海底都市アプスー捕物帖(緊急出動)
見難い火傷の子419
海底都市アプスー捕物帖(緊急出動)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
ニールが役目を終えた顔で踵を返した。
本当に引き渡しと報告だけで終えるつもりだったらしい。
自動扉の前で一度だけ止まり、振り返らずに言う。
「君たちは凄い」
レイラが即座に顔をしかめた。
ニールは気にした様子もなく続ける。
「だから、次はもっと深いところまで拾える」
そう言って去っていった。
最悪だった。
帰ってきたばかりなのに、もう次の気配を置いていく。
本当にろくでもない。
扉が閉まる。
整備区画に、いつもの白い静けさが戻る。
そして翌日
きょうは朝から平穏であるはずだった。
休養日の予定だった。
だが、その予定は保たなかった。
南分署全域に、短く鋭い警報音が走る。
整備区画の空気が変わった。
工具音が止まり、端末の表示が一斉に切り替わる。
壁面投影に赤い帯が走り、区画識別と要請種別が浮かび上がった。
南六号水門区画/圧差異常発生
保守回廊第三枝路/接触事故一件
違法改造機識別信号を同時確認
現場封鎖未完了/機動対応要請
レイラが眉をひそめる。
「……は?」
事故と事件が、同じ一報の中に並んでいた。
しかも順番が悪い。
圧差異常。
接触事故。
違法改造機。
どれが原因で、どれが結果か分からない。
分からないまま、封鎖だけが間に合っていない。
つまり最悪である。
匠一はもう端末を閉じていた。
判断が早いというより、判断の前に身体が切り替わっている。
「休養は取り消しだ」
レイラが即座に言う。
「でしょうね!」
だが文句の勢いに対して、足はもう動いていた。
カナタも何も言わず、搬送ラック脇の装備台へ向かう。
説明を待たない。
待っても増える情報は少ないと分かっている動きだった。
匠一が歩きながら指示を飛ばす。
「南分署機動対応班、出る。
対象は南六号水門区画および保守回廊第三枝路。
事故処理優先、ただし違法改造機の介在を前提に動け」
整備員の一人が息を呑んだ。
別の一人が、反射的に壁面表示を見直す。
南分署機動対応班。
それがカナタとレイラの所属だった。
海底都市アプスー南域において、
事件と事故の境目が消えた時、最初に投げ込まれる班。
追跡だけではない。
制圧だけでもない。
事故処理だけでもない。
浸水、圧差、違法改造機、密輸、保守回廊の破損、封鎖前の混乱。
そういう、分類している暇のない現場に最初に触る部署だった。
事件も事故も待ってくれない。
だからこの班は、待たないための装備を持つ。
整備区画の奥、隔壁付きの専用ドックで、二機の機体が起動準備に入る。
青白機と緑機。
南分署機動対応班専用、オートメガネウラ。
通常の警邏機よりも軽く、保守回廊用作業機よりも速く、
封鎖前の狭所と乱流区画に無理やりねじ込むための機体。
高機動追跡、短距離制圧、事故初動、区画離脱補助。
どれか一つに特化した機体ではない。
全部が半端に見えて、全部が必要な現場のための機体だった。
つまり、南分署機動対応班のための機体である。
レイラが緑機の前で足を止める。
止めたのは一瞬だけだ。
視線はもう機体ではなく、壁面投影の事故図面に向いている。
「圧差異常が先なら、接触事故は巻き込まれ。
でも違法改造機信号が同時ってことは、逃走経路に水門区画を使った可能性がある」
カナタが青白機の固定具を外しながら言う。
「逆もある。
接触事故を起点に封鎖が遅れ、その隙に抜けた」
「第三枝路の幅だと、通常機は詰まる」
「だからオートメガネウラだ」
匠一が答えた。
そのやり取りに、もう間がない。
一週間前なら、もう少し確認があった。
今はない。
互いに見ている情報の重みが揃っている。
だから話が早い。
