シーラ便オフ会
見難い火傷の子412
シーラ便オフ会
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
水族館の裏手にある特別桟橋は、表の賑わいから半歩だけ切り離されていた。
正面口のような派手さはない。
案内板も控えめで、通路も広すぎない。
だが、白木の手すりはよく磨かれ、青銅の留め具は潮気に負けず、石床には細かな滑り止めが刻まれている。
目立たないが、雑ではない。
そういう場所だった。
桟橋の先の水面は静かだった。
だが静かなだけではない。
その下に、いる。
そう分かる気配があった。
陽を受けた波の反射が揺れるたび、水の色がそこだけわずかに深く見える。
見えそうで見えない大きな影が、その下に沈んでいた。
シーラ便。
海中遊覧と海底都市連絡を兼ねる生体潜航艇。
水族館の目玉であり、海の中へ入る者にとっては最も確かな足でもある。
今日はその特別便だった。
一般客とは時間をずらした、半ば内輪向けの便である。
名目は親睦会。
実態としては、芸能関係者の気楽な集まりに近かった。
最初に現れたのは、ハーピーたちだった。
羽音は抑えている。
だが人数がいれば、それだけで空気は動く。
通路の向こうから、羽毛の擦れる音と、抑えきれない話し声が近づいてきた。
先頭に立っていたのはラズィアだった。
飛行組の中でもまとめ役を任されることが多い女で、今日も自然に先導役になっている。
舞台衣装ではなく外出着だが、それでも立ち姿には人を従わせる慣れがあった。
「ほら、広がらない。桟橋で羽をぶつけたら笑えないよ」
振り返りもせずに言う。
それだけで若いハーピーたちが少しだけ隊列を詰めた。
「飛ばないんだから、そこまできっちりしなくても」
「飛ばない場所で散る方が面倒なんだよ」
「厳しいなあ」
「今日は海の中なんだからね。空の癖で動くんじゃないよ」
言いながらラズィアは桟橋の先を見た。
水面下の影を認め、口元を少しだけ上げる。
「……へえ」
若い一羽が手すりから身を乗り出しかける。
「見える? どこ?」
「落ちるよ」
「落ちないって」
「落ちるやつほどそう言うんだよ」
そのとき、後ろから乾いた声が飛んだ。
「落ちた場合、回収の手間が増えます。やめてください」
とんがった眼鏡。
細く吊り上がったフレームの奥で、目だけが妙に冷静だった。
セイレーン四姉妹の一人にして、現場の段取りも見る女、テレースである。
今日は完全な式典衣装ではない。
だが私服に寄せたつもりの服装でも、どこか隙がない。
手には小型の記録板。
気楽な遊覧に来た者の持ち物には見えなかった。
ラズィアが笑う。
「まだ点呼してるの?」
「大所帯を連れていると癖になります」
「オフ会なのに?」
「オフ会だからです。仕事ならまだ統制が利きます」
その返しに、何人かのハーピーが吹き出した。
テレースは笑われても眉一つ動かさない。
慣れている顔だった。
その少し後ろに、ひときわ目立つのに、本人だけは目立たないつもりでいる女がいた。
歌姫モルペー。
大きめのサングラスをかけ、海辺用の軽い外套を羽織っている。
普段の舞台姿よりはずっと地味だ。
だが、地味にしたところで隠しきれる種類の華ではなかった。
若いハーピーの一羽がひそひそ声のつもりで言う。
「隠れてるつもりかな」
「つもりなんじゃない?」
「むしろ目立ってない?」
「聞こえているわよ」
モルペーがサングラスのまま言った。
声だけで本人だと分かる。
若手たちが肩を揺らす。
「今日は完全にオフなの」
「その割に歌姫の顔してるけど」
「生まれつきよ」
「強い」
ラズィアが横から口を挟む。
「その眼鏡、海の中じゃ暗くない?」
「必要になったら外すわ」
「最初から外せばいいのに」
「それでは意味がないでしょう」
何の意味なのかは、誰も聞かなかった。
聞けばたぶん、本人も少し困る。
そこへ、空気がわずかに変わる。
通路の向こうから歩いてくる姿を認めた瞬間、ハーピーたちの立ち方が少しだけ整った。
自然にそうなる。
そういう相手だった。
ハーピークイーン。
羽毛を思わせる意匠を織り込んだ衣は今日も隙がない。
ただし儀礼用ほど重くはなく、外出用としてはかなり軽い部類だった。
それでも、立っているだけで周囲の空気が締まる。
クイーンは一同を見渡し、それから桟橋の先の水面へ目を向けた。
「……思ったより静かだな」
第一声がそれだった。
ラズィアがすぐに返す。
「今のところは、です」
「お前たちがいる時点で信用ならぬ」
「ひどいなあ」
「事実だろう」
