クラゲ線の慰安旅行
見難い火傷の子406
クラゲ線の慰安旅行
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
『なまけもの君トラック製造』では、年に一度だけ工場全体が少し浮き足立つ日がある。
慰安旅行の日である。
夜明け前の工場門前には、まだ眠たげな子どもたちと、やけに早く来すぎた独身工員たちと、
荷物より点呼表の方を気にしている工場長アフメットの姿があった。
今年の行き先は、海沿いを走る名物路線――クラゲ線沿線の保養地だった。
「全員いるか」
開口一番、それである。
「まだ集合時刻の十五分前ですよ」 妻のファトマが呆れたように言った。
だがその手には、すでに参加者名簿と旅費袋がきっちり収まっている。
経理部長は、休日でも経理部長だった。
「十五分前だから確認するんだ」
「三十分前にも確認してたでしょう」
「それは仮確認だ」
その横で、息子エムレは小さな鞄を背負い、眠気より期待の方が勝った顔で門の外を見ていた。
「父さん、クラゲ線って本当にクラゲ見えるの?」
「見えるらしい」
「本当に?」
「本当に、らしい」
「どっちなの」
「乗れば分かる」
エムレは納得したような、していないような顔で頷いた。
やがて社員たちが家族連れで集まり始める。
荷物の多い者、弁当を二つ持ってきた者、なぜか釣り竿まで抱えている者。
若い工員たちは普段の油染みた作業着ではなく、少しだけよそ行きの服を着ているせいで、
互いに妙な照れくささがあった。
「おい、その帽子、誰の趣味だ」
「母ちゃんです」
「似合ってるじゃないか」
「やめてくださいよ主任」
整備主任のサビトは笑いながら、自分の肩に乗ってきた同僚の娘を軽々と抱き上げた。
工場では鬼のように段取りに厳しい男だが、子ども相手だと妙に甘い。
「点呼を始めます」
ファトマが声を上げると、ざわついていた一団が自然とまとまった。
この工場では、工場長の声より経理部長の声の方がよく通る時がある。
「アフメットさん」
「いる」
「あなたは数えなくていいの」
「……そうか」
社員たちの間に小さな笑いが起きた。
慰安旅行の朝としては、上々の滑り出しだった。
駅へ着くと、団体客用の待合区画はすでに賑わっていた。
クラゲ線は保養客にも人気があり、季節の良い時期には家族連れや商会の団体がよく利用する。
ホームの売店には、海藻包みの軽食や、塩漬け魚の焼き物、甘い乳菓子が並んでいた。
エムレはさっそく目を輝かせたが、ファトマに「乗る前に食べすぎない」と釘を刺される。
遠くで、列車の接近を告げる鐘が鳴った。
「来た!」
エムレだけでなく、若い工員たちまで少し身を乗り出した。
仕事で貨車を見ることはあっても、こうして団体で名物路線に乗る機会はそう多くない。
やがてホームへ滑り込んできたクラゲ線の列車は、側面に青白い波模様を帯びた、美しい編成だった。
窓は大きく、上部には採光のための細長い明かり取りが入っている。
海辺の光を車内へ深く引き込むための設計だと、以前どこかで聞いたことがある。
「おお……」 誰かが思わず声を漏らした。
「観光列車みたいだな」
「いや、観光列車なんだろ」
「でもちゃんと定期運行なんですよね」
「そこがいいんだ」
工員たちは乗る前からもう楽しそうだった。
車内は木と青銅を組み合わせた落ち着いた内装で、
座席の布地には波と浮遊体を模した模様が織り込まれていた。
通路を歩くだけで、ほのかに潮と樹脂の混じったような匂いがする。
窓際を確保した子どもたちは、発車前からすでに勝った顔をしている。
「走り出す前に立つなよ」 アフメットが言う。
「父さんも座ってないじゃん」
「私は確認中だ」
「何を?」
「全体をだ」
ファトマがため息をついた。 「あなたは旅行中くらい“全体”を休ませなさい」
発車の鐘が鳴り、列車はゆっくりと動き出した。
工場地帯の煉瓦壁が後ろへ流れ、積み上げられた資材置場が遠ざかり、やがて視界が開けていく。
畑地を抜け、低い丘を回り込み、水気を帯びた平野へ出ると、空の色まで少し変わったように見えた。
クラゲ線の名の由来がはっきりするのは、その先だった。
海とも湖ともつかぬ広い汽水域が、窓の向こうに現れる。
浅い水面の上を、半透明の巨大な浮遊生物たちがゆっくりと漂っていた。
傘のような体が陽を受けて青白く透け、長い触手が水中で薄絹のように揺れている。
八倍の大きさで存在するこの地のクラゲは、もはや生き物というより、静かな天候の一部のようだった。
「見えたあっ!」
エムレが叫ぶ。
あちこちの窓際からも歓声が上がった。
「でかいな……」
「本当にクラゲだ」
「線路のすぐ横まで来るんですね」
「だからクラゲ線か」
列車はその汽水域の縁をなぞるように走っていく。
場所によっては長い高架橋となり、水面の上を渡る。
橋脚の影が揺れ、クラゲの傘がその下をゆっくりとくぐっていく。
車窓いっぱいに広がる青白い景色に、普段は口数の少ないベテラン工員まで黙って見入っていた。
「揺れが柔らかいですね」 若い工員のひとりが言った。
「橋上なのに、継ぎ目の当たりが少ない」
「軌道の敷き方がいいんだろう」 サビトが腕を組む。
「保守も相当ちゃんとしてる。観光客相手の路線は、乗り心地を落とせんからな」
「休みの日までそんな話するの?」 事務員のひとりが笑う。
「休みの日だからするんだ」 サビトは真顔で答えた。
