飛行学校ホムンクルスで憑依体育祭
見難い火傷の子390
飛行学校ホムンクルスで憑依体育祭
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
入学から一ヶ月が過ぎた頃、飛行学校の掲示板に一枚の紙が貼り出された。
第一回憑依競技祭 実施のお知らせ
新入生のひとりが読み上げると、周囲から「体育祭じゃないか」という声が上がった。
その声は笑いを含んでいたが、下の方に書かれた注記を読んだ途端、笑いが止まる。
競技結果は前期評価の二割に算入される。
「やっぱり容赦ない」
カナタは紙の前で腕を組んだ。
隣に立っていた同期が、肩をすくめて言う。
「まあ、驚きはしないな」
レイラという名の女子だった。
入学式の翌日、憑依訓練の最初の課題で全項目を一発通過した、
同期の中では誰もが認める優等生だ。
濃い栗色の髪を首の後ろで束ね、制服の七つボタンはいつも完璧に揃っている。
声に無駄がなく、動作に無駄がなく、感情表現にも無駄がない。
何かと言えば「想定の範囲内です」と答える。
カナタには、その余裕の出どころが、入学してひと月たっても、まだよく分からなかった。
「種目、見た?」
レイラが掲示板の下段を指す。
種目一覧は以下の通りだった。
第一種目:ナノ街区リレー
ホムンクルス憑依状態のまま、街区内の指定ルートを走り次の者へ旗を渡す。
落とした、壊した、転んだは減点。
第二種目:精密運搬競技
水を満たした器を、指定経路で運ぶ。
こぼした量で減点。
速さより精度を問う。
第三種目:接触回避走
狭い通路に障害物と他の受験者が混在する中を、接触なしで通過する。
接触一回につき減点。
第四種目:協働建築
四人一組で、指定の小屋を組み立てる。完成度と所要時間の合算で評価。
第五種目:総合競技(内容は当日発表)
「最後が怖いな」
カナタが言うと、レイラは表情をほとんど変えずに答えた。
「第五種目は個人差が出る形式にするはずです。そうでないと評価の意味がない」
「なんで分かるんだ」
「想定の範囲内だからです」
また、その言葉だ。
カナタは軽く息を吐いた。
レイラを嫌いなわけではない。
ただ、会話のたびに自分の準備不足を突きつけられるような気がして、妙に居心地が悪かった。
当日の朝、憑依訓練室は普段とは別の空気をまとっていた。
ナノ街区の台座は拡張されており、見慣れた路地の向こうに新しい競技用区画が設けられている。
観覧用に設けられた台の上には、教官たちが並んでいた。
匠一は中央のやや後ろに立ち、両手を後ろで組んで街区を見下ろしている。
いつもと変わらない立ち方だが、記録板を持った補助教官が三人も脇に控えているのが今日は違った。
新入生たちは寝台に横たわり、順に接続が始まる。
憑依状態になった瞬間、カナタは一ヶ月前との違いをすぐに感じた。
石畳の継ぎ目が足裏に伝わる感覚が、最初の頃より自然になっている。
距離の誤差も、一歩目から修正できるようになった。
慣れた、というよりは、この身体を身体として受け入れ始めた、という感覚に近い。
第一種目のリレーが始まった。
先行グループの走りを見る。
速い者がいる。
だが、速い者ほど角で膨らみ、狭い路地で壁をかすめた。
リレー旗を受け取る時に持ち方を誤り、落とした者が一人。
その場で止まった瞬間に後続者と詰まり、連鎖で二人が壁に当たる。
「速さが仇になってる」
カナタは次の走者が出るタイミングを見ながら考えた。
旗の渡し方、角の処理、後続との間隔。
速度を落としてでも精度を保つ方が、減点は少ないはずだ。
カナタの順番が来た。
スタート地点で旗を受け取る。
少し重い。
こういう重さは、握り込まずに乗せるように持つ方がいい。
走り出す。
速くはない。
だが、最初の角を壁から十分な距離を取って曲がる。
路地の幅を確かめながら進む。
