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見難い火傷の子  作者: 清風
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鉄道国物語(匠一篇 環地中海線:人気グルメツアー/駅弁の旅4・温泉宿)

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子381




鉄道国物語(匠一篇 環地中海線:人気グルメツアー/駅弁の旅4・温泉宿)




深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層

青銅の時代

この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。


環地中海線の列車が、ゆるやかに速度を落としていく。

窓の外には、夕暮れの山あいに沿って広がる湯の町の灯りが見えていた。

白い湯気があちこちの屋根の向こうから立ちのぼり、駅舎の上にも薄くたなびいている。


メリアは窓に顔を寄せた。

「え、ここで停まるんですか?」


「停車駅だからな」


匠一はいつもの調子で答えた。

その声に、何か嫌な予感を覚えたのか、タリアが目を細める。


「……まさかとは思うけど、降りる気?」


「降りる」


あまりにも即答だった。


車内販売で買った茶を飲んでいたダンが、ふうん、とだけ言う。

キールは窓の外を見て、駅名標を読み上げた。


「湯煙峡駅。温泉名所って書いてあるな」


「名所だからな」


「さっきから説明が説明になってないのよ」


タリアが呆れたように言うと、匠一は小さく肩をすくめた。


「環地中海線の人気グルメツアーは、食うだけじゃない。

途中で降りる価値のある駅も含めてだ」


メリアがぱちぱちと瞬きをする。

「えっと……でも、次の列車は?」


「今日は乗らない」


「乗らない!?」


思わず声を上げたメリアに、周囲の乗客が少しだけ視線を向けた。

匠一はまったく気にした様子もなく、膝の上の小さな荷物を持ち上げる。


「温泉宿に泊まるのもツアーだ」


その一言で、メリアは完全に言葉を失った。

タリアは額に手を当て、それから小さく笑う。


「なるほどね。そう来た」


「今回はそこまで読むべきだったかしら」


そう言ったのはマリーである。

爆炎パーティの面々は、驚くというより、少し予定が変わった時の顔をしていた。

ダンなどはすでに荷をまとめ終えている。


「温泉なら別に構わん」

「飯もうまそうだしな」

「夜の町も見られるか」


そんな声があがる中で、メリアだけがまだ追いついていなかった。


「え、え、本当に泊まるんですか?」


「泊まる」


「宿は?」


「取ってある」


「いつの間にですか……」


「前からだ」


匠一はそれだけ言って立ち上がった。

ちょうどその時、列車が最後の揺れとともにホームへ滑り込む。

車輪の軋みが短く響き、扉の向こうに、湯気の匂いを含んだ夕方の空気が見えた気がした。


扉が開く。


ふわり、と。

車内へ流れ込んできた空気は、鉄と油の匂いに慣れた旅の鼻に、はっきりと違うものを運んできた。

硫黄と、湿った木と、湯の匂い。

温泉地特有の、少し重たくて、けれど妙に落ち着く匂いだった。


「わ……」


メリアが小さく声を漏らす。


ホームの向こうには、木造の駅舎が見えた。

軒先には提灯が吊られ、観光客らしい人々が行き交っている。

駅員までどこかのんびりして見えるのは、湯の町の空気のせいかもしれない。


「本当に温泉駅なんですね……」


「温泉駅だからな」


「そこはもういいわよ」


タリアが即座に突っ込んだ。


一行は列車を降りた。

石造りのホームはまだ昼の熱を少し残していたが、山から下りてくる夕風は涼しい。

遠くで湯の湧く音がするわけでもないのに、町全体がどこか湯気の中にあるような気配をまとっていた。


爆炎パーティの面々も続いて降りる。

見た目だけなら、年端もいかない子供たちの集団にしか見えない。

だが、その足取りには妙な迷いがなかった。

旅慣れた者の降り方であり、同時に、どこへ出ても即座に周囲を把握する者たちの動きでもある。


もっとも、そんなことに気づく者は、このホームにはほとんどいない。


「で、宿は近いの?」


タリアが訊く。


「歩いて十分ほどだ」


「ちょうどいい距離ね」


「温泉街を抜ける」


その一言で、タリアの口元が少し上がった。

メリアはまだ半分ほど呆然としていたが、それでも駅舎の向こうに見える町並みに目を奪われている。


坂に沿って並ぶ木造の建物。

軒先に吊られた灯り。

湯気の向こうにぼんやりと浮かぶ橋。

土産物屋らしい店先に積まれた饅頭の蒸籠。

そして、下駄の音。


「……すごい」


それは、初めて見る者の、素直な感想だった。


匠一はそんなメリアを一度だけ見上げ、それから駅舎の外へ向かって歩き出す。


「行くぞ」


「は、はいっ」


慌ててメリアが続き、タリアも肩をすくめながら後ろについた。

爆炎パーティも自然にその後ろへ流れる。

誰が先頭で、誰が最後尾かを決めた様子もないのに、

気づけば隊列のように整っているのは、もはや癖なのだろう。


駅舎を抜けると、温泉街の夕景が一気に開けた。


石畳の道の両脇に、旅館、土産物屋、甘味処、食事処が並んでいる。

湯上がりらしい客が浴衣姿でそぞろ歩き、店先では温泉卵や串焼きの香りが漂っていた。

提灯の赤い灯りが、まだ完全には暗くなりきらない空の下で、町をやわらかく染めている。


メリアは思わず足を止めた。

「きれい……」


「夜はもっといい」


匠一が言う。


「まだ良くなるんですか?」


「なる」


「断言するのね」


タリアが笑う。

その横で、ダンが鼻を鳴らした。


「宿入る前に何か食うか?」


「あとでだ」

「まず風呂」

「それから飯」

「順当だな」


爆炎パーティの会話は、妙に手慣れていた。


メリアがそちらを見て首を傾げる。

「皆さん、温泉って慣れてるんですか?」


「訓練設備にあったからな」

「冒険者学校のな」

「寒冷地訓練の後は、あれがないとやってられん」


キールとダンが当然のように答える。

メリアは目を丸くした。


「訓練設備に温泉があるんですか……?」


「回復用だ」

「火傷、打撲、筋肉痛、魔力疲労」

「意外と馬鹿にできん」


マリーまで頷く。

タリアは少し感心したように息をついた。


「なるほどね。そっちはそっちで温泉慣れしてるわけだ」


「タリアは?」


「私はあるわよ。各層の受付嬢たちで、たまに温泉に行くことがあるもの」


「温泉回ですね」


なぜか真顔で言ったハナに、メリアが反射的に聞き返す。


「温泉回って何ですか」


「温泉に行く回だ」


匠一が当然のように答えた。


「説明になってるようで、なってないんですよね、それ……」


メリアが小さく呻く。

その反応に、タリアがくすりと笑った。


「でも今回は、私は用意してなかったのよね。まさか本当に途中下車して一泊するとは思わなかったし」


「私は……その……」


メリアは少し言いよどみ、それから正直に言った。


「初めてです。温泉」


その場の空気が、ほんの少しだけやわらかくなった。


タリアが目を瞬かせる。

「そうだったの?」


「はい。話には聞いてましたけど、来るのは初めてで……」


「なら、ちょうどいいじゃない」


タリアはそう言って、温泉街の灯りを顎で示した。

「初温泉がここなら、悪くないわよ」


メリアは少しだけ緊張した顔のまま、それでも嬉しそうに頷いた。


匠一はそのやり取りを聞きながら、迷いなく石畳の坂を進んでいく。

曲がり角をひとつ、橋をひとつ。

町の中心から少しだけ外れた先に、落ち着いた造りの旅館が見えてきた。

二階建ての木造建築で、門の脇には小さな庭があり、灯籠の明かりが低く苔を照らしている。


玄関先には、すでに宿の者が待っていた。


「お待ちしておりました」


丁寧に頭を下げた女将に、匠一は短く頷く。

その様子があまりにも自然だったので、メリアはまた少しだけ驚いた。


「本当に取ってあったんですね……」


「言っただろう」


「言ってましたけど……本当に前から全部決めてたんですか?」


「人気グルメツアーだからな」


「そこに温泉宿が含まれるの、まだちょっと納得しきれてないんですけど」


「食と湯は近い」


「なんですかその名言っぽいの」


タリアが吹き出す。

女将は事情を深く聞くこともなく、にこやかに一行を中へ案内した。

磨き込まれた廊下は木の香りがして、奥からは湯の気配と、夕餉の支度の匂いが漂ってくる。


その時だった。


帳場の脇に立っていた若い受付嬢が、匠一たちを見て、ぱっと目を見開いた。

それから、どこか困ったように笑う。


「まあ……皆さま、ちょうどよい時間に。今なら湯も空いておりますよ」


そう言ってから、彼女は一行の顔ぶれを見回し、少しだけ首を傾げた。

「……あの、浴衣はお持ちですか?」


その問いに、匠一が一拍も置かずに答える。


「ある」


メリアが、嫌な予感とともに匠一を見た。

匠一はすでに、容量無限収納袋へ手を入れていた。


次の瞬間、そこから迷いなく取り出されたのは、藍染めの浴衣と木の下駄だった。

しかも一組ではない。二組、三組と、色違いの浴衣と帯まで揃って出てくる。


帳場の空気が、一瞬止まる。


タリアが目を細めた。

「……やっぱり用意してたのね」


「温泉街だからな」


「もうその理屈で押し切る気満々なのよね」


メリアは浴衣の一式と匠一を見比べ、言葉を失った。

受付嬢まで、ぽかんとしている。


匠一はそんな視線をまるで気にせず、さらにもう一組、女性物の浴衣を取り出した。


「受付の分もある」


「えっ」


今度こそ、受付嬢が素で声を上げた。


帳場の空気が、今度は本当に止まった。


受付嬢は、自分を指さしてから、匠一の手元の浴衣を見た。

「……わ、私の、ですか?」


「予備だ」


匠一は淡々と言った。

「必要なら使える」


「必要ならって、普通そういう予備の切り方します?」


タリアが半ば呆れ、半ば感心した声を出す。

女将は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに商売人らしい落ち着きを取り戻し、口元に手を当てて笑った。


