海底都市アプスー捕物帖(撒餌作戦)
見難い火傷の子421
海底都市アプスー捕物帖(撒餌作戦)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
海底都市アプスーの朝は遅い。
濾過硝子を通した青い光が街路に落ちるころ、港湾区ではすでに荷が動き始めている。
荷役夫の怒鳴り声、潜水鐘の余韻、石畳を軋ませる運搬車の音。
そのどれもが日常の顔をしていて、その実、何かを隠すのに都合がよかった。
第三船渠の外れ、使われなくなった揚貨機の影に木箱が三つ積まれていた。
南方商会の焼印。
鉄道国の検印。
行先を示す荷札。
どこから見ても、今朝方ここへ運び込まれた荷にしか見えない。
だが、見れば見るほど、少しずつ雑だった。
雑であることが、肝心だった。
匠一は岸壁の手摺に寄りかかり、海を見ていた。
「利口な魚は寄りませんよ」
背後でニールが言う。
「利口な魚を釣る気はない」
匠一は答えた。
「最初に食うのは、いつだって飢えたやつだ。見たいのは、その先だよ」
木箱は荷ではない。
問いだった。
誰が気づくか。
誰が触るか。
誰が運ぶか。
誰が値を決めるか。
その答えを、街に書かせるための餌だ。
朝の流れの中に、ひとりの子供がいた。
年若い。
痩せている。
外套は擦り切れているが、歩き方は妙に静かだった。
港の子に見える。
だが港の子なら、あの木箱を見たとき、もう少し露骨に目を止める。
見ないふりがうますぎた。
匠一は視線を動かさないまま言った。
「来たな」
ニールが小さく息をつく。
「あれが最初ですか」
「最初に見えたのが、だ」
子供は木箱の脇を通り過ぎた。
足は止めない。
だが通り過ぎる瞬間、歩幅が半歩だけ乱れた。
位置を覚えたのだと分かる乱れ方だった。
「運び手じゃない」
匠一が言う。
「拾い手でもない。知らせる役だ」
「追いますか」
「まだだ。最初の首を切っても、胴は見えない」
子供が角を曲がる。
入れ替わるように、荷役夫に扮した男が木箱の縄を確かめた。
少し遅れて、魚籠を提げた女が荷札に目を落とす。
さらに番兵のひとりが持ち場を離れ、必要もないのに揚貨機の陰を覗いた。
「三本」
ニールが呟く。
「四本だ」
匠一は茶屋の二階の窓を見た。
簾がわずかに揺れている。
港の拾い屋。
荷の値踏み役。
内通した番兵。
上から見ている目。
餌ひとつで、これだけの首が動く。
やがて木箱のひとつが消えた。
荷役夫が二人、正規の搬出であるかのような顔で担ぎ上げ、朝の荷の流れに紛れ込ませる。
番兵は止めない。
茶屋の窓は閉じる。
魚籠の女はもういない。
「見事ですね」
ニールが言った。
「街そのものが手足になっている」
「ヒュドラはそうやって伸びる」
匠一は手摺から身を起こした。
「無関係な顔をした連中の間を、首だけが渡っていく」
二人は何気ない顔で港湾区の坂道へ入った。
追跡しているように見せてはならない。
必要なのは、敵に“うまくいった”と思わせることだった。
木箱は乾物屋と古道具屋に挟まれた細い路地へ入った。
そこで担ぎ手が入れ替わる。
受け渡しは短い。
慣れている。
匠一は路地を見ず、向かいの壁に貼られた芝居札を眺めるふりをした。
「中継点ですね」
「そうだ。ここを焼けば一本は止まる」
「一本だけですか」
「一本だけだ。ヒュドラ相手に一本だけ焼けば、残りが学ぶ」
そのとき、路地の奥から封筒を持った使い走りが出てきた。
木箱ではなく紙が動く。
荷から契約へ、現場から商館へ。
敵の首が別の首へ繋がる瞬間だった。
匠一の目が細くなる。
「見えた」
「何が」
「首じゃない。首筋だ」
使い走りは商館街へ向かった。
ニールが問う。
「押さえますか」
