表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見難い火傷の子  作者: 清風
PR
425/463

海底都市アプスー捕物帖(突貫)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子425



海底都市アプスー捕物帖(突貫)



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


次の瞬間、白い壁の外側にいた静けさが、一斉に役目へ変わった。


南側導線では、ルナ隊の隊員が礼の姿勢のまま半歩踏み込み、給仕服の女の手首を返した。

悲鳴を上げさせない角度だった。

同時に、灰色の上着の男の膝裏へ、別の隊員の靴先が静かに入る。

崩れる。

だが倒れきる前に支えられる。

床へ音を立てさせないための崩し方だった。


「確保」


短い声だけが落ちる。

騒がない。

騒がせない。

南側はそれで十分だった。


搬入口の陰では、木箱の蓋が外れた。

コレット隊の隊員が白い密封壺を転がし、通気の流れへ粉を散らす。

甘い香草の匂いに紛れて、空気の質が変わった。

毒を殺すための粉だ。

あるいは、これから来る煙を無力化するための先手だった。


高所では、見えていた二つの影が同時に伏せた。

見えない一つは、もう降りている。

中央棟の南壁、窓下の死角。

さっきまで文も人も通していた細い線を、今度は逆に潰す番だった。


正門前で、マリーが印を押し終えた紙を従者へ返す。

従者は踵を返し、待機していた執行補佐へそれを渡した。

封鎖。

差押え。

例外執行。

紙の上に並んでいた言葉が、そこで初めて現実の権限になる。


外縁では、生徒会の若い連中が立入縄を一息に張り切った。

さっきまで避難導線の顔をしていた縄が、今は境界線になる。

内と外を分ける線だった。

逃げる者を通さず、巻き込まれる者だけを外へ出すための線だった。


さらに外、荷車だまりの陰で、みいとマザーの回収車が車輪止めを外した。

前へ出るためではない。

いつでも拾える位置へ寄せるためだ。

生きている者も、死んだ者も、もう拾う段取りに入っている。


匠一は試験線路の端から動かなかった。

動かないまま、全体だけを見ている。

南側は止まった。

搬入口は押さえた。

高所は潰しに入った。

外縁は閉じた。

あとは中央棟の中身だけだった。


「南、確保」

ニールが言う。

「中継ぎ一、給仕一、両方生きてる」


「吐かせろ」

匠一が返す。


「どっちを先に?」

「口が軽い方からだ」


ラトが短く笑った。

笑いというより、牙を見せただけに近い。


「じゃあ、俺は重い方だな」


返事を待たず、ラトは南側へ駆けた。

走るというより、低く滑るような足運びだった。

派手さはない。

だが、ああいうのが一番早い。


中央棟の上階、開いたままの窓の奥で、今度ははっきりと人影が動いた。


遅い、と匠一は思った。

もう遅い。

外へ出す線は潰した。

外で拾う線も閉じた。

今さら窓から何を見ても、もう形は変わらない。


そのとき、中央棟の内側で鈍い音がした。


何か重いものが倒れた音。

机か、椅子か、あるいは人か。

続いて、短い怒声。

会議室の中で、ようやく誰かが平時の顔を捨てたのだろう。


「来るぞ」

ニールが低く言う。


「来させろ」

匠一は答えた。

「外へ出た瞬間、首から落とす」


搬入口側の扉が、内側から強く叩かれた。

一度。

二度。

三度目で、閂が半ばまで浮く。

だが開く前に、外から押さえが入った。

コレット隊の隊員が、厨房の手つきのまま扉を殺している。

押し返す力は静かで、容赦がなかった。


「搬入口、接触」

誰かが飛ばす。


「維持しろ」

匠一は言う。

「煙が来たら先に流せ。火はまだ使うな」


火を使えば早い。

早いが、ここは街の中だ。

まだその線は越えない。

越えなくて済むなら、その方がいい。


