深海都市の一日
見難い火傷の子409
深海都市の一日
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
開通式からしばらくして、深海都市はもう珍聞の類ではなくなりつつあった。
もちろん、海の底に都市を築いたなどと聞けば、初めての者は誰でも驚く。
だが列車が定刻で走り、切符が売られ、売店が開き、
家族連れが休日に訪れるようになれば、それはもう“噂”ではない。
人が実際に使う場所になる。
その朝、ナディア王国の駅で、工場長アフメットは切符を確かめていた。
「アフメットさん、また見てるわよ」
妻のファトマが、少し呆れたように言う。
「確認は大事だ」
「この前も同じこと言ってたわね」
「列車に乗る日は、だいたい大事な日だ」
「今日は仕事じゃないでしょう」
「仕事じゃないからだ」
そう言ってから、アフメットは内心で少しだけ苦笑した。
資材の搬入予定も、人員配置も、工期の調整も迷わない。
だが家族で出かけるとなると、どうにも落ち着かない。
切符、財布、案内票、帰りの時刻。
確認するものが多いわけでもないのに、つい何度も確かめてしまう。
隣では、息子のエムレがホームの先を見つめてそわそわしていた。
「まだかな」
「もうすぐ来るわよ」
「深海都市って、ほんとに海の底なんだよね?」
「そう聞いてるな」
「窓の外、魚とか見えるかな」
「見えるかもしれないって話だったわね」
「見たい!」
その少し後ろで、父のハリムが腕を組んでいる。
「海の底まで行って見物とはな」
「嫌なら来なくてもよかったのよ?」 母のナディアが笑って言う。
「嫌とは言ってない」
「じゃあ楽しみなんでしょう」
「……列車に乗るのは嫌いじゃない」
ナディアは、はいはい、とでも言いたげにうなずいた。
ハリムはこういうとき、真正面から楽しみだとは言わない。
だが来ると決めた時点で、半分はもう楽しんでいるのを家族は知っている。
やがて列車がホームへ滑り込んできた。
「来た!」
エムレの声が弾む。
ファトマが少し笑い、アフメットは無意識に切符を握り直した。
車内は思ったより混んでいた。
家族連れ、若い見物客、商人らしい一団、研究者めいた者たち。
深海都市が観光地としてだけでなく、研究や商いの場としても動き始めていることが、客層だけでわかる。
席に着くと、エムレはすぐ窓側に張りついた。
「ほんとに海の中まで行くの?」
「途中から海底回廊に入るらしい」 アフメットが答える。
「回廊って、トンネル?」
「似たようなものだろう」
「似たようなものって、ずいぶん雑ね」 ファトマが言った。
「細かい構造は見ればわかる」
「お父さん、工場の設備を見るときみたい」
「そういう目で見てしまうんだろうな」 ナディアが楽しそうに言う。
列車は街を抜け、工場地帯を越え、やがて海へ向かった。
車窓の景色が変わり、光の具合が変わり、しばらくして外の色が深い青へ沈んでいく。
「入った?」 エムレが振り返る。
「たぶんな」
「たぶんじゃなくて、そうよ」 ファトマが窓の外を示した。
海底回廊だった。
外は静かな青の世界で、地上の景色とはまるで違う。
ときおり小さな発光生物が窓の外を横切り、そのたびにエムレが声を上げる。
ナディアも身を乗り出し、ハリムでさえ黙って窓の外を見ていた。
「……これは、たしかに珍しいな」 ハリムが低く言う。
「珍しいどころじゃないわよ。きれい」 ナディアが答える。
「深海の景色も観光資源になる、って話は聞いてたけど」 アフメットは窓の外を見ながら言った。
「実際に見ると、なるほどって感じね」 ファトマがうなずく。
やがて前方に、巨大な光の塊が見えてきた。