「まだだ。北口と時計塔裏だけ見ろ。南口は空けておけ」
「逃げ道だと思わせるために?」
「逃げ道は、追い込みの形を決める」
ニールが人波へ消えたあと、匠一はその場に残った。
背後で気配がした。
振り返ると、さっきの子供がいた。
いつの間に戻ってきたのか、揚貨機の影に半身を隠し、こちらを見ている。
目つきは鋭いが、逃げる足をいつでも使える立ち方だった。
「……あんた、さっきから見てるだろ」
「見ている」
匠一は否定しなかった。
「おまえも見ていたな」
子供は肩を揺らした。
「知らねえよ」
「そうか」
匠一は近づかない。
追い詰めれば逃げる。
逃げれば、また別の首に呑まれる。
今ここで必要なのは捕まえることではなく、どちらへ傾くかを見ることだった。
「腹が減っているのか」
子供は黙る。
「誰かに言われて来たのか」
黙ったまま睨み返す。
「それとも、自分で匂いを嗅ぎつけたか」
「……あんた、役人か」
「そう見えるか」
「見えない」
「なら違う」
子供は少しだけ戸惑った。
役人なら脅す。
商人なら値踏みする。
番兵なら腕を掴む。
だが匠一は何もしない。
ただ見ている。
そのことが、かえって相手を不安にさせる。
「さっきの荷」
子供が言った。
「あれ、あんたのか」
「違う」
「じゃあ、なんで見てる」
「誰が持っていくか知りたいからだ」
子供は唇を噛んだ。
年のわりに、目だけが妙に古い。
殴られ慣れた者の目ではなく、流れに呑まれないよう、先に流れを読むことを覚えた目だった。
「知らない方がいいこともある」
子供が低く言う。
「知ってる」
匠一は答えた。
「だが、知らないままだと、もっと悪い」
遠くで鐘が鳴った。
商館街の北口にある時計塔の鐘だ。
予定より少し早い。
匠一の目がわずかに細くなる。
動いた。
敵が、ではない。
こちらが空けておいた逃げ道に、何かが流れ込んだのだ。
「ここを離れろ」
匠一が言った。
子供は顎を上げる。
「なんで」
「巻き込まれる」
「もう巻き込まれてる」
その返答で十分だった。
この子はただの通りすがりではない。
だが中心でもない。
首ではなく、首に噛まれた側だ。
匠一は一歩だけ近づいた。
「なら選べ。ここで飲まれるか、こっちへ来るか」
子供の目が揺れる。
疑い、警戒、計算。
そのどれでもある色だった。
すぐには答えない。
答えられないのだろう。
だが商館街の方では、もう人の流れが変わり始めていた。
撒いた餌に、本命が食いついたのだ。
「時間がない」
匠一が言う。
子供はしばらく動かなかった。
やがて、ほんのわずかに足先が匠一の方へ向いた。
*
商館街の北口は、港湾区とは別の顔をしている。
石畳は乾いており、建物の壁面には潮ではなく磨かれた真鍮の光がある。
看板は大きく、窓は高い。
金の匂いはするが、汗の匂いは薄い。
荷が消える場所ではなく、荷の意味が書き換えられる場所だった。
匠一は子供を連れて歩きながら、速度を変えなかった。
急げば追っていると見える。
遅ければ間に合わない。
必要なのは、街の歩幅に合わせたまま、ひとつだけ先へ出ることだ。
「名前は」
歩きながら匠一が訊いた。
子供はすぐには答えなかった。
「……ラト」
「本名か」
「呼ばれてる名だ」
「それでいい」
ラトは匠一の半歩後ろを歩いていた。
逃げるなら逃げられる距離を保っている。
だが完全には離れない。
その半端さが、今の立場そのものだった。
「おまえ、誰に荷のことを流した」
匠一が言うと、ラトはすぐに顔を上げた。
「流してねえ」
「なら、誰が拾うか知っていた」
「……港じゃ、ああいうのはすぐ嗅ぎつかれる」
「嗅ぎつく連中の顔を知ってるな」
ラトは黙った。
匠一はそれ以上追わなかった。