正門側で、マリーがようやく中央棟へ向き直った。

白手袋の指先はもう迷っていない。

彼女の後ろで、公用車の扉が閉まる。

退路を断つ音に聞こえた。


「法的封鎖、執行開始」

従者が読み上げる。

声は高くない。

だが、よく通った。


その宣言は、剣より先に建物へ入った。


中央棟の中で、誰かが窓を閉めようとした。

だが閉まらない。

外から見ていた高所の影が、すでに蝶番の位置を殺していた。

閉じるはずのものが閉じない。

それだけで、人は崩れる。


「いい」

匠一が言った。

「そのまま見せとけ」


南側から、短い報告が返る。


「中継ぎ、身元確認中。給仕は偽装。鉄道国の所属票なし」


「男は」

「まだ黙ってる」


ラトの声が割り込んだ。


「黙ってるんじゃねぇよ。飲み込んでる」


直後、鈍い咳き込みが聞こえた。

奥歯の裏か、襟の縫い目か。

毒か、紙片か、どちらかを仕込んでいたのだろう。

だが遅い。

コレット隊がもう空気を押さえている。

吐くなら吐かせる。

死ぬ前に、全部出させる。


匠一は、ようやく一歩だけ前へ出た。


「ニール」

「はい」

「西の裏搬送路、まだ生きてる」

「荷車だまりの外れに一本。待機から移行済み」

「潰せ」

「誰を回します」

「生徒会を半分。イリスを付けろ。御者の顔を見ろ」


「了解」


ニールが紙を折る。

それが合図だった。

外縁に散っていた若い連中のうち、数人がすぐ西へ流れる。

走らない。

走れば見える。

見えれば、まだ残っている内側の首が別の線を切る。

だから静かに、だが最短で寄る。


中央棟の中で、今度は硝子の割れる音がした。


誰かが焦った。

焦って、手近なものを倒した。

その程度の崩れだ。

だが、その程度で十分だった。

もう中は揃っていない。

揃っていない相手は、外へ出るたびに薄くなる。


匠一は中央棟を見上げた。

白い壁。

白い窓。

白い会議室。

その白さの内側で、ようやく崩れが表へ滲み始めている。


「……遅い」

匠一はもう一度言った。

「遅すぎる」


そして、今度ははっきり命じた。


「正門、開けるぞ。前からも入る」


マリーがわずかに顎を引く。

従者が紙を持ったまま脇へ退く。

正門前にいた者たちの立ち位置が、そこで初めて“訪問”から“執行”へ変わった。


白い壁の内側に残された時間は、もうほとんどなかった。


マリーが半歩だけ退いた。


それが合図だった。


正門脇に控えていた二人が、白い扉の前へ出る。

片方は書類を持つ執行補佐。

もう片方は、無言のまま立つ大柄な隊員だった。

補佐が扉板を二度叩く。

乾いた音が、白い壁に吸われる。


「アプスー行政執行部です。

封鎖命令および差押え命令に基づき、当該施設の管理権を一時接収します。

開扉を要請します」


返事はない。


当然だった。

返せる段階なら、もう少しましな形で終わっている。


補佐は一拍だけ待ち、紙を閉じた。

横に立つ大柄な隊員が、扉の蝶番ではなく、錠の少し上へ手を置く。

押す。

それだけだった。

鈍い音がして、内側の留めがひとつ死んだ。

続けてもう一度。

今度は扉枠そのものがわずかに歪む。


「開扉拒否を確認」

補佐が言う。

「強制執行へ移行します」


三度目は短かった。

押し込むというより、骨を外すような力だった。

白い正門が、音を殺したまま内側へ割れる。


その隙間へ、先頭の二人が滑り込んだ。

走らない。

叫ばない。

盾も掲げない。

ただ、決められた角度で入る。

玄関広間の左右、階段下、受付脇、見通しの死角。

最初の三息で押さえるべき場所だけを押さえる動きだった。


「正門、通る」

短い報告が飛ぶ。


匠一は試験線路の端からそれを見ていた。

正門は開いた。

南は止めた。

搬入口は押さえた。

西は今から潰す。

残るのは中身だけだ。


中央棟の玄関広間は、外から見た以上に白かった。

白い床。

白い柱。

白い受付台。