言い方はいつも通りだった。
だが機嫌は悪くない。
むしろ少し良い。
長く付き合っている者には分かる程度の差だった。
テレースが軽く会釈する。
「こういう場でご一緒するのは、式典以来でしょうか」
クイーンはその声に視線を向け、すぐに鼻を鳴らした。
「空の下では見たが、海の中は初めてだな」
「ええ。今日は飛ぶ側ではなく、運ばれる側です」
「お前がそれを言うと妙だ」
「そちらもでしょう」
その返しはあまりに自然で、ラズィアが目を細めた。
「何、もうそんなに話が早い仲だったの?」
クイーンが答えるより先に、テレースが言う。
「国家行事で並べば、嫌でも顔は覚えます」
「嫌でも、とは何だ」
クイーンが即座に返す。
「失礼。印象に残る方なので」
「今さら取り繕うな」
だが、その声には本気の不快はなかった。
むしろ、すでに相手の言い回しを知っている者の返しだった。
モルペーが面白そうに口元を緩める。
「へえ。あの式典の時から?」
テレースは肩をすくめた。
「国歌の最中に、上を見れば嫌でも目に入ります」
クイーンも負けずに返す。
「こちらも、地上で響く低音は覚えている。
空を支えるには、あれくらいの芯が要るのだろう」
それはかなり率直な評価だった。
テレースは少しだけ目を細める。
「ありがとうございます。
そちらの編隊も、崩れませんでしたね」
「崩させなかっただけだ」
「それをできる方が少ないのです」
ラズィアが肩を揺らした。
「何その会話。式典の反省会みたい」
「似たようなものだ」
クイーンが言う。
「大きな場を一度でも回せば、次に顔を合わせた時に説明が減る」
「ええ」
テレースも頷く。
「若い子が本番前ほど落ち着かなくなることも、どこも同じですし」
「妙なところで強がる」
クイーンが言う。
「ええ」
「直前で余計なことをする」
「ええ」
「そして終わったあとだけ、妙に素直になる」
「ええ」
モルペーが吹き出した。
「嫌だわ。私たち、そんなふうに見られてるの?」
テレースが即答する。
「見られています」
「否定してほしかった」
「できません」
クイーンも鼻で笑った。
「飛ぶ側も歌う側も、大して変わらぬ」
そのとき、水面がゆっくりと持ち上がった。
正確には、持ち上がったように見えた。
大きな影が下から近づき、水を押し分け、静かに輪郭を現していく。
古代魚めいた頭部。
厚い装甲を思わせる鱗。
側面に設けられた観覧窓。
生き物でありながら、明らかに乗り物として調整された形。
シーラだった。
若いハーピーたちが一斉に息を呑む。
「うわ」
「大きい」
「思ったより近い」
「これ、本当に生きてるの?」
問いに答えるように、シーラの副脳が外部発声器を通して低く告げた。
『生体反応、正常。歓迎する。本便は特別遊覧便である。足元に注意して乗船されたし』
若い一羽がびくりとする。
「しゃべった」
「案内くらいするでしょ」
「分かっててもびっくりするって」
ラズィアは面白そうに目を細めた。
クイーンは無言でシーラを見上げている。
その目は、珍しいものを見る目というより、相手の格を測る目に近かった。
テレースが記録板を閉じる。
「では、順に。押さない、走らない、羽を広げない」
「学校の遠足みたい」
モルペーが言う。
「似たようなものです」
「私たち芸能人なんだけど」
「だからです」
クイーンが短く笑った。
「式典の時より気を張っているな」
「式典は持ち場が決まっています。
こういう自由時間の方が、かえって目が要ります」
「分かる」
クイーンが即答する。
「若いのは、自由と言われた瞬間に統制を忘れる」
「ええ」
「そして誰かが手すりから身を乗り出す」
「もういました」
ラズィアが吹き出す。
「見られてるなあ」
乗船は思ったより静かに進んだ。
若手たちは騒いでいるようでいて、実際にはラズィアの声一つで流れを乱さない。
クイーンが先に乗り、モルペーが続き、テレースが最後尾近くで人数を見た。
その途中で、モルペーが振り返る。
「本当に数えてるのね」
「途中で増減すると困ります」
「増えることある?」
「減る方が困ります」
船内に入ると、空気が変わった。
外の潮気は薄れ、代わりに水と金属と生体の混じった、ひんやりした匂いがある。
通路は広いが、空を飛ぶ者にとってはやはり閉じている。
座席は窓に沿って並び、中央は歩けるよう空けられていた。
照明は柔らかく、観覧窓の向こうの青を邪魔しない。
若手たちは最初こそ落ち着かなかった。
「どこ座る?」
「窓際がいい」
「羽、挟まないでよ」
「そっちこそ」