黙るということは、知らないのではなく、知っていて言わないということだ。
今はそれで足りる。
北口の角にある時計塔の下では、朝の人流がわずかに滞っていた。
荷車が一台、車輪を石の継ぎ目に取られて止まっている。
そのせいで道が詰まり、商人と使い走りが苛立った声を上げている。
表向きはただの渋滞だ。
だが匠一には分かる。
あれは止めたのだ。
こちらの第一班が、流れを一拍だけ遅らせた。
「うまい」
匠一が小さく言う。
ラトが横目で見た。
「知り合いか」
「街の癖を知ってるやつだ」
時計塔の影から、ニールが現れた。
手には新聞売りの束を抱えている。
顔つきまで変えているわけではないが、見ようとしなければ見落とす程度には街に馴染んでいた。
「北口、詰まらせました」
ニールは新聞を売る声色のまま言った。
「封筒は二階へ。
荷はまだ路地の中です。
南口に一人、時計塔裏に二人」
「商会は」
「表は静かです。ただ、ヴァルマ商会の裏口だけ、朝にしては出入りが多い」
匠一は頷いた。
ヴァルマ商会。
港湾荷の保険と仲介を扱う顔をしているが、最近は妙に手を広げていた。
荷の遅延に口を出し、人の雇い入れに口を出し、果ては鉄道国の規格書にまで口を出す。
商いの顔をした侵食は、たいていああいう形を取る。
「封筒を持った使い走りは?」
「二階へ上がって、まだ出てきません」
「誰が受けた」
「帳場の若いのです。ただし、あれは手だ。頭じゃない」
匠一は時計塔の文字盤を見上げた。
針はまだ朝の浅い時刻を指している。
だが敵はもう動き始めている。
餌に食いついたのは港の拾い屋だけではない。
荷を紙に変え、紙を契約に変え、契約を圧力に変える首が、今まさに胴へ繋がろうとしていた。
「第二線を上げる」
匠一が言った。
ニールの目が細くなる。
「路地もですか」
「いや。路地はまだ生かす。先に紙を追う」
「荷より先に?」
「荷は囮だ。紙は意思だ」
ラトがその言葉に反応した。
「……紙?」
匠一はちらりと彼を見た。
「荷は誰でも運べる。だが、どこへ運ぶかを決めるのは紙だ」
ラトは何か考えるように口を閉ざした。
その顔を見て、匠一は確信を少し深めた。
この子は末端の匂いを知っているだけではない。
紙の重さも、少しは知っている。
「ニール、ラトを連れて裏へ回れ」
「あなたは」
「表から入る」
「危険です」
「危険じゃない入口は、たいていもう塞がってる」
匠一はそう言って、ヴァルマ商会の正面玄関へ向かった。
磨かれた真鍮の取手、曇りひとつない硝子、朝の客を迎えるための笑顔。
商館街の建物はどれも似た顔をしているが、匠一には分かる。
こういう場所ほど、裏口の方が本音に近い。
扉を開けると、帳場の若い男が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご用件は」
「朝から忙しそうだな」
匠一は言った。
「荷の保険か、人の売り買いか、それとも規格書の書き換えか」
若い男の笑顔が一瞬だけ止まった。
それだけで十分だった。
「お客様、何のことか」
「分からないなら、上に聞け」
匠一は帳場に近づきもせず、広間を見回した。
壁には航路図、棚には帳簿、奥には応接室へ続く扉。
二階へ上がる階段の手摺には、ついさっき誰かが急いで触れたような指の脂が残っている。
「今朝、港から紙が一通入った」
匠一が言う。
「それを受けたのはおまえだな」
若い男の喉が動いた。
「お引き取りください」
「できない」
「営業の妨げです」
「それは困るな。じゃあ、営業の中身を見せてもらおう」
匠一が一歩踏み出した、そのときだった。
二階で何かが倒れる音がした。続いて、短い悲鳴。
帳場の男が反射的に上を見た。
匠一はその視線を見逃さない。
