新設された飛行学校、意識憑依システム
見難い火傷の子389
新設された飛行学校、意識憑依システム
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
新設飛行学校で採用された意識憑依システムは、憑依事故を防ぐため、浅い憑依に限定されていた。
危険域を超えた場合は自動的に憑依が切断される安全設計となっている。
通称――おねしょ防止システム。
最初の授業は、飛行ではなかった。
新入生たちは講堂から移され、校舎北棟の地下にある憑依訓練室へ通された。
新設校らしく壁も床もまだ新しく、石と金属の継ぎ目には工房の匂いが残っている。
廊下の両側には細長い窓が並んでいたが、地下である以上、外光が入るはずもない。
代わりに埋め込まれた導光管が白く淡い光を流し、朝だか昼だか分からない均一な明るさを保っていた。
訓練室の扉が開くと、新入生たちのあいだから小さなどよめきが漏れた。
部屋の中央には、巨大な円卓のような台座が据えられていた。
近づくにつれ、その上に載っているものの細かさが見えてくる。
街区だった。
掌に載るほどの家屋が並び、細い路地が走り、石畳の広場があり、井戸があり、
低い柵に囲まれた菜園まである。
屋根の色分け、窓枠の彫り、物干し台、樽、荷車、階段、渡り廊下。
精巧な模型というより、生活そのものを縮めて封じ込めたような区画だった。
「……都市開発遊びみたいだな」
誰かが小声で言った。
「遊ぶんじゃない。入るんだろ、あれに」
隣の生徒が囁き返し、前列の何人かが緊張したように口を引き結ぶ。
台座の周囲には、半円形に寝台が並べられていた。
寝台というより、治療台に近い。頭部を固定するための浅い窪みがあり、
両腕を置く位置には細い金属環が渡されている。
それぞれの台の脇には、青銅と骨材を組み合わせた制御柱が立ち、
表面に刻まれた細かな術式が淡く脈打っていた。
匠一が前に立った。
「着席」
短い命令で、新入生たちは整然と並ぶ。
講堂で祝辞を述べた時と同じ声だった。
高くはないが、逆らう余地を与えない声だ。
「本日から諸君は意識憑依の基礎課程に入る。
飛行学校である以上、最終的な目的は飛行技術の習得にある。
だが、飛ぶ前に覚えるべきことがある」
匠一は台座の上の小さな街区を一瞥した。
「他の身体で、正しく存在することだ」
静まり返った訓練室に、その一言だけがはっきり落ちた。
「憑依とは飛行のためだけの技術ではない。
医療、救助、看護、保守、危険区域作業。
今後、他の器に意識を移したまま働く分野は増える。
諸君の中にも、飛行科から別分野へ進む者が出るだろう。
だが進路が何であれ、基礎は同じだ」
匠一は制御柱のひとつに手を置いた。
術式がひときわ明るくなり、台座の上の街区に淡い光が走る。
「憑依状態を異常と思ううちは、空でも現場でも役に立たない。まず常態になれ」
後列のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ。
「授業はナノホムンクルスへの浅層憑依から始める。
訓練用の家屋、通路、階段、作業場、診療所区画はすべてナノ構築体だ。
諸君はその中で立ち、歩き、触れ、持ち、座り、運び、他者とすれ違う。
飛ぶのはその後だ」
一人の新入生が、おそるおそる手を挙げた。
まだ声変わりの名残がある、細い声の少年だった。
「質問、よろしいでしょうか」
「許可する」
「なぜ……生活、なんですか。飛行学校なのに」
匠一は少年を見た。
責めるでもなく、褒めるでもない、ただ確認するような目だった。
「空で死ぬ者は、飛んでいる時だけ判断を誤るわけではない」
訓練室の空気が、また少し締まる。
「他の身体に入った瞬間から、自分の距離感と力加減を失う。
扉に肩をぶつける。
段差を踏み外す。
物を握り潰す。
狭い通路ですれ違えない。