「仕事の日は急いで見てる。今日はゆっくり見られる」
それを聞いて、アフメットが少しだけ頷いた。
分かる、と思ったのである。
工場の機械も、納期に追われている時には“動いているかどうか”しか見られない。
だが余裕のある時には、組み方の丁寧さや、手入れの癖や、作り手の考えまで見えてくる。
車内販売が回ってきた。
海塩を利かせた焼き菓子、果実水、干し魚の薄焼き、そして名物の透き蜜羹。
クラゲの傘を思わせる半透明の菓子で、子どもたちに人気らしい。
「これ!これ食べたい!」 エムレが即座に言った。
「一つだけよ」 ファトマが言う。
「昼もあるんだから」
「じゃあ二つ」
「一つ」
「父さん」
「母さんに従え」
アフメットはそう言いながら、自分も塩焼き菓子を一つ買っていた。
ファトマに見られると、「これは試食みたいなものだ」とよく分からない言い訳をした。
列車は途中の展望駅でしばらく停車した。
駅舎は水辺へ張り出すように造られており、広い木床の先から汽水域を一望できる。
団体客たちは思い思いに外へ出て、風に当たり、景色を眺め、写真板を構えた。
海風は強すぎず、湿り気を含んでやわらかい。
遠くでは巨大なクラゲが群れをなして漂い、その向こうを小舟がゆっくり横切っていく。
駅名標の下で、若い工員たちが肩を組んで記念写真を撮っていた。
その横では、子どもたちが「どれが一番大きいか」で真剣に言い争っている。
「こういうのも悪くないな」 アフメットがぽつりと言った。
「何が?」 ファトマが隣に立つ。
「みんなで休むのがだ」
「今さら?」
「今さらだ」
ファトマは少し笑った。
工場長という立場上、彼はいつも“止めないこと”を考えている。
生産を止めない。納品を止めない。人を欠かせない。
だが本当は、止めて整える時間がなければ、長くは回らない。
それは機械も、人も同じだった。
「福利厚生って、贅沢じゃないのよ」 ファトマが静かに言う。
「壊れないための整備」
「……経理部長らしい言い方だな」
「工場長にも分かる言い方を選んだの」
アフメットは返事の代わりに、遠くの水面を見た。
青白い傘が、陽を受けてゆっくり明滅している。
列車が走り、工場が動き、人が働く。
そのどれも、ただ頑張るだけでは続かない。
休ませ、整え、また動かす仕組みが要る。
保養地へ着くと、一行は海辺の食堂と浴場を備えた宿場へ案内された。
昼食は焼き魚、貝の煮込み、塩草の和え物、そして大鍋で炊いた海辺の麦飯だった。
量も多く、味もよく、若い工員たちは早々におかわりへ走る。
「おい、まだ全員分あるか確認してから行け」 アフメットが言う。
「工場長、今日はそういうの無しです」
「無しではない」
「半分だけ無しにしてください」
「難しい注文だな」
その近くで、サビトは子どもたちに魚の骨の外し方を教えていた。
事務員たちは浜辺で貝殻を拾い、年配の社員たちは浴場の湯加減について早くも議論している。
独身工員のひとりは、売店で土産物の値段を見て真剣に悩んでいた。
「誰に買うの?」 と同僚が聞く。
「母親に」
「優しいな」
「うるさい」
そういう何でもないやり取りが、旅先では少しだけやわらかく聞こえる。
午後、自由時間になると、子どもたちは水辺の観察台へ走り、大人たちは浴場や休憩所へ散った。
アフメットは結局、最後まで人数を気にしていたが、
全員がそれぞれ楽しそうにしているのを見るうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。
帰りの列車では、行きとは違って車内が静かだった。
遊び疲れた子どもたちは親の肩にもたれて眠り、若い工員たちも窓に頭を預けてうとうとしている。
土産袋だけが、行きより少し増えていた。
エムレもまた、透き蜜羹の空箱を抱えたまま眠っていた。
その頭が揺れるたび、ファトマがそっと支える。
向かいに座るアフメットは、窓の外の夕暮れを見ていた。
汽水域は茜と青のあわいに沈み、巨大なクラゲたちは昼よりも淡く光って見えた。
まるで水の上に、ゆっくり灯りが流れているようだった。
「また来たい?」 ファトマが小声で聞く。
アフメットは少し考えてから答えた。
「来たいな」
「誰が?」
「みんながだ」
それから少し間を置いて、付け足す。
「来年も、事故なく回して、納期を守って、ちゃんと黒字で終えて、それでまた来られるならいい」
「結局そこに戻るのね」
「そこへ戻れるのが、たぶん一番いい」
ファトマは笑わなかった。
ただ静かに頷いた。
それはきっと、この人なりの願い方だったからだ。
列車は夕闇の中を走り、やがて工場のある町へ戻っていく。
明日になれば、また機械は回り、帳簿は開かれ、荷は積まれ、納期はやって来る。
だが今日一日、彼らは仕事のためだけではなく、自分たちのために列車へ乗った。
海を見て、クラゲを見て、同じ釜の飯を食い、湯に浸かり、土産を抱えて帰る。
それは大げさな幸福ではない。
けれど、働き続ける者たちにとっては、確かに必要な豊かさだった。
クラゲ線は今日も、水辺の光を乗せて走る。
人を運び、荷を運び、ときには休息そのものを運ぶ。
『なまけもの君トラック製造』の慰安旅行もまた、その線路の上で無事に終わった。
工場を支えるのは、鋼と木材と青銅だけではない。
明日も働こうと思える、こういう一日の記憶なのかもしれなかった。




