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見難い火傷の子  作者: 清風
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415/474

海底都市アプスー捕物帖(軌道本)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子415



海底都市アプスー捕物帖(軌道本)



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


海底都市アプスー中央駅、機動救安班詰所の朝は、紙の匂いから始まった。


「……重い」


レイラは机に置かれた分厚い冊子を両手で持ち上げ、率直な感想を漏らした。

革張りの表紙は使い込まれて角が丸くなっている。

表紙中央には金の箔押しで、硬い書体の題字が刻まれていた。


軌道保安統一教範

海底都市アプスー補遺・改訂三版


その下に、現場の誰かが油性墨で雑に書き足している。


――軌道本


「本っていう厚みじゃないわよ、これ」

「鈍器にはなるな」

「そういう感想が先に出るの、どうなの」


カナタは壁際のロッカーにもたれたまま、すでに自分の一冊を開いていた。

付箋が何枚も飛び出している。

レイラはそれを見て目を細める。


「読んでたの?」

「必要なところは」

「全部必要そうに見えるんだけど」

「だいたいそうだな」


詰所の奥で、匠一が工具箱を閉じる音がした。

振り返ると、彼はいつもの無愛想な顔で二人を見ていた。

机の上には分解途中のヘルメットと、魔導通信機の予備部品が並んでいる。

朝から何かしら改修していたらしい。


「軌道本は読むための本じゃない」

「来たわね」

「生きて帰るための本だ」


匠一は平然と言い切った。


レイラは冊子を抱えたまま、半眼になる。

「そういう台詞、もっと軽い冊子に対して言ってほしいんだけど」

「軽くしたら現場が死ぬ」

「言うと思った」


匠一は机上の軌道本を指先で叩いた。


「海底都市は事故と事件と災害の境目が薄い。

だから保安、救助、封鎖、避難、復旧初動を一冊にまとめる必要がある。

分冊にすると、必要なときに必要な巻が手元にない」

「理屈は分かる」

「分かればいい」

「納得したとは言ってない」


カナタがページをめくる音だけが、しばらく詰所に落ちた。

外では始業の鐘が鳴り、中央駅の朝の人流が本格的に動き始めている。

海底都市の一日は早い。

列車は定時で来るし、事故も定時を待ってはくれない。


レイラは軌道本を開いた。

目次だけで気が遠くなる。


第一部、平時保安。

第二部、工作・破壊活動対処。

第三部、駅区画非常封鎖。

第四部、列車内事案初動。

第五部、海底回廊圧力異常。

第六部、外殻近接区画避難。

補遺、海底都市アプスー特則。

補遺追記、魔導管干渉波形例。

補遺再追記、保守員偽装時確認要領。


「……増えてない?」

「増えた」

「誰が?」

「現場が死にかけるたびに」


匠一の答えは簡潔だった。


レイラが顔を上げる。 「それ、笑えないのよ」

「笑うための本じゃない」


そのとき、詰所の壁面通信板が短く鳴った。

三人の視線が同時に向く。

通常連絡ではない。

優先度の高い呼び出し音だ。


匠一が受信を開くより早く、指令の声が響いた。


『機動救安班へ。中央駅貨物搬送路第三層にて保守記録不一致。

現場確認に向かった保守員一名と連絡途絶。

加えて同区画で短時間の魔導圧低下を確認。

事案性あり。至急確認されたし』


詰所の空気が一瞬で切り替わる。


カナタは軌道本を閉じた。 「初日よりは静かだな」

「比較対象がおかしいのよ」


レイラはすでにヘルメットを取り上げている。

匠一は机上の冊子を一冊抜き取り、迷いなくレイラへ投げた。

反射的に受け止める。


「持っていけ」

「現場に?」

「補遺の追記を見ろ。貨物搬送路の保守員偽装と魔導圧低下時の初動が載ってる」

「載ってるのね……」

「載せたからな」


カナタが短く息を吐く。 「経験談か」

「経験談だ」


三人は詰所を飛び出した。


