表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見難い火傷の子  作者: 清風
PR
413/461

覆水は盆に返らない

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子413



覆水は盆に返らない



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


ナブー・エリシュは、もともと秩序の側にいる男だった。


少なくとも本人は、そう信じていた。


物流門管理官。

都市へ入る物資と出る物資、その流れを監督し、遅滞なく、損耗なく、

混乱なく回すことを求められる役職だった。

派手な地位ではない。

だが、止まれば都市が困る。

誰かが確実にやらなければならない仕事であり、ナブーはその「確実にやる」ことにかけては有能だった。


記録は正確。

判断は早い。

部下に無駄口を許さず、上役には不足なく報告する。

融通が利くとは言われなかったが、任せれば崩れないとも言われた。

それで十分だった。

彼自身もまた、自分をそういう人間だと思っていた。


理想を語る者より、現実を回す者。

感情で騒ぐ者より、損害を最小に抑える者。

誰かが嫌われ役を引き受けなければ、秩序は保てない。

そういう理屈を、彼は若い頃からよく知っていた。


だから、自分が悪人になるとは思っていなかった。


事故が起きたのは、乾いた風の強い日だった。


物流門の第三接続環に、前日から微細な不安定が出ていた。

報告は上げていた。

交換部材の申請もしていた。

だが許可は下りず、稼働停止も認められなかった。

遅延は許されない。

供給を止めるな。

現場で持たせろ。

上から来た言葉は、いつも通り曖昧で、いつも通り責任だけを下へ押しつけるものだった。


ナブーは持たせる方を選んだ。

選ばされた、と言ってもよかった。

補助術式を一段深く噛ませ、負荷を分散し、今日一日だけ凌ぐ。

明朝まで保てばいい。

そういう計算だった。


計算そのものは、間違っていなかった。

少なくとも、彼はそう思っていた。


だが、門は裂けた。


裂ける、という表現が最も近かった。

光の輪郭が一瞬だけ歪み、接続環の縁から青白い火花が散り、次の瞬間には荷の固定具が弾け飛んだ。

積荷が崩れ、補助柱が一本折れ、作業床の半分が沈んだ。

怒号が上がる。

誰かが伏せろと叫ぶ。

誰かが名前を呼ぶ。

金属音と破砕音が重なり、最後に、ひどく短い悲鳴がした。


それで終わった。


長い崩落ではなかった。

ほんの数息のことだった。

だが十分だった。


若い作業員が一人、下敷きになった。

もう一人は腕を潰され、床に転がっていた。

門の光は不安定に明滅し、記録板には異常値が流れ続けていた。


ナブーはすぐに動いた。

負傷者の確認。

門の停止。

周辺封鎖。

人員の退避。

そのどれも、訓練通りだった。

声も震えていなかった。

手も止まらなかった。


だからこそ、彼はその次の行動も、ほとんど同じ調子でやってしまった。


記録板を開き、接続環の負荷推移を確認する。

補助術式の深度。

手動上書きの時刻。

停止判断の遅れ。

そのすべてが、そこに残っていた。


彼はそれを見た。

そして、自分の喉の奥が急に乾くのを感じた。


事故そのものは不可抗力だと言えたかもしれない。

老朽化。

予算不足。

上層部の圧力。

現場の限界。

言い分はいくらでもあった。


だが、停止を一刻遅らせた判断だけは、彼自身のものだった。

補助術式を深く噛ませたのも、彼だった。

そしてその記録は、消えずに残っている。


頭が真っ白になった。


その感覚を、後になっても彼はよく覚えていた。

恐怖で何も考えられなくなった、というのとは少し違う。

むしろ、考えてはいけないことだけが一斉に押し寄せてきて、他のものが全部消えた。


終わる。


その一語だけが、異様にはっきりしていた。


役職が終わる。

信用が終わる。

これまで積み上げたものが終わる。

秩序を守る側にいた自分が終わる。


だから彼は、記録の時刻欄に手を伸ばした。


ほんのわずかでよかった。

停止判断の前後をずらし、補助術式の深度を一段浅く見せる。

門の裂け目が先で、判断の遅れは後だったように見せる。

それだけで、責任の輪郭はぼやける。

事故は事故のままになる。

誰か一人の判断ミスではなく、避けがたい損耗として処理できる。


彼の指は、驚くほど正確に動いた。


その瞬間だった。


「……何をしているんですか」


声は若かった。

震えていた。

だが、はっきり聞こえた。


振り返ると、補助書記の少年が立っていた。

まだ正式任官もしていない、記録補助の下働きに近い立場の者だった。

顔色は悪く、額に埃をつけたまま、こちらを見ていた。

事故の混乱の中で、戻ってきたのだろう。

あるいは、最初から近くにいたのかもしれない。


少年の視線は、ナブーの手元に落ちていた。

記録板。

改ざん途中の時刻欄。

言い逃れのできない位置だった。


「それは……」

少年が息を呑む。

「報告しないと」


ナブーは何も言えなかった。


頭の中は白かった。

だが、身体だけは妙に冷えていた。

少年が叫ぶ前に距離を詰められる。

外の騒ぎで、多少の物音は紛れる。

この区画の扉は内側から閉まる。

記録板を奪えば、証拠は減る。


そういうことだけが、異様な明瞭さで分かった。


少年が一歩下がる。

その動きで、もう遅いと知った。

見られた。

理解された。

次に来るのは告発だ。


ナブーは歩いた。

走ったのではない。

歩いて近づき、少年の口を塞ぎ、壁へ叩きつけた。

記録板が床に落ちる。

少年はもがいた。

細い腕で押し返そうとする。

喉の奥で潰れた声が鳴る。


