海底都市アプスー捕物帖(首筋焼き)
見難い火傷の子422
海底都市アプスー捕物帖(首筋焼き)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
港湾区に戻るころには、海底都市アプスーの朝はすっかり目を覚ましていた。
濾過硝子を通した青い光はもう薄闇の名残を追い払い、
第三船渠の石畳には荷車の車輪跡が幾重にも重なっている。
潜水鐘の音は遠く、代わりに人の声が近い。
怒鳴り声、値切る声、笑い声、罵る声。
街はいつも通りの顔をしていた。
だからこそ、異変は目立たない。
ヴァルマ商会が押さえられたことは、まだ表には出ていない。
帳場の若い男も、二階の書記官風の男も、第一班が別口の揉め事として処理している。
商館街で何かあったらしい、という噂は半日もすれば流れるだろう。
だが今はまだ、敵の首同士が互いの沈黙を信じている時間だった。
匠一は港へ下る坂の途中で足を止めた。
「ニール」
「はい」
「路地は」
「まだ動いています。
木箱の残り二つはそのまま。
拾い屋が一人、見張りが二人。
番兵の交代が少し早い」
「商会からの戻りは」
「ありません」
「なら、まだ切れていない」
ニールは匠一の言葉の意味をすぐに取った。
商会が沈黙しているのではない。
沈黙せざるを得ないだけだ。
上へ報せる線が途中で止まっている。
つまり今、港の中継点は「待ち」の姿勢に入っている。
命令が来ない。来ないから、勝手に動けない。
こういうとき、組織は自分の癖を出す。
「待つやつは二種類いる」
匠一が言った。
「命令を待つやつと、逃げる機会を待つやつだ」
ラトが横で顔を上げた。
「見分けられるのか」
「見分ける」
「どうやって」
「足だ」
ラトは眉をひそめた。
匠一はそれ以上説明しない。
説明するより見せた方が早いこともある。
第三船渠の外れは、朝より少しだけ騒がしくなっていた。
木箱が三つ積まれていた揚貨機の影には、今は二つしかない。
だが誰もそれを不自然とは思わない。
港では荷は増え、減り、入れ替わる。
ひとつ消えた程度では、日常の波に呑まれてしまう。
「見ろ」
匠一が小さく言った。
揚貨機の陰から少し離れた場所に、縄束を抱えた男が立っている。
荷役夫の顔だ。
だが視線が荷ではなく、人の流れを数えている。
少し先には、朝見た番兵とは別の番兵がいる。
槍を持つ手が落ち着かない。
さらに茶屋の二階には、今朝とは違う簾の揺れがある。
見張りの顔ぶれが変わっているのだ。
「入れ替わってる」
ラトが呟いた。
「そうだ」
匠一は答えた。
「命令が来ないとき、あいつらはまず顔を替える。線が切れたことを隠すためだ」
ニールが低く言う。
「焼きますか」
「まだ半分だ」
「半分?」
ラトが訊く。
「首筋を焼くには、両側から火を入れる」
匠一は揚貨機の影を見たまま言った。
「港だけ焼いても、商館側が別の路地を使う。
商館だけ焼いても、港側が別の買い手を探す。だから、同時だ」
ラトは黙った。
その顔にはまだ警戒が残っているが、理解しようとする色も混じっていた。
匠一はそれを見て取ったが、何も言わない。
今は教える時間ではなく、見せる時間だ。
「第一班は?」
「時計塔裏から二人、南口から三人、押さえました」
ニールが答える。
「吐いたのは?」
「南口の一人だけです。路地の奥に“帳場”があると」
「帳場、か」
匠一はその言葉を口の中で転がした。
港の帳場。
商館の帳場とは違う。
荷の数を数える場所ではなく、荷に名前をつけ直す場所だ。