中央ドーム上層の保安発着帯に並ぶ二機の小型単座魔導メガネウラが、起動光を灯す。

海底都市用軽機動型。

空飛ぶ単車じみた小さな機体は、狭い回廊と多層構造の都市を駆けるために最適化されている。

カナタ機は先行制圧仕様、レイラ機は索敵・通信・医療支援仕様。

匠一が最後に通信帯域を確認し、ヘルメット越しに言った。


「貨物搬送路第三層は狭い。飛行は途中までだ。降りたら軌道本の第六十二項を思い出せ」

「そんな細かい番号まで覚えてない」

「保守員が一人で点検しているときは、まず記録を疑え、だ」

「最初からそれ言って」

「覚えろ」


二機が同時に浮き上がる。

発着帯を蹴るように加速し、中央ドームの上層空間を滑った。

朝の光に似せた照明が、耐圧外殻の向こうの深海と奇妙な対比を作っている。

外では巨大な発光魚がゆっくりと泳ぎ、内では人と貨物と列車が規則正しく流れる。

その規則を壊すものがいるなら、止めるのが二人の仕事だった。


「指令、現場図を」

『送る。貨物搬送路第三層、東側保守枝路。十分前に圧低下。

五分前、確認に向かった保守員との通信断。現場近傍の監視灯が一部消灯』

「監視映像は?」

『二分前から途絶。魔導線の局所乱れあり』


レイラのゴーグルに見取り図が展開する。

貨物搬送路第三層は、旅客区画の華やかさとは無縁の場所だった。

太い搬送レール、荷箱昇降機、保守用足場、補助魔導管。

都市の裏側を支える血管のような区画だ。


「嫌な感じ」

「いつもだろ」

「今日は特に」


二機は第三層接続口まで一気に飛び、狭窄区画手前で着地した。

ここから先は機体では入れない。

カナタが先行し、レイラがその後ろにつく。

ヘルメット内通信は開いたまま。

ゴーグルには熱源、魔力線、簡易地図が重なっている。


搬送路は薄暗かった。

照明の一部が落ちているせいで、保守灯の青白い光だけがレールを照らしている。

壁面を走る補助魔導管の一部に、わずかな明滅があった。


「圧低下の痕、右壁」

「見える。自然故障じゃないな」

「うん。波形が揃いすぎてる」


レイラは足を止め、脇に抱えていた軌道本を片手で開いた。

付箋のついたページを探り当てる。


「補遺追記、保守員偽装時確認要領……

『記録不一致と局所圧低下が同時発生した場合、単独故障よりも誘引工作を優先して疑うこと』」

「そのままだな」

「嫌な一致ね」


さらに読み下す。


「『確認要員が単独で現場へ向かった場合、第二要員は現場へ直行せず、

まず退路と遮断点を確認すること』」

「直行したくなる書き方だな」

「だから死ぬのよ、って補注がある」

「匠一だな」

「匠一ね」


カナタは搬送路の先を見た。

熱源は――一つ。

低い位置。

動かない。

保守員か。


「レイラ、遮断点は」

「前方十字分岐。そこを越えると枝路が三本。もし偽装なら、奥へ引き込んで挟む形が作れる」

「じゃあ正面からは行かない」

「軌道本どおり?」

「たまにはな」


二人は主搬送路を外れ、保守足場沿いの狭い側路へ回った。

足場は金属格子で、下を見れば荷箱搬送レールが走っている。

遠くで昇降機の駆動音が低く唸った。

都市は止まっていない。

止まっていないからこそ、裏側の異常は見えにくい。


十字分岐の手前で、カナタが拳を上げる。

停止の合図。

レイラもしゃがみ込み、ゴーグルの表示を拡大した。


「熱源、二つ」

「増えたな」

「一つは床。もう一つ、壁裏。保守扉の陰」

「待ち伏せか」

「たぶん」


レイラは軌道本を閉じ、低く言った。

「第六十二項、後段。『待ち伏せが疑われる場合、

発見された要救助者を即時回収対象と見なさず、まず加害者の視線と動線を切ること』」

「助けに行きたくなる書き方だな」

「だから死ぬのよ、って」

「もういい、分かった」


カナタは分岐の構造を見た。

正面枝路に倒れている熱源。

保守員だろう。

壁裏の熱源は、その救助に飛び込んだ相手を狙う位置にいる。

典型的だ。しかも搬送路の幅が狭い。

飛び込めば逃げ場がない。


「レイラ、灯り落とせるか」

「できる。三秒だけ」

「十分だ」


レイラは壁面端子へ短い干渉を入れた。

保守灯が一斉に落ちる。

搬送路が闇に沈む。

次の瞬間、壁裏の熱源が動いた。

予想どおり、相手は暗転に反応して位置を変える。

