海底都市アプスー捕物帖
見難い火傷の子414
海底都市アプスー捕物帖
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
出向初日から、嫌な予感はしていた。
海底都市中央ドームは、駅舎というより巨大な空洞そのものだった。
透明な耐圧外殻の向こうには、深い青とも黒ともつかない海が広がり、
ときおり遠くを横切る発光生物の群れが、都市の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
内壁に沿って段状に築かれた街区、上下を結ぶ回廊、中央を貫く吹き抜け空間。
その上層に設けられた飛行巡察路を、二機の小型単座魔導メガネウラが滑るように進んでいた。
海底都市用に開発された軽機動型。
見た目は空飛ぶ単車に近い。
大型機のような威圧感はないが、狭い回廊と巨大ドームを行き来するには、むしろこの小ささがものを言う。
カナタの機体は出力と制動に寄せた先行制圧仕様、レイラの機体は通信と索敵、医療収納を強化した支援仕様。同型機でありながら、積んでいる思想が違った。
二人のヘルメットは匠一監修の魔導通信対応型で、閉鎖区画でも通りが落ちにくい。
ゴーグルには魔力線観測、赤外線視認、投射式情報表示機能まで載っている。
初めて装備一式を見せられたとき、レイラは本気で「盛りすぎでは?」と思ったものだが、
匠一は平然としていた。
――海の底で見えない、聞こえない、間に合わないは死因になる。
その一言で、だいたい押し切られた。
「初日としては静かね」
ヘルメット内通信に、レイラの声が澄んで響く。
カナタは機体をわずかに傾け、中央駅ホーム上空を流し見た。
発着したばかりの列車から観光客らしい一団が降りてくる。
商人風の男たち、研究員らしい白衣姿、子どもの手を引く家族連れ。
下では駅員と警備員が忙しく動き、上では二人が巡回する。
深海都市の朝は、思ったより普通の顔をしていた。
「静かなまま終わると思うか?」
「思わないから聞いたのよ」
レイラの機体が、カナタの右後方にぴたりとつく。
二機一組。片方が前を見れば、もう片方が死角を埋める。
深海都市機動救安班――鉄道警察への出向という名目ではあるが、
実際には治安、救助、緊急医療を一体で担う初動要員だ。
しかも二人には、匠一から初期段階で叩き込まれた対ワイバーン徒手制圧術がある。
逮捕術の上位互換。
人間相手なら、たいていの暴れ方は想定内に落とし込める。
投射画面の端で、巡察経路が淡く更新された、その瞬間だった。
『緊急通報。緊急通報。地上側より護送中の重要被疑者が逃走。
深海線に乗り込んだ可能性あり。
対象は男性、三十代後半、身長百九十前後、右頬に裂傷痕。武装の可能性あり。
海底都市内での目撃情報を確認。各員、警戒態勢へ移行せよ』
空気が変わった。
カナタとレイラは同時に機首を下げる。
巡察から出動へ、意識が一瞬で切り替わる。
「初日から大物ね」
「歓迎が手厚いな」
ゴーグルの投射画面に、駅構内見取り図と目撃地点が重なる。
中央駅東側コンコース。
人流密度、高。
近傍に展望回廊への接続あり。
保守区画への非常扉も近い。
最悪だ、とカナタは思った。
人混みに紛れられ、逃げ道も多い。
「レイラ、上から熱源拾えるか」
「やってる。……一般客が多すぎる。けど、走ってる熱源が一つ、東コンコースから展望回廊側へ抜ける」
「先行する」
「突っ込みすぎないで」
「善処する」
善処しない声だった。
二機は中央ドームの飛行帯を切り裂くように加速した。
下方でざわめきが広がる。
警報はまだ鳴っていない。