拾い物を正規品に、横流しを誤配送に、盗品を保管品に変える。
紙一枚で罪の輪郭を曖昧にする場所。
そういう場所があるなら、そこが首筋だ。
「場所は」
「乾物屋の裏手から入る地下だそうです」
「やっぱりな」
ラトが顔をしかめた。
「地下?」
「アプスーじゃ珍しくない」
ニールが言う。
「海底都市は上に広がれない。だから横と下に伸びる」
「違う」
匠一が言った。
「珍しくないのは地下じゃない。見えない場所に本音を置くことだ」
そのとき、縄束を抱えた男が動いた。
揚貨機の影へ近づき、残った木箱のひとつに手をかける。
だが持ち上げない。代わりに、縄の結び目をほどきかけて、やめる。
迷っているのではない。時間を稼いでいるのだ。
「逃げる機会を待ってる足だ」
匠一が言った。
「命令待ちじゃない」
ラトが男の足元を見る。
「……片足が外向いてる」
「そうだ。荷に向いてない。路地の出口に向いてる」
ニールが小さく笑った。
「見分けた」
ラトはむっとした顔をしたが、否定はしなかった。
「じゃあ、あいつから?」
「いや」
匠一は即答した。
「あれは逃げる。逃げるやつは追い込みに使える。先に焼くのは、逃げないやつだ」
「どうして」
「逃げないやつは、守るものがある」
守るものがある者は、線の近くにいる。
金か、紙か、名前か、あるいは上からの信頼か。
どれにせよ、末端よりは胴に近い。
匠一は茶屋の二階を見上げた。
簾の向こうの気配は動かない。
見張りではなく、確認役だ。
港の異変を見て、どこまで崩れたか測る役。
あれを押さえれば、地下の帳場は慌てる。
「ニール」
「はい」
「茶屋の二階を閉じろ。ただし騒ぐな。客の喧嘩に見せろ」
「地下は」
「まだ。先に番兵を切る」
ラトが目を瞬かせた。
「番兵?」
「公の顔が一枚混じってると、流れが速くなる」
匠一は言った。
「そこを抜くと、残りは急に遅くなる」
番兵は港の流れを止めないためにいる。
だからこそ、止めるべき荷を見逃すだけで、敵にとっては大きな利になる。
内通した番兵は、剣より厄介だ。
剣は斬るが、番兵は通す。
「ラト」
匠一が呼ぶと、少年はすぐに顔を上げた。
「おまえ、あの番兵に見覚えは」
ラトは少し目を細め、港の持ち場に立つ男を見た。
「……ある」
「どこで」
「夜の荷だ。見ないふりするやつだ」
「名前は」
「知らねえ。でも、乾物屋の裏で酒飲んでるのを見たことがある」
それで十分だった。
乾物屋の裏。
地下帳場への入口。
番兵と地下が繋がった。
匠一は頷いた。
「焼く順が決まった」
*
最初に崩れたのは、茶屋の二階だった。
昼前の客が入り始めたころ、二階で酔客同士の揉め事が起きた。
椅子が倒れ、湯呑みが割れ、女将の悲鳴が上がる。
港では珍しくもない騒ぎだ。
番兵がひとり、持ち場を離れて駆けつける。
だがその番兵は、二階へ上がったきり降りてこなかった。
「一枚」
ニールが路地の陰で言う。
続いて、乾物屋の裏で酒樽が崩れた。
これも事故に見える。
樽を運んでいた若い衆が足を滑らせ、通路を塞いだのだ。
だが実際には、地下へ下りる細い階段の前を塞ぐための崩し方だった。
中にいる者はすぐには出られない。
外から入る者も、慌てれば目立つ。
「二枚」
匠一が言う。
最後に、揚貨機の影の木箱が動いた。
縄束の男が、ついに逃げると決めたのだ。
木箱を捨て、路地の出口へ走る。
だが出口にはもう誰もいないように見えて、いる。
第一班のひとりが荷役夫の顔で立っており、男が飛び出した瞬間、肩を入れて壁へ押しつけた。
短い呻き。人波はそれを、ただの喧嘩だと思って流れていく。
