新設された飛行学校、入学式
見難い火傷の子388
新設された飛行学校、入学式
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
ゆえに空は遠く、風は重い。
鳥は帆船のような影を地に落とし、獣は丘のような背を揺らして歩く。
その巨大な生のあいだを縫って、人が空へ手を伸ばすには、相応の技術と、相応の覚悟が要った。
その春、新設された飛行学校が初めて門を開いた。
入学式の朝は、まだ冷えが残っていた。
海から上がってくる風は湿り気を含み、校地の外れの斜面に群れて咲くスイセンを、
白く細かく揺らしている。
新しく切り開かれた敷地は、土の匂いをまだ失っていなかった。
講堂へ続く石畳も、植えられたばかりの並木も、どこか落ち着かず、
今日という日を待つ者たちと同じように、まだ自分の形に馴染みきっていないように見えた。
講堂には校歌が流されていた。
軍楽隊の演奏をもとに編曲された行進曲調の旋律が、新しい木材の匂いが残る講堂に響く。
「赤い血潮の飛行学校の七つボタンは水仙に錨~♪」
新入生たちの何人かは口ずさみ、何人かは歌詞の意味をまだ知らなかった。
講堂の正面には、深紺の校旗が掲げられていた。
銀の錨を、白いスイセンが抱く校章。
朝の光を受けたその意匠は、華やかというより冷たく端正で、見上げる者の背筋を自然と伸ばさせた。
新入生たちは、講堂前の広場に整列していた。
濃紺の詰襟制服。前合わせに並ぶ七つのボタンには、それぞれ小さな錨とスイセンの意匠が打たれている。
新品の布地はまだ硬く、肩も襟も身体に馴染んでいない。
歩けば擦れる音がして、立てば立ったで、誰もが少しだけ自分の姿勢を意識せずにはいられなかった。
カナタも列の中にいた。
胸元の七つボタンは、見下ろすと静かに光った。
港の外れ、海風の吹き上げる斜面に群れて咲く花だと、制服を受け取った日に聞かされた。
早春に最初に顔を出し、冷えの残る土の上でまっすぐ立つ花。
帰るための重みと、季節の先触れ。
なるほど、この学校らしい印だと、その時は思った。
だが、いまはそんな感想を落ち着いて反芻している余裕はなかった。
周囲には、同じ制服を着た新入生たちがいる。
誰もが口数少なく、けれど完全に黙っているわけでもない。
緊張を隠すように喉を鳴らす者、靴先の位置を何度も直す者、隣と小声で何かを確かめ合う者。
そのどれもが、今日ここに立つ資格を得た者の顔でありながら、まだ空を知らない者の顔でもあった。
広場の端には、見送りに来た家族や町の者たちの姿もあった。
若い娘たちが新しい制服に目を留め、ひそひそと何かを言い合っている。
仕立ての良さだの、七つボタンが思ったより格好いいだの、あの銀の校章がきれいだの。
その一方で、少し年嵩の女たちは、同じ制服を見ながら別の顔をしていた。
立派だね、と言いながら、その実、あれを着る男を待つ暮らしの重さを先に思っているような目だった。
華はある。だが、所帯を持つには少し空に近すぎる。
そんな言葉が、風の底に沈んでいる気がした。
やがて、講堂の扉が開いた。
ざわめきが、すっと細くなる。
教官たちが先に入る。
濃い色の礼装に身を包んだその姿は、新入生の制服よりさらに無駄がなく、
布の皺ひとつまで規律のうちにあるように見えた。
肩章、襟章、靴音、歩幅。どれもが揃いすぎていて、かえって人間味が薄い。
その先頭を歩く男を見て、列の空気がわずかに変わった。
匠一だった。
名を知らぬ者はいない。
この新設飛行学校の実務を取り仕切る中心人物であり、
空を知る者たちのあいだでは、厳しいことで通っている。
派手な英雄譚を持つ男ではない。むしろ逆だ。
落ちなかった者、見失わなかった者、持ち帰った者。
そういう種類の評価で名を残してきた男だと聞く。
匠一は壇上に立つと、しばらく何も言わず、新入生たちを見渡した。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
講堂へ入場の号令がかかり、列が動き出す。