パニックを避けるためだろう。
だが現場の空気は、すでに何かを嗅ぎ取っていた。
人の流れが不自然に割れ、誰かが悲鳴を上げる。
東コンコース上空に差しかかった瞬間、レイラが短く言った。
「いた。右前方、柱列の陰。裂傷痕確認」
「見えた」
男は大柄だった。
一般客を肩で突き飛ばしながら走っている。
振り返った目に、追われ慣れた獣の色があった。
しかも右手に何か握っている。
刃物ではない。
細い棒状――魔導起動鍵か、簡易工具か。
「一般客が近い。上からは行けない」
「下りる。避難誘導お願い」
「了解」
カナタは機体を急制動させ、コンコース脇の保安用着地帯へ滑り込ませた。
靴底が床を打つより早く、機体から身を離す。
レイラは上空に残り、拡声魔導を通して人流を制御し始めた。
「落ち着いてください! 東側通路を空けて、西側へ移動! 走らないで!」
声が通る。
よく通る声だった。
混乱の中で、人は強い声に従う。
レイラの機体が上空で位置を変え、投射灯が床に避難方向を描き出す。
匠一監修装備は、こういうときに嫌なくらい役に立つ。
男は展望回廊へ飛び込んだ。
海底都市自慢の透明回廊。
外の海を見せるための観光区画だ。
今はそれが最悪の舞台になる。
細長い通路、左右は耐圧ガラス、逃げ場は前後のみ。
観光客がまだ数人残っている。
「レイラ、回廊内の一般客は」
「三名。奥に子ども一人、手前に男女二人。犯人、子どもの方へ向かってる」
「ちっ」
カナタは走った。
ゴーグルの投射画面に、回廊の簡易見取り図と熱源が重なる。
男の熱、子どもの小さな熱、壁面を流れる魔力線。
異常なし――いや、違う。
回廊右側の補助魔導管に、わずかな乱れがある。
さっき男がぶつかったのか。
嫌な位置だ。
男は子どもの襟首を掴み、振り向いた。
子どもが息を呑む。
泣くより先に、恐怖で固まっている。
「来るな!」
男が突きつけたのは、やはり刃物ではなかった。
細い魔導工具。
だが先端が補助魔導管の保守端子に押し当てられている。
素人でも壊せる場所ではない。
だが、壊せないとも限らない。
「一歩でも来たら、ここをぶっ壊す!」
カナタは足を止めた。
止めながら、視線だけで距離を測る。
三歩半。
踏み込み一回では届かない。
男の腕が動けば、子どもか設備のどちらかに被害が出る。
ヘルメット内にレイラの声が落ちた。
「カナタ、右壁の魔力線が乱れてる。補助管に干渉されたら回廊封鎖の可能性あり」
「分かってる」
「子どもの熱源、過呼吸寸前」
「分かってる」
男の目は泳いでいた。
追い詰められているが、まだ壊れ切ってはいない。
こういう相手は、半端に追い込むと一番危ない。
「逃げ場はない」
「うるせえ!」
「ここで設備を壊せば、お前も助からない」
「だったら道を開けろ!」
男の肩が上がる。
呼吸が荒い。
利き腕は右。
重心は前。
子どもを盾にしているつもりだが、実際には自分の退路しか見ていない。
カナタはゆっくり両手を開いた。
「分かった。道は開ける」
「カナタ」
「ただし、その子を離せ」
レイラの声に、わずかな緊張が混じる。
だが止めない。
止めるべきではないと分かっているからだ。
男の視線が一瞬だけ揺れた。
出口側へ、ほんのわずかに。
その瞬間、レイラが上空から投射灯の角度を変えた。
回廊の床に、避難誘導用の光矢印が強く走る。
男の視界がそちらへ引かれる。
ほんの刹那。
カナタは踏み込んだ。
一歩目で床を殺し、二歩目で間合いを潰す。
男が反応して腕を引くより早く、カナタの左手が子どもの肩口を引き抜き、
右前腕が男の肘の内側を打ち上げた。