「だから広げるなって言ったでしょ」
ラズィアが二、三度声を飛ばし、ようやく全員が収まる。
その様子を見て、テレースが小さく頷いた。
「式典の整列よりは楽そうですね」
ラズィアが笑う。
「空で崩れたら洒落にならないからね。
地上の方がまだ気楽」
クイーンが窓際に座り、外を見た。
「だが今日は空ではない」
その一言で、若手たちも少しだけ声を落とす。
海の中では、自分たちの理屈がそのまま通るわけではない。
それは皆、何となく分かっていた。
モルペーはクイーンの斜め向かいに腰を下ろし、しばらくサングラスのままでいたが、
船内の落ち着いた暗さに耐えきれなくなったらしい。
指先でフレームを押し上げ、やがて外した。
「やっぱり暗いわね」
「だから言ったのに」
ラズィアが笑う。
サングラスを外したモルペーの顔は、さっきまでよりずっと柔らかく見えた。
舞台の上の歌姫ではなく、ただ海を見に来た女の顔だった。
シーラがゆっくりと潜航を始める。
最初は、ほんの少し沈むだけだ。
窓の外の水面が傾き、光が揺れ、世界の色が変わる。
青が深くなる。
陽の反射が遠のき、代わりに水中の粒子が静かに流れ始める。
さっきまで騒いでいた若手の声が、一つ、また一つと減っていった。
誰かが窓に手をつく。
誰かが息を止める。
誰かが、何も言わずにただ見入る。
海の中は、空とは違う。
広いのに、音が遠い。
動いているのに、静かだ。
飛ぶ者にとっては、自分の身体の理屈が通じない世界だった。
モルペーが小さく呟く。
「……きれい」
それは歌う時の声ではなかった。
誰に聞かせるでもない、ただ漏れた声だった。
クイーンが窓の外を見たまま言う。
「式典の空とは、まるで違うな」
テレースが応じる。
「ええ。あちらは上へ開く景色でしたが、こちらは沈んでいくのに広い」
「妙な言い方だが、分かる」
「上では風を読む。こちらは流れを読むのでしょう」
「お前、そういうところまで見るのか」
「舞台に立つ者ほど、移動の感覚は覚えておいた方がいいので」
クイーンは少しだけ目を細めた。
「歌うだけの女ではないな」
「そちらこそ。見届けるだけの方ではないでしょう」
その返しに、クイーンはほんのわずかに笑った。
「……式典の時も思ったが、お前は言い方が少し刺さる」
「お互いさまです」
ラズィアが肩を揺らす。
「何その、前から知ってる者同士の遠慮のなさ」
「前から知っているからだ」
クイーンが言う。
「一度でも大きな場を共にすれば、相手がどこで踏ん張るかくらいは分かる」
テレースも頷いた。
「ええ。
空を支える側と、声を支える側で、案外似たところがあります」
「若いのを前に出し、自分は崩れぬよう下を支える」
クイーンが言う。
「まさに」
その会話は軽いのに、どこか芯があった。
ただの雑談ではない。
同じ大きな場を支えた者どうしの、説明を省いた会話だった。
やがて窓の外に、海底都市の灯りが見え始めた。
最初は点だった。
暗い水の向こうに、規則的な光がいくつも浮かぶ。
やがてそれが線になり、面になり、建物の輪郭を結ぶ。
海底に築かれた街路。
丸屋根の建物。
水流を避けるための壁。
行き交う海棲種の影。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
若い一羽が、ようやく囁く。
「……ほんとに、街だ」
その声は、さっきまでの軽口とはまるで違っていた。
驚きがそのまま形になったような声だった。
ラズィアでさえ、今は何も言わない。
ただ窓の外を見ている。
その横顔から、いつもの軽さが少しだけ抜けていた。
モルペーはサングラスを膝の上で握っていた。
テレースの眼鏡には、海底都市の灯りが細く映っている。
クイーンは静かに座ったまま、長く息を吐いた。
「……悪くない」
それだけだった。
だが十分だった。
シーラの副脳が低く告げる。
『まもなく海底都市外縁を通過する。右舷側に市場区画、左舷側に居住区画が見える。
急な揺れはない。安心されたし』
若い一羽が、今度は本当に小さな声で言う。
「安心って言われると、逆にちょっと怖い」
「分かる」
隣の子が囁く。
だがその声にも、もう最初の騒がしさはなかった。
しばらくして、クイーンがテレースへ視線を向けた。
「お前、こういう場にも連れて来るのだな」
「たまには必要です」
「息抜きか」
「それもあります。
ですが、舞台の外の景色を持っている者の方が、表現が痩せません」
クイーンが目を細める。
「なるほど」
「歌姫は歌うだけでは足りません。
見るもの、触れるもの、黙る時間も要る」
