海底都市アプスー捕物帖(撒餌作戦鉄道国編)
見難い火傷の子423
海底都市アプスー捕物帖(撒餌作戦鉄道国編)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
鉄道国の施設群は、海底都市アプスーの中でも少し異質な場所にある。
港湾区が潮と怒声で動き、商館街が金と帳簿で息をしているのに対して、あそこは規格と時刻でできていた。
白い壁面、均一な窓、磨かれた手摺、寸分の狂いもなく敷かれた搬送軌条。
人が歩いているというより、決められた幅の中を流れているように見える。
海底都市の青い光の下にありながら、そこだけ別の国の空気を吸っている。
匠一は施設群を見上げ、足を止めなかった。
「嫌いな顔だ」
前を歩きながら言う。
ニールが横で肩をすくめる。
「建物の話ですか、人の話ですか」
「両方だ。整いすぎてるものは、だいたい裏で歪んでる」
ラトは二人の半歩後ろを歩いていた。
港湾区からここまで来る間、彼はほとんど喋らなかった。
乾物屋の地下で見た帳簿のことを考えているのかもしれないし、
単に場違いな場所へ来た居心地の悪さかもしれない。
どちらでもよかった。
今はまだ、無理に言葉を引き出す段階ではない。
鉄道国側の窓口は、帳簿にあった通り、技術局の補助監督官補エドガー・レンだった。
高くない。
だから切り捨てやすい。
だが低すぎもしない。
現場の規格書に触れられ、試験品の受領に口を出せる位置だ。
敵が最初に噛むにはちょうどいい首だった。
「どう入る」
ニールが訊く。
「正面からは入らない」
匠一は答えた。
「正面は記録が残る。裏からも入らない。裏は警戒される。だから、向こうから出てくるようにする」
ラトが顔を上げた。
「どうやって」
「餌を撒く」
それだけ言って、匠一は施設群の外れにある資材検収所へ向かった。
そこは鉄道国の施設の中でも、最も港に近い場所だった。
荷が最初に入り、紙が最初に付く場所。
つまり、港と鉄道国の境目だ。
検収所の前には、朝から荷車が二台並んでいた。
ひとつは規格通りの鋼材、もうひとつは木箱に入った試験部材。
番の職員が帳面を見ながら印をつけている。
どこから見ても、ただの受け入れ作業だ。
「ここで撒くんですか」
ニールが低く言う。
「いや」
匠一は首を振った。
「ここは匂いを流す場所だ」
彼は検収所の脇にある掲示板へ近づいた。
そこには本日の受け入れ予定、試験日程、規格改訂の通達が貼られている。
誰でも見られるが、誰も細かくは見ない。
だからこそ、ひとつだけ余計な紙が混じっていても、すぐには気づかれない。
匠一は懐から折り畳んだ紙片を取り出し、掲示板の端へ滑り込ませた。
ラトが目を細める。
「何だ、それ」
「半分だけ本物の予定表だ」
「半分?」
「試験規格品の搬入時刻は本物。保管場所は偽物」
ニールが小さく笑う。
「食いつきますか」
「食いつく。昨日の線がまだ生きていればな」
昨日、港で奪わせた木箱は、敵にとっては“使えるかもしれない餌”だった。
だが今日の紙は違う。
これは“取り返さなければ損をする情報”に見える。
敵が鉄道国側の窓口へ食い込んでいるなら、必ず誰かが動く。
「ラト」
匠一が言った。
「おまえはここから見える範囲で、人の足だけ見ろ」
「足?」
「顔は嘘をつく。足は急に賢くならない」
ラトは不満そうな顔をしたが、頷いた。
ニールは検収所の向かいにある茶店へ入り、新聞を広げた。
匠一は掲示板から少し離れた日除けの柱にもたれ、施設群の流れを眺める。
最初の十分は何も起きなかった。
職員が歩き、使い走りが走り、荷車が軋む。
規格と時刻でできた国は、こういうとき反応が遅い。
だが遅いということは、反応がないということではない。