その白さの上に、黒い靴跡だけが増えていく。


受付の奥から、男が一人飛び出した。

制服姿。

警備か、庶務か、その中間の顔だった。

手には短い警棒。

抜くのが遅い。

構えるのも遅い。


先頭の隊員は止まらなかった。

男の手首を外へ流し、肩口を壁へ当てる。

鈍い音。

警棒が落ちる。

悲鳴は上がらない。

喉を潰してはいない。

ただ、息を吐かせた。


「一名、確保」


受付台の陰で、もう一人が何かを掴もうとしていた。

書類束か、通報器か。

その前に、別の隊員が台を越える。

飛び越えたのではない。

手をついて、音を立てない高さで越えた。

白い手袋が相手の口を塞ぎ、肘が鳩尾へ沈む。

崩れる。

そのまま床へ寝かされる。


「二名」


広間の右手、来客用の待合から椅子の倒れる音がした。

誰かが逃げた。

いや、逃げようとした。

だが出口はもうない。

正門は執行部。

南はルナ隊。

搬入口はコレット隊。

西はこれから塞がる。

上へ逃げるしかない。


「階上へ流れる」

ニールが言う。

「三、いや四」


「行かせろ」

匠一が返す。

「上で詰まる」


中央棟の構造はもう読めている。

上へ逃げる者は、会議室か私室か、どちらかへ寄る。

寄れば寄るほど、首の位置が揃う。


正門から入った隊は、広間を制圧してもなお散らなかった。

散るのは次の段階だ。

まず中央階段。

次に左右の廊下。

最後に上階。

順番を崩さない。

崩せば、崩れている相手に混ざる。


階段の上から、ようやく怒声が落ちてきた。


「止めろ! 入れるな!」


遅い。

その声が出た時点で、もう入っている。


階段上の踊り場に二人。

片方は監督官風の男。

片方は護衛だろう。

短銃を抜こうとしている。

だが、抜く前に高所からの影が動いた。


乾いた音はひとつだけ。

撃ったのではない。

金属を弾いた音だ。

護衛の手から短銃が跳ね、白い壁に当たって床へ落ちる。

次の瞬間には、階段を上がっていた隊員が男の膝を払っていた。

護衛は踊り場に崩れ、監督官風の男は後ずさる。


「武装確認、一」

「生かせ」

「了解」


監督官風の男が何か叫ぼうとした。

だが言葉になる前に、背後から別の手がその口を塞いだ。

内側の人間だ。

同僚か、部下か。

叫ばせれば終わると分かっている顔だった。

その一瞬の躊躇が、さらに遅れを生む。


「内輪で割れてる」

ラトの声が南側から飛ぶ。

「いい傾向だ」


匠一は答えなかった。

答えるまでもない。

割れている敵は、押せば崩れる。

問題は、崩れる前に何を捨てるかだけだ。


二階廊下へ上がった隊員たちは、そこで初めて左右へ分かれた。

右は会議室群。

左は来客区画と私室。

白い廊下の奥で、扉がひとつ閉まる。

もうひとつは半開きのまま。

閉める余裕のある部屋と、ない部屋がある。


「右、会議室前接触」

「左、湯殿区画へ動線あり」


その報告で、匠一の目がわずかに細くなった。


湯殿。

まだそこにいるなら、遅いどころではない。

遅れたまま、最後の一服を引きずっていることになる。


「左を厚くしろ」

匠一が言う。

「本体がいる」


ニールがすぐ紙に印を入れる。

正門から入ったうち二人が左へ寄る。

南側から上がってきたルナ隊の一人も合流する。

礼の姿勢で人を止めていた手が、今度は扉を押さえる手に変わる。


会議室前では、すでに揉み合いが始まっていた。

揉み合いと言っても、剣戟ではない。

扉を閉めたい側と、閉めさせない側の押し合いだ。

白い扉の隙間に腕が一本差し込まれ、その腕を内側から何人もで押している。

だが閉まらない。

閉まらないまま、隙間が少しずつ広がる。


「開けるな!」

内側で誰かが叫ぶ。


「もう開いてる」

外の隊員が答えた。


その返しは妙に静かで、だからこそ残酷だった。


次の瞬間、扉の下から白い粉が流れ込んだ。

コレット隊だ。

毒ではない。

眠りでもない。

