鉄道国物語(車掌のひとりごと)
見難い火傷の子359
鉄道国物語(車掌のひとりごと)
深淵ダンジョン第十六エリア/第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
車掌という仕事は、切符を切ることだと思われている。
もちろん間違いじゃない。
だが鉄道国では、切符はただの紙切れじゃない。
どこから来たか、どこまで行けるか、どの国境を越える資格があるか、
その人間がいま線路の上にいていい理由まで、あの小さな札に書き込まれている。
だから私たちが見ているのは、紙じゃない。人の身の上だ。
その朝、私はバビロン中央駅で第九東方連絡に乗り込んだ。
夜明け前のホームは、石炭の煤と湯気と、まだ眠りきらない人間の息で白く曇っていた。
荷運び人夫が荷車を押し、郵便吏が封印袋の数を数え、
国境審査局の若い役人が眠そうな顔で書類箱を抱えている。
毎朝見ている光景だが、同じ朝は二度とない。
点呼のあと、運転士のハンクが機関車のほうへ歩いていくのを見送り、
私は自分の受け持ちである客車へ向かった。
旅客四両、郵便車一両、荷物車一両。
東方国境駅まで行く列車としては、混みすぎず、空きすぎず、いちばん気を抜くと面倒が起きる編成だ。
行路表の備考欄には、短くこうあった。
三号車、保護対象未成年一名。
車内確認あり。
必要時、緊急対応規定に従うこと。
必要時。
鉄道庁の文書でこの四文字ほど嫌なものはない。必要になるかどうかを、現場で決めろという意味だからだ。
発車前、私は三号車へ行った。
保護対象は窓側の席にひとりで座っていた。
年は十か十一くらい。
痩せた肩に少し大きい外套を羽織り、膝の上に小さな鞄を抱えている。
鉄道は戦のあとを運ぶ。
焼けた町から来る客も、焼け残った子どもも、私は何人も見てきた。
だがこの子は、こちらを見る目が印象に残った。
怯えているのではない。
怯えることに慣れすぎて、先に身構えている目だった。
「切符を拝見します」
私はできるだけ平らな声で言った。
少女は少しだけためらってから、外套の内側から革の切符入れを出した。
保護局の封印札も一緒に入っている。
切符は東方国境駅までの通行資格付き。
印字も審査印も問題ない。
私は日付と列車番号を確認し、返した。
「名前は」
少女は小さく名乗ったが、ここでは書かないでおく。
鉄道で働いていると、名前というものが時々、切符より軽く扱われるのを知る。
私はそれがあまり好きじゃない。
「気分は悪くないですか」
首を横に振る。
「何かあれば呼んでください。次の検札でも来ます」
少女はうなずいた。
それだけだった。
列車は定刻にバビロンを出た。
市街地を抜け、平野へ出るころには、車内もようやく落ち着いてきた。
商人、巡礼、役人、兵役帰りらしい若者、子ども連れの母親。東方線の客は、
西方線より荷物が多く、南方線より口数が少ない。
国境へ向かう列車というのは、だいたいそういうものだ。
私は一号車から順に検札を始めた。
切符の折れ方、指の置き方、返すときの目線。長くやっていると、
客が何を隠しているかは、案外そういうところに出る。
偽造切符を持つ者は紙を見せたがらず、越境理由を偽る者は先に喋りすぎる。
本当に後ろ暗い者は、むしろ静かだ。
三号車に入ったとき、少女の向かいの席には商人風の男が座っていた。
発車前には別の席にいたはずだ。
年は四十前後、上等ではないが手入れの行き届いた上着、爪の短い手、靴だけが妙に新しい。
旅慣れた男に見えた。
「お客様、こちらのお席でしたか」
「空いていたので移りました」
「元のお席は」
「二号車との境のあたりです」
言いながら、男は先に切符を差し出した。
こういう客は、たいていこちらに“問題はありません”と思わせたがる。
私は切符を見た。
形式上は問題ない。
だが審査印の押し位置が少し浅い。
偽造とまでは言えないが、気になる程度には気になる。
「ありがとうございます」
私は返した。
男は笑いもしなかった。
その代わり、少女のほうが少しだけ肩を強ばらせたのが見えた。
検札を終えて次の車両へ移ろうとしたとき、後ろから小さな声がした。
「……あの」
振り返ると、少女が立っていた。
右手だけで鞄の口を押さえている。
「切符が、ない」
私はすぐに席へ戻った。
切符入れの中には保護局の封印札と、折りたたまれた照会書だけが残っていた。
さっき確かにあった切符がない。
座席の下、窓枠の隙間、外套の内側、鞄の底。ひと通り見ても出てこない。
「最後に見たのは」
「さっき、あなたに」
「そのあと誰かに見せましたか」
少女は少し黙ってから、首を横に振った。
だがその動きは、否定というより、言いたくないことを押し込める動きに見えた。
私は周囲の客を見た。
見て見ぬふりをする者、露骨にこちらを見る者、面倒に巻き込まれたくない顔をする者。
車内というのは狭い。
狭いくせに、人は驚くほど他人のことを知らないふりができる。
「少し失礼します」
私は商人風の男に声をかけた。
「何でしょう」
「先ほどからこちらのお席に?」
「そう言いましたが」
「このお子さんの切符が見当たりません。何かご覧になっていませんか」
「いいえ」
答えが早すぎた。
私は男の足元を見た。
革鞄がひとつ。
留め具は閉まっているが、片方だけ少しずれている。
「鞄を確認させていただけますか」
「なぜ私のを」
「近くにおられたので」
「失礼だな」
失礼なのは承知している。
だが国境前の切符紛失は、忘れ物では済まない。
