新設飛行学校、魔導メガネウラ飛行訓練
見難い火傷の子392
新設飛行学校、魔導メガネウラ飛行訓練
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
北棟格納庫に集められた時、新入生たちは誰も声を張らなかった。
いつもの訓練室とは空気が違う。
石床は広く、天井は高く、壁際には整備台と工具棚が並んでいる。
油と金属と、魔石を削った時に出る乾いた匂いが混じっていた。
格納庫の奥、厚い遮蔽布が一枚、機体を隠すように垂れている。
その前に、匠一が立っていた。
両手を後ろで組み、いつも通りの姿勢で新入生たちを見ている。
「整列」
短い声で列が揃う。
ざわめきは自然に消えた。
匠一は一度だけ全員を見渡してから、補助教官に顎を引いた。
遮蔽布が左右に引かれる。
現れた瞬間、何人かが息を呑んだ。
カナタも、無意識に呼吸を浅くした。
そこにあったのは、機械というより、翅を畳んで待機している巨大な生き物に近かった。
細長い胴体。
前方へやや絞られた機首。
左右に張り出した四枚の翅は、金属骨格の上に薄い半透明の膜材が張られ、
光を受けると、蜻蛉の翅のような細かな筋が浮かんで見えた。
胴体の側面には魔石導管が走り、淡い青白い光が脈のように明滅している。
着陸脚は短く、地面を掴むように低い。
静止しているのに、次の瞬間には飛びかかってきそうな形だった。
列のどこかで、小さな声が漏れた。
「……魔導メガネウラ」
俗称だった。
正式名称は長く、訓練生のあいだではほとんど使われていない。
匠一はその呼び名を否定しなかった。
ただ、機体を見たまま言った。
「最終的に、諸君にはこれに乗ってもらう」
その一言で、列の空気がわずかに前へ傾いた。
誰も動いてはいない。
だが、意識だけが一歩出たのが分かった。
匠一はそこで一拍置いた。
「だが今日は乗せない」
空気が戻る。
肩透かしを食らったような沈黙が落ちた。
匠一は気にした様子もなく続ける。
「規定飛行時間に達するまで、生身での搭乗は許可しない。
初期飛行課程はすべてナノホムンクルス憑依下で行う」
補助教官の一人が、後方の台車から小型の訓練機を運んできた。
実機をそのまま縮小したような形だった。
四枚翅。
細い胴。
低い着陸脚。
ただし大きさは、ナノ街区の上空を飛ばすための縮尺に合わせてある。
「飛行状態を異常のまま扱う者を、本物の空へ出さない」
匠一の声は平坦だった。
「浮くことに驚く者。視界の変化で軸を失う者。加速で認識を飛ばす者。
そういう者を、実機に乗せる気はない」
誰も笑わなかった。
目の前の機体を見た後では、冗談に聞こえなかった。
「規定飛行時間とは、ただ浮いていた時間ではない。
離陸、姿勢保持、低速直進、停止、着地、帰投。
命令通りに行い、認識を失わず、操作を崩さずに完了した時間だけを算入する。
落ちた時間は飛行時間ではない」
最後の一言だけ、少し硬く響いた。
カナタはその言葉を頭の中で繰り返した。
落ちた時間は飛行時間ではない。
この学校らしい言い方だった。
やったことではなく、成立したことだけを数える。
「移動する。訓練室へ」
号令で列が動く。
格納庫を出る時、カナタは一度だけ振り返った。
実機の四枚翅は畳まれたまま、静かに光を返している。
まだ遠い。
だが、何のために訓練するのかは、もうはっきり見えていた。
憑依訓練室に入ると、ナノ街区の台座はこれまでよりさらに拡張されていた。
街区の上空に、飛行訓練用の空域が新設されている。
屋根の高さを越えた位置に、細い光の輪がいくつも浮かび、
進路を示す標識と、停止位置、旋回点、帰投経路が立体的に組まれていた。
地上の路地訓練とは違う。
今度は上下がある。
高さがある。
落ちる余地がある。
寝台に横たわり、接続が始まる。
意識が沈み、切り替わる。
ナノホムンクルスの身体を得た瞬間、カナタはいつもの石畳の感触を足裏に受け取った。
だが今日は、その先にあるものが違った。
訓練区画の中央に、小型の魔導メガネウラが並んでいる。
近くで見ると、実機よりもなお昆虫に似ていた。
四枚翅の根元には細かな可動節があり、角度を微調整できるようになっている。
胴体の中央には一人分の操縦席。
前方の視界は広いが、左右の翅が視界の端に常に入る。
それだけで、普通の乗り物とは違うと分かる。
補助教官の声が頭上から降る。
「初回課題は五つ。離陸、三呼吸の姿勢保持、低速直進、空中停止、着地。
旋回はまだやらない。
加速も制限する。
命令外の操作は減点」
匠一の声が続いた。
「最初に覚えるのは、飛ぶことではない。
飛行状態を平常として扱うことだ。
浮いた瞬間に驚くな。
視界が変わっても慌てるな。
上にいるからといって、特別なことをしていると思うな」
特別なことをしていると思うな。
無茶な言葉だと、カナタは思った。
だが、そう思わせるための訓練なのだろう。
順番に搭乗が始まる。