工具の先端が逸れる。
次の瞬間には、肩と腰を同時に崩している。
対ワイバーン徒手制圧術は、相手を殴り倒すためのものではない。
体格差と暴れを前提に、危険部位を殺し、動線を断ち、二手三手先で地面に落とすための体術だ。
男は大柄だった。
だからこそ崩しやすい。
前に乗った重心は、横に弱い。
カナタは男の右肩を巻き込みながら半身で潜り、肘、肩、首の向きを一気にずらした。
悲鳴が上がる。
工具が床を跳ねる。
男は反射的に左腕で掴み返そうとしたが、その腕もすでに死んでいた。
膝裏を払う必要すらない。
腰が浮いた時点で終わりだ。
鈍い音を立てて、男の巨体が床に落ちる。
だが終わらない。
終わらせない。
暴れる前に、カナタは肩甲帯ごと上体を封じ、首の向きと骨盤の向きを逆に固定した。
逮捕術より深く、しかし壊さない角度。
逃げようと力めば、自分で自分を締める形になる。
「動くな」
低い声だった。
男が吠える。
だが起き上がれない。
腕も脚も、力の逃げ道を失っている。
人間相手なら、これで十分だ。
遅れてレイラが着地し、子どもを抱き寄せた。
「大丈夫、もう大丈夫。息を吸って、吐いて。そう、ゆっくり」
子どもの肩が震えている。
レイラは片膝をつき、視線を合わせ、落ち着いた声で呼吸を誘導する。
その横で、手早く首元と手首を確認する。
外傷なし。
ショック症状軽度。
すぐに保護者確認が必要。
「カナタ、手錠」
「右腰ポーチ」
レイラは器用に手錠を抜き、男の両手を確保した。
カナタが制圧を緩めるタイミングに合わせて固定する。
息が合っていた。
初日とは思えないほどに。
そのとき、ゴーグルの端で警告表示が瞬いた。
補助魔導管、出力低下。
「……やっぱり触ってたか」
「損傷?」
「軽微。でも放置はまずい」
レイラは即座に通信を開く。
「指令、対象確保。展望回廊東区画。被疑者一名、身柄拘束。
一般客一名軽度ショック、外傷なし。加えて補助魔導管に軽微な干渉痕あり。保守班を要請」
『了解。保守班、医療班を向かわせる。よくやった』
よくやった、の一言で済む初日ではない気がしたが、今はそれでいい。
回廊の向こうから、避難させられていた男女が恐る恐る顔を出す。
上空では警備機が増え、駅側から鉄道警察隊員が駆けてくる。
ようやく現場が、二人だけのものではなくなった。
カナタは男を引き起こし、隊員へ引き渡した。被疑者はまだ何か喚いていたが、もう耳に入らない。レイラは子どもを保護者へ返し、簡単な説明を終えると、ようやく一息ついたように肩を落とした。
「初日としては、静かじゃなかったわね」
「だから言っただろ」
「善処する、って言った人の台詞とは思えない」
「善処はした」
「どこが」
「子どもも設備も無事だった」
レイラは数秒だけ黙り、それから小さく笑った。
「……それはそう」
回廊の外では、深海の闇の中を巨大な影がゆっくりと横切っていく。
発光する帯を曳いた魚群が、その輪郭を青白く縁取った。
海底都市は何事もなかったように息を続けている。
だが今日から、二人にとってここはただの赴任先ではなくなった。
事件と事故と災害の境目が薄いこの都市で、最初の数分を引き受ける者。
それが、自分たちの役目なのだと。
「戻るか」
「報告書、長くなるわよ」
「初日からか」
「初日からよ」
二人は顔を見合わせ、それぞれの小型単座魔導メガネウラへ向かった。
空飛ぶ単車じみた小さな機体は、巨大な海底都市の中では驚くほど頼もしく見える。
ヘルメットを被る。
魔導通信が開く。
ゴーグルの投射画面に、次の巡察経路が淡く浮かび上がった。
初日は、まだ終わっていなかった。