「まあ、よくお気づきで。

実は今夜、団体のお客様が入っておりまして、貸し浴衣の予備が少し心許なかったのです」


「本当に必要だったんですか……」


メリアが小さく呟く。

匠一は頷きもしない。

ただ当然のように浴衣を畳んだまま差し出した。


若い受付嬢は、受け取っていいものか迷う顔をしたあと、女将に視線で伺いを立てた。

女将が柔らかく頷くと、ようやく両手でそれを受け取る。


「ありがとうございます……」


「気にするな」


「気にしますよ普通は」


メリアの突っ込みに、帳場の空気が少し和んだ。

その横で、爆炎パーティはそれぞれ自分の荷をほどき始めている。

ダンが包みを肩に担ぎ、キールが下駄の鼻緒を指で確かめ、マリーが帯を軽く整える。


メリアがそちらを見て、また目を丸くした。

「皆さんも、やっぱり持ってきてたんですね……」


「温泉だしな」

「訓練校の設備で慣れてる」

「下駄の方が歩きやすい時もある」


当然のように返ってくる答えに、メリアは小さく息をついた。

タリアは肩をすくめる。


「私だけね、今回そこまで読んでなかったの」


「私はそもそも発想がありませんでした……」


「初温泉なら仕方ないわよ」


そう言いながら、タリアは匠一の出した浴衣を広げた。

深い藍に、控えめな花模様。派手すぎず、地味すぎず、温泉街の夜にちょうどよさそうな意匠だった。


「……サイズまで合ってそうなのが怖いわね」


「だいたいで見てる」


「だいたいで合うのが怖いのよ」


メリアもおそるおそる自分の分を受け取る。

こちらは淡い色合いで、帯も柔らかい。

初めての者が着ても重く見えないように選ばれているのが、なんとなくわかった。


「これ、どうやって着るんですか……?」


「着付ける」


匠一が即答した。


メリアは固まった。

「えっ」


「できるの?」


タリアが横から訊く。


「できる」


「じゃあお願い」


「先輩!?」


メリアが思わず振り向く。

タリアはあっさりした顔で言った。


「何よ。この見た目で今さら警戒することある?」


匠一は無言で頷いた。

「ないな」


「自分で言うんですか、それ」


女将が堪えきれずに笑い、受付嬢も口元を押さえた。

メリアはしばらく抗議したそうな顔をしていたが、匠一の見た目がどう見ても五歳児であること、

そして本人がまるで変な意識を持っていないことが逆にわかりすぎるほどわかってしまい、

結局は観念したように肩を落とす。


「……変なことしたら怒りますからね」


「しない」


「即答ですね……」


「実務だ」


「その言い方もどうなんですか」


女将が、客室へ案内するために手を差し出した。

「では、お部屋へどうぞ。お着替えの間に、お食事の支度も整えておきます」


一行は二階の広い客間へ通された。

障子を開ければ、庭の向こうに湯気の立つ町並みが少しだけ見える。

畳は新しく、卓にはすでに茶器が並べられていた。

旅の途中で立ち寄った宿というより、最初からここを目当てに来たような落ち着きがある。


爆炎パーティは慣れたもので、部屋の隅でそれぞれ手早く支度を始める。

ダンたちは自前の浴衣と下駄を当然のように取り出し、帯を締め、荷をまとめる。

訓練設備の温泉経験者というだけあって、妙に手際がいい。


その一方で、メリアは浴衣を前にして完全に止まっていた。


「右前でしたっけ、左前でしたっけ……」


「左が上だ」


匠一が即答する。


「知識としては聞いたことありますけど、実際にやるのは初めてなんです……」


「立て」


「はい」


あまりにも自然に指示されて、メリアは反射で立ち上がった。

その様子にタリアが吹き出す。


「素直ねえ」


「だって、わからないので……」


「まあ、そこは仕方ないわね。私も今回はお願いするわ」


「タリア先輩まで……」


「私は経験はあるけど、着付けは人任せだったのよ」


「受付嬢温泉回って、思ったより雑なんですね」


「温泉回は温泉回だから」


「その説明、もういいです」


匠一はまずメリアの前に立つと、浴衣を広げ、襟を合わせ、裾の長さを見た。

動きに無駄がない。

視線も手つきも、驚くほど実務的だった。


「腕を上げろ」


「こ、こうですか」


「そうだ」


裾を整え、背を軽く引き、帯を回す。

必要なところにしか触れず、必要なことしかしない。

だからこそ、逆に妙な気恥ずかしさが生まれる余地もなかった。


メリアは最初こそ緊張していたが、途中からは純粋に感心した顔になる。

「……本当にできるんですね」


「できると言った」


「言ってましたけど、ここまでとは思いませんでした」


「旅装だ」


「旅装の範囲が広すぎません?」


帯が締まり、襟元が整う。

最後に匠一が一歩下がって全体を見た。


「歩けるか」


メリアはおそるおそる一歩踏み出した。

裾は邪魔にならず、帯も苦しくない。

思っていたよりずっと動きやすい。


「……すごい」


「次」


「次って、私ね」


タリアが笑いながら前に出る。

こちらは経験者だけあって、途中までは自分で合わせられるらしいが、

帯の位置や襟の抜き方になると結局匠一に任せていた。


「慣れてるわね」


「何度かやってる」


「何度か、で済ませるのね」


「必要だった」


「あなたの必要、たまに底が見えないのよ」


それでもタリアはどこか楽しそうだった。

経験者だからこそ、匠一の手際の良さがわかるのだろう。

帯を締め終えたあと、軽く袖を払って姿を映し、満足げに頷く。


「悪くないわね」


「悪くないどころか、かなり似合ってます」


メリアが素直に言うと、タリアは少しだけ得意そうに笑った。

「でしょう?」


その頃には、爆炎パーティもほぼ支度を終えていた。

外見年齢だけ見れば子供の集団なのに、浴衣と下駄を当然のように着こなしているせいで、妙に統一感がある。しかも全員、どこか隙がない。


ダンが足元を見て言う。

「下駄、久しぶりだな」


「石畳なら悪くない」

「夜風もあるし、ちょうどいい」

「飯の前にひと風呂だな」


メリアはその会話を聞きながら、自分の袖をそっと撫でた。

初めて着る浴衣。

初めて来た温泉宿。

窓の外には、これから灯りを深めていく湯の町。


緊張もある。

でも、それ以上に、胸の奥が少しだけ浮き立っていた。


「……本当に、温泉に来たんですね」


ぽつりと漏れたその言葉に、タリアがやわらかく笑う。


「そうね。しかも、かなりいいところに」


匠一はすでに自分の支度も終えていた。

藍の浴衣に木の下駄。

見た目だけなら、どこかの宿の子供にしか見えない。

だが、その立ち方だけは妙に落ち着いていて、旅慣れた案内役そのものだった。


「まず湯に入る」


「はい」


「それから飯だ」


「はい」


「そのあと、町を歩く」


メリアは顔を上げた。

「夜の温泉街、ですか?」


「そうだ」


匠一は短く答える。

「夜はもっといい」


その言い方に、今度はメリアも少し笑った。

「じゃあ、楽しみにしてます」


