿り気が跳ね、朝の空気が裂ける。

前を行く灰青の個体は、橋脚の影を縫うように走っていた。

速い。

だが、うまいというより焦っている走りだった。

曲がり角の入りが深すぎる。

立ち上がりで少し膨らむ。

逃げ慣れた者の余裕がない。


「雑だな」

カナタが言う。


「慣れてるけど、今日は違う」

レイラが返す。

「急いでる」


前方で荷台引きの大型個体が進路を塞ぐ。

灰青の個体は減速せず、ぎりぎりで左へ切った。

脚が石畳の縁を削り、火花のように白い欠片が散る。

通行人が悲鳴を上げて壁際へ寄った。


「危ねぇな!」

カナタが怒鳴る。


怒鳴ったところで止まる相手ではない。

灰青の個体はそのまま水路沿いの細い高架へ滑り込んだ。

ここから先は幅が狭い。

追う側も脚運びを誤れば終わる。


海底都市アプスーでは、こういう追走を面白半分に呼ぶ者がいる。

メガネウラレース。


現場の人間に言わせれば、冗談ではない。

転べば骨が折れる。

巻き込めば死人が出る。

報告書も増える。

ろくなことがない。


だが呼ばれるだけの理由はあった。

高架の継ぎ目を跳ね、橋脚の間を抜け、水路の縁をかすめて走る多脚の機動は、

見ようによっては確かに、競走じみて見える。


前を行く灰青が、次の分岐で急に左へ寄った。

その先は住宅区画へ入る細路地だ。


「そっちか!」

カナタが叫ぶ。


「待って」

レイラが言う。

「おかしい」


「何が」


「逃げ切るなら市場側へ抜ける。

住宅区画は袋が多い」


灰青の個体はなおも速度を落とさない。

細路地へ突っ込み、洗濯縄の下をくぐり、干し網の脇を抜ける。

住居の白壁が左右へ流れ、朝の炊事の匂いが一瞬だけ鼻を掠めた。


その時、前方の男が何か叫んだ。


風音と翅音で、最初は聞き取れない。

だが二度目は分かった。


「どけ!家だ!」


カナタが眉をひそめる。

「何だって?」


「家だ、って言った」

レイラが返す。

「……違う。家に、か」


灰青の個体は最後の角をほとんど滑るように曲がり、

住宅区画の一角で急停止した。


止まった先の家の前には、すでに人だかりができていた。

戸口は半開き。

窓の格子がひとつ外れている。

近所の女が、通りへ向かって何か叫んでいる。


「入られたのよ!」

「誰か裏を見て!」

「まだ中にいるかもしれない!」


男は鞍から転がるように降りた。

顔色が悪い。

こちらを振り返る余裕もなく、戸口へ駆け込もうとする。


カナタが追いつき、襟首を掴んだ。

「待て!」


「離せ!」

男が叫ぶ。

「家に泥棒が入ったんだよ!」


そこでようやく、話が繋がった。


レイラは機体から降りると同時に周囲を見た。

戸口。

外れた格子。

人だかり。

裏手へ回ろうとしている近所の男。

そして、通りの端に落ちている、こじ開けに使ったらしい細い金具。


嘘ではない。

少なくとも、何かは起きている。


「カナタ」

レイラが言った。

「逃走処理は後。先に現場確認」


「分かってる」


カナタは男を一度だけ強く睨んだ。

「だからって飛ばすな。

次やったら先に縛る」


「今はいいから中を――」


「今は中を見る」

カナタが遮った。

「お前は外。勝手に入るな。

中にまだいるなら、素人が突っ込む方が邪魔だ」


男は歯を食いしばった。

反論しかけて、できなかった。

自分でも分かっている顔だった。

焦って飛ばし、止められて、追われて、それでもここまで来た。

だが来たからといって、次に何をすべきかまでは見えていない。


レイラはすでに近所の女へ向き直っていた。

「通報したのは誰」


「私よ!」

女が手を挙げる。

「裏の物干しに知らない影が見えて、

声をかけたら窓から入ったの!」


「出てきたのは見た?」


「見てない!」


「家人は?」


「この子だけ!」

女は男を指した。

「仕事に出てるって聞いてたから、

慌てて呼びにやったのよ!」


男が息を切らしたまま言う。

「隣の坊主が走ってきて……それで……」


「それで飛ばした」

カナタが言う。


男は黙った。


レイラは戸口の脇へ寄り、耳を澄ませた。

家の中は静かだ。

だが静かだから安全とは限らない。

荒らしてまだ中にいるかもしれないし、裏から抜けたあとかもしれない。


「裏、二名で回る」

レイラが言う。

「近所の人は下がって。

見物しない。

戸口を空ける」


「二名って、誰と誰だ」

カナタが訊く。


「私とあなた」


「だろうな」


カナタは男を近所の年嵩へ押しつけた。

「押さえといてくれ。

逃げるなよ、じゃなくて、飛び込むなよ」


「分かってる!」

男が怒鳴る。

だが声は半分、泣きそうだった。


カナタとレイラは短く目を合わせ、戸口を挟んで左右へ分かれた。

白壁の家。

朝の炊事の匂い。

半開きの扉。

その前に、まだ熱の抜けきらない追走の息。


通常業務とは、だいたいこういうものだった。

速度違反を止めに出たはずが、着いてみれば空き巣の現場に立っている。

予定通りに進む日の方が少ない。

だから機動対応と呼ばれる。

呼ばれているうちは、走るしかない。


レイラが指を三つ折る。

二つ。

一つ。


二人は同時に家の中へ踏み込んだ。

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