早いというより、同じ図面を同じ順番で読んでいる。
整備員が補助端末を持って駆け寄る。
「現場映像、まだ断続です!」
「十分だ」
匠一が言う。
「断続でも寄越せ」
壁面に荒れた映像が出る。
水門区画の警告灯。
傾いた保守台車。
散乱した固定材。
一瞬だけ映る、外殻を擦ったような痕。
そしてノイズの向こうに、識別を切り替え続ける不安定な機影。
レイラが先に言った。
「偽装が雑」
カナタが続ける。
「雑に見せてる」
匠一が二人を見る。
二人は映像から目を離さない。
「理由は」
「追わせたい」
レイラが言う。
「でも本命は別」
カナタが言う。
「圧差異常の方か」
「まだ断定はしない」
「でも事故だけではない」
「そう見る」
短い。
だが十分だった。
一週間前なら、ここで“なぜそう思うのか”の説明がもう少し要った。
今は要らない。
目の動き。
映像の切れ方。
機影の揺れ。
散乱物の位置。
そういうものから拾った違和感が、二人の中でほぼ同じ形になっている。
ニールが何をしたのか、詳しくは語られなかった。
だが、こういう時に分かる。
事件も事故も待ってくれない現場で、
説明のための時間を削るために、あの一週間があったのだ。
匠一が端末を閉じる。
「方針を更新する。
事故対応を表に置く。
だが追跡対象は囮の可能性あり。
水門区画の圧差異常を主軸に見ろ」
「了解」
カナタ。
「了解」
レイラ。
返答が重なる。
重なったが、揃えた感じがしない。
最初から同じところに落ちたみたいな重なり方だった。
整備区画の隔壁が開く。
オートメガネウラの起動灯が走る。
青白機の翅が低く唸り、緑機の外装が順にロックを解いていく。
整備員の一人が、思わず小さく呟いた。
「またあれが出るのか……」
無理もない。
オートメガネウラは、平穏な日に出る機体ではない。
あれが出る時はたいてい、現場が分類不能になっている。
事故班だけでは足りない。
警邏だけでも足りない。
追跡班だけでも遅い。
だから南分署機動対応班が出る。
だからオートメガネウラが出る。
それがこの部署の意味だった。
レイラが搭乗前に一度だけ匠一を見る。
「帰ってきたその日に実戦投入って、だいぶひどくない?」
匠一は即答した。
「事件も事故も待ってくれない」
レイラが一瞬だけ黙る。
それから、少しだけ口元を歪めた。
「……言うと思った」
カナタはもう青白機に乗り込んでいる。
接続を確認しながら、短く言った。
「待ってくれないなら、こちらが先に拾う」
その言葉に、匠一は何も返さなかった。
返す必要がなかった。
それがもう答えになっていた。
壁面投影の警報表示が更新される。
南六号水門区画/圧差異常拡大
保守回廊第三枝路/負傷者二名確認
違法改造機信号、識別消失
消えた。
つまりまだいる。
あるいは、消えたように見せている。
レイラが緑機の接続座に身体を沈めながら言う。
「ほら来た。待ってくれない」
「知ってる」
カナタが答える。
二機の固定具が外れる。
整備区画の白い光が、起動した外装に反射して鋭く跳ねた。
帰還したばかりの二人に、休息はほとんど与えられなかった。
だがそれこそが、この部署の現実だった。
南分署機動対応班。
海底都市アプスー南域において、
事件と事故が同時に牙を剥いた時、最初に送り込まれる班。
そしてオートメガネウラは、
その“待ってくれない現場”に間に合わせるための機体である。
発進灯が青に変わる。
匠一が最後に言った。
「行くぞ」
青白機と緑機が、ほとんど同時に前へ出た。
その動きには、もう迷いがなかった。
確認も、目配せも、合図もない。
それでも噛み合っている。
一週間前とは違う。
明らかに違う。
何があったのかは、やはり詳しく語られない。
だが一つだけはっきりしている。
待ってくれない現場に、
二人はもう間に合うようになっていた。