むしろ、ひとたび動けば、その動きは目立つ。
やがて、検収所の中から若い職員がひとり出てきた。
掲示板の前で立ち止まり、紙片を読む。読み終えると、何でもない顔で建物の中へ戻る。
ラトが小さく言った。
「今のか」
「違う」
匠一は答えた。
「今のはただの目だ。噛む口じゃない」
次に出てきたのは、年嵩の事務官だった。
紙片を見て、眉をひそめ、剥がしかけて、やめる。
代わりに周囲を見回し、誰も見ていないと確かめてから、そのまま立ち去った。
「今のは?」
ラトが訊く。
「迷ってる」
「何を」
「報せるか、黙るか」
ニールが茶店の奥から新聞をめくる音を立てた。
合図だ。
別口でも何か見えたらしい。
そのとき、施設群の中央棟からひとりの男が出てきた。
背は高くない。
上衣はきちんとしている。
歩幅は一定。
だが、掲示板の前を通り過ぎる瞬間だけ、足が半歩短くなった。
視線は向けない。
だが身体が紙の位置を拾っている。
匠一の目が細くなる。
「来た」
ラトが男の足元を見る。
「……止まってない」
「止まる必要がないからだ」
匠一は言った。
「もう知ってるやつは、確認だけして通る」
男はそのまま中央棟を抜け、施設群の裏手へ向かった。
ニールが茶店から出てくる。
「追いますか」
「追う。ただし近づくな。あれは自分が見られる側だと知ってる足だ」
ラトが眉を寄せた。
「誰だ」
「たぶん、エドガー・レンじゃない」
匠一は答えた。
「もっと下だ。だが、上へ繋がる」
男は裏手の資材倉へ入らず、その脇の細い通路を抜けた。
先には保守工区がある。
現場の技師や工手が出入りする区域だ。
規格書が紙の上だけで終わらず、実際の部材と噛み合う場所。
敵が欲しがるのは、たいていこういう境目だった。
「紙から人へ」
匠一が呟く。
「やっぱり、そっちか」
保守工区の入口には、名簿を持った守衛がいた。
男はそこで立ち止まり、短く何かを告げる。
守衛は名簿を見て、通した。
ニールが低く言う。
「名が通る相手ですね」
「内部の人間だ」
匠一は答えた。
「外から噛んでるだけじゃない。中に歯がある」
ラトが小さく舌打ちした。
「どこも同じだな」
「そうだ」
匠一は言った。
「だから、同じやり方で焼ける」
*
保守工区は、表の整った白い建物群とは違っていた。
壁は煤け、床には油が染み、空気には鉄と蒸気の匂いが混じっている。
ここでは規格は紙ではなく、音と手触りで守られていた。
軌条の継ぎ目を叩く音、ボルトを締める音、試験台の回転音。
現場の音は、嘘をつきにくい。
匠一たちは工区の外縁を回り、資材置場を見下ろせる足場の陰へ入った。
さきほどの男は、工区の奥にある小さな詰所へ入っていく。
詰所の前には、作業着のまま帳面を読んでいる技師がひとりいた。
年は三十前後。
痩せているが、手の甲に細かな傷が多い。
現場を知っている手だ。
「技師候補、二名」
ニールが低く言った。
「帳簿の記載と合いますね」
匠一は頷いた。
「候補って言葉が嫌いだ」
「人を荷みたいに扱うからですか」
「違う。まだ決まってない顔をして、もう値がついてるからだ」
ラトは詰所の方を見たまま、何も言わなかった。
しばらくして、詰所の扉が開いた。
さきほどの男が出てくる。
その後ろから、別の若い工手が出た。
工手は周囲を気にするように見回し、男から小さな紙片を受け取る。
受け取った瞬間、すぐ胸ポケットへ入れた。
慣れている動きではない。
だが初めてでもない。
「一人」
ニールが言う。
「もう一人は?」
匠一が訊く。
答えはすぐに出た。
詰所の窓が少しだけ開き、中にいた技師が外を見たのだ。
視線は短い。
だが、紙片を受け取った工手ではなく、男の去る方向を見ている。