海の底に灯る都市。
深海都市だった。
中央駅舎を核に、いくつもの区画が回廊で結ばれている。
外殻は頑丈そうでありながら、どこか生き物の殻のような曲線を持っていた。
海の闇の中に浮かぶその姿は、建物というより、海底に咲いた巨大な灯火のようにも見える。
「すごい……」 エムレがぽつりと言う。
「駅っていうより、もう町だな」 アフメットも思わず口にした。
「最初から都市を作るつもりだったんでしょうね」 ファトマが静かに言う。
「海の底に、か」 ハリムはまだ半信半疑のような顔をしていたが、その目はしっかり都市を見ていた。
到着後、家族は人の流れに沿って中央コンコースへ出た。
高い天井、広い通路、整った案内表示、売店、休憩所。
開通して間もないはずなのに、すでに“使われる場所”としての形ができている。
観光客向けの案内板には、展望回廊、深海水族館、中央ホール、研究展示区画、商業区画などが並んでいた。
「まずは案内を聞きましょう」 ファトマが言う。
「水族館!」 エムレが即答した。
「その前に順路だ」 アフメットが言う。
「あなた、こういうときまで段取りなのね」
「迷うよりはいい」
案内カウンターでは、受付嬢がにこやかに応じた。
「ようこそ深海都市へ。本日はご家族で観光ですか?」
「ええ、初めてなので」 ファトマが答える。
「でしたら、上層見学ルートがおすすめです。
展望回廊から深海の景観をご覧いただいて、そのまま深海水族館へ進めます。
研究展示区画も一般向けに公開されていますよ」
「子どもでも大丈夫ですか?」
「もちろんです。休憩所も近くにございます」
説明はわかりやすく、無駄がなかった。
アフメットは案内図を見ながら、つい設備の配置に目が行く。
導線が整理されている。
観光客と業務区画の流れも分けられている。
見た目の華やかさだけでなく、運用まで考えられているのがわかった。
「どうしたの?」 ファトマが聞く。
「いや、よくできてると思ってな」
「何が?」
「人の流れだ。混雑しにくいように作ってある」
「そういうところを見るのね」
「工場長だからな」
「休みの日まで工場長なのね」 ナディアがくすりと笑った。
まず向かったのは展望回廊だった。
大きく透明化された外壁の向こうに、深海の景色が広がっている。
都市の外を漂う発光生物、遠くを横切る影、海底地形の起伏。
人工の灯りは控えめで、海そのものの暗さと静けさがよくわかった。
「静かだな」 ハリムが言う。
「人は多いのに、不思議ね」 ナディアが応じる。
「海の底だからかな」 エムレは窓に手をつきそうになって、ファトマに軽く止められた。
「触らないの」
「わかってるよ」
「わかってない顔してたわよ」
「してない」
その少し先で、若い一団がにぎやかに騒いでいた。
「おい、あっち見ろ!」
「でかい影いたぞ!」
「ほんとにダンジョンみたいだな!」
揃いの稽古着めいた服装の一団だった。
立ち姿に無駄がなく、どう見ても普通の観光客ではない。
「剣竜道場の門下生さんたちですね」 近くの案内係が教えてくれた。
「見学に?」 ナディアが尋ねる。
「ええ。視察も兼ねているそうです。皆さん、深海環境に興味を持たれていて」
門下生たちは興奮を隠そうともしていなかった。
「海底訓練場とか作れそうじゃないか?」
「お前すぐ修行の話するな」
「でも未知の環境だぞ?」
「今日は見学だって言ってるだろ!」
そのやり取りに、エムレの目が輝く。
「かっこいい……」
「あなた、ああいうの好きよね」 ファトマが笑う。
「だって強そうだし」
「観光に来てまで修行のこと考えるのはどうなんだ」 アフメットが言う。
「お父さんも設備のこと考えてるじゃない」
「それとは違う」