そうして一行は、まず湯へ向かうために部屋を出た。

廊下の向こうからは、湯殿へ続くほのかな湯気と、木桶の触れ合う小さな音が聞こえてくる。

温泉宿の夜は、まだ始まったばかりだった。


湯殿へ向かう廊下は、磨き込まれた板張りで、素足にひんやりと心地よかった。

窓の外では、庭の石灯籠に火が入り始めている。まだ宵の口だというのに、宿の中にはもう一日の終わりへ向かう静かな気配が満ちていた。


暖簾の前で、女将が一礼する。

「お湯は少し熱めでございますが、今夜はよく澄んでおります。どうぞごゆっくり」


「ありがとうございます」


メリアがぺこりと頭を下げる。

その横でタリアが小声で囁いた。


「最初は無理して長く入らないこと。熱いと思ったらすぐ縁に寄るのよ」


「は、はい」


「のぼせたら台無しだから」


「わかりました……」


匠一はそれだけ確認すると、男湯の暖簾の方へ向かう。

ダンたち爆炎パーティも自然にそちらへ流れた。

見た目だけなら、浴衣姿の子供たちがぞろぞろと湯へ向かっているだけなのに、

歩幅も間合いも妙に揃っているのが少しおかしい。


メリアはその背を見送り、それから女湯の暖簾を見上げた。

白地に染め抜かれた湯の紋。向こうからは、湯気と木の匂いが流れてくる。


「……行ってきます」


「そんなに気合い入れなくても大丈夫よ」


タリアに背を押されるようにして、メリアは女湯へ入った。


脱衣所は広く、籠も整然と並んでいた。

湯上がりの客が一人、髪を拭きながら出ていくところで、すれ違いざまに「こんばんは」と微笑まれる。

温泉宿らしい、やわらかな空気だった。


メリアは少しぎこちなく帯を解き、浴衣を畳む。

初めての場所、初めての作法。

何もかもが新鮮で、少しだけ落ち着かない。


「そんなに固くならなくていいわよ」


先に支度を終えたタリアが、髪をまとめながら笑う。

「誰だって最初は初めてなんだから」


「そうですけど……なんだか、変に緊張してしまって」


「温泉は戦場じゃないわ」


「それ、今言われると逆に緊張するんですけど」


タリアがくすりと笑った。


湯殿の戸を開けた瞬間、ふわりと濃い湯気が顔を撫でた。

石造りの内湯は広く、湯面には灯りがやわらかく映っている。

奥には露天へ続く戸もあり、外の夜気がわずかに流れ込んでいた。


「わ……」


メリアは思わず立ち止まった。

湯の匂い。

石の熱。

静かな水音。

どれも初めてなのに、どこか懐かしいような、不思議な落ち着きがある。


「まず体を流してからね」


「はい」


タリアに倣って湯を汲み、肩へ、腕へ、足へとかける。

それだけでも、旅の疲れが少しずつほどけていく気がした。


そして、いよいよ湯へ足を入れる。


「……っ、あつ」


「最初はそんなものよ。ゆっくり」


タリアはもう半身ほど浸かっていて、慣れた顔で手招きする。

メリアは恐る恐る縁を掴み、少しずつ沈んでいった。

足先、膝、腰、肩。

熱がじわりと全身を包み込む。


「……あ」


思わず、息が漏れた。


熱い。

でも、痛い熱さではない。

芯まで染みてくるような、重たい温かさだ。

列車の揺れで固まっていた身体が、少しずつほどけていく。


「どう?」


タリアが訊く。


メリアはしばらく答えられなかった。

ただ、湯気の向こうをぼんやり見て、それから小さく言う。


「……すごいです」


「でしょう?」


「なんというか……お湯なのに、ただのお湯じゃないです」


「温泉だからね」


「その説明は正しいんですけど、正しすぎて困ります」


タリアが笑う。

メリアもつられて少し笑ってしまった。


しばらく二人は、湯に身を預けたまま黙っていた。

外の喧騒はここまで届かない。聞こえるのは、湯の揺れる音と、時折どこかで桶の触れる小さな音だけだ。


「……先輩」


「なに?」


「受付嬢の皆さんで来る温泉って、こんな感じなんですか?」


「もっと賑やかよ。仕事の愚痴も出るし、恋の話も出るし、誰かが長湯しすぎてのぼせるし」


「平和ですね」


「平和よ。だから温泉回なの」


「その言い方、やっぱりちょっと納得いかないです」


そう言いながらも、メリアの声はもうだいぶ柔らかくなっていた。


やがて二人は露天へ出た。

戸を開けると、夜気が火照った肌に心地よい。

石組みの露天風呂の向こうには、小さな庭と、その先に湯の町の灯りが少しだけ見えた。

山の空気は涼しく、湯気は白く、提灯の明かりが遠く揺れている。


「……きれい」


メリアが、今度はため息のように言った。


「初温泉がここでよかったでしょう?」


「はい……本当に」


湯に浸かりながら見上げる夜空は、町の灯りがあるぶん真っ暗ではない。

けれど、その分だけ人のいる場所の安心感があった。

旅の途中で、こんなふうに足を止めて、湯に浸かって、夜を待つ。

そんな時間があること自体が、メリアには少し不思議だった。


一方その頃、男湯では。


「熱いな」


ダンが率直に言った。


「温泉だからな」


匠一が答える。


「リーダー、その返し好きだね」


キールが呆れたように笑う。

内湯の一角では、爆炎パーティがそれぞれ湯に浸かっていた。

見た目年齢だけなら完全に子供の集団だが、会話の内容と落ち着き方がどうにも年季を感じさせる。


「悪くない湯だ」

「塩気は薄い」

「硫黄は少し強めか」

「筋肉の張りは取れそうだな」


そんな評価が自然に飛び交うあたり、やはり訓練設備の温泉経験者たちである。


匠一は湯の縁に背を預け、静かに息をついた。

旅の途中で温泉宿に一泊する。計画通りではあるが、計画通りだからこそ気が抜けるわけでもない。

むしろ、こういう場所ほど周囲の空気を読む必要がある。


ダンがちらりと匠一を見る。

「夜、歩くんだよね」


「歩く」


「人が多い」


「観光地だからな」


「それも好きだ」


キールがまた笑った。

ニールは湯気の向こうで目を細める。


「人が多い方が、逆に紛れやすい」


「紛れる必要があるかは別だがな」


クロが短く言う。


露天の方へ視線を向けた。


「石畳、夜は滑るかもしれない」


「下駄ならなおさらだな」


「なら、歩幅を合わせる」


そんな会話が、まるで明日の訓練の確認のように淡々と交わされる。

温泉に浸かっていても、結局この面子はこうなのだ。


やがて湯から上がると、火照った身体に夜風が心地よかった。

廊下の先には休憩処があり、冷えた水と小さな卓が用意されている。

匠一たちがそこへ出ると、ちょうど女湯からユキ、マリー、ハナ、タリアとメリアも戻ってきたところだった。


メリアの頬はほんのり赤い。

髪も少し湿っていて、初めての温泉にしっかり浸かったことが一目でわかる。


「……どうだった」


匠一が訊く。


メリアは一瞬だけきょとんとして、それから嬉しそうに笑った。


「すごかったです」


「そうか」


「それだけですか?」


「十分伝わった」


タリアが横で笑う。

「本当に初温泉であの顔になるのね」


「だって、すごかったんです」


「わかるわよ」