追うか、切るか、迷っている目だった。
「候補じゃないな」
匠一が言った。
「まだ噛まれてない」
ラトが顔を上げる。
「分かるのか」
「迷ってるやつは、まだ戻れる」
匠一は答えた。
「本当に噛まれたやつは、迷うふりがうまい」
ニールが小さく息を吐く。
「では、撒きますか」
「撒く」
匠一は懐からもう一枚、今度は小さな封筒を取り出した。
表には何も書かれていない。
だが中には、昨日の地下帳場から写した記号の一部と、技術局の規格改訂番号がひとつだけ入っている。
見れば分かる者には分かる。
分からない者にはただの紙だ。
「誰に」
ラトが訊く。
「迷ってるやつに」
匠一は言った。
「選ばせる」
彼は足場を下り、資材置場の脇を通って、詰所の前へ向かった。
ニールが止めるように目を向けたが、匠一は構わない。
ここで必要なのは隠れることではなく、自然に見えることだ。
現場では、用のある者は用のある顔で歩く。
詰所の前の技師が顔を上げた。
「何か」
「落とし物だ」
匠一は封筒を差し出した。
「おまえ宛てじゃないかもしれないが、ここに落ちていた」
技師は受け取らない。
「どこで」
「掲示板の近くで」
その一言で、技師の目が変わった。
「……誰だ、あんた」
「通りすがりだ」
「そんな顔には見えない」
「おまえもな」
技師はしばらく匠一を見ていたが、やがて封筒を受け取った。
開ける。中の紙を見る。
その瞬間、呼吸が浅くなる。
「知ってる記号か」
匠一が言う。
技師は答えない。
「なら話が早い。おまえ、今どっちに足を置いてる」
技師の喉が動いた。
「意味が分からない」
「分かる顔だ」
ラトは少し離れた足場の陰から、そのやり取りを見ていた。
ニールが横で囁く。
「ずいぶん正面から行きますね」
「迷ってるやつには、逃げ道を見せるより先に、出口があると教えた方が早い」
ラトが小さく言った。
「……あいつも、借りるのか」
ニールは答えなかった。
技師は封筒を握ったまま、低く言った。
「ここで話すことじゃない」
「だろうな」
匠一は頷いた。
「じゃあ、どこなら話せる」
技師はすぐには答えなかった。
その沈黙のあいだに、さきほど紙片を受け取った工手が、詰所の裏手へ回っていくのが見えた。
匠一は視線だけでそれを追い、技師へ言う。
「急いだ方がいい。もう一人は、たぶん今日中に噛まれる」
技師の顔色が変わる。
「……待て」
「待たない」
「なら、昼の鐘のあと、試験線路の端だ」
「一人で来い」
「そっちもだ」
匠一は少しだけ笑った。
「無理だ」
それだけ言って、踵を返した。
*
昼の鐘が鳴るころ、鉄道国の施設群は一度だけ呼吸を変える。
午前の検収が終わり、午後の試験が始まるまでの短い隙間。
人が食事へ流れ、帳面が閉じられ、現場の音が少しだけ弱まる。
その時間帯は、話したい者にとって都合がいい。
逆に言えば、狙う側にとっても都合がいい。
試験線路の端は、施設群の最も外れにあった。
短い軌条が海底都市の壁際まで伸び、先には保守用の小屋と、使われなくなった転車台がある。
人目は少ない。だが完全に死角ではない。
だからこそ、密談には向いている。
匠一とニールが先に着いた。
ラトは少し離れた転車台の陰にいる。
本人は不満そうだったが、匠一が「見える場所にいろ」と言ったので従った。
「来ますかね」
ニールが訊く。
「来る」
匠一は答えた。
「来ないなら、もう噛まれてる」
やがて、技師が現れた。
作業着の上に上衣を羽織っている。
周囲を見ているが、怯えてはいない。
覚悟を決めた者の歩き方だった。
「一人じゃないな」
技師が言う。
「おまえもだろ」
匠一が返す。
技師は一瞬だけ目を細めた。
その直後、転車台の向こうで金属音がした。
ラトが身を低くする。