「ニール」
小さく呼ぶと、返事の代わりに裏手から窓の開く音がした。
匠一は階段へ向かった。
帳場の男が止めようとするが、遅い。
肩を入れてかわし、二段飛ばしで上がる。
二階の廊下は細く、左右に小部屋が並んでいる。
奥の一室の扉が半開きになっていた。
中では、ひとりの男が床に尻餅をついていた。
上等な上衣、細い指、商人というより書記官に近い顔つき。
机の上には開いた封筒と、まだ乾ききらない墨の跡。
窓際にはニールが立ち、その横でラトが息を切らしている。
「飛び降りようとしました」
ニールが言った。
「裏に馬車を回していたようです」
男は匠一を見るなり、顔色を変えた。
「何者だ」
「それを決めるのは、これからだ」
匠一は机へ近づいた。
封筒の中身は短い。
荷の受領報告ではない。
もっと先の話だ。
港湾区第三船渠、試験規格品一函確保。
今夕、鉄道国側窓口へ提示可。
条件次第で技師接触も進行。
匠一の目が冷たくなる。
荷はやはり荷ではなかった。
試験規格品。
つまり敵が欲しているのは物そのものではなく、それを口実に鉄道国側の窓口へ食い込むことだ。
荷を奪い、返す。
返す代わりに条件を呑ませる。
そういう筋書きだった。
「なるほど」
匠一は紙を机に戻した。
「荷を盗んで恩を売るつもりか」
男は口を結んだまま何も言わない。
だが沈黙は否定ではない。
「誰に提示する」
匠一が問う。
男は答えない。
「鉄道国のどの窓口だ」
やはり答えない。
ラトが、部屋の隅で小さく息を呑んだ。
匠一はそちらを見ずに言う。
「知っている顔か」
ラトはすぐには答えなかった。
だが、男の顔を見たまま、低く言った。
「……港で人を拾うやつじゃない。もっと上だ。拾ったやつを、どこへ流すか決める側だ」
「そうか」
匠一は頷いた。
「なら、ここは首筋だ」
男が初めて声を荒げた。
「子供の言うことを信じるのか」
「おまえの顔よりはな」
その瞬間、廊下の向こうで足音がした。
複数。
帳場の若い男だけではない。
護衛か、あるいは書類を持ち出す役か。
匠一は振り返らずに言う。
「ニール、紙を押さえろ。ラト、窓から下を見るな」
「え」
「下に逃げ道があるように見せてある。見れば飛びたくなる」
ニールが短く笑った。
「性格が悪い」
「追い込みの形だ」
扉が大きく開き、二人の男が入ってきた。
商会の用心棒にしては身のこなしが軽い。
港の荒くれではなく、訓練された手だ。
ひとりが匠一へ、もうひとりが机へ向かう。
狙いは人ではない。紙だ。
匠一は机へ走った男の手首を横から払った。
紙が宙に浮く。
もうひとりの男が間合いを詰めるが、狭い室内では踏み込みが死ぬ。
匠一は半歩だけずれて肩を入れ、勢いを壁へ流した。
鈍い音。
男が呻く。
ニールがその隙に封筒を掴み、机ごと窓際へ引いた。
「下へ!」
机の前の男が叫ぶ。
だが下は逃げ道ではない。
逃げ道に見えるだけだ。
次の瞬間、窓の外から笛が鳴った。短く二度。
第一班だ。
男たちの顔色が変わる。
匠一はそこで初めて、わずかに笑った。
「遅い」
「何がだ」
床に倒れた男が呻くように言う。
「逃げる判断がだよ」
廊下の足音が止む。
下でも人の流れが変わったのが分かる。
南口を空けておいたのは、逃がすためではない。
逃げると決めた者を、そこへ集めるためだ。
ヒュドラの首は散る。
だが散る方向が読めれば、胴へ戻る線も読める。
ニールが封筒の中身を確かめ、もう一枚の紙を引き抜いた。
「名があります」
「読め」
「……鉄道国技術局、補助監督官補、エドガー・レン」
ラトが息を止めた。
匠一の目が細くなる。
鉄道国側の窓口は、思ったより近かった。
しかも高くない。高くないからこそ、切り捨てやすい位置だ。