「似たようなものよ」 ファトマの一言に、ナディアがまた笑った。
展望回廊を抜けると、次は深海水族館だった。
ここは単に珍しい魚を並べるだけの施設ではない。
深海都市の外に広がる環境と連続するように設計されていて、
展示水槽の中の生物と、観測窓の向こうの実際の深海とが、ひとつの流れとして見えるようになっている。
「これ、さっき外で見たやつ?」 エムレが水槽を指さす。
「近い種類ですね」 係員が説明する。
「発光器官の位置が少し違います」
「へえ……」 エムレは珍しく真面目に聞いていた。
ナディアは丸い水槽の前で足を止めた。
「きれいねえ」
「こういうの好きか」 ハリムが言う。
「好きよ。あなたも見てるじゃない」
「見てるだけだ」
「楽しんでるのね」
「……否定はしない」
アフメットは展示を見ながら、ふとつぶやいた。
「なるほどな。これはたしかに、ただ海の底へ行くだけじゃない」
「景色を見て終わりじゃないのね」 ファトマが言う。
「ちゃんと降りた先がある」
「駅を作るなら、そうなるんでしょうね」
「ずいぶん欲張りな作りだ」
「でも、そのおかげで飽きないわ」
昼は商業区画で食事をとった。
深海都市名物をうたう料理もあれば、地上と変わらない安心感のある料理もある。
土産物店には、深海生物を模した菓子や模型、開通記念の品まで並んでいた。
「これ欲しい」 エムレが小さな発光生物の模型を手に取る。
「早いな」 アフメットが言う。
「記念だよ」
「まだ帰ってもいないぞ」
「でも記念」
「理屈になってないわね」 ファトマが笑う。
「まあ、ひとつくらいならいいだろう」
「甘いわねえ」 ナディアが言う。
「孫には甘いのよ、この人」
「お前もだろう」 ハリムがぼそりと返した。
食後、家族は研究展示区画にも足を運んだ。
海底資源の模型、採掘計画の概略、耐圧構造の説明、都市建設の工程。
そこには、この都市が単なる観光地ではないことがはっきり示されていた。
「やっぱり資源開発も本気なんだな」 アフメットが腕を組む。
「観光だけでこの規模は無理でしょうね」 ファトマが答える。
「じゃあ、ここってこれからもっと大きくなるの?」 エムレが尋ねる。
「たぶんな」 アフメットは展示図を見上げた。
「研究者も増えるだろうし、商人も来る。保守区画も拡張されるかもしれない」
「あなた、ちょっと楽しそうね」
「こういう計画を見るのは嫌いじゃない」
「仕事の顔になってるわよ」
「仕方ないだろう」
展示の最後には、路線計画図が掲げられていた。
カルタゴ、リゴリア、キルヌス、エトルリアを通る既存路線の海底下に広がる領域。
さらに北へ延びる構想線。
ヘルヴェティア、ガリア、ブリタニア。
ガリア・ブリタニア間には、オケアヌス・ブリタニクスゲートの計画名も見える。
「……ずいぶん先まで考えてるんだな」 ハリムが感心したように言う。
「海の底に駅を作るだけでも大ごとなのにねえ」 ナディアが答える。
「駅だけじゃ終わらせる気がないんでしょう」 ファトマが静かに言った。
「都市を作って、その先まで線を延ばす。そういう話なのね」
「時代が変わるときって、こういうものかもしれんな」 ハリムは珍しく素直に言った。
夕方、家族はもう一度展望回廊へ戻った。
今度は都市の灯りが少し強く感じられる。
外の海はさらに暗くなり、そのぶん発光生物の光がよく見えた。
遠くで列車が回廊を走り、一本の光の線となって闇を横切っていく。
「また来たい」 エムレが言う。
「今度はもっと長くいたい」
「宿泊区画もあるって話だったわね」 ナディアが言う。
「泊まるのか?」 ハリムが少し眉を上げる。
「いいじゃない。せっかくなら」
「海の底で寝るのか……」