狭い区間では横幅を意識して体を絞る。
ゴール地点で次の走者へ旗を渡す。両手で、位置を確かめてから渡す。
「二十三番、タイム七位。接触ゼロ、落下ゼロ」
頭上から記録の声が降る。
「速くはないが、崩れない」
匠一の声だった。
評価なのか観察なのか分からない口調だった。
カナタには、それで十分だった。
レイラの走りは速かった。
タイムは二位。接触もゼロ。
角の処理が無駄なく、旗の受け渡しも一切の迷いがなかった。
見ていて気持ちが悪いほど、想定通りに動いているように見えた。
「さすがだな」
隣の同期が呟く。
カナタも認めた。
ただ、なぜかレイラの走りを見ていると、どこかが引っかかった。
完璧すぎる。
何かを徹底的に準備してきた上での完璧さだ。
それ自体は正しい。
だが、準備の外に出た時にどうなるかは、まだ分からなかった。
第二種目の精密運搬は、カナタには向いていた。
水を満たした器。
急がない。
こぼれる前に水面を読む。
歩幅を一定にする。
曲がり角で器を先に向ける。
結果は減点ほぼゼロ。
タイムは遅い方だったが、精度の加点で補った。
レイラも精度は高かった。
だが第二種目では珍しく、指定経路の最終区間でわずかに揺れた。
器の水面が一度だけ大きく動き、ほんの少しこぼれる。
「レイラが減点取ったの初めて見た」
同期の一人がひそひそと言う。
レイラ本人は表情を変えなかった。
ただ、器を台に置いた後で、一度だけ経路を振り返って見た。
その目が、想定と違う何かを確認しているように見えた。
第三種目の接触回避走で、初めて問題が起きた。
競技の仕様は単純だ。
狭い通路に十数人の受験生と可動式の障害物が混在し、そこをすり抜ける。
接触一回につき減点。
だが、全員が同じ通路に入るわけではなく、ランダムに割り振られた入口から始まる。
カナタが入ったのは、曲がりくねった路地区画だった。
見通しが悪い分、一歩先を読む必要がある。
息を整えて進む。
前方から来る受験生との間合いを測る。壁側に寄る。
障害物が動く方向を見る。速度を落とす。
すれ違い、かわし、進む。
接触ゼロで出口に到達した時、反対の通路からレイラが出てくるのが見えた。
同じくゼロのはずだった。
だが、その後ろから担架が出てきた。
通路の中で、転倒した受験生が一人いたらしかった。
本人の接触ではない。
すれ違いの際に相手がバランスを崩し、巻き込まれる形になったのだ。
レイラは接触回避を優先した結果、相手を避ける動きが相手に予測できない方向へ逃げることになり、
接触を誘発した形になっていた。
「……そういうこともある」
カナタは小声で言った。
責めるつもりはなかった。
ただ、頭上から匠一の声が降りてきた。
「レイラ」
「はい」
「何が起きたか、言え」
訓練室が静まり返った。
レイラはしばらく黙ってから、はっきりした声で答えた。
「私の回避行動が、相手にとって予測不能な軌道でした。
相手が反射的に避けようとした方向と、私が避けた方向が重なりました」
「原因は」
「自分の動きを最適化することに集中しすぎて、相手の動きを読む余裕を欠いていました」
沈黙が二拍あった。
「正直に言った。減点はそのままだ。だが覚えておけ」
匠一の声は平坦だった。
「空でも現場でも、自分だけが正しく動いても意味がない場面がある。
相手が予測できる動きをすることが、時に自分の最適解より優先される」
レイラは一礼した。
表情は変わらなかった。
だが、さっきまでとは少しだけ違う目をしていた。
想定の外を見た目だった。
第四種目の協働建築で、カナタとレイラは同じ組になった。
あとの二人は、明るい性格の男子と、無口な女子だ。
四人で向き合い、材料の山と設計図を見る。
「リーダーは誰がやる」
明るい方の男子が言う。
誰も手を挙げなかった。
レイラが図面を手に取り、一通り見て言った。