女将がちょうど通りかかり、湯上がりの一行を見て目を細めた。

「お食事の支度が整いました。お部屋へお持ちしてございます」


その一言で、ダンたちの空気が少しだけ変わる。

温泉の次は飯。順番としては完璧だった。


客間へ戻ると、卓の上にはすでに夕餉が並んでいた。

湯豆腐、川魚の塩焼き、山菜の炊き合わせ、温泉卵、地鶏の鍋、小鉢に入った珍味、

そして湯の町らしい素朴な甘味まである。

派手ではないが、旅の途中で食べるには十分すぎるほど整っていた。


「……すごい」


メリアがまた同じ言葉を漏らす。

今日は何度目かもわからないが、それだけの価値はあった。


「人気グルメツアーだからな」


「ここでその台詞が回収されるんですね……」


一斉に手を合わせて一斉に「頂きます」


タリアが笑い、ダンはすでに箸を取っている。

爆炎パーティも、こういう時だけは年相応の子供のように見えなくもない。

もっとも、食べる速度と量はまったく年相応ではなかったが。


食事は賑やかに進んだ。

メリアは温泉卵に感動し、タリアは地酒の香りだけ楽しみ、

ダンたちは鍋の火加減に妙に真剣になり、匠一は黙々と食べながら必要な時だけ短く答える。


そうして夕餉が終わる頃には、「ご馳走様」が告げられ外はすっかり夜になっていた。


障子の向こうに、提灯の赤い灯りがぼんやりと映る。

遠くから、下駄の音と人の話し声がかすかに聞こえてきた。

湯の町はまだ眠っていない。

むしろ、これからがいちばん綺麗な時間なのだろう。


メリアがそっと外を見る。

「……夜の温泉街」


「行くぞ」


匠一が言った。


その一言に、メリアはすぐ振り向く。

「今からですか?」


「今がいい」


「たしかに、今が一番よさそうね」


タリアも立ち上がる。

爆炎パーティも、すでに当然のように下駄へ足を入れていた。


こうして一行は、湯上がりの夜風の中へ出る支度を整えた。

温泉街の本番は、ここからだった。


宿の玄関を出た瞬間、湯上がりの肌に夜風がすっと触れた。

火照りを冷ますにはちょうどいい涼しさで、メリアは思わず小さく息をつく。


「……気持ちいい」


「でしょう?」


タリアが下駄の鼻緒を軽く直しながら笑う。

浴衣姿の彼女は、昼間の受付嬢然とした雰囲気よりも少し柔らかく見えた。

慣れた者の余裕と、旅先の夜を楽しむ気分がちょうどよく混ざっている。


メリアもおそるおそる下駄で一歩踏み出す。

からん、と乾いた音が石畳に響いた。


「わ」


「最初は変な感じするわよね」


「はい……でも、なんだか楽しいです」


歩幅を探るように二歩、三歩。

裾を踏まないように気をつけながら進むその姿は、いかにも初めての温泉街だった。


匠一はそんなメリアを一度だけ見て、短く言う。


「力を入れすぎるな」


「え?」


「下駄は踏むより乗る感じだ。足先で引っかけるな」


言われた通りに少し力を抜いてみると、たしかに歩きやすくなる。

メリアは目を丸くした。


「……本当だ」


「慣れる」


「何でも知ってますね」


「旅装だ」


「またそれですか」


タリアが吹き出した。

その後ろでは、爆炎パーティが自然に散っていた。

誰かが指示したわけでもないのに、前後左右にほどよく間を取り、

温泉街の人波に紛れながら一行を囲む形になっている。


見た目だけなら、浴衣姿の子供たちが夜の散策にはしゃいでいるようにしか見えない。

だが、歩く位置も視線の配り方も、妙に隙がなかった。


温泉街の夜は、昼よりもずっと華やかだった。

提灯の灯りが石畳を赤く染め、軒先からは湯気と食べ物の匂いが流れてくる。

甘味処では湯上がりの客が冷やし菓子をつつき、土産物屋では木札や手拭いが並び、

橋の上では浴衣姿の旅人たちが立ち止まって川面を見ていた。


「きれい……」


メリアがまた呟く。

今度は昼間よりも、もっと深く見入るような声だった。


「夜はもっといいって、本当だったんですね」


「言っただろう」


「はい。疑ってすみませんでした」


匠一はそれに答えず、橋のたもとの店先を見た。

蒸籠から白い湯気が上がっている。


「温泉饅頭」


「食べるんですか?」


「食べる」


「やっぱり」


ダンがすでに店の方へ向かっていた。

「湯上がりに甘いもんは悪くない」


「串もあるぞ」

「卵もある」

「全部食う気か」


爆炎パーティの会話に、店の主人が思わず笑う。

「おや、元気のいいお客さんだねえ。ほら、できたてだよ」


匠一が必要な分だけを手際よく買い、皆へ配る。

メリアは受け取った温泉饅頭を両手で持ち、まだ少し熱いそれをそっと割った。

中から立ちのぼる甘い香りに、思わず顔がほころぶ。


「……おいしい」


「温泉街だからな」


「もうそれ、万能の説明になってません?」


タリアが笑いながら、自分の分を口にする。

「でも、これはたしかにおいしいわね」


橋を渡り、坂を少し上る。

途中で足湯のある広場が見えた。

湯気の立つ石の縁に、観光客たちが並んで座っている。

提灯の灯りが湯面に揺れ、どこか祭りのような賑わいがあった。


メリアが足を止める。

「足湯……」


「入りたいか」


「え、でも、さっきお風呂に入ったばかりですし」


「見るだけでもいい」


匠一に言われて、メリアは少し近づいてみる。

湯に足を浸けた人々の顔は、皆どこか緩んでいた。

旅の途中で、少しだけ立ち止まって、少しだけ休むための場所。

そんな空気がある。


「なんだか、いいですね」


「温泉街はそういうものよ」


タリアが言う。

「歩いて、食べて、湯に入って、また歩くの」


「贅沢ですね」


「贅沢よ。だから人気があるの」


その時だった。


「おい、見ろよ」


少し離れたところで、誰かの声がした。

若い女たちが、こちらを見てひそひそと何か話している。

手には小さな魔導具。

旅先の記念を撮るための、簡易な魔導写真機だ。


「……あ」


メリアが気づいた時には、もう遅かった。


「かわいい……」

「ちょっと待って、あの子たちすごくない?」

「浴衣似合ってる……!」

「真ん中の子、何あれ、旅館の子?天使?」


最後の一言に、タリアが吹き出しそうになる。

匠一は無表情のまま、温泉饅頭を一口かじった。


「始まったわね」


タリアが肩をすくめる。

「昼間も視線はあったけど、夜は浴衣補正が入るもの」


「浴衣補正って何ですか」


「あるのよ、そういうのが」


メリアが戸惑っているうちに、今度は別の方向からも視線が集まり始めた。

見た目年齢の低い一団が、揃いも揃って妙に整った浴衣姿で、しかも温泉街の灯りの中を歩いているのだ。

目立たないはずがない。


しかも、その中心にいるのが匠一である。

藍の浴衣をきっちり着こなし、木の下駄で静かに歩くその姿は、どう見ても幼い。

幼いのに、妙に落ち着いていて、視線だけが年齢不相応に静かだ。

そのアンバランスさが、かえって人目を引く。


「すみません、写真いいですか?」


ついに一人が勇気を出して声をかけてきた。