先行した訓練生の一人が、離陸の瞬間に機首を上げすぎた。
機体が後ろへ流れ、慌てて補正しようとして左右の翅角を乱す。
姿勢が崩れ、停止位置に入る前に着地。
「離陸失敗。姿勢保持未達。飛行時間算入なし」
記録の声が淡々と告げた。
二人目は浮上までは良かった。
だが、地面が離れた瞬間に視線が下へ落ちる。
高度を気にしすぎて前方標識を見失い、直進で蛇行した。
停止位置で止まりきれず、光輪をかすめる。
「停止不完全。接触一。飛行時間一部算入」
三人目は加速を抑えきれなかった。
低速直進のはずが、思った以上に前へ出る。
慌てて出力を絞りすぎ、今度は失速しかける。
見ているだけで、機体性能の鋭さが分かった。
少しの操作が、そのまま大きく返ってくる。
「速いな」
隣で待機していた同期が小さく言った。
「速いというより、応答が近い」
カナタは答えた。
自分の手の中に、まだ乗っていない機体の癖を想像する。
重いのではない。
軽すぎるのでもない。
入力に対して、返答が早い。
それが怖い。
レイラの番が来た。
搭乗し、確認を終え、離陸。
浮上は滑らかだった。
三呼吸の姿勢保持も崩れない。
低速直進も正確だ。
だが停止位置の手前で、ほんのわずかに機首が揺れた。
止めるための入力が早すぎたのだ。
機体が一度だけ前後に細かく振れる。
すぐに修正し、着地までまとめたが、完璧ではなかった。
「停止時微振動。飛行時間算入」
減点は軽い。
だがレイラは着地後、一度だけ機体を振り返った。
想定との差を確認する目だった。
カナタの順番が来た。
操縦席に座る。
視界が変わる。
地面が近い。
翅が視界の端にある。
前方の光輪は、歩いて見ていた時より遠く見える。
距離感が違う。
まずそれを認める。
いつもの身体ではない。
いつもの移動でもない。
だから、最初の一呼吸を長く取った。
離陸。
急がない。
浮いた瞬間、足裏の感覚が消える。
その代わりに、座面と操縦桿を通して機体の細かな震えが伝わってくる。
三呼吸、姿勢保持。
前を見たまま、下を見すぎない。
高度は標識との位置関係で取る。
低速直進。
少し遅い。
だが、光輪の中心を外さない。
停止。
止めようとするのではなく、進みを薄くしていく。
一度で止まる。
着地。
最後まで急がない。
脚が石畳に触れた瞬間、初めて息を吐いた。
「二十三番。低速。だが全課題達成。飛行時間算入」
頭上から記録の声が落ちる。
続いて、匠一の声。
「速くない。だが、空中で慌てない」
評価なのか観察なのか、いつも通り分からない口調だった。
だが、悪くはない。
カナタは操縦席を降りながら、機体の翅を一度見上げた。
近くで見ると、停止している時でさえ、次の入力を待っているように見える。
訓練は午前いっぱい続いた。
離陸で崩れる者。
停止で流れる者。
着地で脚を滑らせる者。
浮いているだけで視界の軸を失う者。
逆に、最初は崩れても二回目で修正する者もいた。
第五種目でやった「変えられるか」が、ここでもそのまま出ていた。
昼前、最後の組が終わったところで、匠一が前に出た。
「今日の算入時間は短い。短くていい。
最初に積むべきなのは、長い飛行時間ではない。崩れない飛行時間だ」
誰も口を挟まない。
全員、自分がどこで崩れたか、あるいは崩れなかったかを思い返していた。
「実機は逃げない」
匠一はそう言った。
「規定飛行時間に達した者から、次段階へ進む。
焦る必要はない。焦った者から落ちる」
その言葉の後で、訓練室は静かだった。
ナノ街区の上空には、まだ光輪が浮かんでいる。
小さな魔導メガネウラが、次の組を待つように並んでいた。
接続が切れ、寝台の上で身体を起こす。
頭が少し重い。
だが歩行訓練の後とは違う疲れだった。
身体より先に、視界と認識が疲れている。
隣で起き上がったレイラが、小さく息を吐いた。
「思ったより、止まりませんでした」
「速かったからな」
「速く止めようとしました」
「止まる前に、止めにいった感じだった」
レイラは少しだけ考えてから頷いた。
「その通りです。想定より応答が早かった」
「魔導メガネウラだからな」
そう言うと、レイラが珍しく少しだけ口元を緩めた。
「俗称ですが、正確ですね」
カナタは寝台から降り、格納庫で見た実機の姿を思い出した。
四枚翅。細い胴。
静止しているのに、飛びかかってきそうな形。
あれに乗る。
まだ先だ。
だが今日、ただ遠いだけだった空に、初めて手順ができた。
離陸。
保持。
直進。
停止。
着地。
帰投。
一つずつ積む。
落ちた時間は飛行時間ではない。
なら、落ちない時間を増やしていくしかない。
補助教官の声が響く。
「午後は記録確認と再訓練を行う。十分後に集合」
十分後。
カナタはその言葉を胸の中で繰り返した。
飛行学校の空は、まだ遠い。
だが、遠いままではなくなった。
今日はまだ、ナノ世界の上空だ。
それでも確かに、飛び始めていた。