「三枚」
ニールが言った。
「これで地下は孤立です」
「いや」
匠一は乾物屋の裏を見た。
「孤立したと思わせたところからが本番だ」
地下へ下りる階段は狭く、湿っていた。
海底都市の下層特有の、石と塩と古い紙の匂いがする。
ラトは一段目で足を止めたが、匠一が振り返ると何も言わずについてきた。
逃げ道を借りると言った以上、ここで引く気はないらしい。
階段の先には、低い天井の部屋があった。
帳場と呼ぶには粗末だが、役目は十分に果たしている。
机が二つ、棚が三つ、帳簿の束、封蝋、印章、荷札の切れ端。
港で消えたものに新しい名前を与えるための道具が、ひと通り揃っていた。
そして、三人いた。
ひとりは帳簿を抱えた痩せた男。
ひとりは印章を握った女。
もうひとりは、椅子に座ったまま動かない老人だった。
老人は番兵でも荷役夫でも商人でもない顔をしていた。
服は地味だが質がいい。
手は汚れていない。
だが目だけが、港の泥を知っている目だった。
「ようやく来たか」
老人が言った。
声は落ち着いている。
慌てていない。
「上が静かすぎると思った」
「静かにした」
匠一が答えた。
「騒ぐと、首が散る」
老人は薄く笑った。
「若いのに、よく知っている」
ニールが左右へ目を配る。
逃げ道はひとつ。
階段だけだ。
だが部屋の奥には水路に繋がる格子がある。
人は通れない。
紙なら通せる。
匠一はそこを見て、老人の役目をほぼ確信した。
こいつは荷を動かす者ではない。
紙を逃がす者だ。
「帳簿を置け」
匠一が痩せた男へ言う。
男は動かない。
「置かないと、濡れるぞ」
老人が静かに言った。
「この部屋は水に弱い」
脅しではない。
事実だ。
海底都市の地下は、いつでも水と隣り合わせにある。
格子の向こうの水路を開けば、帳簿も紙も一瞬で駄目になる。
「焼け跡を残さないやり方だな」
匠一が言う。
「感心しない」
老人は肩をすくめた。
「感心される商売ではない」
ラトが匠一の後ろで小さく息を呑んだ。
老人を知っている顔ではない。
だが、この部屋の意味は分かったのだろう。
港で消えたものが、ここで別のものになる。
そういう場所だ。
「ヴァルマ商会は押さえた」
匠一が言った。
「鉄道国の窓口も見えた。ここで終わりだ」
老人は少しだけ目を細めた。
「終わり?」
「少なくとも、この線はな」
「線は一本ではない」
老人は言った。
「港は広い。商館は多い。役人は飢える。技師は不満を持つ。ひとつ塞いで何になる」
匠一は頷いた。
「知ってる。だから、おまえを捕まえに来たんじゃない」
老人の笑みが、そこで初めて薄れた。
「……何だと」
「見に来た」
匠一は部屋を見回した。
「どこで荷が紙になり、紙が名前になるかをな」
老人は黙った。
その沈黙が、肯定だった。
ニールが一歩前へ出る。
「帳簿を」
痩せた男が反射的に抱え直す。
その動きだけで十分だった。
守るべきものは帳簿だ。
なら、そこに線がある。
次の瞬間、老人の指がわずかに動いた。
女が格子の方へ走る。
印章ではない。
水門の鎖だ。
「ラト!」
匠一が叫ぶより早く、ラトが動いた。
少年は格子へ走った女の足元へ滑り込み、体当たりのように膝裏を払った。
女がよろめく。
鎖に届く寸前で手が外れる。
ニールがその隙に飛び込み、女の手首を押さえた。
痩せた男は帳簿を抱えたまま逃げようとするが、狭い部屋では身のこなしが死ぬ。
匠一が机を蹴って進路を塞ぐ。
帳簿が床に落ち、紐がほどけ、紙束が散った。
老人だけが動かなかった。
ただ、ラトを見ていた。