若い旅人らしい娘で、頬を少し赤くしている。


メリアが固まる。

タリアは面白そうに匠一を見る。

匠一は一拍だけ考え、それから短く言った。


「一枚だけだ」


「え、いいんですか?」


「記念ならな」


その返答に、娘たちはぱっと顔を輝かせた。

あっという間に周囲の空気が和み、魔導写真機が構えられる。


「じゃ、じゃあ皆さんで……!」

「すごい、ありがとうございます!」

「かわいい……!」


「かわいいって言われてるわよ」


タリアが小声で囁く。

匠一は聞こえないふりをした。


結局、一枚だけのはずが、構図を変えてもう一枚、橋を背景にもう一枚と増えていき、

気づけばちょっとした人だかりになっていた。

メリアは最初こそおろおろしていたが、途中からは半ば諦めたように笑っている。

タリアは完全に面白がっていた。


「人気者ねえ」


「観光地だからな」


「それで押し切るの、本当に便利ね」


ようやく解放されて歩き出した頃には、メリアは少し疲れた顔で息をついた。

「すごいですね……夜の温泉街って」


「何がだ」


「全部です。景色も、人も、食べ物も、写真も……」


「そういう場所だ」


匠一の答えは相変わらず簡潔だったが、今度はメリアも文句を言わなかった。

たしかに、そういう場所なのだろうと思えたからだ。


一行はさらに坂を下り、少し人通りの少ない通りへ入った。

表通りの賑わいから半歩外れただけで、提灯の灯りは少し落ち着き、店の数も減る。

川の音が近くなり、石畳に響く下駄の音がよく聞こえるようになった。


その静けさの中で、ダンがほんのわずかに視線を動かした。

キールも何気ない顔のまま、通りの先を見ている。

ニールはいつの間にか一歩、後ろへずれていた。


メリアはまだ気づかない。

タリアは気づいたが、顔には出さない。


匠一だけが、いつも通りの声で言った。


「道の真ん中を歩くな。端に寄れ」


「え?はい」


メリアが素直に寄る。

その直後、路地の影から、だらしなく笑う声がした。


「へえ。ずいぶん景気のいいお子様御一行じゃねえか」


夜の温泉街には似つかわしくない、濁った声だった。

提灯の灯りの届きにくい脇道から、男が二人、三人と姿を見せる。

地元のならず者か、流れの半端者か。

浴衣姿の観光客を見て、軽く舐めてかかった顔をしている。


メリアの足が止まった。


男の一人が、にやにやと笑う。

「家族旅行か?それとも、どっかの見世物か?」


別の男が、匠一たちを上から下まで眺めた。

「ずいぶん上等な宿に泊まってるみてえだな。

少しくらい、こっちにも景気よくしてくれてもいいんじゃねえか?」


タリアが、ほんの少しだけ眉を上げる。

メリアは息を呑んだ。


だが、匠一は下駄の音を止めただけだった。


「道を空けろ」


声は低くも強くもない。

ただ、迷いがなかった。


男たちは一瞬きょとんとし、それから笑った。

「なんだ坊主、おつかいか?」


その瞬間だった。

爆炎パーティの立ち位置が、音もなく変わった。


変わった、と気づけた者がその場にいたかどうかは怪しい。


少なくとも、男たちにはわからなかっただろう。

ただ次の瞬間には、さっきまで浴衣姿で温泉饅頭を食べていたはずの子供たちの位置が、

微妙に、しかし決定的に入れ替わっていた。


ダンが半歩前。

ニールがいつの間にか男たちの横合い。

キールは通りの先を塞ぐように立ち、ユキは石畳の端へ寄って逃げ道を切る。

クロは何もしていないように見えて、何もしないまま一番危ない位置にいた。

ポンはにこにこしているだけなのに、なぜか男たちの視線が定まらない。

リョーカは一歩も出ていないのに、その場の空気だけを静かに握っていた。


メリアは、そこでようやく理解した。

ああ、と。


この人たちは、温泉街を歩いている時でさえ、ただ歩いているわけではないのだと。


男の一人が、まだ状況を飲み込めないまま、苛立ったように一歩踏み出した。

「ガキが、調子に――」


最後まで言えなかった。


ダンが踏み込んだのは、ほとんど同時だった。

いや、踏み込んだように見えた時には、もう遅かった。


男の腕が取られる。

肩が沈む。

重心が崩れる。

次の瞬間には、男は石畳に頬を押しつけられていた。


「がっ!?」


何をされたのか、自分でもわかっていない顔だった。

腕は背中側へ絡め取られ、肩と肘と手首が同時に極まっている。

暴れようとするたび、逆に呼吸だけが苦しくなる。


あまりにも速かった。

あまりにも無駄がなかった。


別の男が反射的に飛びかかろうとする。

その足が、一歩目で止まった。


止まったのではない。

止められていた。


いつの間にか足首の位置がずれ、膝の向きが外され、体重の乗る場所だけを正確に奪われている。

ユキがほんの少し足を引いただけだった。

それだけで男は前へ出られず、次の瞬間にはニールの手が首の後ろへ添えられていた。


「動くな」


低い声だった。

脅しの調子ですらない。

だが男は、その一言で全身を強張らせた。


三人目が腰のあたりへ手をやる。

短剣でも抜くつもりだったのだろう。


その手が柄に触れる前に、キールの声が飛んだ。


「抜くな」


声と同時に、何かが男の指の間へ軽く当たった。

矢ではない。暗器ですらない。

ただの小石か、あるいは木片のようなもの。

だが、それだけで指先の力が抜け、男は短剣を取り落とした。


からん、と乾いた音が石畳に響く。


静かだった。

あまりにも静かすぎた。


剣は抜かれていない。

魔法の詠唱もない。

血も流れていない。

なのに、勝負だけが終わっていた。


押さえ込まれた男が、苦しげに呻く。

「な、何しやがっ……!」


ダンは表情ひとつ変えずに答えた。


「対ワイバーン徒手制圧術」


男は意味がわからない顔をした。

意味がわからないまま、さらに押さえ込まれる。


「は……?」


「対ワイバーン徒手制圧術だ」


今度は匠一が言った。

まるで駅名でも読み上げるような、淡々とした口調だった。


メリアが思わずそちらを見る。

タリアは口元を押さえていた。

笑いそうなのを堪えているのが丸わかりだった。


「人間相手に使うものじゃないでしょう、それ」


タリアが小声で言う。


「本来はな」


匠一は短く答える。

「羽ばたいて暴れる相手を、殺さず落とすための型だ」


「今の、羽もなければ飛んでもいないんだけど」


「手足が多い馬鹿にはだいたい効く」


その説明を聞いた男たちの顔色が変わった。

意味は半分もわからない。

だが、わからないなりに理解できることがある。


こいつらは、観光客ではない。

子供でもない。

少なくとも、自分たちが夜道で軽く脅していい相手では、断じてない。


押さえ込まれた男が、なおも身をよじろうとした。

その瞬間、ダンの手がほんの少しだけ位置を変える。


「いっ、だ、だだだだっ!」


「折ってない」


ハナが横から淡々と言った。

「外してもいない。安心しろ」


「安心できるか!」


「できる。殺傷事件にすらなってない」