そういう者が、空でだけ正しく振る舞えると思うか」
少年は青ざめて首を振った。
「歩けない者に、飛ぶ資格はない」
それで説明は終わりだった。
匠一の合図で、補助教官たちが動き出す。
新入生たちは名簿順に寝台へ案内された。
カナタも自分の番号が呼ばれ、空いている台へ横たわる。
背中に硬さがあり、頭を置く窪みは思ったより浅い。
両腕の脇にある金属環は拘束具というほどではないが、
無意識の大きな動きを抑えるためのものだと分かった。
寝台の上から見上げる天井は低くない。
だが、どこか圧迫感がある。
術式の光が視界の端で明滅し、耳の奥で細い金属音のようなものが鳴っていた。
隣の寝台から、ひそひそ声が聞こえる。
「おい、これ本当に安全なんだろうな」
「危険域を超えたら切れるって話だろ」
「それが例の……」
「おねしょ防止システム」
言った本人が吹き出しかけ、すぐに口を押さえた。
前方にいた補助教官が無言で視線を向ける。
笑いは一瞬で消えた。
匠一は聞こえていたはずだが、咎めなかった。
代わりに、淡々と告げる。
「俗称は好きにしろ。だが、その機構に救われるようでは遅い。
切断される前に自分で戻れ」
その一言で、寝台の上の空気が冷えた。
制御柱の術式が順に点灯していく。
青白い光が床の溝を走り、各寝台の足元で輪を描いた。
カナタは喉の奥が乾くのを感じた。
緊張しているのだと分かっていたが、どうにもならない。
胸の七つボタンが制服越しに硬く当たっている。
脱がされるかと思ったが、上着は着たままだった。
学校は最初から、これも訓練の一部だと考えているらしい。
「接続開始。深度は第一層。感覚負荷制限、同調率上限、恐慌反応監視を有効化」
補助教官の声が、どこか遠く聞こえる。
「視界の乱れ、吐き気、四肢の違和感、自己境界の揺らぎを感じた場合は、直ちに申告しろ。
申告が遅れた場合、評価を下げる」
評価を下げる。
その言葉が妙に現実的で、かえって恐ろしかった。
「始め」
世界がひとつ瞬いた。
次の瞬間、カナタは石畳の上に立っていた。
まず異様だったのは、自分の身体ではなく周囲のほうだった。
壁が高い。
扉が大きい。
窓枠が見上げる位置にある。
机はやけに広く、椅子はよじ登るような高さに見える。
路地の両側に並ぶ家々は、さっきまで掌に載る模型だったはずなのに、今は小さな塔のように立っていた。
頭上には、さらに別の巨大さがあった。
半透明の天蓋の向こうで動く教官たちの影は、人というより巨人に近い。
その圧倒的な大きさを見てからようやく、カナタは自分の手を見た。
細い指だった。
小さい、というより、この巨大な世界に合わせて作られた手だった。
呼吸をしようとして、呼吸が必要ないことに一拍遅れて気づく。
胸は上下しない。なのに意識はある。
喉の奥がひやりとしたが、喉そのものの感覚も曖昧だった。
自分の身体ではない。
だが、今この場で世界に触れている身体は、たしかにこれだった。
「聞こえるか」
頭上から声がした。
巨人の声だった。
いや、教官の声だと分かっているのに、距離と大きさのせいでそう聞こえる。
「初期課題を通達する。
立位保持、十歩前進、右折、扉の開閉、椅子への着座、卓上の器を持ち上げ、元の位置へ戻せ。以上」
簡単すぎる、と思った者が何人いたかは分からない。
だが、最初に転んだのは前列の成績上位者だった。
一歩目で重心を前に出しすぎ、二歩目で足が追いつかず、石畳に膝から突っ込む。
別の一人は扉の取っ手を強く引きすぎて、蝶番ごと外した。
また別の一人は椅子に座るつもりで腰を落とし、位置を誤って床に尻もちをついた。
訓練室の上から、補助教官たちの記録音が淡々と降ってくる。
「二番、力加減過大」
「五番、距離認識不良」
「十一番、着座失敗」
「十六番、恐慌反応軽度」
カナタは動かなかった。
動けなかったのではない。
最初の一歩を出す前に、確かめる必要があると思った。