「工程を四つに分けます。基礎、壁、屋根、固定。各自担当を決めて、進捗を都度共有する形はどうですか」
「異論なし」
「俺も」
「……私も」
カナタは少しだけ考えてから頷いた。
分業は効率的だ。
だが、問題が出た時に誰が対応するかを先に決めておく必要がある。
「一つだけ決めておきたい。詰まった時に、誰でも全員に声をかけていい、でいいか」
レイラがカナタを見た。
初めて、少しだけ表情が動いた気がした。
「同意します」
作業が始まった。
途中、屋根の部材が合わない箇所が出た。
カナタが気づいて声を上げ、レイラがすぐに設計図を確認し、修正案を出した。
二人の無口な女子が黙って部材を入れ替え、明るい男子が固定を手伝う。
誰が指示したわけでもないのに、動きが揃っていた。
完成した小屋を見上げると、隣でレイラが言った。
「思ったより速かったです」
「詰まらなかったからな」
「詰まらないように準備したのは、あなたです」
カナタは少し面食らった。
レイラがそういう言い方をするのを、初めて聞いた気がした。
第五種目の内容が発表されたのは、全員が整列した後だった。
匠一が台の端に立ち、新入生たちを見渡してから言った。
「最終種目の内容は、各自が今日の競技で一番うまくいかなかった場面を再現する。
再現し、今度は別のやり方でやり直せ。評価するのは結果ではない。
変えられるかどうかだ」
訓練室がざわめいた。
「自己申告制だ。申告は今から三分以内に行え」
三分、という時間が妙に長く感じられた。
カナタは考えた。
今日の競技で、一番うまくいかなかった場面。
それは、第三種目の入口で一瞬足が止まりかけた場面だ。
見通しの悪さに反射が遅れた、あの一拍。
申告した。
レイラも申告した。
内容は誰もが予想した通り、第三種目の接触場面だった。
再現が始まった。
カナタは再び曲がりくねった路地に入る。
今度は、見通しの悪い角の手前で、先に音を聞いた。
足音のリズム。
速さ。
どちらから来るかを音で確かめてから角を曲がる。
今度は反射で止まらなかった。
出口まで通過した後、頭上から声が降る。
「二十三番。変えた。合格」
その一言だけだった。
だが、今日の競技で一番、胸に落ちた評価だった。
レイラの再現は、少し長くかかった。
相手役の受験生と二度、三度とやり直し、最終的に「相手が見える動きをする」という形を見つけた。
自分の最適解より一歩遅い動きを、意図的に選ぶ。
それがどれだけ難しいことか、見ていたカナタには分かった。
「レイラ。変えた。合格」
匠一の声は同じ調子だった。
だがレイラは、評価を聞いた後で、ごく短く息をついた。
それだけだったが、今日初めて彼女がほっとした瞬間を見た気がした。
競技祭が終わり、接続が切れた後、新入生たちはそれぞれ寝台の上で身体を起こした。
普段の訓練より長い接続時間だったせいか、頭が少し重い。
隣の寝台からレイラの声がした。
「カナタ」
「なんだ」
「第四種目の時の、あの一言。助かりました」
「詰まった時に声をかけていい、ってやつか」
「はい。私には、そういう発想が薄い」
カナタは少しだけ考えてから言った。
「お前の動きは速くて正確だ。俺にはできない動きがある」
「あなたの動きは崩れない。私にはできないことがある」
短い沈黙があった。
どちらも認めた言葉だった。
廊下の向こうから、補助教官の声が聞こえた。
「休憩後、通常訓練を再開する。十分後に集合」
「十分後」
カナタが繰り返すと、レイラが言った。
「想定の範囲内です」
今日はその言葉が、いつもより少しだけ軽く聞こえた。
頭上の術式がゆっくりと暗くなっていく。
ナノ街区の灯りも落ちていき、小さな路地と家々が静かになった。
競技祭は終わった。
だが訓練は、十分後にまた始まる。
飛行学校の空は、まだ遠い。
それでも、巨大な世界の底で転び、変えることを学んだ一日は、
確かに積み上がっていた。




