新設された飛行学校、生還するために
見難い火傷の子386
新設された飛行学校、生還するために
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
その説明を、カナタは試験前に聞いていた。
聞いていたが、知識として知っていることと、
実際にその只中へ放り込まれることのあいだには、深い溝がある。
頭上を覆う枝葉は、もはや森の天井だった。
幹は塔のように太く、地表を這う根でさえ、子ども一人の行く手を塞ぐ壁になる。
草は膝どころか胸元まで届き、落ち葉は踏みしめるたび、乾いた革を折るような音を立てた。
カナタは一度だけ深く息を吸い、吐いた。
肺に入る空気は湿って重い。土と樹液と、どこか獣じみた匂いが混じっている。
泣き言を言っても始まらない。
だが、楽観していい状況でもなかった。
まずは確認だ、と自分に言い聞かせる。
背負い袋を下ろし、手早く中身を点検する。
水筒。乾燥食。火打ち道具。小刀。布。簡易の治療具。
一次試験で自分が選び、自分で必要だと判断したものだ。
あの時、問われたのは装備の正解ではなかったのだろう、とカナタは思う。
何を持つか。何を捨てるか。
そして、それで何日帰還できると見積もるか。
問われていたのは、たぶんその数字そのものだ。
二次試験は、その数字に嘘がないかを暴くためにある。
持ち物を戻し、カナタは周囲を見回した。
方角を確かめようとして、すぐに眉を寄せる。
針の動きがおかしい。
完全に狂っているわけではない。
だが、定まらない。頼れる動きではなかった。
迷いの森。
そう呼ばれる理由の一端を、いきなり突きつけられた気分だった。
「……当てにするな、ってことか」
独り言は、湿った空気に吸われて消えた。
ならば、頼るべきは足跡、地形、風、光の差し方、匂い。
そして何より、自分の見たものをそのまま積み上げることだ。
カナタはその場の木の根元に小さく印を刻み、少し進んでから振り返った。
見える。
だが、見えることと、帰りに辿れることは別だ。
同じような幹、同じような葉、同じような影。
この森は、人の認識を鈍らせるために作られているようだった。
進みながら、カナタは歩幅と時間を頭の中で数えた。
焦らない。
急ぎすぎれば体力を削る。
遅すぎれば日が落ちる。
必要なのは速さではなく、見積もりを崩さない精度だった。
しばらくして、地面に不自然な乱れを見つけた。
足跡。
それも一人分ではない。
踏み荒らされた草、削れた土、木の幹に浅く残る刃物の跡。
誰かがここを通ったのは間違いない。
カナタはしゃがみ込み、痕跡を追った。
足運びが乱れている。
途中までは一定だったのに、ある地点から急に幅が崩れていた。
焦ったのか、何かを追ったのか、それとも追われたのか。
少し先には、裂かれた布切れが枝に引っかかっていた。
包帯代わりにしたのかもしれない。
さらに進むと、血の跡が見つかった。量は多くない。だが新しくもない。
その近くに、獣か魔物のものらしい黒ずんだ毛と、粗く切り裂かれた肉片が落ちていた。
解体の途中で放棄したのだ、とカナタは判断した。
食料調達を狙ったのだろう。
それ自体は間違いではない。
現地で補給できれば、持参した食料に余裕が生まれる。
帰還の見積もりも楽になる。
だが、それは手に入ってから初めて資源になる。
狩れるはず、食えるはず、見つかるはず。
そういう“はず”を計算に入れた時点で、見積もりは脆くなる。
カナタは肉片から目を離し、周囲の気配を探った。
今は静かだ。
だが、血の匂いが残っている場所に長居はしたくない。
立ち上がりかけて、ふと別の声が聞こえた。
「おーい!」
反射的に身を低くする。
少し遅れて、草をかき分ける音とともに、一人の受験生が姿を見せた。
年は近い。
顔には泥がついていたが、口元には妙に人懐こい笑みがあった。
「よかった、誰かいた。いやー、さすがに一人だと気が滅入るな」