ただ、目と喉を殺すための粉。

内側で咳が起きる。

押す力が一瞬だけ緩む。

その一瞬で、扉は半分まで開いた。


中は会議室だった。

白い机。

白い紙。

白い水差し。

その白さの中で、男たちの顔だけがひどく赤い。

怒っているのか、焦っているのか、粉で咳き込んでいるのか、もう見分けがつかない。


「伏せろ」

「手を見せろ」

「帳面を離せ」


命令が三つ、重なる。

従う者が二人。

従わない者が一人。

その一人が帳面を抱えたまま窓際へ走る。

窓は開かない。

さっきから蝶番が死んでいる。

男はそこで初めて、本当に顔を崩した。


ラトがその背を見て笑った。


「遅ぇよ」


笑ったまま、男の足首を払う。

帳面が飛ぶ。

床へ落ちる前に、ニールがそれを拾った。

紙束の角を見ただけで、目の色が変わる。


「当たりだ」


「焼くなよ」

ラトが言う。


「お前じゃないんだから」

ニールが返す。


その軽口のあいだにも、会議室の制圧は終わっていた。

机に押しつけられる者。

床へ伏せさせられる者。

椅子ごと後ろへ引かれる者。

誰も派手には殴られない。

だが、誰一人として自由には動けない。


「会議室、押さえた」

「帳面一、印章二、関係者五」


「生きてるか」

匠一が訊く。


「今のところは」


「そのまま生かせ」


左の来客区画では、もっと静かに事が進んでいた。


湯殿の前に、白い衣が一枚落ちている。

脱ぎ散らかしたというより、急いで置いた形だった。

扉は閉まっている。

中から水音はしない。

代わりに、濡れた足跡が奥の私室へ続いていた。


「出たあとだ」

ルナ隊の隊員が低く言う。


「いや」

匠一が、ようやく正門から中へ入ってきた。

白い床に靴音がひとつ落ちる。

「まだ近い」


私室の扉は半開きだった。

中は暗い。

白い建物の中で、そこだけが少し照度を落としてある。

逃げるための暗さではない。

考えるための暗さだ。

あるいは、顔を作り直すための暗さ。


扉を押し開けたのは、匠一ではなかった。

ルナ隊の隊員が先に入り、左右を切る。

続いてラト。

最後に匠一。


部屋の奥、机の脇に、エドガー・レンが立っていた。


髪はまだ少し濡れている。

衣は着ている。

だが帯は甘い。

急いで整えたのが分かる。

顔だけは、もう整っていた。

崩れた会議室の連中とは違う。

遅れたなりに、最後の顔だけは作ってきた顔だった。


机の上には、封の切られていない小箱がひとつ。

脇には細い鍵。

窓際には、まだ湯気の残る茶器。

何を持ち、何を捨てるか、最後まで迷っていた部屋だった。


「遅かったな」

エドガーが言った。


「そっちがな」

匠一が返す。


エドガーは笑わなかった。

怒りもしない。

ただ、匠一の後ろにいるラトと、横にいるルナ隊の隊員を順に見た。

それから、開いたままの扉の向こうを一度だけ見た。

もう逃げ道がないことを、そこで確認したのだろう。


「港は沈んだか」

エドガーが訊く。


「もう沈んでる」

匠一は言った。

「今さら浮かせる気か」


「いや」


短い返事だった。

その短さで、いくつかの線が切れた。


エドガーの右手が、机の脇の細い鍵へ落ちる。

速くはない。

だが迷いもない。

小箱を開ける気だ。

毒か、焼却か、最後の札か。


その手首を、ルナ隊の隊員が先に押さえた。

柔らかい動きだった。

柔らかいが、骨の向きだけは正確に殺している。

鍵が床へ落ちる。

乾いた音がした。


ラトが一歩で間合いを詰める。

エドガーの胸元へ手を入れ、内ポケットを探る。

紙片が二つ。

薄い金属片がひとつ。

小さな封蝋印。

全部まとめて抜き取る。


「手癖は悪くねぇな」

ラトが言う。


「褒め言葉として受け取っておく」

エドガーは答えた。


まだ平静だった。

平静だが、もう主導権はない。

その差だけが、部屋の空気を決めていた。


「エドガー・レン」

マリーの声が、そこで初めて部屋へ届いた。