待ち伏せる側は、獲物が来る前提で構えている。

前提が崩れると、動きに癖が出る。


カナタはその癖を待っていた。


闇の中を一気に踏み込む。

足音を殺し、分岐角を斜めに切る。

相手が保守扉の陰から出た瞬間、カナタの肩がその胸を打った。

鈍い息詰まりの音。

相手は保守員の上着を着ていたが、動きが違う。

工具帯の位置も、靴の減り方も、現場の人間ではない。


男は短い刃を抜こうとした。

だが遅い。

カナタは手首ではなく肩口を潰し、腰を切って壁へ叩きつける。

狭所制圧。

逃げ道のない場所では、相手の体を壁と床の間に挟み込むのが早い。


「動くな」


低い声。

男が反射的に膝を上げる。

カナタはそれを腿で殺し、首の向きと骨盤の向きを逆に固定した。

悲鳴が漏れる。

刃が床へ落ちた。


同時に、別の音がした。


金属が走る音。搬送レールの上を、無人の荷箱台車がこちらへ滑ってくる。


「カナタ!」

「見えてる!」


待ち伏せは一人ではなかった。

あるいは自動起動か。

台車の速度は高くないが、この狭さでは十分危険だ。

しかも正面枝路には倒れている保守員がいる。


レイラが前へ出た。ゴーグルの投射画面に制御端子位置が浮かぶ。

彼女は壁面の非常停止端子へ飛びつき、干渉鍵を差し込む。

だが反応が鈍い。


「切られてる! 系統が迂回されてる!」

「止められるか」

「三秒!」


三秒。長い。


カナタは制圧した男を壁際へ蹴り寄せ、正面枝路へ飛び込んだ。

倒れている保守員の襟を掴み、横へ引く。

次の瞬間、荷箱台車がすぐ脇を唸って通過した。

風圧が頬を打つ。

台車は分岐先の防護柵へ激突し、鈍い音を立てて止まった。


「保守員、生きてる?」

「熱源あり、呼吸あり!」


レイラが駆け寄る。

保守員は頭部を打って気絶していたが、致命傷ではない。

手首に拘束痕。

先に襲われ、囮にされたのだろう。


「やっぱり軌道本どおりね」

「気に入ってきたか」

「悔しいけど」


そのとき、拘束した男が笑った。

喉の奥で、乾いた笑いだった。


「……軌道本、か」

「何がおかしい」

「よくできてる。だから読みやすい」


カナタの目が細くなる。


男は壁に押しつけられたまま、口の端を歪めた。

「手順があるってことは、逆に言えば、誘導もしやすいってことだ」


レイラが一瞬だけ顔を上げる。 「まさか」

「記録不一致も、圧低下も、通信断も……全部、お前らをここへ引っ張るための餌だ」


その瞬間、レイラのゴーグルに新たな警告が走った。


中央駅旅客区画第二ホーム、魔導信号異常。

同時に、展望回廊西区画、監視灯消失。


「二件同時……!」

「陽動!」


男は笑う。 「軌道本に書いてなかったか? 一つ見つけた工作は、本命ではないかもしれないって」


書いてある。

たしかに書いてある。

しかも補遺のかなり前の方に。


レイラは舌打ちし、即座に通信を開いた。

「指令、貨物搬送路第三層にて偽装犯一名確保、保守員一名保護!

ただし本件は陽動の可能性大!

第二ホームと展望回廊西区画の異常を最優先で再評価して!」

『了解、各区画へ警戒上げる! 機動救安班はどう動く!』


カナタとレイラは一瞬だけ視線を交わした。


貨物搬送路の現場は押さえた。

保守員は生きている。

犯人も確保した。なら次だ。


「第二ホームは人が多い」

「展望回廊は封鎖が遅れるとまずい」

「分かれるか」

「分かれる」


レイラは保守員の容体を最終確認し、拘束具を男の手首へ増し締めした。

「軌道本、第九条」

「何だ」

「人命密度の高い区画を優先」

「了解」


二人は同時に駆け出した。

搬送路の薄暗い空気を切り裂き、再び中央ドームの光の中へ戻るために。


背後で拘束された男が、まだ笑っていた。


軌道本がある。

だから守れるものがある。

だが軌道本があるからこそ、それを読んだ敵もまた現れる。


海底都市アプスーの戦いは、力だけでは終わらない。

手順を作る者と、手順の隙を探る者。

その知恵比べのただ中へ、カナタとレイラは飛び込んでいく。


次の異常が、本命だった。

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