鉄道国物語(運転士のひとりごと)
見難い火傷の子358
鉄道国物語(運転士のひとりごと)
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
ある朝、運転士ハンクは詰所でその日の行路表に目を通した。
夜明け前の詰所は、石炭の煤と油の匂いがまだ冷えたまま沈んでいる。
壁の時計は五時十二分を指し、窓の外では操車場の向こうに、薄い灰色の空がようやく明るみはじめていた。
こういう時間の駅は嫌いじゃない。
乗客の声も、商人の怒鳴り声も、国境審査官の靴音もまだ遠い。
線路と機関車だけが先に目を覚ましている。
行路表には、いつものように列車番号、牽引機、停車駅、給水、石炭補給、国境通過予定時刻が並んでいた。
第九東方連絡、旅客四両、郵便車一両、荷物車一両。
バビロン発、荻センツバル経由、東方国境駅まで。
そこまでは珍しくもない。
ハンクは備考欄に目を止めた。
三号車、保護対象未成年一名。
車内確認あり。
必要時、緊急対応規定に従うこと。
それだけだった。
指令の書く文はいつも短い。
短い文ほど、ろくでもないことが多い。
「必要時」と書いてあるときは、たいてい必要になる。
「また面倒なのを引いたな」
隣で点呼簿を閉じていた車掌のエラムが言った。
年のわりに髭の白い男で、切符鋏より先にため息を鳴らす癖がある。
「保護対象ってのは、だいたい子どもか病人だ」
「今回は未成年と書いてある」
「書いてあるだけまだ親切だ。前は“特記旅客一名”だけだった」
ハンクは返事をせず、行路表を二つ折りにした。
鉄道国では、切符はただの乗車証じゃない。
あれ一枚で、どこから来て、どこへ行けて、どの国境を越える資格があるかまで決まる。
旅券であり、通行証であり、時には戸籍の代わりにもなる。
切符を持つ者は客だが、切符を失った者は、途端にどこの誰とも言えなくなる。
だから保護対象の移送は、荷物より面倒で、兵隊より神経を使う。
機関庫を出るころには、空はすっかり白んでいた。
ハンクの受け持ちは古いが癖の少ない蒸気機関車で、
黒い胴の側面に新バビロニア鉄道庁の紋章が薄く金で残っている。
助手のミカが火室を見て、「今日は機嫌がいい」と言った。
機関車の機嫌がいい日は、人間のほうが悪くなることが多い。
定刻五時四十分、列車はバビロン中央駅を離れた。
朝の市街を抜けるあいだ、窓の外にはまだ眠たげな石造りの家並みと、早起きのパン屋の煙が流れていく。
やがて市壁の外へ出ると、線路は乾いた平野を東へ伸びた。
遠くに灌漑水路が光り、その向こうに低い丘陵が霞んでいる。
ハンクはレギュレータに手を置いたまま、いつもの速度で機関車を引かせた。
最初の停車駅を出てしばらくしたころ、伝声管が鳴った。
短く二回。車掌からだ。
ハンクは受話器を取った。
「前だ」
雑音の向こうでエラムの声がした。
「三号車で切符紛失」
ハンクは黙った。
「対象か」
「そうだ。保護対象の子だ」
「確認は」
「乗車時にはあった。検札でも見せてる。今はない」
「盗難か、落としたか」
「本人は“なくしたんじゃない”と言ってる」
ハンクは窓の外を見た。
線路はまっすぐ伸び、その先に朝日を受けた信号柱が小さく立っている。
次の停車駅までは十一分。
その次が国境駅だ。国境駅まで行けば、審査官と警備隊が待っている。
だがそこへ切符のない保護対象を運び込めば、列車全体が止まる可能性がある。
「指令には」
「もう上げた。返答待ちだ」
返答はすぐ来た。
今度は指令所からの電信だった。
助手のミカが受信紙をちぎって読み上げる。
「対象旅客の身元再確認を実施。発見不能の場合、緊急対応二を準備。
国境駅進入前に再報告。必要あれば三へ移行。」
エラムが伝声管の向こうで舌打ちしたのが聞こえた。
緊急対応二なら、まだ車内処理で済む。
乗客の再検札、座席周辺の捜索、荷物確認、車内隔離。
だが三になると話が違う。
国境通過資格の一時停止、対象旅客の保護拘束、全乗客の旅券再照合、場合によっては列車封鎖。
定時運行どころの話じゃない。
「三は避けたいな」とミカが言った。
「避けられるならな」
ハンクはそう答えたが、胸の内ではもう半分、三になると踏んでいた。
指令が“必要あれば”と書くときは、たいてい現場に責任を預けるときだ。
発動するかしないかを決めるのは、結局、国境駅へ列車を連れていくこちらになる。
二つ目の停車駅で、エラムが機関車まで上がってきた。
「見たか」
「誰を」
「その子だよ」
ハンクは首を振った。エラムは帽子を取り、額の汗を拭った。
朝はまだ涼しいのに、車内はもうざわついているらしい。
「女の子だ。十か十一」
「付き添いは」