いつの間にか扉口まで来ていた。

「封鎖命令、差押え命令、および例外執行権限に基づき、あなたの身柄と当該施設の管理権を接収します」


エドガーはマリーを見た。

その視線だけが、少しだけ冷えた。


「例外執行か」

「ええ」

「ずいぶん育てたな」

「育ったのは、そちらの遅れです」


その返しに、エドガーは初めてほんの少しだけ口元を歪めた。

笑いではない。

敗北を認める顔でもない。

ただ、計算違いを飲み込む顔だった。


「……なるほど」


それだけ言って、エドガーは抵抗をやめた。


ルナ隊の隊員が腕を後ろへ回す。

拘束具の金具が小さく鳴る。

白い部屋の中で、その音だけが妙にはっきりしていた。


「中央棟、本体確保」

ニールの声が飛ぶ。

「会議室制圧済み。南・搬入口・西、順次閉鎖完了」


匠一はようやく息を吐いた。

長くはない。

確認のための一息だった。


白い壁の内側では、もう怒鳴り声はしない。

机も、帳面も、印章も、鍵も、全部こちらの手にある。

残るのは、吐かせる順番と、拾う順番だけだった。


「終わりじゃない」

匠一が言う。

誰に向けたともなく。

「ここからだ」


その言葉どおり、中央棟の制圧は終わっても、仕事はまだ終わっていなかった。


会議室では、押さえつけられていた男たちが一人ずつ椅子へ座らされていた。

床へ伏せさせたままでは、口も手も雑になる。

雑になれば、帳面も印章も、誰がどこまで知っているかも、取りこぼす。

だから座らせる。

座らせたうえで、両手だけを使えなくする。

逃がさず、壊しすぎず、吐かせる形だった。


ニールは拾い上げた帳面を、白い机の端で静かに開いた。

濡れた指では触らない。

粉の残る手でも触らない。

紙は証拠である前に、順番の地図だ。

乱せば、あとで困るのはこちらになる。


「名簿、導線、保守工区の符号……」

ページを繰るたび、声が低くなる。

「港側の受け渡し印もあります。商館経由の線も残ってる」


ラトが会議室の入口にもたれたまま、鼻で笑った。


「残しすぎだろ。崩れるときの連中って、なんでこう雑なんだ」


「雑なんじゃない」

ニールは帳面から目を離さずに言った。

「切る順番が決まらなかったんです。決まらないまま、全部遅れた」


その言い方に、会議室の奥で誰かが顔を上げた。

年嵩の監督官だった。

さっきまで机を叩いていた指が、今は膝の上で小さく震えている。


「……まだ、遅れてはいない」

男が言う。

声はかすれていた。

「今なら、まだ取引はできる」


ラトが笑いかけた。

笑いかけただけで、目は笑っていない。


「できねぇよ。もう印が落ちてる」


男は何か言い返そうとしたが、その前に咳き込んだ。

コレット隊の粉がまだ喉に残っているのだろう。

咳のあいだに、言葉の値打ちも落ちる。


「後回しでいい」

匠一が言った。

「先に帳面だ。口は逃げない」


「死ぬ口はあります」

ニールが淡々と返す。


「だから順番を決める」

匠一は会議室の面子を一度見渡した。

「軽いのから剥がせ。重いのは最後でいい。重いのは、軽いのが全部抜けてからでも遅くない」


「了解」


ニールが紙片を一枚抜き、会議室の面子へ視線を走らせる。

誰が先に折れるか。

誰が誰の名を知っているか。

誰が自分だけ助かると思っているか。

そういう顔を読むのは、もう慣れた仕事だった。


一方、来客区画ではエドガー・レンの身柄確認が進んでいた。


ルナ隊の隊員が拘束具の位置を見直し、マリーの従者が押収品を白布の上へ並べていく。

紙片二枚。

薄い金属片。

封蝋印。

細い鍵。

封の切られていない小箱。

どれも小さい。

小さいが、小さいものほど後で面倒になる。


マリーは立ったまま、それらを順に見た。

触る前に見る。

見る前に並べる。

順番を崩さないのは、彼女も同じだった。


「小箱は」

「未開封です」

従者が答える。

「振動なし。液音なし。熱もありません」


「開けるのは後」

