鉄道国物語(医師ではないのに兵に救われる乗客)
見難い火傷の子370
鉄道国物語(医師ではないのに兵に救われる乗客)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
人は、助けられた理由を、助かったあとで勝手に整える。
命が助かった時、
そこに立派な意味があってほしいと思う。
善意だったとか、使命感だったとか、
運命だったとか。
だが実際には、
たまたま近くにいた、
たまたま手が届いた、
たまたまその時それをする癖があった、
その程度のことで人は生き残る。
私はその“その程度”に救われた。
ラスボラスゲートが開通してからしばらくは、
誰もが一度は乗ってみたがった。
海峡が近くなったという噂は、
便利さそのものより早く広がる。
私は商売の都合で南へ渡る必要があり、
ついでに新しい門も見ておくか、くらいの気持ちで切符を買った。
そういう軽い気持ちで乗るには、
あの列車は少しばかり人が多すぎた。
客車は混んでいた。
商人、役人、見物帰りの町人、
荷を抱えた女、落ち着きのない子供、
それに制服を着た兵が数人。
護衛か、移動中か、
その両方かもしれない。
私は兵というものがあまり好きではない。
好きな者のほうが少ないだろう。
兵はたいてい、必要だからそこにいる。
必要だからいる人間は、
いない時より、いる時のほうが空気を重くする。
私は通路側の席に腰を下ろし、
向かいの窓際に座った老人をちらりと見た。
痩せた男で、
膝の上に小さな木箱を抱えている。
箱の角を、親指で何度も撫でていた。
大事な荷なのだろう。
人は大事なものほど、
落とさないように強く持ちすぎて、
かえって手元を危うくする。
発車してしばらくは、
皆どこか浮ついていた。
本当に早いのか、
揺れはどうか、
海の下を通るのか、
そんな話があちこちで交わされる。
実際には海の下を長く走るわけではないと、
私は聞きかじっていた。
だが、そう説明したところで、
人は“海峡を抜けた”という言い方のほうを好む。
便利な誤解は、正確な説明より足が速い。
北側進入路へ入る少し前、
車内で子供が泣き出した。
母親があやし、
近くの女が笑い、
兵の一人が気まずそうに視線を逸らす。
よくある車内の風景だ。
私はそれをぼんやり見ていた。
次に何が起きるかも知らずに。
列車が緩く沈み、
短い地中通路へ入った時、
車内の空気が少しだけ変わった。
暗さのせいか、
皆が一瞬だけ息を止めたせいか、
耳の奥がきゅっと狭くなるような感じがした。
その瞬間だった。
向かいの老人が、
急に木箱を取り落とした。
箱が床に落ち、
蓋が半ば外れ、
中から硝子瓶が転がった。
老人はそれを拾おうとして前へ屈み、
そのまま崩れるように通路へ倒れた。
最初、誰も何が起きたのかわからなかった。
酔ったのかと思った者もいた。
足を滑らせたのかと思った者もいた。
だが老人は起き上がらない。
顔色が悪い。
息の音が変だ。
喉の奥で、細い笛みたいな音がしていた。
「医者!」
誰かが叫んだ。
車内が一気に騒がしくなる。
こういう時、人はまず
自分ではない誰か を探す。
医者、薬師、看護人、
とにかく名前のついた誰か。
名前があれば任せられると思うからだ。
だが返事はなかった。
その代わり、
通路の向こうにいた兵が一人、
すぐに膝をついた。
若い兵だった。
髭も薄く、
まだ鎧の革が新しい。
私はその顔を見て、
ああ、こいつも本当はこんな役をしたくはないだろうな、
と妙なことを思った。
「どいてくれ」
兵は短く言った。
声に迷いがなかった。
老人の肩を支え、
仰向けにせず、少し横へ向ける。
喉元を見る。
胸の動きを見る。
床に転がった瓶を一瞥し、
木箱の中身も見る。
「薬師か?」
誰かが聞いた。
「違う」
兵は答えた。
「医者でもない」
それでいて、手は止まらなかった。
老人の襟を緩め、
口元に詰まったものがないか確かめる。
呼びかける。
返事はない。
だが完全に意識を失っているわけでもなさそうだった。
喉の音は続いている。
息が通りきっていない。
兵は周囲を見回した。
「この人、何を飲んだ」
誰も答えられない。
老人は一人客だったらしい。
兵は床の瓶を拾い、
匂いを嗅ぎ、
眉をしかめた。
薬か、酒か、
私にはわからなかった。
「水は」
すぐに差し出される。
「飲ませるな」
兵は即座に言った。
「今はまだだ」
その言い方が、
妙に慣れていた。
私は少し身を乗り出した。
医者ではない。
薬師でもない。
だが、何も知らない人間の動きではない。
老人の呼吸が一度、大きく詰まった。
車内の誰かが悲鳴を飲み込む。
兵は老人の背と胸の位置を確かめ、
ためらわずに体勢を変えた。
強すぎず、弱すぎず、
呼吸の通りを助けるように支える。
喉の音が少し変わる。