敵はそこから入るつもりだったのだろう。
小さな恩を売り、小さな便宜を引き出し、やがて規格と人材へ手を伸ばす。
そのための最初の一函。
「十分だ」
匠一が言った。
「この商会は今日で終わる」
男が顔を上げた。
「ひとつ潰して何になる」
その声には、痛みよりも嘲りがあった。
「代わりはいくらでもある」
匠一は男を見下ろした。
「知ってる」
「なら――」
「だから、おまえを潰すんじゃない。線を潰す」
男は初めて黙った。
その沈黙だけで、匠一には十分だった。
こいつは分かっている。
自分が首ではなく、接続だということを。
だからこそ、ここで止まるのが一番痛い。
ニールが窓の外を見た。
「下、押さえました。南口へ流れたのは三人。時計塔裏で二人」
「路地は」
「まだ生きています」
「よし。港の中継点は今から閉じる」
ラトが顔を上げた。
「……全部、最初からこうするつもりだったのか」
匠一は少しだけ考えてから答えた。
「全部じゃない」
「じゃあ何が決まってた」
「餌を撒くことと、食いついたやつを見逃さないことだけだ」
ラトはその答えを飲み込むのに時間がかかったようだった。
やがて、机の上の紙と、床に転がる男と、窓の外の騒ぎを順に見て、低く言う。
「……怖えな、あんた」
「そうか」
「でも、あいつらよりはましだ」
匠一は返事をしなかった。
その代わり、ラトの立ち位置を見た。
もう半歩後ろではない。
逃げるための距離を取りながらも、完全には外へ向いていない。
選びきってはいないが、傾き始めている。
廊下の向こうから、第一班の者たちが上がってくる気配がした。
これでこの商会は押さえられる。
だが終わりではない。
むしろ始まりだ。
港の拾い屋、路地の中継点、商館の帳場、鉄道国の補助監督官補。
一本の餌で、四つの首筋が見えた。
ヒュドラはまだ生きている。
だが、どこへ血が流れているかは、もう隠せない。
匠一は机の上の紙を封筒へ戻した。
「ニール、これは写しを取れ。原本は伏せる」
「表に出さないんですか」
「まだ早い。今出せば、上が切る」
「泳がせる?」
「違う。逃げたと思わせる」
ニールが口元だけで笑う。
「性格が悪い」
「知ってるだろ」
第一班が部屋へ入ってきた。
男たちは取り押さえられ、帳場の若い男も下で確保されたらしい。
報告の声が飛び交う中、匠一はラトへ目を向けた。
「おまえはどうする」
ラトはすぐには答えなかった。
「どうするって」
「ここで消えるなら止めない。だが、もう向こうはおまえを放っておかない」
「……知ってる」
「こっちへ来るなら、楽ではない」
「それも知ってる」
ラトはしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「港に戻っても、もう前みたいには歩けねえよ」
「だろうな」
「だったら、しばらく借りる」
「何を」
「逃げ道」
匠一はほんの少しだけ笑った。
「いい答えだ」
窓の外では、海底都市の朝がようやく本格的に明るくなり始めていた。
濾過硝子を通した青い光が商館街の壁に落ち、真鍮の縁を鈍く光らせる。
街は何も知らない顔で動き続ける。
荷役夫は荷を運び、商人は帳簿を開き、番兵は槍の石突きを鳴らす。
だがその水面下では、もう流れが変わっていた。
撒いた餌はひとつ。
食いついた首は四つ。
そして、そのどれもが同じ胴へ繋がっている。
匠一は時計塔の方角を見た。
まだ切るには早い。
だが、焼く順番は見えた。
「行くぞ」
匠一が言う。
「次は港だ」
ニールが封筒を懐へ入れる。
ラトは一瞬だけ窓の外を見て、それから何も言わずに二人の後ろへついた。
海底都市アプスーの朝は遅い。
だが、一度動き出した流れは、もう止まらない。