マリーが言う。

「コレット隊立会いで」


エドガーは椅子に座らされ、背筋だけはまだ崩していなかった。

濡れた髪も、甘い帯も、その姿勢だけで少しごまかしている。

だがごまかせているのは見た目だけだ。

机も鍵も箱も、もう彼の手の届くところにはない。


「ずいぶん丁寧だな」

エドガーが言った。

「もっと乱暴に来ると思っていた」


「乱暴にすると、あとで困るのはこちらです」

マリーは答えた。

「あなた方は、散らかすのだけは上手い」


エドガーはそれに返さなかった。

返さないことで、まだ何かを保とうとしている。

だが、その保ち方も長くはもたない。

外の線が全部切れた以上、彼が持っているのは時間だけだ。

そして時間は、もうこちらのものだった。


西の裏搬送路から、短い報告が戻ってきた。


「荷馬車、確保」

生徒会の若い声だった。

少しだけ息が上がっている。

「御者一、荷台に二。帳面箱ひとつ、封筒束あり。抵抗は軽微」


「生きてるか」

匠一が訊く。


「三人とも」


「そのまま縛れ。箱は開けるな」


「了解」


イリスがその報告のあとに続けた。

声はいつもどおり平板だった。


「御者の所属票は偽装です。鉄道国の形式に似せていますが、刻印の深さが違う。急造品です」


「中身は」

「まだ見ていません。ですが、逃がす優先順位としては高い箱です」


匠一は頷いた。

高い箱なら、それでいい。

中身はあとで見る。

今は線を閉じる方が先だ。


搬入口では、コレット隊が最後の確認に入っていた。

通気、粉の残量、密封壺の回収、厨房名義の荷の再点検。

毒が来る前提で押さえた場所は、終わったあとも毒が残る前提で片づける。

そこまでやって、ようやく制圧になる。


「搬入口、安全化完了」

報告が飛ぶ。

「二次汚染なし。厨房動線、再開可能」


「再開はまだだ」

匠一が言う。

「街を戻す順番は、こっちで決める」


外縁では、生徒会の若い連中が立入縄の位置を引き直していた。

さっきまでの縄は、戦いのための線だった。

今度の縄は、後始末のための線になる。

野次馬を入れず、巻き込まれた者だけを通し、必要な者だけを中へ入れる。

同じ縄でも、意味が変わる。


アフメット一家は、もう十分に外へ下がっていた。

それでもファトマは何度か振り返っていたらしい。

生徒会の一人が、祝い帰りの客へ向ける顔のまま、もう大丈夫ですとだけ伝えたという。

本当に大丈夫かどうかは、まだ分からない。

だが、そう言うしかない段階はある。


回収車が中央棟の脇へ寄せられたのは、その少しあとだった。


幌が開く。

寝台。

固定具。

毛布。

水。

血を受ける布。

死体袋は見えない位置にしまってある。

見せないためだ。

見せないことも、仕事のうちだった。


「負傷者から」

みいとマザーのところの回収係が言う。

「死んでるのは後でいい」


「死なせるな」

ラトが言った。


「努力はするよ」

回収係は答えた。

「でも、あんたらはいつも“努力でどうにかならないところ”を持ってくる」


ラトは肩をすくめただけだった。

言い返さないのは、図星だからだろう。


中央棟の中では、部屋ごとの札が掛け替えられていった。

会議室、封鎖。

私室、差押え。

湯殿、立入制限。

保管庫、確認待ち。

白い扉に白い札。

目立たない。

だが、目立たないまま権限だけが変わっている。

そういう変わり方が、一番戻らない。


エドガーはその札の掛け替えを、扉越しにじっと見ていた。


「感想は」

マリーが訊いた。


「ない」

エドガーが答える。

「感想を言う段階は、もう少し前に過ぎている」


「そう」


それだけで会話は終わった。

もう言葉で勝ち負けをつける場面ではない。

帳面と印章と鍵が、すでに答えを出している。


ニールが会議室から出てきたのは、帳面を三冊抱えてからだった。

最初の一冊だけではなかったらしい。

机の裏、書類箱の底、白い壁の飾り板の内側。