「嫌?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあそのうちね」 ナディアは楽しそうだった。
アフメットは観測窓の向こうを見た。
この都市には、まだ見えていない部分がたくさんある。
観光客に開かれた上層だけでも十分に魅力的だが、
その下には研究区画があり、保守区画があり、さらにその先には手つかずの海底領域が広がっている。
深海と言えど、結局はダンジョンだ――そんな言い方も、あながち間違いではないのかもしれない。
だが、ここはもう入口だけの場所ではなかった。
家族連れが歩き、子どもが土産を抱え、受付嬢が案内し、
門下生が騒ぎ、研究者が資料を読み、商人が次の商機を考える。
人が集まり、それぞれの目的でこの場所を使っている。
それこそが都市だった。
「帰りの列車、遅れないわよね?」 ファトマが現実的なことを言う。
「そこは大丈夫だろう」 アフメットが答える。
「ずいぶん信用してるのね」
「ここまで作る連中なら、そのくらいはやる」
「設備を見て判断したの?」
「だいたいな」
「やっぱり仕事の顔じゃない」
「悪いか」
「いいえ。頼もしいわ」
エムレが模型を抱えたまま、帰りのホームへ向かって駆け出しそうになるのを、ファトマが呼び止める。
ハリムとナディアは、その後ろをゆっくり歩く。
来たときより、みんな少しだけ足取りが軽かった。
海の底でも、駅は駅だった。
列車は来て、人は降り、また乗って帰る。
その当たり前が成立していること自体が、少し前までは信じがたいことだった。
深海都市は、今日も静かに人を迎え入れている。
祝祭の熱が去ったあとも、そこにはちゃんと日常があった。
そしてその日常こそが、この都市が本当に開かれたことの証なのだった。
…………………………………………………………………………………………………………
深海都市見物、水を得た門下生
深海都市が開通してしばらく。
海の底に築かれたその新都市は、研究者や商人だけでなく、見物客まで集める場所になっていた。
そして今日、深海線に乗り込んでいるのは、剣竜流道場一門である。
道場主ケンタ。
弟子のトゲ丸、リン、ソウ。
そして、ひときわ大きな門下生――スピノ丸。
もっとも、スピノ丸の入門理由は、武の求道というより、
匠一の活け締め対策という切実な生存戦略なのだが、それでも今ではれっきとした門下生である。
さらに今回は、ジュラ紀組から佐々木アロ次郎と宮本ティラノも同行していた。
バビロン旅行のあと、二人はことあるごとに「次は我も」「俺もだ」と言い続けていたのである。
その結果が、今回の深海都市見物だった。
「海の底に都市、か」
ショータが窓の外を見ながら言う。
「すごいですよね!」 ケンタが明るく答える。
「遊園地とはまた違う感じだね」 マリーが笑う。
「でも売店はあるだろ」 ダンが即答した。
「お前は最初からそこなんだな」
「補給は大事だろ」
そんなやり取りの横で、スピノ丸は妙に静かだった。
巨大な身体を丸めるようにして座り、じっと外を見ている。
いつものように「文明は恐ろしい」と騒ぐ気配がない。
ケンタが不思議そうに首を傾げた。
「スピノ丸さん、今日は静かですね」
「……うむ」
「緊張してるんですか?」
「違う」
「じゃあ何です?」
「……海の気配がする」
一同が少しだけ黙る。
スピノ丸は、ゆっくりと続けた。
「深い水の匂いだ……。悪くない……」
ダンが目を瞬かせた。
「お前、今日やたら落ち着いてない?」
「アビスランドの時と全然違うね」 マリーも言う。
「遊園地は……文明が強すぎた……」 スピノ丸は重々しく答えた。
「だが海はよい……。水はよい……」