完全ではないが、
さっきより空気が通っている。
「次の停車までどれくらいだ」
兵が叫ぶ。
車掌が青い顔で答える。
「南側を出ればすぐに詰所があります!」
「医者は」
「呼べます!」
兵はうなずいた。
「それまで持たせる」
持たせる。
医者ではない男が、
そう言った。
大きく出たものだと思った。
だが、その大きさが必要な場面もある。
人は助かるかどうかわからない時、
せめて誰かに“まだ終わっていない”と言ってほしい。
老人の手が痙攣みたいに動いた。
兵はその手を押さえず、
箱だけを遠ざけた。
中には小瓶がいくつか入っていた。
薬を運んでいたのかもしれない。
あるいは自分で飲むためのものか。
どちらにせよ、
今それを確かめる余裕はない。
列車が南側へ抜けるまでの時間は短かったはずだ。
だが車内にいた者には、
妙に長く感じられた。
誰も大きな声を出さない。
子供まで黙っていた。
人は本当に危ない時、
騒ぐより先に音を減らす。
光が戻り、
列車が南側へ出る。
減速。
停車。
扉が開く前から、
詰所の人間が駆け寄ってくるのが見えた。
兵はそこで初めて、
少しだけ息を吐いた。
医師が来るまでの間、
兵は老人のそばを離れなかった。
引き継ぎの言葉は短かった。
いつ倒れたか。
どんな呼吸だったか。
何を飲んだかは不明。
水は飲ませていない。
意識は混濁。
喉の狭窄音あり。
私はその言葉を聞いて、
ますます思った。
こいつは医者ではない。
だが、こういう場面を何度か見ている。
医師が老人を担架に乗せ、
詰所の奥へ運んでいく。
そこでようやく、車内の空気が崩れた。
皆、一斉に息をした。
助かったのかどうか、
まだ誰にもわからないのに。
人は、自分の手を離れた瞬間に
少し安心してしまう。
卑怯だが、普通のことだ。
私は降車の混乱の中で、
その兵に声をかけた。
「医者じゃないんだろう」
兵は振り向いた。
近くで見ると、本当に若かった。
「違う」
「薬師でもない」
「違う」
「じゃあ、何であんなことができる」
兵は少しだけ黙った。
それから、
あまり言いたくなさそうに答えた。
「戦場で、先に覚える」
それだけだった。
私はそれ以上聞かなかった。
聞けば、たぶんろくでもない話になる。
どこで誰が喉を詰まらせたか、
誰が血を吐いたか、
誰を医者まで運べずに終わったか。
そういう話の上に、
今の手つきは乗っているのだろう。
兵は礼も求めず、
そのまま自分の車両へ戻ろうとした。
私は思わず言った。
「助かったかもしれんな」
兵は肩越しにだけ答えた。
「医者が決める」
まったくその通りだった。
助けたかどうかを決めるのは、
たいてい助けた本人ではない。
結果が決める。
生き延びた時間が決める。
あとから来た医者が決める。
それでも、その結果が来るまでの間、
誰かが手を出さなければ、
結果そのものが来ないこともある。
私はその日、
商売の用事を半分忘れた。
頭の中に残っていたのは、
海峡を短くする門のことより、
医師ではない若い兵の手つきだった。
人は、助けられた理由を、助かったあとで勝手に整える。
勇敢だったとか、
立派だったとか、
兵だから当然だったとか。
だが実際には、
たまたま近くにいて、
たまたま覚えていて、
たまたまその時、逃げなかった。
その程度のことで人は生きる。
そして、その“その程度”を
平時の車内へ持ち込んでしまうのが、
兵という仕事なのかもしれない。
私は兵が好きではない。
今でもたぶん、好きではない。
だが、好きではないまま、
借りを作ることはある。
後で聞いた話では、
老人は一命を取り留めたらしい。
持病の発作に、
飲み合わせの悪い薬か酒か、
何かが重なったのだろうと言われていた。
本当のところは知らない。
知らなくてもいい。
助かったという結果だけで、
その日の話には十分だった。
ラスボラスゲートは、
海峡を短くした。
だがあの日、私の記憶に残ったのは、
距離の短さではない。
医師ではない男が、
医師が来るまでの時間をつないだことだ。
便利な設備は、
人を早く運ぶ。
だが早く運ばれた先で、
結局最後にものを言うのは、
その場にいる誰かの手だったりする。
技術は時間を縮める。
だが縮めた時間の中身まで、
全部引き受けてくれるわけではない。
鉄道国物語。
そう呼ぶなら、
こういう話もその中に入るのだろう。
門があり、列車があり、兵がいて、
医師ではないのに人を救う。
立派な話に聞こえる。
だが実際には、
たまたま近くにいた若い兵が、
嫌というほど覚えた手順を、
また一つ使っただけだ。
医師ではないのに兵に救われる乗客。
帳面にはそう書ける。
だが私の頭の中では、別の言い方をしていた。
あれは救助ではない。
医者が来るまで、
死ぬ順番を少しだけ後ろへ押した手つきだ。