軽い調子だった。
その声色だけなら、森歩きの途中で偶然会った知人にでも話しかけるようだった。
カナタはすぐには立ち上がらず、相手の手元と足元を見る。
武器。荷。怪我。呼吸。
目立つ深手はない。だが、左足の運びが少し鈍い。
相手はそれに気づかないふりをしているのか、本当に気にしていないのか、肩をすくめて笑った。
「そんな警戒するなって。敵じゃない。受験生同士だろ?」
「……その足、どうした」
「ああ、これ?大したことないよ。さっきちょっと転んだだけ。
こういうの、動いてりゃそのうち慣れるって」
言いながら、彼は周囲を見回した。
地面の血痕と肉片に気づいて、眉を上げる。
「へえ、やっぱりいるんだな。食えるやつ。なら何とかなるか」
その言葉に、カナタは相手の荷を見た。
軽い。
少なくとも、自分よりは明らかに軽装だった。
「食料、絞ったのか」
「まあな。森なら現地でどうにかなると思ってさ。荷物は軽い方がいいし。実際、こうして獲物もいる」
彼は明るく言った。
その明るさは、無理に作ったものではないらしかった。
人を安心させるのが上手い声だった。
たぶん、こういう人間が近くにいれば、張り詰めた空気は少し和らぐ。
不安で固くなった相手も、ひとまず息をつけるだろう。
それは長所だ。
間違いなく。
だが、安心と安全は同じではない。
「その足で狩りをする気か」
「小さいのなら何とかなるだろ。二人ならもっと楽だ。どうだ、一緒に行かないか?」
気安い誘いだった。
悪意はない。
むしろ善意に近いのだろう。
一人より二人の方が心強い。そう言いたいのが伝わってきた。
カナタは少しだけ黙った。
一緒に行けば、情報は増える。
見張りもできる。
だが、歩調は相手に引かれる。怪我の分だけ遅れる。
現地調達を前提にした軽装。
しかも本人はそれを危険だと思っていない。
組めば、こちらまで相手の見積もりに巻き込まれる。
「やめておく」
「え、即答?」
「お前はまだ大丈夫だと思ってる。俺はそうは思わない」
相手は一瞬きょとんとして、それから苦笑した。
「慎重だなあ」
「慎重で足りる場所だ」
「でも、慎重すぎても動けないだろ?」
「動くために切るんだ。希望的観測を」
少しだけ、相手の笑みが薄れた。
それでも彼は空気を崩さないようにする癖があるのか、すぐにまた軽い調子を作る。
「まあ、考え方の違いか。俺はまだいけると思うよ」
その“まだ”が危ういのだ、とカナタは思った。
だが、言って聞く相手でもない気がした。
代わりに、水場を探すなら低地を優先しろ、血の匂いの残る場所には留まるな、
足を庇って歩幅を崩すと余計に消耗する、と短く伝える。
相手は「お、親切」と笑って聞いていた。
最後にカナタは言った。
「無理だと思ったら、意地を張るな。使うべきものは使え」
救難信号のことだと、相手も分かったはずだった。
だが彼は、少しだけ視線を逸らしてから笑った。
「そこまでじゃないって」
その返答を聞いて、カナタはそれ以上言わなかった。
助けたいと思うのと、背負えるのは別だ。
現実を見ない相手まで抱えれば、二人とも沈む。
それは救助ではない。道連れだ。
「じゃあな」
「おう。また会えたらな」
会えない方がいい、とまでは思わなかった。
ただ、次に会う時には、状況がもっと悪くなっている気がした。
カナタは背を向け、再び森の奥へと歩き出す。
くよくよしている暇はない。
だが、都合よく忘れる気もなかった。
他人の失敗も、自分の読み違いも、拾えるものは拾う。
この試験で見られているのは、たぶんそこだ。
生きて帰れるかどうかだけじゃない。
自分で出した見積もりに、どこまで責任を持てるか。
森は深い。
空気は重い。
そして日は、待ってはくれない。
カナタは歩きながら、頭の中で水と食料と残り時間をもう一度数え直した。
帰るために。
生還するために。
そして、自分の読みを、現実の中で証明するために。