その言い方があまりにも事務的で、メリアは一瞬だけ本気で感心しそうになった。

いや、感心している場合ではないのだが。


三人目の男が、ようやく本能的な恐怖に追いついたらしい。

一歩、二歩と後ずさる。

だが、その退路の先にはクロがいた。


クロは何もしていない。

ただ、そこに立っているだけだ。

それだけなのに、男はそれ以上下がれなかった。


「……どけよ」


かすれた声で言う。


クロは首を傾げた。

「どく理由があるか?」


静かな声だった。

だが、その静かさの中に、使っていない毒と、抜いていない暗器と、

やる気になればどうにでもできるという確信が滲んでいた。


男は喉を鳴らした。

ようやく、自分たちが何に手を出したのかを理解し始めていた。


ポンが、にこにことしたまま言う。

「さっきから人数、ちゃんと数えられてる?」


「は?」


「数えられてないなら、やめた方がいいよ」


男が目を見開く。

その瞬間、たしかに視界の端で誰かが動いた気がした。

だが、見れば誰も動いていない。

いや、動いていたのかもしれない。

わからない。


幻術だ、と理解する知識すら男にはなかった。

ただ、わからないものが一番怖い。


リョーカが、そこで初めて口を開いた。


「ここは湯の町だ」


それだけだった。

大声でもない。

怒鳴りでもない。

なのに、その一言で場の空気がぴたりと定まる。


「騒ぎを大きくするな。今夜は休みだ」


男たちは、誰も返事ができなかった。


匠一が、ようやく一歩前へ出る。

藍の浴衣に木の下駄。

見た目だけなら、どう見ても幼い子供だ。

だが、その目だけは少しも笑っていなかった。


「運がよかったな」


短く言う。


「本気でやる気がなかった」


その一言で、男たちの背筋に冷たいものが走った。


本気。

その言葉の意味を、今の一瞬だけで嫌というほど思い知らされていた。

剣も抜かれていない。

魔法も使われていない。

血も流れていない。

それなのに、自分たちは何もできなかった。


もし本気だったら。

その想像だけで、喉が乾く。


ダンが押さえ込んでいた男を、ようやく少しだけ緩めた。

「立てるか」


「……っ」


「立てるなら帰れ」


男はよろめきながら起き上がる。

腕はまだ痺れているらしく、肩を押さえたまま顔を引きつらせていた。

折れてはいない。

外れてもいない。

だが、二度と同じ相手に向かっていこうとは思えない程度には、きっちり痛い。


ニールも手を離す。

首の後ろを押さえられていた男は、解放された瞬間に数歩よろめき、それから慌てて仲間の方へ寄った。


「……行け」


匠一が言う。


男たちはもう何も言わなかった。

言えなかった。

ただ、逃げるように路地の奥へ消えていく。


その背を見送りながら、メリアはしばらく言葉を失っていた。

静かだった。

あまりにも静かに終わった。

なのに、今の数十秒の中に、下手な戦闘よりずっと濃い何かが詰まっていた気がする。


タリアが、ようやく堪えていた息を吐く。

「……対ワイバーン徒手制圧術って」


「効いただろう」


匠一が言う。


「効いたのは見ればわかるけど、そういう問題じゃないのよ」


「殺してない」


「それはそうだけど」


ハナが淡々と補足する。

「押さえ込みだけです。打撲も軽い。明日には動けます」


「評価が完全に治療側なのよね……」


メリアはまだ少し呆然としていたが、やがてぽつりと訊いた。


「……皆さん、いつもこんな感じなんですか」


その問いに、爆炎パーティは顔を見合わせるでもなく、自然に答えた。


「今回はかなり穏当だな」

「暗器も抜いてない」

「毒も使ってない」

「凍らせてもいない」

「幻術も薄い」

「治療の出番もない」


並ぶ言葉が物騒すぎて、メリアは逆に何も言えなくなった。

タリアが肩を震わせる。

笑っているのか、呆れているのか、自分でもわからない顔だった。


「……本当に、運がよかったのね。あの人たち」


「そうだ」


匠一はあっさり頷いた。

「今日は温泉街だからな」


その理屈で全部まとめるのか、とメリアは思った。

だが、もう突っ込む気力もなかった。


しばしの沈黙のあと、ダンが何事もなかったように言う。


「で、次どこ行く」


空気が一気に戻る。

さっきまでの緊張が、まるで湯気のように夜へ溶けていく。


匠一は通りの先を見た。

提灯の灯りの向こう、まだ営業している甘味処がある。


「甘味」


「切り替え早いわね!」


今度こそメリアが声を上げた。

タリアが吹き出す。


「いいじゃない。せっかくの温泉街なんだから」


そうして一行は、本当に何事もなかったかのように、再び夜の温泉街を歩き出した。

からん、からん、と下駄の音が石畳に響く。


さっきまでの出来事を知る者は、もうこの通りにはいない。

残ったのは、提灯の灯りと、湯の匂いと、夜の甘味の香りだけだった。


甘味処は、川沿いの角を曲がった先にあった。

格子戸の向こうにやわらかな灯りが見え、軒先には「湯冷まし処」と染め抜かれた暖簾が下がっている。

湯上がりの客が立ち寄ることを前提にした店らしく、店先には冷やし飴や果実水の札も出ていた。


「ここだ」


「本当に切り替えたんですね……」


メリアがまだ半分ほど呆れた声で言う。

だが、暖簾の向こうから漂ってくる甘い香りを嗅いだ瞬間、その声も少しだけ弱くなった。


店の中は、外の賑わいより一段落ち着いていた。

木の卓がいくつか並び、窓際の席からは川面に映る提灯の灯りが見える。

湯上がりらしい客たちが、冷たい甘味や温かい茶を前に、のんびりと夜を楽しんでいた。


「いらっしゃいませ」


店の女主人が顔を上げ、一行を見て、ほんの一瞬だけ目を丸くする。

浴衣姿の子供たちの集団に見えたのだろう。

だが、すぐに商売人らしい笑顔へ戻った。


「お好きな席へどうぞ。今夜は冷やし白玉と湯上がり蜜豆がよく出てますよ」


「全部うまそうだな」


ダンが率直に言う。

キールは壁の札を見上げた。


「焼き団子もある」

「温泉饅頭の揚げ出しもある」

「甘いのかしょっぱいのか、どっちなんだ」


「両方だ」


匠一が即答する。

メリアはもう慣れ始めていた。

たぶんこの人は、こういう時に迷わない。


一行は窓際の卓を二つ使うことになった。

座る位置も自然に決まる。

メリアとタリアが川の見える側、匠一がその正面、

爆炎パーティが周囲を埋める形だ。

見た目だけなら賑やかな旅の一団だが、やはりどこか配置に無駄がない。


注文を取りに来た女主人が、少し楽しそうに訊く。

「皆さん、温泉帰りですか?」


「そうです」


メリアが答えると、女主人はにこりと笑った。

「いいお顔してますねえ。初めての方もいらっしゃるでしょう?」


「わかるんですか?」


「わかりますよ。初めて温泉に入った方は、だいたい同じ顔をなさいます」


メリアは少し照れた。

タリアが横で笑う。


「ほら、やっぱり初温泉の顔だったのよ」


「そんなにわかりやすかったですか……」


「わかりやすい」