そのときも、ナブーの頭は白かった。

だが手だけは止まらなかった。


首を押さえる角度。

体重のかけ方。

暴れさせないための膝の位置。

床に散った破片の一つが、ちょうど手の届くところにあること。


彼はそれを使った。


どこをどうしたのか、あとで何度思い返しても、細部は曖昧だった。

ただ、少年の抵抗が急に弱くなり、次に完全に止まったことだけは、はっきり覚えていた。


静かだった。


外ではまだ怒号が続いている。

負傷者を運ぶ声もする。

誰かが門の停止確認を叫んでいる。

なのにこの区画だけが、妙に静かだった。


ナブーは少年の身体から手を離し、しばらくその場にしゃがみ込んでいた。

吐き気はなかった。

涙も出なかった。

ただ、自分が今やったことを、まだ言葉にできなかった。


事故ではない。


その認識だけが、遅れて胸の奥に沈んだ。


最初の崩落は事故だったかもしれない。

だが、そのあとにやったことは違う。

見られたから殺した。

自分が終わるのを避けるために、他人の人生を終わらせた。


それだけは、どう言い換えても変わらなかった。


それでも彼は、さらに動いた。


少年の死を事故に見せるための配置。

落下物の位置。

発見時刻の調整。

記録板の破損。

証言の筋。

自分の呼吸。

自分の顔。


全部を整えてから、ようやく手が震えた。


捜査はすぐには彼へ届かなかった。

事故の混乱は大きく、上層部もまた責任の所在を曖昧にしたがった。

死者は二名。

一人は崩落による圧死。

もう一人は混乱時の転倒と破片による致命傷。

最初の報告はそうまとめられた。


ナブーもまた、その報告に署名した。


しばらくのあいだ、彼は生き延びた。

役職もすぐには失わなかった。

周囲は彼を気の毒がった。

大事故の責任者として疲弊している、と。

よく持ちこたえている、と。

現場を回してきた人間だ、と。


彼は頷いた。

必要な言葉を返した。

眠れない夜を過ごしながら、それでも朝には制服を着た。


だが綻びは消えなかった。


記録の断絶。

証言の食い違い。

少年が最後にいた位置の不自然さ。

そして何より、ナブー自身の整えすぎた報告。


追及が始まると、彼は驚くほど脆かった。

最後まで否認しきる強さも、開き直る厚顔もなかった。

一つ崩れるたびに、隠していたものが次々と露出した。

補助術式の深度。

停止判断の遅れ。

記録改ざん。

口封じ。


有罪は当然だった。


役職は剥奪された。

名も地位も失った。

刑罰が下り、彼は長い時間を閉ざされた場所で過ごした。


最初の数年、彼はまだ自分の中に物語を作ろうとしていた。


あれは極限状態だった。

追い詰められていた。

最初の事故は不可抗力だった。

自分もまた、あの日に壊れたのだ。


そういう言葉に、何度もすがった。

そうでもしなければ、自分が自分のままでいられなかった。


だが、時間はその物語を救ってくれなかった。


被害者の年齢を思うたび、駄目だった。

少年が正式任官を待つだけの若さだったこと。

圧死した作業員にも、帰る家があったこと。

あの日、門が裂けなければ続いていたはずの時間が、それぞれにあったこと。


刑罰は、その時間を返さない。


自分が受けたのは、国家による処理だった。

行政措置。

制度上の清算。

終わったのはそれだけだ。


奪われた人生は終わったままだった。


ナブーは出所したあと、そのことをますますはっきり理解した。

社会は、刑を終えた者に「やり直し」を語る。

更生。

復帰。

再出発。

それ自体は間違っていないのだろう。

そうでなければ制度は成り立たない。


だが、その言葉のどれもが、彼にはどこか加害者のための言葉に聞こえた。


やり直すのは誰だ。

復帰するのは誰だ。

再出発するのは誰だ。


少なくとも、死んだ者ではない。


彼らの人生は、寿命を全うする前に強制終了された。

その事実は、彼が何年閉じ込められようと、何を学ぼうと、何を悔いようと、消えない。


だから救いはなかった。


赦されたいと思うことすら、卑しい気がした。

苦しんでいると口にすることすら、自分の痛みを前に出す行為に思えた。

彼にできるのは、せいぜい忘れないことだけだった。

自分が事故の被害者ではなく、保身のために人を殺した加害者であることを、

都合よく言い換えないことだけだった。


それは立派な贖罪ではない。

誰かを救う行為でもない。

ただ、誤魔化さないというだけの、ひどく消極的な態度だった。


それでも、それ以外に残されているものはなかった。


晩年、彼はほとんど目立たずに生きた。

小さな仕事をし、狭い部屋に帰り、誰とも深く関わらずに日を終えた。

朝は来る。

腹は減る。

眠れば目が覚める。

そういう当たり前が続くこと自体、ときに刑罰より重かった。


死んだ者には、もう朝は来ない。


その単純な事実が、年を取るほど重くなった。


もし地獄があるのなら、それは炎の底ではないのだろうと、彼は思った。

自分が何をしたかを理解したあとも、なお生き続けなければならない時間。

その時間の中で、終わったのは刑罰だけで、終わっていないものばかりを抱え続けること。

たぶんそれが、彼に与えられた地獄だった。


ナブー・エリシュは、最後まで救われなかった。


それでよかった。


救われてはならないとまでは言わない。

だが少なくとも、彼自身が自分を救済の物語へ乗せることは、ついにできなかった。


最初の失敗は不可抗力だったかもしれない。

けれど罪は、そこから始まったのではない。


見られた瞬間、

終わることを恐れ、

他人を終わらせる方を選んだ。


その選択から始まったものは、

彼が生きているあいだ、ついに終わらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