ニールが小さく舌打ちした。
「二人」
「いや、三人だ」
匠一が言う。
来たのは、さきほど紙片を受け取った工手と、守衛、それに中央棟から出てきたあの男だった。
男はもう隠す気がない顔をしている。
「余計なことをするなと言ったはずだ」
技師へ向かって言う。
技師は唇を噛んだ。
「まだ返事はしていない」
「返事をする前に、外へ漏らした」
「漏らしてない」
「なら、そいつらは何だ」
匠一は肩をすくめた。
「通りすがりだ」
男は鼻で笑う。
「昨日もそう言ったか?」
匠一の目がわずかに細くなる。
昨日の線が、やはりここまで来ている。港と鉄道国は別の顔をしていても、首筋は繋がっていた。
「エドガー・レンはどこだ」
匠一が訊くと、男の眉がわずかに動いた。
「知らない名だ」
「下手だな」
「何が」
「知らないなら、眉は動かない」
男の顔から笑みが消えた。
守衛が一歩前へ出る。工手は迷っている。
技師はまだこちら側にも向こう側にも完全には寄っていない。
つまり、今ここで焼けるのは一人ではない。
「ニール」
匠一が低く言う。
「はい」
「紙を持ってるのは誰だ」
ニールは一瞬で見た。
「守衛です」
「よし」
次の瞬間、匠一が動いた。
狙いは男ではない。
守衛だ。
紙を持つ者が線を持つ。
守衛が反応して懐へ手を入れる。
その動きだけで十分だった。
ニールが横から腕を払う。
紙片が落ちる。
工手が反射的に拾おうとするが、そこでラトが転車台の陰から飛び出した。
「そっちじゃねえ!」
叫びながら、工手の肩へ体当たりする。
工手がよろめき、紙片を踏み損ねる。
技師がその一瞬を見て、初めて動いた。
落ちた紙片を先に拾い、胸へ押し込む。
男が怒鳴った。
「返せ!」
「返さない」
技師が言う。
声は震えていたが、足はもう迷っていなかった。
守衛が匠一へ掴みかかる。
訓練された動きだが、現場の狭い足場では踏み込みが死ぬ。
匠一は半歩ずれて肘を入れ、勢いを外へ流す。
ニールが工手を押さえる。
男は後退しながら笛を取り出しかけたが、その前にラトが転車台の鉄片を蹴り上げた。
乾いた音が響き、男の手が止まる。
「うるせえんだよ」
ラトが吐き捨てる。
男は初めてラトを正面から見た。
「港の餓鬼が」
「だから何だ」
その短いやり取りのあいだに、技師は紙片を開いていた。
そこには規格改訂番号と、地下帳場の符丁、それに短い名がひとつ。
エドガー・レン。
技師の顔色が変わる。
「……やっぱり、あいつか」
匠一が男を見る。
「これで一枚剥がれたな」
男は舌打ちし、踵を返した。逃げる。
だが試験線路の端は、逃げるには向かない。
先は壁、横は保守小屋、後ろは転車台。
逃げ道に見える場所ほど、追い込みの形が決まっている。
「止めるな」
匠一が言った。
ニールが一瞬だけ目を向ける。
「泳がせる?」
「違う。帰らせる」
男は保守小屋の脇を抜け、中央棟の方へ走る。
匠一は追わない。
技師が息を切らしながら言う。
「いいのか」
「いい」
「上へ報せるぞ」
「それでいい」
匠一は技師の胸元の紙片を見た。
「上が動けば、今度は隠れない」
技師はしばらく黙っていたが、やがて紙片を差し出した。
「俺は、まだ何も渡してない」
「知ってる」
「でも、もう時間の問題だった」
「だろうな」
「……あんたらは何なんだ」
匠一は少し考えてから答えた。
「流れを返しに来た」
技師はその答えに、笑うでもなく、納得するでもなく、ただ疲れたように息を吐いた。
「名前は」
匠一が訊く。
「セイル」
「そうか、セイル。もう一人は助けたいか」
技師――セイルは、押さえられている工手を見た。
「助けるって言えるほど、きれいじゃない」
「十分だ」
匠一は言った。
「きれいなやつは、たいてい遅い」
*