「分かる」
モルペーが今度は真面目な声で言った。
「海の中って、声を出したくなくなるのね」
「ええ」
テレースは頷く。
「そういう時間も、持っていて損はありません」
クイーンが静かに言う。
「飛ぶ者も同じだ。
空ばかり見ていると、空の意味まで薄くなる」
ラズィアが窓の外を見たまま、ぽつりと続けた。
「飛べるやつほど、飛ばない時間が要るのかもね」
誰もすぐには返さなかった。
だが否定もしなかった。
空では、自分の翼でどこへでも行ける。
けれど海の中では違う。
ここではシーラに運ばれ、守られ、案内されるしかない。
その不自由さは、同時に、自分の知らない世界を預けられる安心でもあった。
やがて遊覧の終盤、シーラは少しだけ進路を変えた。
窓の外を、大きな影が横切る。
海獣だった。
距離はある。
脅威というほどではない。
だが、その大きさだけで若手たちの背筋が伸びるには十分だった。
『問題なし。進路確保済み』
副脳が告げる。
シーラの体表を流れる微かな光が、外の影を遠ざける。
それだけで十分だった。
海獣は深い方へ身を翻し、やがて見えなくなる。
若い一羽が息を吐いた。
「……今の、近くなかった?」
「近く見えただけでしょう」
テレースが言う。
だが自分も少しだけ肩の力を抜いていた。
クイーンが低く言う。
「海の中では、こいつが主か」
ラズィアが頷く。
「だね。今日は完全にお客さんだ」
モルペーも窓の外を見たまま、小さく笑った。
「式典の時とは逆ね。
あの時は空が私たちの舞台だったのに」
クイーンが言う。
「今日は舞台を借りている側だ」
テレースも静かに続けた。
「たまには、その方がいいのでしょう」
帰路に入るころには、船内の空気はすっかり変わっていた。
乗る前のような賑やかさはない。
静まり返っているわけでもない。
ただ、皆が少しずつ声を落としていた。
見たものを胸の内で整理しているような、そんな静けさだった。
桟橋へ戻り、再び外の光が差し込むと、若手たちはようやく現実へ戻ってきた顔をした。
「なんか、変な感じ」
「分かる」
「歩いてるのに、まだ海の中みたい」
「酔った?」
「そうじゃなくて」
言葉を探している。
その様子を見て、ラズィアが笑う。
「いいじゃない。たまには言葉にならない方が」
モルペーは外へ出る前に、もう一度だけサングラスをかけた。
だが今度は、さっきより少しだけ意味が違って見えた。
隠すためというより、見たものをすぐには人に見せないための仕草に近かった。
クイーンが桟橋へ降り立ち、振り返る。
シーラはすでに静かに水面下へ戻り始めていた。
「……悪くなかったな」
誰に向けた言葉ともつかない。
だが、ラズィアも、モルペーも、テレースも、それを聞いていた。
「でしょう?」
モルペーが言う。
クイーンはすぐに顔をしかめる。
「別に遊びに来たわけではない」
「はいはい」
ラズィアが笑う。
「海中の様子を見ておく必要があっただけ、でしょ」
「そうだ」
「十分楽しそうだったけど」
「気のせいだ」
テレースがそこで、珍しく少しだけ口元を緩めた。
「また機会があれば。
次は式典の反省会ではなく、本当にただの遊覧で」
クイーンは彼女を見る。
「お前はそう言って、結局また誰かの様子を見るのだろう」
「否定はしません」
「正直だな」
「そちらもでしょう」
クイーンは鼻を鳴らした。
「若いのを連れて来るなら、もう少し静かな便にしろ」
「善処します」
「善処では足りぬ」
「努力します」
「同じだ」
その返しに、今度はラズィアだけでなくモルペーまで笑った。
桟橋の上には、もう昼の光が満ちていた。
表の水族館からは、一般客の賑わいが遠く聞こえる。
こちら側だけが、少し違う時間を通って戻ってきたようだった。
若手たちはまだ海底都市の話をしている。
モルペーはサングラスの奥で何か考えている。
テレースは結局、最後まで人数を数えていた。
クイーンはそんな一団を見て、満足そうなのに不満げな顔をしている。
オフ会というには少し静かで、
親睦会というには少し特別で、
遊覧というには、見たものが深かった。
だが、たぶんそれでよかった。
式典で同じ国の象徴を支えた者たちが、
今度は舞台を降りて、同じ窓の向こうを見た。
空を飛ぶ者も、海を歌う者も、群れを率いる者も、現場を回す者も、
今日はただ運ばれる側として、海の静けさに身を預けた。
それだけのことが、案外あとを引く。
シーラ便は今日もまた、海の中を静かに往く。
誰かを運び、誰かに見せ、誰かの中に、言葉にならない景色を残しながら。