「水を得た魚みたいなこと言ってる」
「魚ではない!!」
「そこは即否定なんだな」 ダンが吹き出した。
アロ次郎は腕を組み、静かに窓の外を見ていた。
「海の底に都市とは、たしかに妙な話だ」
「でも見てみたいよね!」 トゲ丸が元気よく言う。
「……深海生物……いるかな……」 リンが小さく呟く。
「……大きいのがいるといい……」 ソウもぼそりと続けた。
ティラノは相変わらず無口だったが、目だけはしっかり前を見ていた。
興味がないわけではない。
むしろ、かなりある。
◇
やがて列車は深海都市の外縁区画へ到着した。
海の闇の中に、巨大な灯りの塊が浮かんでいる。
中央駅舎を核に、いくつもの区画が回廊で結ばれた海底都市。
人工物でありながら、どこか巨大な海生生物の殻のようにも見える、不思議な姿だった。
「おお……!」 ケンタが素直に声を上げる。
「すごい……!」 トゲ丸も目を輝かせた。
「……きれい……」 リンが見上げる。
「……光ってる……」 ソウもぽつりと言う。
ショータは少し感心したように息をついた。
「これは、たしかに見物に来る価値がありますね」
「駅っていうより、もう都市だな」 ダンが言う。
「最初からそのつもりだったんだろう」 匠一は短く答えた。
「さらっと言うなあ」
「事実だ」
その横で、スピノ丸はじっと都市を見ていた。
「……よい」
「感想それだけ?」 マリーが笑う。
「よいものは……よい……」
「今日ほんと機嫌いいね」
「海だからな」 ダンが言うと、スピノ丸は重々しく頷いた。
「うむ」
アロ次郎が低く言う。
「海の底に、ここまで整えたか」 ティラノもぼそりと続けた。
「……広いな」
◇
中央コンコースへ入ると、弟子たちは一斉にきょろきょろし始めた。
「広い!」
「人がいっぱい!」
「……売店……」
「……あっち……気になる……」
トゲ丸、リン、ソウ。
三者三様に落ち着かない。
ケンタが慌てて声をかける。
「はぐれちゃだめですよ!」
「はーい!」
「……たぶん……」
「……気をつける……」
「たぶんが不安なんだよなあ」 ダンが言った。
スピノ丸も弟子の列にいるのだが、体格のせいでどう見ても保護者側に見える。
しかし本人は、ちゃんと門下生の顔でケンタの後ろについていた。
ショータはその様子を見て、少しだけ笑う。
――入門理由は生存戦略でも、こうして並ぶとちゃんと弟子なんだよな。
案内表示には、展望回廊、深海水族館、研究展示区画、商業区画などが並んでいる。
見物客向けの導線もきれいに整理されていて、開通したばかりとは思えないほど整っていた。
「まずはどこ行くんですか、師匠?」 ケンタが匠一に尋ねる。
「展望回廊だ」 匠一が答える。
「やっぱりそこですよね」
「外を見なければ意味が薄い」
「観光案内としては正しいんだよな……」 ダンがぼやいた。
◇
展望回廊は、深海都市の外をそのまま見渡せるように作られていた。
大きく透明化された外壁の向こうに、深海の景色が広がっている。
発光生物の群れ、遠くを横切る影、海底地形の起伏。
人工の灯りは控えめで、海そのものの暗さと静けさがよくわかった。
「わあぁ……!」 トゲ丸が窓際へ駆け寄る。
「……静か……」 リンが小さく言う。
「……深い……」 ソウも見入っていた。
ケンタも思わず息をのむ。
「すごいですね……。遊園地とは全然違う」
「そりゃ違うだろ」 ダンが言う。
「向こうは騒がしい文明、こっちは静かな文明だ」
「その言い方、ちょっと分かるかも」 マリーが頷いた。
そして――
ここで、いちばん生き生きし始めたのはスピノ丸だった。
さっきまで静かだった巨体が、明らかに空気を変える。
目が輝いている。
