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見難い火傷の子  作者: 清風
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404/459

鉄道国の治水

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子404



鉄道国の治水



深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


溢れても困る。

涸れても困る。

そのどちらもが続けば、人は暮らしていけない。

そして鉄道もまた、平然とは走れない。


その年、ユーフラト川は三つの村を呑んだ。


雪解けの増水に、上流で崩れた土砂が重なった。

濁流は石垣を越え、畑を泥で埋め、水車小屋を半ばまで浸し、

駅へ向かう荷車道を抉っていった。

外周線の築堤下も洗われ、曲線区間の軌道上には赤黒い土砂が厚く溜まった。

列車は徐行を強いられ、二日後には一部区間で運休が出た。

時刻表は乱れ、薬便は遅れ、積み替えを待つ貨車が駅構内に長く並んだ。


氾濫のたび、メガネウラ救助隊は飛んだ。

孤立した家々の屋根から人を拾い、流された橋の向こうへ薬箱を運び、

泥に塞がれた軌道の先へ連絡員を降ろした。

その働きは見事だった。

見事だったが、見事であることと、足りていることは別だった。

毎回飛ばねばならないのなら、どこかが間違っている。

飛んで助けることはできる。

だが、飛ばずに済む川にするには治水が要る。


だが困窮は、それで終わらなかった。

夏の終わりには逆に水が細り、去年まで流れていた支流が、

今年は膝も濡らさぬほど浅くなった。

泥をかぶった畑は今度はひび割れ、補修したばかりの水路には、

流すべき水そのものが来なかった。

工房の水車は止まり、駅の給水槽も日ごとに底を見せた。

溢れた水は人を流し、足りない水は人を乾かした。


応急修理の繰り返しでは足りない。

堤を継ぎ足すだけでも、取水門を直すだけでも駄目だ。

必要なのは、水そのものの流れを見て、受け止め、貯め、必要な時に流す仕組みだった。

そうして中央で立ち上がったのが、双河治水統制計画――通称、青銅大堤計画である。


その視察のため、匠一たちは朝からユーフラト川中流域の河川工区へ入っていた。


谷はまだ、先日の増水の傷を残していた。

流木が岸に噛み、崩れた石積みの隙間には乾いた泥が白くこびりついている。

谷を横切るように、建設途中の堤体基礎が長く伸びていた。

青銅骨材を噛ませた石組みの上を、工兵たちが蟻のように忙しく動いている。

八倍の大きさで造られるものは、壊れる時もまた八倍の傷を残すのだと、

レム・シアはぼんやり思った。


「堤体は当初案より一段厚くします」


第十六外周河川工区主任アダム・ケルが、谷の中央を示して言った。

日に焼けた顔に愛想はないが、声はよく通る。


「春先の増水だけでなく、夏季の逆流にも備えるためです。

あわせて下流三村への分水路を増設します。

取水門も二基、規模を上げる」


その横で、灰青の官服を着た男が眉を寄せた。

中央治水運輸監査官エンメル・サディクである。

官服は整っていたが、足元の革靴にはこの土地の泥がすでに薄くついていた。


「堤体の増厚に加えて分水路を三本。取水門も拡張。工費がかさみますな」


「かさみます」


アダムはあっさり認めた。


「ならば、まず堤体だけを優先すべきではありませんか」

「壁だけでは足りません」

「洪水を防ぐ工事でしょう」

「ええ」

アダムは頷いた。

「ですが、洪水だけを防いでも、人は生きません」


後ろで記録板を抱えていた若い監督補レム・シアが、小さく首を傾げた。


「どういう意味ですか」


その時まで黙ってユーフラトの流れを見ていた匠一が、ようやく口を開いた。


「去年は渇いた。

今年は溢れた。

どっちも同じ水だ」


レムは瞬きをした。

エンメルが匠一を見る。

匠一は崩れた岸の先を顎で示した。

流木の噛んだ石垣。

泥の筋が残る畑。

その向こうには、去年の干ばつで割れた土の跡が、まだ薄く残っている。


「ダムってのはな」

匠一が言う。

「水を止めるためだけの壁じゃない。

溢れる時には受け止める。

涸れる時には流す。

下流の人間が溺れず、乾かずに済むよう、量を見て加減するためのもんだ」


谷を抜ける風が、工区の旗を鳴らした。

下では工兵たちが綱を引き、石材を少しずつ基礎の上へ送っている。


エンメルはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「理屈は分かります。