旅券喪失、身元不明、越境資格停止。
最悪の場合、列車全体が止まる。
「任意です」と私は言った。
「ですが、拒否された場合は次駅で警備確認になります」
男は舌打ちし、鞄を引き寄せた。
そのとき、留め具の隙間から、見覚えのある革の端がのぞいた。
私は何も言わず、それを引き抜いた。
少女の切符入れだった。
車内の空気が一段、冷えた気がした。
男はすぐに言った。
「床に落ちていた」
「そうですか」
「拾っただけだ。返そうと思っていた」
「いつ」
「今だ」
私は切符入れを開いた。
中の切符はあった。だが端が黒く焦げ、審査印の一部が潰れている。
火であぶったような焼け方だった。偶然こうなる傷じゃない。
「これはどうしました」
「知らん」
「拾っただけで、焼けていた?」
「そうだ」
嘘だと決めつけるには、まだ足りない。
だが足りないままでも、列車は国境へ近づいていく。
私は少女を見た。
彼女は男ではなく、切符の焦げ跡を見ていた。
顔色は変わらない。
けれど右手の指先だけが、鞄の縁を白くなるほど握っている。
「これは、あなたの切符で間違いないですね」
うなずく。
「この傷は前からありましたか」
少女は、今度は首を横に振った。
「誰かに見せたあと、返ってこなかった?」
少し間があってから、かすかにうなずいた。
私はそこで、これが単なる紛失ではないと判断した。
伝声管で前のハンクに連絡を入れ、同時に指令へ照会を上げる。
保護対象未成年の切符紛失、のち第三者所持にて発見。
切符焼損あり。
国境審査支障のおそれ。緊急対応二準備。
返答は早かった。
対象旅客の身元再確認を実施。
国境駅進入前に再報告。
必要あれば三へ移行。
必要あれば。
やはりその言葉が返ってきた。
私は三号車の両端に乗務補助を立たせ、少女を座席から動かさず、
男をデッキ脇に移した。
拘束まではしない。
まだ二だ。だが二と三のあいだは、線路一本ぶんほどしか離れていない。
「あなた、あの子に何をしたんです」
私は低い声で聞いた。
男は肩をすくめた。
「何も」
「切符を持っていた」
「拾った」
「焼けていた」
「最初からだ」
「嘘ですね」
「証拠は」
証拠。
現場でいちばん嫌いな言葉だ。
証拠が揃うころには、たいてい列車はもう止まっている。
私は男の顔を見た。
汗はかいていない。
目も泳がない。
こういう手合いは、慣れている。
盗人か、運び屋か、誰かの依頼で動く人間か。
いずれにせよ、子どもの切符を抜き取り、焼いて審査印を潰す理由はひとつしかない。
その子を、国境で“誰でもない者”にするためだ。
国境駅まで、あと三十七分。
窓の外では平野が痩せ、土の色が赤くなっていく。
車内の客たちも、何かが起きていることだけは察したらしい。
声が小さくなり、荷物を抱え直す音が増えた。
国境前の列車には、独特の沈黙がある。
誰もが自分の切符の所在を確かめ、他人の不運から目をそらす沈黙だ。
私はもう一度、少女の前にしゃがんだ。
「この人に切符を渡しましたか」
首を横に振る。
「誰か別の人に?」
少女は唇を結んだまま、しばらく黙っていた。
それから、ほとんど聞こえない声で言った。
「黒い手袋の人」
私は周囲を見た。
この車両に黒い手袋の客はいない。
もう移ったか、最初から別の車両か。
あるいは駅で接触したのかもしれない。
追うには遅い。今は列車を国境へどう入れるかのほうが先だ。
伝声管を取る。
「前か」
ハンクの声がした。
「切符は見つかったが焼損。
第三者所持。
対象本人、別人への提示を示唆。
審査印不鮮明」
短い沈黙のあと、ハンクが言った。
「三だな」
「私もそう思う」
「指令へ上げる」
「頼む」
それで決まった。
しばらくして、車内放送用の鐘が鳴った。
私は帽子を正し、通路の中央に立った。
「お客様にお知らせいたします。
当列車は国境駅入線に際し、保安確認のため一時的な車内確認を実施いたします。
お手元の切符および通行証をご準備のうえ、係員の指示に従ってください」
ざわめきが起きた。
文句を言う者、顔をしかめる者、黙って懐を探る者。
だが誰も本気では逆らわない。
鉄道国では、国境前の確認に逆らうことがどういう意味を持つか、みな知っている。
男は私を睨んだ。
「大げさだな」
「ええ」と私は言った。
「あなたが思うより、この国では切符は重いんです」
やがて列車は減速を始めた。
窓の外に国境駅の給水塔が見え、その下に青灰色の制服が並んでいる。
警備隊、審査官、保護局員。
緊急対応三の顔ぶれだ。
ホームの先には封鎖柵まで出ている。
朝の光の中で、それらは妙に整然として見えた。
私は少女の席のそばに立った。
彼女は泣かなかった。
震えもしなかった。
ただ、窓の外の制服の列を見ていた。
ああいう目を私は知っている。
助けが来たときの目ではない。
助けが来ても、もう何かが遅いと知っている者の目だ。
列車が止まる直前、私は小さく言った。
「大丈夫です、とは言いません」
少女は私を見た。
「でも、あなたの切符がなくなったことを、なかったことにはさせません」
それが車掌にできることの全部ではない。
だが、少なくとも最初のひとつではある。
ブレーキが鳴き、列車は国境駅第二線に滑り込んだ。
扉の向こうで、警備隊の靴音が一斉に近づいてくる。
その朝、私が切ったのは切符ではなかった。
ひとりの子どもを“誰でもない者”にしようとした手つきと、
この国の線路の上でそれを見過ごすわけにはいかないという、こちら側の覚悟だった。