背筋が伸びている。
どこか誇らしげですらある。
「……よい」 スピノ丸が低く言った。
「ここはよい……」
「また言ってる」 ダンが笑う。
「いやでも、ほんとに機嫌いいな」
「深い水は……落ち着く……」 スピノ丸は窓の外を見たまま続けた。
「騒がしくない……。広い……。よい……」
「スピノ丸さん、海が好きなんですね!」 ケンタが嬉しそうに言う。
「うむ」 スピノ丸は堂々と頷いた。
「水辺はよい。海はよい。深い水は、なおよい」
「なんか今日だけ賢者みたいだな」 ダンが言う。
「普段は違うみたいに言うな!!」
「違わないとは言えないね」 マリーがさらっと刺した。
そのとき、外壁の向こうを大きな影が横切った。
「いた!」 トゲ丸が叫ぶ。
「でかい!」
「……ほんとだ……」
「……強そう……」
弟子たちが一斉に騒ぐ。
スピノ丸は、その影を見て満足そうに頷いた。
「うむ……よい生き物だ……」
「分かるんですか?」 ショータが聞く。
「形がよい」
「ざっくりしてるなあ」
「水に適した形だ……」 スピノ丸は重々しく言った。
「無駄がない……」
「おお……なんかそれっぽい」 ケンタが感心する。
「スピノ丸さん、今日は先生っぽいですね!」
「門下生なのに?」 ダンが笑う。
「今日は海だからだ!!」 スピノ丸は力強く言い切った。
アロ次郎も静かに窓の外を見ていた。
「なるほど。これはたしかに、見に来る価値がある」 ティラノも短く言う。
「……悪くない」
◇
次に一行は深海水族館へ向かった。
ここは単に珍しい魚を並べるだけの施設ではない。
深海都市の外に広がる環境と連続するように設計されていて、
展示水槽の中の生物と、観測窓の向こうの実際の深海とが、ひとつの流れとして見えるようになっている。
「これ、さっきのに似てる!」 トゲ丸が水槽を指さす。
「……光ってる……」 リンが見上げる。
「……口が大きい……」 ソウがぼそりと言う。
ケンタは弟子たちの反応を見て、少し嬉しそうだった。
「みんな、ちゃんと見てますね」
「そりゃ珍しいからな」 ダンが言う。
「遊園地みたいに乗り物で叫ぶだけじゃないんだ」
「それはそれで楽しかったですけど!」 ケンタが笑った。
スピノ丸は、水槽の前で妙に堂々としていた。
「うむ……」
「どうしたの?」 マリーが聞く。
「ここはよい」
「また?」
「水の者たちが多い……」
「そりゃ水族館だからね」
「落ち着く……」
「ほんとに水を得たスピノ丸だな」 ダンが言うと、スピノ丸は少しだけ得意げに胸を張った。
「うむ」
アロ次郎がぼそりと呟く。
「門下生が妙に生き生きしているな」 ティラノも頷く。
「……今日は元気だ」
「お前らにまで言われてるぞ」 ダンが笑う。
「よい場所だからだ!!」 スピノ丸は力強く言い切った。
◇
研究展示区画では、海底資源の模型や採掘計画、耐圧構造の説明、都市建設の工程などが示されていた。
ケンタは真面目な顔で展示を読んでいる。
ショータも興味深そうに図面を見ていた。
アロ次郎は腕を組み、ティラノは無言で立ち止まる。
「観光だけじゃないんですね」 ケンタが言う。
「そりゃそうだ」 ダンが答える。
「こんな規模の都市、見物だけで作るわけないだろ」
「資源開発、研究、物流……」 ショータが展示を追いながら言う。
「いろんな意味で前線基地なんですね」
「そういうことだ」 匠一は短く答えた。
アロ次郎が低く言う。
「海の底に線を引き、駅を置き、都市を作る。ずいぶん大きな話だ」
「最初から大きい人だからな」 ダンが言う。
「否定できないね」 マリーも頷いた。
ティラノは展示図の前で、しばらく黙っていたが、やがて一言だけ漏らした。
「……まだ広がるな」