足裏の接地。
膝の位置。
腕の長さ。
視界の高さ。
振り向く時の軸。
自分の身体の寸法を知るというより、この巨大な周囲に対して、
自分がどのくらいの幅と重さで置かれているのかを測る。
知っているつもりで動くのが、一番危ない気がした。
「二十三番、停止が長い」
頭上から匠一の声が落ちてくる。
「理由を言え」
カナタは返事をしようとして、また一瞬だけ戸惑った。
声を出す場所がいつもの身体と違う。
それでも、少し硬い音で答える。
「周囲との距離を確認しています」
間があった。
「続けろ」
許可だった。
カナタはゆっくり一歩を出した。
石畳の継ぎ目が足裏に伝わる。
軽い。だが、ただ軽いのではない。
身体の慣性が小さいぶん、雑に動けばすぐに軸がぶれる。
二歩、三歩。
壁との距離を見誤らないように進む。
右折。肩幅を意識する。
扉の前で止まり、取っ手に触れる。
金属の冷たさが指先に返る。
引く。
少しだけ。
扉は素直に開いた。
その向こうに、小さな部屋があった。
いや、さっきまでなら小さな部屋と呼べたはずの空間が、今は普通の生活空間として目の前にある。
机と椅子、棚、器、水差し。
生活のためだけに作られた空間。
だが今のカナタには、そのどれもが試験器具に見えた。
椅子へ近づき、位置を確かめてから腰を下ろす。
軋み。
成功。
卓上の器を持ち上げる。
軽い。
軽いが、落とせば割れるだろうという感覚だけは妙に本物だった。
元の位置へ戻す。
そこで初めて、カナタは自分が息を止める癖のまま動いていたことに気づいた。
呼吸のいらない身体なのに、意識だけが昔の身体のままだった。
「二十三番」
また匠一の声。
「はい」
「遅い。だが、ぶつけていない」
それだけだった。
褒め言葉ではない。
だが、切り捨てる声でもなかった。
周囲ではまだ失敗が続いていた。
誰かが器を落とし、誰かが狭い通路ですれ違えず、誰かが急に立ち止まって壁に手をつく。
一人は視界の揺れに耐えきれず、その場にうずくまった。
直後、頭上の術式が赤く明滅し、その生徒の身体から光の糸のようなものが抜ける。
自動切断だ。
「十八番、接続解除。休養台へ」
補助教官の声に、訓練生たちの緊張がさらに増した。
おねしょ防止システム。
ふざけた俗称のくせに、実際に作動するところを見ると笑えなかった。
切断された生徒のナノホムンクルスは、その場で糸の切れた人形のように崩れた。
カナタは器を置いたまま、しばらくその光景を見ていた。
自分もああなるかもしれない。
そう思うと怖かった。
だが同時に、怖いと思えるうちはまだ大丈夫だ、とも感じた。
怖さをなくした者から先に、距離を誤る気がした。
「初回課題終了。全員、現在位置で停止」
頭上から命令が降る。
「これより第二課題に移る。
二人一組でのすれ違い、接触回避、器物運搬。相手を見ろ。自分だけを見るな」
生活訓練。
疑似生活。
そう呼ばれてはいるが、やっていることは暮らしではなかった。
暮らしの形を借りた、認識の訓練だった。
他の身体で立つこと。
他の身体で距離を測ること。
他の身体で他人を傷つけないこと。
そして、異常を異常のままにせず、常態として扱うこと。
飛行学校の最初の授業は、空からいちばん遠い場所で始まっていた。
だがカナタには、ここで覚えることの方が、翼の形を覚えるより先だと分かり始めていた。
空で死ぬ者は、飛んでいる時だけ判断を誤るわけではない。
匠一の言葉が、まだ頭のどこかに残っている。
カナタは細い指を開き、閉じた。
違和感はまだ消えない。
たぶん、すぐには消えない。
だからこそ慣れるのだろう。
憑依を異常ではなく、常態にするために。
頭上では巨人たちの影が動き、訓練室の光が静かに脈打っていた。
巨大な世界の底で、新入生たちは転び、ぶつかり、立ち直りながら、
まだ見ぬ空の前に、まず他の身体で生きることを学び始めていた。