その日の夕刻、鉄道国技術局の補助監督官補エドガー・レンは、
中央棟の執務室に戻る前に、ひとつの報せを受け取った。
保守工区の線が露見。
港の帳場も沈黙。
ヴァルマ商会、連絡なし。
報せを持ってきた男は、試験線路から逃げ帰ったあの男だった。
顔色は悪い。
だがまだ、自分が切り捨てられる側だとは思っていない顔をしている。
エドガー・レンは報せを聞き終えると、机の上の規格書を閉じた。
年若い。
整った顔立ち。
声も穏やかだ。
いかにも鉄道国の官吏らしい。
だが、その目だけが冷たかった。
「港は?」
「地下帳場まで押さえられたようです」
「商館は」
「ヴァルマが沈みました」
「技師は」
男は一瞬だけ言い淀んだ。
「……セイルが、裏切りました」
エドガーはそこで初めて、わずかに笑った。
「裏切りではない」
「は?」
「まだこちらへ来ていない者は、裏切れない」
男は意味が分からない顔をした。
エドガーは立ち上がり、窓の外を見た。
海底都市の青い光が、白い壁に鈍く反射している。
「餌を撒かれたな」
静かに言う。
「しかも、こちらが噛みたくなる形で」
男が慌てて言う。
「では、すぐに線を切りますか」
「遅い」
「ですが――」
「今切れば、切ったことが見える」
エドガーは振り返った。
「なら、逆に噛む」
男は目を瞬かせる。
「どういう」
「向こうが次の餌を撒く前に、こちらから餌を見せる」
エドガーは机の引き出しを開け、一枚の封書を取り出した。
「港ではなく、人にだ」
男はその封書を見て、ようやく顔色を変えた。
「それは……」
「まだ使うつもりはなかった」
エドガーは言う。
「だが、首筋を焼かれたなら、次は心臓の近くで噛むしかない」
封書の宛名は、技術局の者ではなかった。
鉄道国の外、だが近い。
そして匠一たちにとって、見過ごせない名だった。
*
夕方、匠一たちがアプスー側の宿へ戻るころには、街の光はまた青く沈み始めていた。
ニールは机の上に紙を広げ、今日拾った線を書き出している。
港の地下帳場、ヴァルマ商会、保守工区、エドガー・レン、セイル、守衛、工手。
線は増えた。
だが増えたぶん、形も見えてきた。
ラトは窓辺に座り、外を見ていた。
「今日のは、勝ったのか」
不意に言う。
匠一は上衣を脱ぎながら答えた。
「半分」
「半分?」
「向こうの顔は見えた。だが、向こうにもこっちの手が見えた」
ニールが紙から目を上げる。
「次は早いでしょうね」
「だろうな」
匠一は頷いた。
「だから、次は人で撒く」
ラトが振り返る。
「人?」
「荷でも紙でもなく、人が動くときが一番深い線が出る」
匠一は言った。
「向こうも、たぶんそこを噛みに来る」
そのとき、扉が叩かれた。
ニールが目で制し、短剣に手をかけながら開ける。
立っていたのは、第一班の若い連絡役だった。
顔色が悪い。
「報せです」
「何だ」
匠一が訊く。
連絡役は一度だけ息を整え、それから言った。
「鉄道国側から、招待状が出ました」
「誰に」
「……あなたに、です」
部屋の空気が変わった。
ニールが手を止める。
ラトが窓辺から立ち上がる。
匠一だけが、ほとんど表情を変えなかった。
「差出人は」
連絡役は封書を差し出した。
白い紙、整った筆致、鉄道国技術局の印。
そして署名。
エドガー・レン。
匠一は封を切らずに、それを見た。
向こうも撒いてきたのだ。
しかも、こちらが無視しにくい形で。
「何て書いてある」
ラトが訊く。
匠一は封書を裏返し、薄く笑った。
「読まなくても分かる」
「何が」
「次の餌だ」
海底都市アプスーの夜は、朝より静かだ。
だが静かな夜ほど、深いところで流れが変わる。
撒餌作戦は、もう港や帳場だけの話ではなかった。
次に噛み合うのは、人と人だ。