「お、分かる?」 ダンが振り向く。
「北へ延ばす線がある」
「ちゃんと見てるじゃん」
「見れば分かる」
「その通りだ」 匠一が言った。
◇
ひと通り見て回ったあと、一行は商業区画へ向かった。
売店には深海生物を模した菓子や模型、開通記念の品が並び、軽食区画からはいい匂いが漂ってくる。
そして、ここでスピノ丸の“門下生らしさ”とは別方向の本能が顔を出した。
「……甘味がある」 低い声だった。 だが、その一言に含まれた熱量は大きい。
「出た」 ダンが即座に言う。
「やっぱりそこに戻るんだね」 マリーが笑う。
「深海都市でも甘味は偉大……」 スピノ丸は重々しく言った。
「海もよい……。だが甘味もよい……」
「両立した」 ショータが吹き出す。
「スピノ丸さん、今日は最強ですね!」 ケンタが妙に嬉しそうだった。
「うむ!!」 スピノ丸は堂々と頷いた。
アロ次郎が売店を見て、静かに言う。
「……土産もあるのだな」
「欲しいの?」 マリーが聞く。
「記念にはなる」
「素直じゃないなあ」 ダンがにやにやする。
ティラノは無言で菓子を見ていた。
その視線に気づいたショータが、少し笑う。
「ティラノさんも気になります?」
「……見るだけだ」
「ほんとかなあ」
「見るだけだ」
「二回言った」 ダンが笑った。
◇
帰り際、再び展望回廊を通ると、外の海はさらに暗くなっていた。
そのぶん発光生物の光がよく見える。
遠くで列車が回廊を走り、一本の光の線となって闇を横切っていく。
「きれい……」 リンが小さく言う。
「また来たい!」 トゲ丸が元気よく言う。
「……今度はもっとゆっくり見たい……」 ソウも名残惜しそうだった。
ケンタはそんな弟子たちを見て、静かに微笑む。
「……いい見物になりましたね」
「はい」 ショータも素直に頷いた。
「遊園地とはまた違う、いい旅でした」
スピノ丸は、深海の闇を見つめながら、満足そうに言った。
「……文明……恐ろしい……」
「始まった」 ダンが言う。
「だが……海はよい……。深い水はよい……。甘味もあった……」
「今日はだいぶ肯定的だね」 マリーが笑う。
「つまり?」 ダンが聞く。
スピノ丸は、力強く言い切った。
「……ここはよい!!」
一瞬の沈黙。
そして列車の中に笑い声が広がった。
アロ次郎が静かに頷く。
「うむ。たしかによい」 ティラノも短く言う。
「……また来るか」
ショータが思わず笑った。
「もう次の話してる……!」
「ジュラ紀組、完全に気に入ったな」 ダンが言う。
「次は宿泊区画も見たいですね!」 ケンタが目を輝かせる。
「泊まれるのか?」 トゲ丸も食いついた。
「泊まれるだろ」 ダンが言う。
「じゃあ今度はお泊まりですか!?」
「決めるの早いなあ」 ショータが苦笑する。
匠一は短く言った。
「乗れればいい」
「リーダー、それ前も言ってましたよね」 ダンが突っ込む。
「本質だ」
「本質なんだ……」
スピノ丸は少しだけ得意げに胸を張った。
「……海の底も悪くない……」
「悪くないどころか、だいぶ好きだろ」 ダンが言う。
「うむ」
「認めた」 マリーが笑った。
こうして――
剣竜流道場一門とジュラ紀組の深海都市見物は、静かな驚きと、深い水の心地よさと、
やはり少しの甘味に満ちた、忘れがたい一日となった。
遊園地とは違う。
だが、これもまた文明だった。
海の底に駅があり、都市があり、人が歩き、見物し、笑い、また帰っていく。
その当たり前が成立していること自体が、少し前までは信じがたいことだった。
そして今日。
剣竜流道場のひときわ大きな門下生は、その海の底で、ずいぶん生き生きとしていた。
まるで本当に――
水を得たスピノ丸のように。