隠し方は丁寧でも、崩れるときは全部遅れる。

遅れた隠し場所は、順番に剥がされるだけだ。


「三冊」

ニールが言う。

「表向きの帳面、保守工区の帳面、港側の帳面。あと、符号表が半端に焼かれてます」


「読めるか」

「半分は。残り半分も、照合すればいけます」


「十分だ」


ニールはそこで初めて、少しだけ息を吐いた。

緊張が解けたというより、次の仕事量を計算し終えた息だった。


「徹夜ですね」

「今さらだろ」

ラトが言う。


「あなたは寝てください」

ニールが返す。

「起きてると余計なものまで壊す」


「壊した方が早ぇ時もある」


「今回は違います」


そのやり取りを、匠一は止めなかった。

止める必要がない程度には、もう場が戻っている。

怒鳴り声ではなく、仕事の声になっている。

それが一番大きかった。


やがて、正門前の白い石段に、最後の報告が揃った。


南側、制圧完了。

搬入口、安全化完了。

西裏搬送路、確保完了。

中央棟上階、主要人物拘束完了。

帳面、印章、鍵、押収完了。

一般人、外縁より退避完了。

二次被害、現時点で確認なし。


報告を受けたマリーは、書類箱を閉じた。

今度はもう、迷いなく閉じる。

従者が印章盆を下げる。

白手袋の指先から、執行の形だけが静かに抜けていく。


「中央棟封鎖、第一段階終了」

マリーが言った。

「以後、保全と聴取へ移行します」


誰も歓声を上げなかった。

上げるような仕事ではない。

ただ、何人かがそこで初めて肩の力を抜いた。

抜いても崩れないと分かったからだ。


匠一は石段の下から中央棟を見上げた。

白い壁。

白い窓。

開いたままだった上階の窓は、結局最後まで閉じなかった。

閉じられなかったのか、閉じる意味がなくなったのかは分からない。

どちらでもよかった。


「終わったな」

ラトが言う。


「終わってない」

匠一は答えた。

「終わらせた形になっただけだ」


ラトは鼻を鳴らした。

否定ではない。

同意に近い音だった。


中央棟の中から、拘束された者たちが順に出されてくる。

頭を押さえられる者。

自分で歩ける者。

足元の覚束ない者。

その中にエドガー・レンもいた。

姿勢だけはまだ崩していない。

だが、もう白い壁の内側へ戻る顔ではなかった。


石段を下りるところで、エドガーは一度だけ足を止めた。

止めたというより、視線だけを外へ向けた。

青い光の底。

立入縄。

回収車。

若い連中。

給仕の顔をやめたルナ隊。

厨房の顔をやめたコレット隊。

全部見えたはずだった。


「見事だ」

エドガーが低く言った。


誰に向けた言葉かは分からない。

匠一か、マリーか、あるいは外側そのものか。

だが返事はなかった。

返す必要のある言葉ではなかった。


回収車の脇で、ファトマたち一家がもう見えない位置まで下がったと報告が入る。

駅へ向かう導線も戻りつつある。

祝い帰りの客も、少しずつ街の顔へ戻っていく。

完全ではない。

だが、完全でなくても戻し始めなければならない。


匠一は最後に、正門脇の白い壁へ手を触れた。

冷たい。

戦いの熱も、怒鳴り声の残りも、壁は何も覚えていないようだった。

だからこそ、人間の方が覚えていなければならない。


「ニール」

「はい」

「帳面はお前が持て」

「了解」

「イリス」

「います」

「外へ漏れた線、今夜じゅうに洗え」

「了解」

「ラト」

「なんだ」

「壊すな」

「努力はする」


その返しに、匠一は何も言わなかった。

言わなくても分かる程度には、もう終わっている。


マリーが公用車へ向かう。

従者が書類箱を抱える。

回収車が静かに動き出す。

立入縄の位置がまた少し変わる。

白い扉には封鎖札が残り、白い窓は開いたまま、青い光だけを受けている。


海底都市アプスーの一角で、ひとつの捕物が終わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