ですが国家には限りがあります。

備えを削ってまで流せば、次の災害に耐えられない」


「備えは要る」


匠一は頷いた。


「だが、流さぬ備えは下流には無いのと同じだ」


エンメルの目がわずかに細くなる。


「それは、財政を軽んじる言い方です」


「逆だ」


匠一の声は低かった。


「帳面だけ見て人を見ない方が、よほど軽んじてる」


レムは二人を見比べた。アダム・ケルは口を挟まず、ただ谷と堤体を見ている。

現場の人間は、言葉より先に壊れ方を知っているのだろう。


「監査官殿」


アダムが静かに言った。


「堤体だけでは、次の渇水でまた下流が死にます。

分水路も補修も、壁と同じだけ備えです。

壁は受け止めるために要る。

水路は届かせるために要る。

片方だけでは壊れます」


エンメルは答えなかった。

代わりに谷の下を見た。

崩れた岸。

泥を掻き出したばかりの畑。

遠く、外周線の築堤が陽に白く見える。

その一角だけ、まだ色が違っていた。

先日の土砂を掻き出し、急ごしらえで補修した箇所だ。


「外周線の遅延記録は見ました」


エンメルがぽつりと言った。


「薬便が半日遅れ、補給貨車が一日詰まった。

駅間通信も一時途絶。

メガネウラ救助隊は二度出動しています」


「三度だ」


匠一が言った。


「最後の一度は、記録に残ってない。

村の外れの水車小屋に、熱を出した子がいた」


エンメルはわずかに眉を動かした。

レムは記録板を抱え直しながら、喉の奥が少し乾くのを感じた。

数字に残るものと、残らないものがある。

そのどちらも、現場には積もっていく。


「救助隊は機能しています」


エンメルは言った。

「被害は最小限に抑えられている」


「それは立派だ」


匠一は頷いた。

「だが、毎回飛ばなきゃならんのは立派じゃない」


風が止み、谷の音が少し遠くなった。

下で槌音が響く。

石と青銅が噛み合う、乾いた音だった。


「応急対応は国家の責務です」

エンメルが言う。

「応急だけで済ませるのは怠慢だ」

匠一は即座に返した。

「人を拾い上げることはできる。だが、次に流されぬようにはできん。英雄譚で治水はできない」


レムは思わず顔を上げた。

その言葉は強すぎるようでいて、谷の傷跡を前にすると、少しも大げさには聞こえなかった。


エンメルは長く息を吐いた。

それから、谷の底で白く引かれた掘削線を見た。

新しい分水路の予定線である。

まだ水のないその溝は、これから流れるものを待つ口のように見えた。


「国家は感傷で予算を組みません」


彼は言った。

「秩序を守るためです。秩序がなければ、誰も守れない」


「人だ」


匠一が言う。

「守るのは、まず人だ。

秩序は人を守るためにある。

人を乾かしてまで守る秩序なら、順番を間違えてる」


アダムが、初めてわずかに目を伏せた。

レムは記録板の端を強く握った。

谷の向こうで、外周線を行く列車の汽笛が小さく響いた。

遅れを取り戻すような、短い音だった。


エンメルはその音を聞いていた。

やがて、後ろに控えていた記録官イシュラ・メルへ向き直る。


「分水路三本目、削るな。

下流補修費も別建てで計上しろ。

取水門拡張は二基とも認める」


レムが息を呑む。

アダムは何も言わず、ただ一度だけ深く頷いた。


「監査官殿」

レムが思わず声を出す。

「よろしいのですか」


エンメルは谷を見たまま答えた。


「よくはない。工費は重い。前例にもなる。中央では嫌がる者もいるだろう」


そこで一度言葉を切り、乾いた畑と、補修跡の残る築堤とを順に見た。


「だが、守る順番は誤らんようにしたい」


匠一は何も言わなかった。

ただ、谷の底の新しい水路を見ていた。

まだ空のその溝に、いずれ水が流れる。

溢れる時には受け止め、涸れる時には届けるための流れだ。


金もまた、本来はそういうものであるはずだった。

抱え込んで光らせるためではなく、必要なところへ届かせるためのもの。

取った量を誇るためではなく、下流で人が乾いていないかを見るためのもの。


谷を渡る風が、もう一度旗を鳴らした。

下では工兵たちが綱を引き、石を据え、青銅骨材を噛ませていく。

外周線の向こうには、泥を掻き終えた畑が広がっていた。

そのさらに先で、村人たちが空の水路を見上げている。


飛んで助けることはできる。

だが、飛ばずに済む川にするには治水が要る。


鉄道国はようやく、その当たり前に手をつけ始めていた。

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