匠一が言う。


「匠一さんまで」


「悪い意味じゃない」


その一言に、メリアは少しだけ救われた気がした。


やがて甘味が運ばれてくる。

冷やし白玉は、透き通る蜜の中に白い団子が浮かび、上には細かく刻んだ果実が散らされていた。

湯上がり蜜豆は、寒天と豆と果物に、温泉地らしくほんのり塩気のある黒蜜が添えられている。

焼き団子は香ばしく、揚げ出し饅頭は外がかりっとして中が熱い。


「……すごい」


メリアがまた言った。

今日は本当にその言葉ばかりだが、仕方がない。


「人気グルメツアーだからな」


「もうそこは認めます」


匙を入れた瞬間、冷たい蜜が舌に広がる。

湯上がりの身体に、ひやりとした甘さが心地よかった。

メリアは目を丸くし、それから素直に笑う。


「おいしいです」


「でしょう?」


タリアも蜜豆を口にして満足げに頷く。

「温泉の後の甘味って、なんでこんなにおいしいのかしらね」


「塩分と糖分だ」


匠一が言う。


「急に理屈っぽいわね」


「回復だからな」


「そこは旅情で押し切ってほしかったわ」


爆炎パーティも、それぞれ好きなものを頼んでいた。

ダンは焼き団子を豪快に食べ、キールは冷やし白玉を意外と丁寧に味わい、

マリーは果実水の香りを確かめ、ハナは蜜の配合に妙に感心している。

ニールは静かに茶を飲み、クロは揚げ出し饅頭を見て「これは罠だな」と呟き、

ユキは冷たい甘味に満足そうだった。

ポンは最初から最後まで楽しそうで、リョーカは店の空気そのものを味わうようにゆっくりしている。


しばらくは、本当に穏やかな時間だった。

川の音。

提灯の灯り。

店内のざわめき。

匙の触れる小さな音。


さっきの路地の出来事が、まるで別の夜の話のように遠く感じられる。


メリアは窓の外を見た。

川面に映る灯りが揺れている。

橋の上を、浴衣姿の旅人たちがゆっくり渡っていく。

誰も急いでいない。

誰も怒っていない。

ただ、夜の温泉街を楽しんでいる。


「……いいですね」


ぽつりと、メリアが言った。


「何がだ」


「こういうのです。

列車で来て、途中で降りて、温泉に入って、ご飯を食べて、

夜の町を歩いて、最後に甘いものを食べるの」


言いながら、自分でも少し笑ってしまう。

「なんだか、すごく贅沢です」


匠一は少しだけ黙って、それから短く答えた。


「旅だからな」


その言葉は、今までの「温泉街だからな」よりも、少しだけ深く聞こえた。

メリアは匙を止め、匠一を見る。


「……こういうの、よくやるんですか?」


「必要ならやる」


「必要、ですか」


「走り続けるだけが旅じゃない」


匠一は冷やし茶を一口飲んだ。

「止まる場所を間違えないのも旅だ」


タリアが、少し意外そうに目を細める。

「たまにはいいこと言うのね」


「たまにじゃない」


「自分で言うのね」


メリアはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。

今日一日、列車に乗って、駅弁を食べて、景色を見て、温泉駅で降りて、宿に泊まって、

初めての温泉に入って、夜の町を歩いた。

どれも初めてで、どれも少しずつ驚きだった。


そして今、こうして甘味を食べながら川を見ている。

それが、たしかに旅なのだと思えた。


その時、店の外でまた小さなざわめきが起きた。

今度は険のあるものではない。

もっと軽い、観光地らしいざわめきだ。


「ねえ、あそこ」

「さっき橋のところにいた子たちじゃない?」

「やっぱりかわいい……」

「写真、もう一回お願いできないかな」


メリアが匙を止める。

タリアが肩を震わせる。

匠一は無言で茶を置いた。


「……またですか」


「人気者ねえ」


「観光地だからな」


「もうそれで全部通す気ね」


店の女主人まで、くすりと笑った。

「もしお嫌でなければ、店先だけなら明るく撮れますよ。

うちの暖簾、夜は映えますから」


「店が乗るんですか」


メリアが思わず言うと、女主人は悪びれもせず頷いた。

「せっかくですもの。旅の記念は多い方がいいでしょう?」


たしかにその通りではある。

匠一は少しだけ考え、それから立ち上がった。


「一枚だけだ」


「また増えるやつですね、それ」


タリアの予言は、たぶん当たる。


一行は甘味を食べ終えると、店先へ出た。

暖簾の前、提灯の灯りの下、川の音を背にして並ぶ。

メリアは今度こそ少し慣れた顔で立ち、タリアは完全に楽しんでいた。

爆炎パーティも、妙に自然に収まっている。

匠一だけは相変わらず無表情だったが、それが逆に絵になっていた。


魔導写真機の光が、やわらかく瞬く。


「ありがとうございました!」

「すごくいいです!」

「皆さん、ほんとに素敵でした!」


旅人たちは満足そうに去っていく。

女主人も嬉しそうに手を振った。


「またお寄りくださいね」


「うまかった」


匠一が短く言うと、女主人はぱっと顔を明るくした。

「それは何よりです」


店を出て、再び石畳へ戻る。

夜は少しずつ深まっていたが、温泉街の灯りはまだ消えない。

むしろ、今がいちばん落ち着いて綺麗な時間かもしれない。


メリアは歩きながら、そっと言った。


「……今日、降りてよかったです」


匠一は前を向いたまま答える。


「そうだろう」


「はい。すごく」


タリアが横で笑う。

「初温泉、大成功ね」


「はい」


その返事は、今度は迷いなく明るかった。


坂を上がり、橋を渡り、宿へ戻る道を歩く。

提灯の灯りが少しずつ遠ざかり、代わりに宿のある通りの静けさが近づいてくる。

湯の匂いはまだ夜気の中に残っていて、下駄の音だけが規則正しく石畳に響いていた。


その途中、メリアはふと思い出したように訊いた。


「そういえば……さっきの人たち、本当に大丈夫なんでしょうか」


路地で絡んできた男たちのことだ。

ハナが即答する。


「大丈夫。押さえ込みだけ」


「明日には普通に動ける」

「たぶん二、三日は肩が変だろうけど」

「自業自得だな」


爆炎パーティの返答は、やはり妙に具体的だった。

メリアは少しだけ苦笑する。


「……本当に、殺傷事件にすらならなかったんですね」


「ならないようにした」


匠一が言う。


「温泉街だからですか」


「それもある」


「それも、なんですね」


匠一は少しだけ間を置いた。

「旅先で、余計なものを残すな」


短い言葉だった。

だが、その意味は十分に伝わった。


タリアが静かに頷く。

「なるほどね。綺麗に遊んで、綺麗に帰るってことか」


「そうだ」


メリアはその言葉を胸の中で繰り返した。

綺麗に遊んで、綺麗に帰る。

たしかに、今日のこの夜に似合う言葉だった。


やがて宿の灯りが見えてくる。

門の脇の灯籠が、行きと同じように低く苔を照らしていた。

玄関先には夜番の者がいて、一行を見ると静かに頭を下げる。


「お帰りなさいませ」


「ただいま戻った」


匠一が答える。

そのやり取りが妙に自然で、メリアはまた少しだけ笑ってしまった。