「なし。書類上は単独移送。保護局の封印付き封筒を持ってたが、それはある。なくなったのは切符だけだ」
「泣いてるか」
「いや」
エラムはそこで少し言葉を切った。
「泣かない。騒がない。こっちを見るときだけ、妙に身構える。誰かに取られたのかと聞いたら、
“見せたあと返ってこなかった”と言った」
「誰に」
「それが言えない。言わないのか、言えないのかは知らん」
発車時刻が来た。エラムは飛び降りる前に、低い声で言った。
「三号車の客が一人、席を移ってる。商人風の男だ。
検札のときは通路側、今はデッキ寄りにいる。俺はそいつが気になる」
「証拠は」
「勘だ」
「お前の勘は半分しか当たらん」
「外れた半分だけ覚えてるからそう思うんだ」
列車は再び動き出した。
国境駅まで、あと三十七分。
平野は次第に痩せ、土の色が赤みを帯びてくる。
遠くの丘の向こうには、東方の乾いた山並みが見えはじめていた。
あの山の向こうはもう別の法だ。
別の税だ。
別の王の顔が貨幣に刻まれている。
だが線路だけは続いている。
鉄道国では、国境は終わりじゃない。
停車位置のひとつにすぎない。
だからこそ厄介なのだ。
ミカがまた受信紙を持ってきた。
「指令から追加。対象旅客、保護局照会中。国境駅側、警備待機。現場判断により緊急対応三発動可。」
「現場判断、だとさ」
「便利な言葉ですね」
「責任を遠くへ置くにはな」
ハンクは汽笛を一度鳴らした。
前方の分岐器が切り替わり、列車は本線のまま東へ進む。
ここで側線に入れれば、国境駅手前の信号所で抑止できる。
だがそれをやれば、後続の郵便急行が詰まる。
軍需貨車も遅れる。
今日一日の東方線が狂う。
たかが一枚の切符。
そう言う者は、この国の線路の上で働いたことがない。
切符一枚なくなれば、客一人の身元が揺らぐ。
客一人の身元が揺らげば、国境一つの意味が揺らぐ。
国境が揺らげば、列車はただの乗り物ではいられない。
伝声管がまた鳴った。
今度は長く一回。
緊急だ。
「前だ」
エラムの息が少し荒い。
「商人風の男の鞄から、子どもの切符入れが見つかった」
「本人のものか」
「たぶんそうだ。だが男は“拾っただけだ”と言ってる」
「たぶん、じゃ困る」
「困るのはわかってる。だがもう一つある」
「何だ」
「その切符、端が焼けてる」
ハンクは思わず受話器を握り直した。
「焼けてる?」
「そうだ。焦げ跡がある。印字の一部が潰れてる。審査印が読めるか怪しい」
それで話が変わった。
紛失だけなら、見つかった時点で二で収まる可能性がある。
だが旅券としての切符が損傷しているとなれば、改竄、隠滅、あるいは本人識別不能の問題になる。
国境駅の審査官はまず止める。
警備隊も入る。
三を避ける理由が薄くなる。
「対象の様子は」
「静かだ」
「男は」
「まだ言い張ってる。“床に落ちていた”と」
「他の客は」
「見て見ぬふりだ。いつものことだな」
ハンクは前方を見た。
遠くに国境駅の給水塔が、朝の光の中に細く立っているのが見えた。
あそこまで行けば、もう現場の裁量は半分消える。
決めるなら今だ。
ミカが小さく言った。
「どうします」
どうするも何もない。
運転士の仕事は列車を走らせることだ。
だが鉄道国では、それだけでは済まない。
どこで止めるか、誰を通すか、何を運ぶか。
その一つ一つが、線路の上の政治になる。
ハンクは指令用の送話器を取った。
「第九東方連絡、機関士ハンク。報告する。対象旅客の切符は発見されたが、焼損あり。
第三者所持。国境審査に支障ありと判断」
一拍置いて、彼は続けた。
「当列車、緊急対応三の発動を要請する」
送話器の向こうで、短い沈黙があった。
それから、事務的な声が返る。
「要請受理。第九東方連絡、緊急対応三を承認。国境駅第二線へ収容。全車封鎖準備。
警備隊、審査官、保護局員を待機させる」
それだけだった。
国家の重い決定というものは、たいてい驚くほど短い言葉で下る。
ハンクは送話器を戻し、静かにブレーキに手をかけた。
国境駅の場内信号は、すでに注意現示へ変わっている。
「三になりましたね」とミカが言う。
「ああ」
「子ども一人の切符で」
「違う」
ハンクは前を見たまま言った。
「子ども一人の切符だからだ」
列車は速度を落としながら、朝の国境駅へ入っていった。
ホームの先には、青灰色の制服を着た警備隊が並び、その後ろに保護局の白い腕章が見えた。
三号車の窓際に、小さな顔がひとつ見えた。
右の目だけがまっすぐ前を見ていた。
泣いてはいなかった。
ただ、あの目は、列車が止まる先に何が待っているかを、もう知っている目だった。
そしてハンクは、その朝の仕事が、まだ半分も終わっていないことを悟った。