「そっちへ行くのか」
老人が低く言う。
ラトは息を切らしながら睨み返す。
「こっちとか、そっちとか、勝手に決めんな」
老人はそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「港の子だな」
「違う」
ラトは言った。
「もう、あんたらの餌じゃねえ」
その言葉に、匠一は何も言わなかった。
だが、覚えた。
第一班が階段を下りてくる足音がした。
これで部屋は押さえられる。
帳簿も、印章も、荷札も、紙の逃げ道も。
老人はもう逃げないだろう。
逃げる必要がないと知っている顔だ。
自分ひとりが捕まっても、全部は終わらないと分かっている者の顔だった。
だからこそ、匠一は老人の前で立ち止まった。
「名前は」
老人は答えない。
「どうせ偽名だろうが、呼び名くらいあるだろう」
しばらくして、老人は言った。
「港では、帳場爺と呼ばれている」
「そうか」
匠一は頷いた。
「じゃあ帳場爺、おまえの仕事は今日で終わりだ」
老人は鼻で笑った。
「明日には別の帳場ができる」
「だろうな」
「なら意味はない」
「ある」
匠一は床に散った帳簿の一枚を拾い上げた。
そこには荷の名と、書き換え後の名と、流し先の符丁が並んでいる。
港の泥が、紙の上で洗われていく記録だ。
「おまえらは、荷を盗んでるんじゃない」
匠一が言った。
「流れを盗んでる」
老人は黙った。
「だから、荷を取り返しても足りない。流れを返してもらう」
第一班が部屋へ入り、三人を確保した。
帳簿は布袋へ、印章は箱へ、荷札は束ねられていく。
地下の湿った空気の中で、紙の擦れる音だけが妙に乾いて聞こえた。
ラトは壁際に立ち、まだ少し肩で息をしていた。
ニールがちらりと見て言う。
「いい足でしたね」
ラトは顔をしかめる。
「たまたまだ」
「たまたまで膝裏は払えません」
「うるせえ」
匠一はそのやり取りを聞きながら、帳簿の最後の頁をめくった。
そこには、今朝の木箱の記載がある。
試験規格品一函。
流し先未定。
条件交渉用。
そして、その下に別の記載。
技師候補、二名。
接触待ち。
人もまた、荷と同じ欄に書かれていた。
匠一の目が冷える。
ヒュドラの首は、やはり一本ではない。
荷の首、紙の首、人の首。
どれも同じ胴へ繋がっている。
「ニール」
「はい」
「これで終わりじゃない」
「ええ」
「次は技師だ」
ラトが顔を上げた。
「まだあるのか」
「ある」
匠一は帳簿を閉じた。
「むしろ、ここからだ」
地下を出ると、港湾区の昼が始まっていた。
朝よりも光は強いが、海底都市の光はどこまでいっても青い。
人の流れは絶えず、荷は運ばれ、鐘は鳴る。
何も変わっていないように見える。
だが、乾物屋の裏の地下はもう死んだ。
ヴァルマ商会も死んだ。
番兵の線も切れた。
首筋の一本は、確かに焼けたのだ。
それでも、ヒュドラはまだ生きている。
匠一は港の向こう、鉄道国の施設群がある方角を見た。
濾過硝子越しの青の下で、白い壁が鈍く光っている。
あそこに次の首がある。
「ラト」
「なんだ」
「逃げ道は、まだ借りるか」
ラトは少し考えてから、肩をすくめた。
「返せって言われるまではな」
ニールが笑う。
「図々しい」
「生きるのに必要だ」
「正しい」
匠一はそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それからまた、いつもの顔に戻る。
「行くぞ」
「どこへ」
ラトが訊く。
匠一は短く答えた。
「鉄道国だ。次の餌を撒く」