旅の途中の宿なのに、もう帰る場所のように聞こえたからだ。


こうして、温泉街の夜歩きは終わった。

だが、旅そのものはまだ続いている。

列車の旅も、駅弁の旅も、環地中海線の人気グルメツアーも、まだ途中だ。


それでも今夜だけは、少し立ち止まってよかった。

そう思えるだけの湯と、食と、灯りが、この町にはあった。


翌朝。

温泉宿の朝は、夜とはまた違う静けさで始まった。


障子の向こうは、もうすっかり明るい。

山あいの空気は澄んでいて、遠くから聞こえる川の音も、昨夜より少しだけはっきりしている。

湯の町は早起きだ。朝湯へ向かう客の下駄の音が、まだ眠気の残る宿の廊下を時おり通り過ぎていく。


メリアは布団の上で目を開け、しばらく天井を見ていた。

昨夜のことを思い出す。

初めての温泉。

夜の温泉街。

甘味処。

提灯の灯り。

石畳の下駄の音。


「……本当に来たんですね」


誰に言うでもなく呟くと、隣で先に起きていたタリアが笑った。


「来たわよ。しかも、かなり満喫したわね」


「はい……」


まだ少し夢みたいだった。

だが、窓の外に見える湯気と朝の光が、それをちゃんと現実にしてくれている。


朝餉を済ませ、支度を整え、一行は宿を出た。

夜の灯りに包まれていた温泉街は、朝になるとまた別の顔を見せる。

土産物屋はまだ半分ほどしか開いていないが、湯気は変わらず屋根の向こうに立ちのぼり、

朝の散歩をする客たちがゆっくりと坂を歩いていた。


「朝もいいですね」


メリアが言う。


「朝もいい」


匠一が答える。


「そこはもう疑いません」


メリアも少し笑う。

昨夜ならいちいち突っ込んでいたやり取りも、今はもう心地よいくらいだった。


駅へ向かう道すがら、女将や受付嬢が見送りに出てきてくれた。

昨夜、匠一が予備の浴衣を渡した若い受付嬢は、深々と頭を下げる。


「昨夜は本当に助かりました。ありがとうございました」


「使えたならいい」


「はい。おかげで足りなくならずに済みました」


タリアが横で小さく笑う。

「本当に役に立ったのね」


「だから予備だ」


「そこまで見越してるのが怖いのよ」


メリアも笑いながら頭を下げた。

「お世話になりました。温泉、すごくよかったです」


「それは何よりでございます。またぜひお越しください」


そうして一行は、湯煙峡駅から再び環地中海線へ乗り込んだ。

列車が動き出すと、窓の外で湯の町が少しずつ遠ざかっていく。

提灯の灯りはもうない。

だが、朝の白い湯気が、昨夜の記憶をやわらかく繋いでいた。


メリアは窓辺に頬杖をつきながら、ぽつりと言う。


「終わっちゃいましたね」


「温泉宿はな」


匠一が答える。


「ツアーは?」


「それもここで区切りだ」


「じゃあ、本当に終わりなんですね」


「終わりだ」


少しだけ名残惜しい。

けれど、旅というものは、たぶんそういうものなのだろう。

楽しい時間ほど、ちゃんと終わるから記憶に残る。


タリアが背もたれに身を預ける。

「まあ、十分堪能したわ。駅弁も食べたし、温泉にも入ったし、夜の町も歩いたし」


「甘味も食べました」


「写真も撮られたしね」


「それもありましたね……」


メリアが苦笑すると、爆炎パーティの方からも声が上がる。


「飯はよかった」

「湯も悪くなかった」

「石畳も歩きやすかった」

「甘味は当たりだ」

「写真は多かった」


「最後だけ感想が妙に現代的なんですよね」


メリアが言うと、タリアが吹き出した。


列車はそのまま、ギルドのある街へ戻っていく。

車窓の景色は、山あいから平地へ、平地から街道沿いへと移り変わり、やがて見慣れた建物や塔が増えてきた。


旅の終わりは、いつも少しだけ静かだ。

行きの高揚とは違う、満ち足りた疲れがある。

誰も大声ではしゃがない代わりに、それぞれがそれぞれの形で、今回の旅を反芻しているようだった。


やがて列車が減速し、見慣れた駅へ滑り込む。

扉が開くと、温泉街とは違う、日常の空気が流れ込んできた。

石と鉄と、人の多い街の匂い。旅の終わりを告げる匂いだ。


「戻ったな」


匠一が言う。


「戻りましたね」


メリアも頷く。

少しだけ寂しい。

けれど、それ以上に、ちゃんと帰ってきたという安心感があった。


一行は駅を出て、そのままギルドへ向かった。

昼前の通りはすでに賑わっていて、荷車が行き交い、冒険者たちが武具を鳴らしながら歩いている。

温泉街のやわらかな空気とは違う、仕事と依頼と日常の街の顔だ。


ギルドの建物が見えてくる。

大きな扉。

見慣れた看板。

出入りする冒険者たちのざわめき。


「……帰ってきたって感じがします」


メリアが言うと、タリアが頷いた。


「そうね。旅は楽しいけど、戻る場所があるから余計に楽しいのよ」


匠一はそのまま扉を押し開ける。

中はいつも通りの喧騒だった。

受付では依頼の確認をする冒険者たちが並び、掲示板の前では新しい依頼書を見上げる者たちがいる。

酒場側からは昼前だというのに笑い声まで聞こえてきた。


その空気に触れた瞬間、タリアがふっと息をつく。

「はい、現実」


「急に言いますね」


「だってそうでしょう?温泉宿から一気にギルドよ」


「落差がすごいです」


メリアが苦笑した、その時だった。


受付の一角から、こちらに気づいた同僚の受付嬢が手を振る。

「タリアー!おかえりー!」


「戻ったわよ」


「どうだった、温泉!」


その問いに、タリアは少しだけ得意そうに笑った。

「よかったわよ。かなり」


すると、別の受付嬢まで身を乗り出してくる。

「えっ、本当に行ってきたの?途中下車して一泊って聞いて、冗談かと思ってたんだけど」


「私も最初はそう思ってました……」


メリアが正直に言うと、周囲から笑いが起きた。


「でしょうねえ」

「でも匠一くんが言い出したなら、やりそう」

「というか、やったのね」


匠一はいつもの無表情で頷く。

「温泉駅だったからな」


「出たわね、その理屈」


タリアが即座に突っ込み、受付嬢たちがまた笑う。


メリアはそのやり取りを見ながら、ようやく実感した。

ああ、本当に終わったのだと。

環地中海線の人気グルメツアー。

駅弁の旅。

途中下車の温泉宿。

全部ひっくるめて、ちゃんと一つの旅だったのだ。


そして、その旅の終わりは、こうしていつものギルドへ戻ってくるところまで含めて、きっと完成する。


受付の奥から、さらに別の声が飛んだ。

「で、お土産は?」


「そこなの!?」


メリアが思わず声を上げる。

タリアは笑いながら肩をすくめた。


「ギルドなんてこんなものよ」


匠一は、すでに容量無限収納袋へ手を入れていた。

その動きに、受付嬢たちの目が一斉に輝く。


「ある」


「やっぱり!」


帳場の空気が、一気に華やいだ。

旅は終わった。けれど、その余韻はまだ、しばらくギルドの中に残りそうだった。

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