硬い制服の擦れる音、靴底が床を打つ音、旗布のかすかな鳴り。
新入生たちは二列のまま講堂へ入り、指定された席へ着いた。
高い天井には新しい梁の匂いが残り、窓から差し込む朝の光が、壇上の校旗を白く浮かび上がらせている。
着席が終わると、短い静寂が落ちた。
式次第は簡潔だった。
開式の辞、校旗掲揚、設立経緯の報告、来賓の祝辞。
だが新入生たちの意識は、そのどれにも半分しか向いていなかった。
残り半分は、自分の襟の硬さや、背筋の角度や、これから始まるものの重さに向いている。
祝われているはずなのに、祝祭の気分は薄い。
ここにあるのは門出というより、選別の入口だった。
やがて、匠一が演台の前に立った。
祝辞を述べる者の顔ではなかった。
最初から、訓練の初日を始める者の顔だった。
「諸君」
声は高くない。
だが講堂の隅まで、よく通った。
「入学を祝う」
そこで一度、言葉が切れる。
それだけなら、どこにでもある祝辞の始まりだった。
だが次に来た言葉は、そうではなかった。
「ただし、ここは諸君を甘やかすための場所ではない」
講堂の空気が、目に見えない形で引き締まる。
「飛行技術とは、ただ飛ぶ技術ではない。
空で認識を失わず、誤認せず、落ちずに帰る技術である」
誰も動かなかった。
動けなかった、と言ってもよかった。
「この学校で選ぶのは、操縦が派手な者ではない。
度胸だけの者でもない。
選ぶのは、見失わない者、崩れない者、仲間を巻き込まない者、最後に帰ってこられる者だ」
壇上の校旗が、窓から入る風にわずかに揺れた。
銀の錨と白いスイセンが、朝の光を受けて静かに光る。
「飛べるだけの者はいらない」
その一言は、講堂のどこにも逃げ場を残さなかった。
「空は、飛ぶ前から始まっている。
機体を見ろ。
風を見ろ。
地を見ろ。
自分の癖を見ろ。
見えていると思うな。
分かったと思うな。
空では、その思い込みから先に死ぬ」
カナタは、無意識に息を浅くした。
言葉の一つ一つが、胸の七つボタンのあいだに落ちてくるようだった。
「諸君は今日から学ぶ。飛ぶことではない。帰ることを学ぶ」
匠一の視線が、前列から後列へ、静かに流れる。
誰か一人を見るのではなく、全員の逃げ道を塞ぐような目だった。
「見失うな。誤認するな。落ちるな。仲間を巻き込むな。
見つけたなら持ち帰れ。そして――帰ってこい」
最後の言葉だけが、妙に静かだった。
怒鳴りつけるでもなく、鼓舞するでもなく、ただ当然の命令として置かれた。
帰ってこい。
それは願いではなく、理想でもなく、命令だった。
この学校の校章に錨がある理由が、その一言で分かる気がした。
講堂の空気は、もう入学式のものではなかった。
新入生たちは祝われているのではなく、測られていた。
この場に座る全員が、すでに空へ送られる前の素材として見られている。
そう理解した瞬間、制服の硬さが急に現実味を帯びた。
匠一は最後に、短く言った。
「式の後、初回訓練の説明を行う。気を抜くな。諸君の飛行学校生活は、もう始まっている」
それで祝辞は終わった。
拍手は起きた。
だが華やかな音ではなかった。
どこか遅れ、どこか揃わず、それでも必要だから打たれた拍手だった。
カナタも手を打ちながら、壇上の校旗を見た。
深紺の地に、銀の錨。
それを抱く白いスイセン。
早春に咲く花と、帰るための重み。
講堂の外では、海からの風がまだ吹いているはずだった。
校地の斜面では、スイセンが揺れているだろう。
その向こうには、八倍の大きさで生きるものたちの世界が広がっている。
鳥の影は帆船のように地を横切り、風は人の判断ひとつで牙にも道にもなる。
その空へ、自分たちは行くのだ。
入学したのだ、と実感するより先に、
戻ってこられるだろうか、という考えが胸の底に沈んだ。
そしてカナタは、その考えを振り払わなかった。
振り払わない方がいいのだと、壇上の男の声がまだ講堂のどこかに残っていたからだ。
飛べるだけの者はいらない。
最後に帰ってきた者を選ぶ。
新設飛行学校の最初の入学式は、祝賀よりも先に、そのことを新入生たちへ教えた。




